二度咲きうべない


 見上げた空は、秋の色をしていた。
 遠くなったものだと思う。夏の空に浮かぶ真っ白い雲たちは今にも空を覆いつくしてしまうのではないかという勢いで大きくなることしか知らなかったというのに、秋の空を泳ぐ絹のような雲は薄くたなびくばかり。空を見上げて時間の経過を感じる瞬間を知るとは、自分でも予想していなかった。
 財前はしばらく空を見つめたあと、周囲の喧騒に視線を戻す。
 中間テストを間近に控えた放課後は、部活に費やすことを禁じられたエネルギーが騒がしさに取って代わられているように思う。そんな時にも誰にも負けない騒々しさを振りまいてやってくる金太郎には、ものも言えなかった。

「あり。財前やんか。なにしとんのや、こんなところで」

 目ざとくこちらの姿を見つけて、運動靴に履き変えたばかりの足を止める。昇降口が全学年共通だと、会う予定のない後輩にも会わなくてはならなくなる。
 待ち合わせ場所を間違えたと、財前はその時になってようやく気づいた。

「別になんも。金太郎、お前今度の社会のテスト大丈夫なんか。俺白石部長から釘さされてんねん」
「社会? なんでや」
「なんでも。お前実力テストの社会、散々な結果やったやないか。俺叱られとんのやで、管理能力っちゅーやつがあらへんって」
「ワイ、財前に管理された記憶なんかないで」
「したなくてもせなあかんっちゅーの」

 口ごたえをする金太郎の頭を軽く叩く。
 その方向音痴の証明書になったのか、金太郎の中間テストの社会の点数は彼のクラスはおろか学年さえ飛び越えて知れ渡ることとなり、聞きつけた白石や忍足が冗談ではないという顔で財前のクラスを訪れたのが、1ヶ月前のこと。まだ夏の盛りだった。

「財前、あれはあかん。あかんで。なにがあかんって、テニス部の恥とか言う問題やあらへんで。度を越えとる。金ちゃんに中学生のための知恵っちゅーやつを与えたらんと」
「……はあ。せやかて、あいつは別にテニスさえやっとったら別にそれでええってこの前監督も」
「アホ。人の言うこと聞くぐらいの能力はいるやないか、誰があいつの暴走止められんねん。お前がごっつ本気に、全力で止めてくれるんやったらまだしも」

 言われれば、としばらく黙っていれば、白石と忍足はひどく悩ましげに首を横に振ってため息をついた。白石は様になるが忍足にはまだ早いな、と黙って見つめていると、心の言葉は伝わるものらしく忍足が忌々しげに財前を見つめ返した。

「お前がどっか成長したんはよう分かるけどな、せやけどこれかて仕事や。白石が一度でも金太郎の世話放棄したことあるか? ないやろ? 部長の宿命や」

 前半の言葉の意味は分からなかったが、後半はそうはいかない。
 代弁された白石と目が合うと、困ったように笑う。仕方ないという意味とそのとおりだという思いがそれだけで伝わる。財前は小さく頷き、延々と説教じみた言葉をつむぎ続けた忍足を横目に秋の空に視線を向ける。
 時間が流れた分だけ、責任が増える。

(まあ、悪いことではないわな。後退やなくて前進なんやし)

 あの時の空は、まだ夏の名残を残していたように思う。今再び昇降口から見上げる空は、やはり雲をつかませてくれそうにはないほど遠い。
 1ヶ月の時間が流れた分、空は遠のいてしまった。白石は金太郎についてなにひとつ言わなかった、忍足は気にする素振りを見せながらもこちらに任せてくれる態度になった。
 財前はしばらくの沈黙の後、目の前で素直にこちらを見上げる金太郎を見つめる。
 日中は陽気に守られているとはいえ、朝夕は随分と冬に寄り添う空気になってきたこの時節だというのに、彼は相変わらずの薄着だった。

「お前には時間の感覚っちゅーもんがないんか。アホ」
「は? なんやねん財前、話しとったこと変わっとるやないか」

 思わず心の言葉そのままに呟けば、困惑の色ひとつ。彼にとって時間の経過というのはテニスにおける成長の意味しかないのだろうと、その時になってようやく財前は気がつく。

「ま、ええわ。俺がおるうちは最低限の点数は取らせたる、それぐらいなんぼでもできる」
「せやから、なんやねんって」
「こっちの話。ほら、はよ行け。今日もどうせ勉強やなくてテニスでもしに行くんやろ。時間もったいないで」

 あ、と財前に言われて初めて気づいたかのように、金太郎はひそめていた眉を元気にもとに戻す。きょろきょろと辺りを見渡し、ほぼ全員が自転車置き場か正門へと徒歩で向かっていくのを見つめて、慌てて鞄を抱えなおした。

「ほな、財前。ワイ今日天王寺のコート行ってくる!」
「はいはい。迷子になんなよ」
「大丈夫やって、もう3回目やで!」

 大声で返事をして、金太郎は一目散に正門に向かって走り去った。テスト週間に入っているというのに、全力で勉強という任務を放棄する後輩を温かく見送る部長もどのようなものか、とふと思ったが、

「……なんやねん、その笑い方」
「ううん、別に。遠山くんには相変わらず優しいなあ思って」
「別に優しいんとちゃうし。義務や、義務」

 自分で自分を肯定してしまう言葉を簡単に出してしまう。呟いたあとで振り返れば、そこに笑うのを堪えているの姿があった。

「部長らしい」

 むっとふくれていれば、返されるのは心のどこかをくすぐる言葉ばかり。
 どこでそのような言葉を、言い方を、伝え方を覚えてきたのだろうか。つい恥ずかしさを隠した怒りの視線を向けてしまいそうになる自分を、最近のは笑って見逃すという方法も身につけてしまっている。
 あんたの彼女やからに決まってるでしょ、とは小春の言葉だ。白石や忍足にいたってはもはや言葉すらかけてくれなくなった。なぜ自分の彼女になると生意気なように見えてしまうのか、問いただそうとした途端一氏に頭をはたかれて終わったのはつい1週間前のこと。

「あらやだ、今日も仲良く一緒にお帰りかしら? お熱いことねー、光くん」
「あ、先輩」
「はあい、ちゃん。今日も光くんのお世話ありがとうね」
「金太郎の世話はちゃんとしとるんか、お前。期末で40点越えられへんかったら白石になに言われるか分からへんで」

 肝心なところは曖昧にぼかしてくるのに、どうでもいいと思える時ほどその存在を主張してくる。やはり昇降口で待ち合わせをするのは失敗だったと心底嫌そうな顔をして小春と一氏を見つめると、小春が切なく首を横に振った。

「ああやだ、光くんが露骨に嫌そうな顔をするなんて。それはどういう意味か分かってやってるのかしら、いいえ分かってへんに決まってるわ、そうよねユウくん」
「せやな、小春。財前っちゅー生き物はほんまものごっつ分かりやすい性格しとんで」
「なんのことっすか」

 ふてぶてしく聞き返しても、わざとらしいため息がふたつ返ってくるばかり。しまいにはふたりで恒例の漫才が始まってしまい、周囲の注目が煩わしくなって財前はに目で合図をして周囲の輪から逃れる。
 なぜ自分の周りにはこうもお節介な面々が多いのか、ともはや定番になってしまった悩みをため息とともに心の中で呟けば、が隣で静かに笑っていた。

「私、楽しいけどなあ。いつも先輩ら優しくしてくれるから、嬉しいよ」
「なに喜んどんねん、あの人らの思うツボやないか」

 素っ気ない返事にはまた笑う。よくもここまで心の広い人間がいるものだ、と最近は感心にも近い想いがすっと心の中に降りてくる。自分の性格を決して扱いやすいものとは思っていない財前からすれば、の対応は恵まれすぎているようにも思えた。

(それも、時間が経たな気づかへんかった。あのままなにもしとらんかったら、断っとったら、絶対分からへんかった)

 律儀に小春と一氏に頭を下げるの後ろ姿が、秋空の中に綺麗に溶け込んで見える。
 ふいに昔を振り返ってしまうのは、この秋の空気の為せる業なのだろうか。それとも相対的にテニスに集中していられる時間が減ってしまうテスト期間だからこその想いなのだろうか。初めての経験に答えなどどこにも見つからなかったが、それでも財前は考えてしまうことは悪いことではないような気がしている。


「なに?」
「……なんも。はよ帰ろ、ワーク終わらせる言うてたやんか」

 名前を口にする感覚に慣れた。慣れたどころか、当たり前になった。
 自分の声にだけ少しだけ嬉しそうに振り返ってくれる彼女の存在が、日々大切に思えるようになった。これは、時間が経たなければ分からなかった。
 あの日、テニスコート。夕暮れに染まる夏の空気の中で、突然の告白を断っていたら絶対に分からなかった味わえなかった。
 があの時、決断をしてくれなければこの心の温もりを感じることも、秋空の意味を感じられることもできるはずがなかったと心から思う。

「光くん、あと何ページやったっけ?」
「多分15ページぐらい。あかんわ、あの先生。急にテスト範囲増やしよって」
「私も同じぐらい。競争やね、負けへんよ」
「アホ。俺の得意の英語で勝負してどないすんねん」

 たわいない会話が息苦しさとは無縁でいる。むしろ会話をすることが当たり前のように思える、この感覚を味わうためには、あの時のの想いと時間がなにより大切だったと、なにもしていない情けない自分と照らし合わせればつくづく感じる。
 が笑って隣に並ぶ。その顔に戸惑いはなにひとつない。
 金太郎も、小春も、一氏もいなくなったふたりきりの帰り道で、ようやく財前も小さな笑みを浮かべることができた。

 義姉のお節介にも慣れた。時間のおかげかもしれない。

「あら、ちゃん。あーそっか、テスト勉強か。光くん、最近めっちゃ真面目やわと思たら……そういうことね、ははーん」
「なにがそういうことなんかよう分からへん。義姉さん、いつもはしたないわ」
「なによ、どの口が偉そうに! お義母さんに言いつけてほしいの?」
「あかん、すんません。ほんますんません。内緒にしといて」

 が背後で笑いを堪えている空気にも、慣れてしまっている自分が悲しい。しかしその成長など見透かしているどころかつまらないという感情でも持っているのだろうか、義姉はいつもきまっての前で財前を一度はからかう。対応することにも慣れてきて、昔はこのような余裕は……とは、思ってみてもいいがしかし納得するのはどこか癪だった。
 なぜ、自分はいつもに苦笑されることになるのだろう。ふと首を傾げたくなる。

「光くん? 入らへんの?」
「あ? ああ、悪い」

 階段を上りきったところで思わず足を止めてしまっていたことに気づいたのは、の声があってからのこと。
 部屋の中に入るの姿にも、さほどの緊張はいらなくなってきた。とはいえふたりきりとなると解放感が度を越えることもあるわけで、過去何度か過ちを犯してきているわけだが(そして絶対義姉は気づいているに決まっているのだが)、今日は絶対にその気分にはなりたくないと財前は小さくため息をつく。

「競争ね、早く終わった方が言うことひとつ聞く。どう?」
「せやから、俺英語得意やっても知っとるやんか。勝負にならへんって」
「残念。私、残り8ページなんだ。光くんの半分、ね」
「……は? お前さっき、同じぐらいって」
「ごめん、確認したら8ページやった。でも、ちょうどええハンデちゃう? 私が勝ったらさっきコンビにで買ったお菓子、好きなやつから食べさせてね。さ、やろか」

 時間の経過は恐ろしい、と財前は呆然と目の前のを見つめながら思う。
 昔であれば、は多少なりとも財前をたてるところがあって、決して財前を裏切るような真似はしなかった。裏切るとは壮大な、と後日白石や忍足ではなく千歳に大爆笑されることになるのだが(彼の笑いのポイントは絶対他の部員とずれている)、しかしこの時の財前の気持ちを代弁してくれる言葉はそれ以外に見つからなかった。
 せやから、あんたの彼女やて言うてるやないの。小春の言葉が何度も頭の中に響く。

「分かった。8ページぐらいなんやねん、俺の英語なめんなよ」
「なめてないし。あー、好きなお菓子買っといてほんまよかった。楽しみ」

 自分の勝利しか信じていないをじろりと睨みつけるものの、しかしそこは自分の彼女。憎もうと思って見つめる視線ではない以上、はにっと財前が一番好きな笑顔を見せつけてくる。
 時間の経過は恐ろしい。相手に自分の裁き方を教えてしまっている。
 財前はふてくされながらも、ベッドの上に鞄を放り投げて英語のワークを取り出す。ひとつの机に向かい合って負けるものかと最初こそ意地になって左手を動かしていたが、やがて目の前の英文に没頭してしまい15ページなど簡単に繰ってしまった。
 なにか物事の区切りがついた時、ピアスを触ってしまうのは自分の癖だった。用を終えたシャープペンシルを置き、左手で無意識のうちに触れるのと、が目を丸くして顔を上げるのが同時だった。

「……まさか、光くん」
「終わった。余裕」

 今度はが呆然とこちらを見つめる。惜しむべきか、の手はまさに最後のページの最後の一文の最後の英単語を書こうとしているところで、なんというタイミングかと財前の方は驚きを通り越して笑いが零れる。
 作戦だったのでは、と後日白石はやんわりと告げた。財前に花をもたせることは苦ではないだろう、集中して時間を無駄にしないようにしてあげたのだろうと静かに分析していたが、財前は白石の言葉をあっさりと否定した。
 自分とは、無愛想で、自分中心なところが多々あって、周りに迷惑はかけない代わりに周りの苦労を自分から進んで背負うような器用な真似はできなくて、誰かに妥協なり援助なりをしてもらって生きてきていることにこの年になってようやく気づいた、そんな手のかかる男子だ。財前はそこまでは自分を理解しているつもりだった。
 その自分を、好きになってくれた人が器用か器用でないか。そうと問われれば、それは間違いなく前者のはずだ。白石の言葉にも一理はあるはずだ。
 だが、とこの時の財前はを目の前にしてもっと違うことを考えていた。

「……ほんま、俺に勝つ気でおったんか? 悪いけど、俺英語やったら結構強いで。知らんわけないやろ、そんなこと」

 財前からすれば、それは無謀に近い賭けだった。枚数があと数ページ多ければ、違う科目であれば結果はの言うとおりになっていたはずだが、こと自信があるものに関しては負けることなど絶対に許したくない。そんな財前の性格が手伝えば、倍のハンデなどあってないようなものに近かった。事実、ぎりぎりの勝負だったとはいえ財前はがむしゃらに解き終えたわけではない。
 だから、腑に落ちない。春からの時間をともにしてきたお互いが、お互いのことを知らないわけではない。だから納得できない。その思いを暗に伝えると、は若干拗ねたようにため息をついた。

「知ってるけど、でも」
「なに」
「光くんと勝負したら、私もちょっとはスピードあがるかなって思うし。そしたら最後、ちょっとぐらいくつろげるかなって。そう思って」

 白石の見解を一蹴できる理由は、自分だけしか知らなくていい。財前は強くそう思う。
 その時のが、小さな悔しさとともに負けた喜びのようなものを笑みの中に織り交ぜていたことを知ることができるのは、自分だけでいい。時間をかけてきた自分だけが知らせてもらえる褒美に近い。

「……アホか、なに言うてんねん。菓子取り上げるぞ」

 素直な本音を間を置かずに伝えられるには、どのような空気でも臆することなく伝えるにはもう少々の時間が必要だと思った。とりわけ今日は階下の義姉の存在を強く意識しておこうと誓ったばかりだ、心をくすぐられる感覚に素直に頷くことには抵抗がある。
 そんな本音を押し殺してぶっきらぼうに呟けば、しかし

「なんで。焦らさんといて、我慢してたのに」

 賢いはずがない。器用なはずもない。唖然とする財前の表情など読んでいるはずがない。賢ければ器用であれば感情が読めるのであれば、今この時、その言葉とともに真っ直ぐにこちらを見つめる視線など、用意していいわけがない。

「アホか! 焦らされとんのはこっちや、なに言うとんねん!」

 今、自分の顔は間違いなく真っ赤だろう。分かってはいたがその言葉が出てしまえばもうあとの祭りだった。

「……は?」
「なんやねん、変なところだけ大人になって、こういうところだけ昔のまんまで。ちゃんとバランスよくせえよ、俺だけなんでこんな振り回されなあかんねん」

 が言葉の意味に気づいたのは、それからしばらくしてのこと。その瞬間、財前に負けないぐらいの色味で頬を赤く染めたのだが、その口から否定の言葉が生まれなかったのは腹立たしいのか、それとも。
 差し出された手が、手のひらではなく手の甲を見せる。受け入れるのではなく、縋る意味合いを強く込めたその手を拒む要領のよさは残念ながら持ち合わせていない。
 小さな葛藤のあと、財前は小さく首を横に振ってため息をつく。
 けれど利き手は、躊躇することなくの手を握り締めてその身体をこちらに引き寄せていた。



「お前、それは成長やなくて理性の枷みたいなもんがはずれただけ言うんやないか」

 忍足は情けないといった表情で呟いた。財前はなにも言えなかった。
 3年生が部活を引退したあと、自然と決まっていた週に1度の食堂での会食。目の前に居座る忍足は、優しいのかお節介なのか時々分からなくなることがある。今日は単にお節介の日だと見極める経験だけは積んでいたが、しかし簡単に否定することができるほど財前は自分の行動に自信が持てなくなっていた。
 証拠に、白石が苦笑を途切れさせてくれない。じっと恨めしげな視線を向ければ、箸を置いて「悪い」と綺麗な左手を向けてくれた。

「せやけど、俺も謙也の言うとおりやと思うで。なんでそれだけで勝手に火がつくんか、普段の財前からは想像できひんからなあ」
「想像せんでもええです」
「やから言うたやないの、光くん。露骨に嫌そうな顔をする意味が分かってへんって。ねえユウくん」
「せやせや」

 なんのことだ、と顔を上げる。石田はただ黙って食事を口にしていたが、その耳が一言も漏らさず聞き届けていることは誰もが知る事実である。なにも言われない方が逆にいたたまれなくなることがある、と財前はこの上級生を通して初めて知った。

「あのね、今までの光くんはね、ことちゃんの前ではアタシらと話す時にもうちょっとだけ自分の感情を隠そうとしてきたわよ。ううん、綺麗に見せようとしてたって言う方が正しいかしら。なのにこの前、ちゃんの前であの顔。ああ、これはちゃんにもっと心開いちゃったのねー、とアタシは強く思ったわけ」
「せやせやー」

 一氏の興味の欠片もない相槌が逆に痛い。それ以外に正解はないと教えられているようなものである。
 財前は無言のまま、冷めた豚の生姜焼きを口に運ぶ。四切れあったはずのそれはいつのまにか忍足に説教料として一切れ奪われてしまっていた。
 否定はしない。いや、できない。自分はの前で心が無防備になることが多すぎる。だからが笑うことが増えたのだろうと理解すると、自分の不甲斐なさに反論を起こすのも面倒になってしまった。
 だが、豚の生姜焼きは不味くなかった。
 居心地が悪ければ、都合が悪ければ、食事はもっと味気ないものになる。それは母や義姉から何度となく教えられてきたことで、気づけば白石たちとの食事で納得できない味を経験したことは一度もなかった。
 財前は顔を上げ、忍足を見つめる。
 忍足は、3年の中で唯一1年の頃から同じ人と付き合っている人間だった。正確には、忍足以外誰も2年生までに彼女を作らなかった。時間の経験は、誰もこの男には敵わない。

「先輩ぐらいなったら、俺も余裕でるんすかね」
「は?」
「や、だって一番長く付き合ってるの、先輩でしょう。やったら先輩が一番落ち着いてるっちゅー理屈やないですか。ほんまですか」

 財前の静かな問いかけに、静寂が訪れたのは一瞬だけだった。
 わずかの間をおいて、我慢できないというように全員が吹き出す。石田が肩を震わせているのだからこれは間違いない。自分としては真っ当な質問をしたつもりだったが、小春と一氏が心底おかしそうに笑っているのを見てこれは勝ったと思ってしまう、そんな四天宝寺魂が少しばかり悲しいような、嬉しいような。

「駄目よ、駄目。光くん。ケンヤくんは幸せ組だけど落ち着き組とは無縁よ、絶対」
「それやったら白石の方がマシやろ。そうなると時間とか関係ないな、これは。なあ小春」
「そうね、多分乗り越えた試練の数よね、絶対。長さやなくて厚み、これよ」
「はー、なるほど。確かにそうや、白石部長の方が貫禄がある」
「ちょ、待て! なんやねん、財前。お前みたいに本能まっしぐらなやつと一緒にされたないわ!」
「え、でも抱いてないし。あのあと。まっしぐらではないっす。……誰かと違って?」

 止めにいくこともできないほど恥ずかしかったと、その様子を見ていたに怒られるのは放課後のこと。昇降口での待ち合わせは避けて、どうせ隣のクラスなのだからと教室の前で待っていたら第一声はそれだった。
 しかしこの時、に配慮できるほどの長さの沈黙はなかった。ぴたりと止んだように見えた時の流れは、当然留まることなどできずにいつもどおりの時間を刻む。

「アホか、なんやねんそのオチは! しかもなんやその問いかけ、その視線! お前ほんま最悪や、振られても知らへんで!」
「謙也なりの心配の言葉で締めくくるか。はい、ごちそうさん」

 白石の言葉で全員が手を合わせる。財前もしっかりとそれに倣って、最後に残してあったデザートの蜜柑を立ち上がりざま慌てて口に運ぶ。
 これほど美味しい味がするものだっただろうかと、誰かに問いかけたくなるほど甘い蜜が口の中に広がった。



09/12/05