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愛想がない、という言葉すら愛嬌に思える。可愛げがない、という表現はもはや褒め言葉に近い。財前光という人間に出会ってからは、新しい発見というよりも今までの観念の再構築を迫られているような気がする。
飄々と学校生活を送り、淡々としているかと思えば実は誰よりも充実した日々を送っている彼は、その証拠に今月に入ってからは日付が変わったあとの身体のスイッチは問答無用に切ってしまっている。大会前、という言葉は免罪符としては随分と許容範囲の広い言葉だとはこの年になって初めて知った。
「適当なだけやで、真面目に適当。究極の二面性。まあ、ある意味純粋」
「純粋? はは、本人前にしたら絶対言われへんけどな。誰が純粋やねん、て俺つっこんでしまうわ」
「せやな、謙也以上の純粋はおらへん。テニス部ピュア担当やもんな、なあ謙也くん」
「余計なネタはいらんわ!」
美しいという言葉がまるで寄り添うようにできている、白石は包帯の巻かれた左手で頬杖をついて悠然と笑む。組まれた足はたわいない学生服を着用しているのにどこか品が漂っている。食後の茶を飲む姿すらどこか優雅だ。隣で忍足は、そんな白石の雰囲気すら暑苦しいと言っているかのように団扇代わりの下敷きを激しく動かす。真夏にうどんを頼んだのが失敗だったと呟くのは5分後のことだ。
「……先輩、ほんまに教えてくれるんですか?」
箸を止め、はじっとふたりを見つめる。訝る瞳に白石はちらりと視線を向け、また笑みを浮かべた。
「可愛い後輩のためや。なんでも言うこと聞いたるで、叶えられる限りはな」
その一言に忍足はより一層利き手を強く動かして風を作る。白石を退かそうとしているかのような強引な風の作り方だ。
あっさりと向けるには御代が高い、と思わず愚痴をこぼしたくなるような白石の笑みは、もはや壁に近い。本当はなにを考えているのかはほとんどの人が分かっていないとはある人の言葉だが、自分も漏れなくそのうちのひとりだと痛感すればするほど、制服のスカートを握り締める手に力がこもる。
負けて、ひくわけにはいかなかった。ぐっと顎をひき、ねめるように見つめることが精一杯だとしても、今退くわけにはいかなかった。
「……私も、考えるまでは考えたんですけど。やけど光くんの考えとることなんて、まだ全然理解できてへん気がするし」
認めたくはなかったが、避けることはできない現実を言葉にする。
諦めろとでも言うかのように夏の風がじわりと汗を生む。食堂に流れる風は冷房などという文明の響きを持ち合わせず、開け放たれた窓から訪れて大阪の夏の匂いを存分に含んだものばかりだ。息苦しさが常に言葉をなくさせようとする。
「そんなんで、当日迎えるんはおかしいやろなって」
それでも絞り出した言葉に、白石はほんの少しだけ笑った。
「あいつに限らんと、他人なんか簡単に理解なんかできひんのとちゃうか。別にが自己嫌悪にならんでもええとこやろ、そこは。むしろ嫌がられるかもしれへんで、相手のこと知ろう知ろうと必死になったりするんも」
忍足は口をつむぐ。同意だとその下敷きが揺れて代弁している。
1年という年次の差のためか、それともこのふたりだからなのか、どれほどの時を積んでも同じ階段に立てないに真実は分からない。ただ、
「せやけど、そう言うて努力せんのもおかしな話やし。嫌われるかもしれへんくても、それでも嫌われるまでの努力もせんとそのままにしとく方がよっぽどおかしいと思うし」
白石の言葉にすぐ納得できる、心の余裕はなかった。こっそりとかみつき、心の奥底で姿かたちを作れないままもやもやと動いているなにかをどうにかして伝えようとする。
ふと白石の視線が浮く。斜めに訪れるその瞳に、驚きにも似たような色が一瞬だけ訪れてすぐに消えた。
「光くんの誕生日は、きちんとお祝いしたいんです。一番喜んでもらえる方法で。だから、教えてください。光くんが先輩らの前でも嬉しそうにしとること。聞き出すなんてずるいって分かってるんですけど、でも」
白石に理由を問いかけるよりも早く、心の中のなにかが言葉になって突然零れた。言葉といっても自分の欲求を並べただけの、今の白石がまとうような品位の欠片もない自分勝手な言葉だとすぐに後悔したが、だが視線はずれなかった。
忍足が静かに下敷きを揺らす。陽にあたらずとも明るい伽羅色の癖毛がふわりと揺れて、視線がそっと流される。
忍足が沈黙した時は、観念の合図だと言ったのは誰だったか。白石だろうか小春だろうか、最近の自分の視界には随分とテニス部の3年生が映って、記憶が混雑する。
だが、その言葉をどの響きで受け止めたか。それを思い出すだけで、自然と身体は嬉しさに焼かれて熱をあげる。
「それが不正解かどうかはよう知らんけど、俺に否定する権利がないことは知っとるで」
忍足の言葉は続かない。視線ははずされたままだ。機械的に右手を動かしながら、遠くで名前を呼ぶ小春たちに軽く左手をあげる。その動作を、記憶の中の財前の声が「納得している時」だと断言する。
「……それやったら、先輩」
「せやけど、が知らんと俺らが知っとることって、なんや。絶対色気ないことばっかりやで、なあ」
「色気はいらんやろ、あいつに。探したこともないわ」
「分からんで、小春いわく立派な大人らしいからな。少なくとも謙也よりは」
「俺をネタにすんなっちゅーの」
下敷きが白石の銀髪を煽る。会話の流れがいつのまにか自分から離れている、そのことに気づく頃には白石の左手が颯爽と忍足から下敷きを奪っていた。
3年という生き物は、なぜここまで自分たち2年とは異なる言動を取ることができるのだろうか。笑みを浮かべる白石に突き放すでもなく野次を入れるでもなく見守るかのような沈黙を流す忍足、そしてこちらの顔を見てあっさりと親指と人差し指をくっつけてみせた小春。相談する相手としては適格だと信じて思わなかった年齢差が、本当はそこまで自分に優しく機能してくれていないことを知らされる。
(それでも、私よりはこの人たちの方が光くんを知ってる)
かわされているのかもしれない。白石の言葉を頭の中で反芻し、本意を探ろうとする。それでも自分の欲求は負けたくないと言っていた。
「まあ、あえてひとつ助言したるとすれば、やな」
心を読んだかのような絶好のタイミングで白石は呟く。顔を上げる勢いで、忍足にも伝わってしまったかもしれない。それでも構わなかった。
財前の誕生日を普通の日で終わらせたくない、できうるものならば喜んでもらえるなにかで終わりたい。当の本人は7月20日という日付にさほどこだわりを見せないが、こだわりがないこだわりには負けることができない。その気持ちで臨んだ、この場面だった。
「20日っておもいきり練習やけどな、毎年。夏休み入って朝から夕方までみっちり。せやから財前と会おう思たら、前日から泊り込むかその日の夕方から夜にしか会えへんっちゅーことや。……その時間に喜ばせたいっちゅーことを言うとるってことの意味だけは、よう理解すべきやな、」
口元で交差する五指の向こうで、白石は勝利を確信した笑みを浮かべる。奪い返したせっかくの下敷きを、忍足は折りそうになる。
年齢差を理由に頼みの綱とした判断は、大失敗だった。
「夏男らしからぬところが問題なのよね、光くんは。ううん、夏男の任務を知らないっちゅー感じかしら。ねえユウくん」
「そういうのを『甘え』っちゅーんや」
「言うとることの意味がよう分かりません」
「馬鹿ねえ、夏に生まれた使命を全うする気概を見せるつもりがあらへんなんて、ほんま情けない男っちゅうこと。夏生まれの運動部の宿命よ、これは」
「ほんまよう意味が分かりません、なに言うとるんですか。先輩正気っすか」
「アホぬかせ、お前が腐っとるっちゅーなによりの証拠やないか」
「いって! なにすんですか!」
小春と一氏に囲まれている姿を見ると、そこが本来の彼の居場所だということを改めて痛感させられる。
三者懇談期間の学校は、午後を部活動の時間に費やしてよいことになっている。財前にとってはその分テニスに集中できるのだろうが、それと比例してテニス部の上級生にからまれる時間が増えるということにもなるので、視界におさまる彼は結局コートにいないといつもしかめ面をしている。
校舎とテニスコートという、これほど離れた距離にありながら聞き届けてしまう自分には軽く失笑しながら、それでも視線だけははずさない。母親が来るまでのあと少し、その言葉を何度も免罪符のように心の中で呟く。
(部活やもんなあ。一番に決まっとるなあ。テニスしとる時が一番格好ええに決まっとるし、誕生日やから会いたいなんて私のわがままやな)
太陽は南中の峠を越えて久しい。だが西の空がその輝きを預かれば預かるほど、テニスコートに突き刺さる陽射しは強くなる。くっきりと映し出される影の伸びがそのまま彼の肌が焼け続ける時間を教えてくれているようで、思えば随分とあの肌も白いカッターシャツが映える色になっていた。
(せやったら、なんもせえへんまんまでおる? 夜にメールだけ送って、そうする? ……でもそれで冷たいやつって思われるんも嫌やしなあ、メールの言い訳するのも変やし。ああ、難しい)
考え込めば考え込むほど、テニスコートで笑う財前を直視できなくなる。
気だるさに負けて、壁に身体を預ける。斜めになった視界を風に吹かれた自分の黒髪が一度遮ると、女の自分でも嫉妬してしまいそうな艶を持ったあの黒髪が白石の左手に撫でられていた。嫌がる素振りの中に小さな笑みがあることを、は知っている。
「よっしゃ、レギュラーは4時に監督が来るまで自分の練習や。ボール飛ばしすぎて校舎にぶつけるんやないで」
「いやねえ、蔵リン。校舎まで場外ホームランする子なんてここには……あら、おったわ」
「……なんでそこで俺を見る、小春。ちゅーか白石、お前今日どんだけ俺をネタにすれば気ぃ済むんや!」
「財前が大人になってしもたから、しゃあないわな」
「せやでー、光くんの足引っ張ったらあかんで、ケンヤくん」
「なんやねんお前ら、ほんま最近!」
言葉を挟まずただ聞いているだけのように見えても、関心を示していないように見えても、その足が勝手にどこかへと向かうことは滅多にないことを知ってしまっている。
見つめる時間が長いほど、知ってしまうことが多すぎた。そしてそれは、悲しいぐらいに自分の心から我慢という言葉を奪おうとする。
(ああ、もう! どないせえ言うの、あの人は!)
今なら忍足の気持ちが少し分かる気がする。白石たちの言葉に常に自分の言動を振り回されている忍足と、財前の言葉どころかすべてに言動も思考も支配されている自分。明らかに自分の方が負けていることには、年次の差という便利な言葉で納得をしてもよかったが、だが意図的に発信することを知らない(はずの)財前に対して、故意に忍足を振り回す白石では意味が違う。勝敗は目に見えている。
忍足に話しかけられ、やや顔を上げて会話をする財前を見つめる。
そして最初に浮かぶ言葉が好きだという気持ちである以上、今の悩みとはもはや無縁ではいられない。ため息を何度登場させればいいだろう、そう思って夏の空を見上げる。
「、お待たせ」
背後から声が飛び、母親がようやく現れた。観念しろという最後通告のような気がして苦笑すると、母親は娘のそんな反応の向こうになにかを見つけて足を止める。
「あれ、テニス部ちゃうの。そや、強い子おるんやろ? 誰なん、教えてよ」
「えっ……無理、無理無理!」
「なんで。2年でひとりだけむちゃくちゃ強い子おるて言うてたのあんたやないの、誰?」
「なに言うてんの、もう三者懇始まるし! ほら、早く!」
「なんやの、せっかちな子やね。可愛げがない言われるで」
「関係ないし!」
母親の背中を押し、テニスコートの見える場所から陰のある校舎内へと戻る。
30分という面談枠の中の会話もそこそこに、財前の体育は5だったのだろうななどとぼんやりとまた財前のことを考えてしまいながら、そして今日も結論が出なかったことに肩を落としながら昇降口へと向かう。
「あらやだ、お母さん教室に忘れ物してしもたわ」
母親の踵がくるりと返り、昇降口前に取り残される。足を進める気にもなれず、ぼんやりと姿の消えた校舎を見守っていた。
「」
意識的に見守ってなどいなかった、結局財前のことばかり考えていたのだと痛感させられたのは、その瞬間だった。
はっと顔を上げ、自分の名前を呼んだ方向に視線を向ける。ユニフォーム姿の財前が少し驚いたような表情でこちらを見つめ、しばらく校舎との間で視線をうろつかせてから、一歩、
「白石部長が、お前が話ある言うてたって。なに? 最近部活ばっかりで家帰っても携帯触ってへんし、聞いてへんことでもあるんかなって」
一歩、近づきながら言葉を向ける。少し低めの、しかし幼さを残す声は頭の中をかき回すのが得意だ。開け放たれた窓から吹く風に揺れる黒髪は、西日に光るピアスは、言葉を奪うことが得意だ。頷くべきか否定すべきかも分からなく、は五指を強く組んだあとなにもできなくなった。
「まあ、部長の言葉やし。ほんまかって思たけどケンヤ先輩も同じ顔しとったから、どうかなって。別になんもない? ないんやったらないでええんやけど」
「あ、ある……かもしれへんし、ないかもしれへん」
「どっちやねん」
「ない、にしたかったんやけど、ほんまは」
「なんやねん」
言葉を渋るの様子に特別苛立つでもなく、むしろ物珍しいものでも見るかのように財前はただ話の続きを待っていた。そっと顔を上げて視線を合わせても、特にせかすわけではない。
この他人と深く交わろうとしない、時や空気の流れに従うことになんの疑いももっていないような財前だからこそ、今の自分の悩みがあるのだ。ここで第一歩を相手に期待することがそもそもの間違いだ。は小さくため息をつく。
「……誕生日」
「え?」
「誕生日。20日。お祝いしたいんやけど、でも部活大変やし。でもお祝いせんのも変やし。でも夜しか会えへんし。でも夜に会って言うのも無茶やし。でも……」
「でもでもでも、って。お前何回言うねん」
「でも、……あ」
「……分かったから、もう。続きはよ言えって」
珍しく財前の方が重くて長いため息をつく。やはりこの話題自体が話すに値しないものだったのだろうか、一番恐れていたことが現実のものになりつつあったが、もはや財前の足は聞き流すつもりなどまるでないとでも言わんばかりにその身体を壁にもたれかけさせた。も意を決す。
「でも、私は光くんと付き合えていろんなもんもらってしもたから。たくさん、勝手にもらってしもたから。せやから、誕生日にお祝い……ちゃうか、お礼をさせてもらわんと気が済まんの、もう」
「……」
「せやから、そのことをずっと考えとって……白石さんが言うてたのは、そのこと」
自分勝手であることと卑怯なこと、どちらも備えてしまっていたここ数日であったことを改めて思い知らされる。もし自分が財前の立場であったら、白石たちまで巻き込んで勝手に悩んでいた人間など失笑してしまうかもしれない。その証拠に今目の前の財前はから視線をそらし、やや首を傾いで沈黙する。
「どんだけわがままやねん、ほんま」
やがて訪れた小さな呟きに、身体よりも心も震えた。
しまった、と心が叫ぶ。言うべき悩みではなかったと冷や汗が流れる。組んだ五指の力加減は分からず、沈黙を埋めるべき言葉も出てくれない。
他人の行動を気にすることがない代わりに自分の言動のペースを乱そうとしない財前の言う「わがまま」の意味を、どのように捉えていいか分からない。
ちらりと視線を向けて、財前はその心情を読み取ったらしい。小さく首を横に振ってひとつ息をはいた。
「別にええやん、会うたって。なんで駄目って決め付けるんや、なんで自分で片付けようとすんねん。俺そういうの読み取るのうまないから、それで勝手に苦しまれとっても……助けてやれんし」
「……え?」
「普通のわがまま、言うてええって。俺、鈍いから言われな分からんかもしれへんけど、でも心はそんな狭ないって。特別扱い、できるって。……それに」
そっと視線が向けられる。真っ直ぐ自分を見つめる力は絶対に衰えない。
「もう20日の予定あけてあったし。勝手に会わんとか言うな、俺かてある程度知っとるんやからな、お前のこと。なに言うかって。俺を甘く見んな」
夏の暑さに従ってどこか覇気のない身体。だが零れる言葉は中学の誰も知らないほど、強い。目を丸くして再び絶句すると、今度は言い過ぎたかと心配げな視線を向ける。
どこまで自分を振り回せば気が済むのか、本当はすべて計算しているのではないかと問いつめたかった。いつその支配から自由になれるのかと答えさせたかった。
「光くんが『わがまま』なんて言うんは、きっと私だけやね。それ、嬉しく思ったら駄目なのかな」
それでも、自分に自由になるつもりがなければ意味がない。
今涙を浮かべそうなほど笑いそうになってしまう自分にその気がなければ、この拘束感は奪われたくない。
「……さあ。知らんし」
ぶっきらぼうに強引に会話を終わらせる時は、それ以上突っ込むなという合図だ。だてに彼女になっていない、だてに一方通行の片想いを勝手に始めていたわけではない。その反応に思わず苦笑すると、財前が少しだけ忌々しげに、存分に気恥ずかしそうに嫌そうな視線を向けた。
そんな反応すら嬉しくて、周囲に気をまわす余裕などなかった。
「、お待たせ……って。あら、まあ。クラスの子?」
財前の瞳が一瞬で丸くなる。一瞬で硬直する。母親の視線がまじまじと財前のユニフォームに突き刺さり、そしてちらりと顔に向けられた瞬間にその喉が震えそうになったことまで見抜いてしまう、なんて自分は財前を好きでいすぎるのかとため息をつくのはあとにする。
「そ、そう。あ、ちゃう。財前くんっていう、第一小の……」
「……あ、財前言います」
「ああ、財前くん! 小学校の時から有名やったもんねえ、テニス上手いって」
「……あ、はあ」
「大きくなったねえ。せやけどまだの方が……ちょっと高い?」
「いや!」
財前と同時に声を発し、慌てて首を横に振る。それ以上話を盛り上げるなという意味のの焦りと、よりも身長が低いなどと絶対に見られたくない財前の意地というまったくもって意味の違う言葉だったが。
母親はそんなふたりを見てカラカラと笑い、財前に笑みを向けた。
「そうなん。テニス頑張ってね、うちの子が最近テニス部の話するんは強いからやと思うし」
その言葉を残し、母はあっさりと昇降口から姿を消した。残されたのは妙な距離感を保って直立不動していると財前だけ。
「……お前、俺のこと言うてないんか」
「……まだ」
「……そんなんでよう20日の夜に会いたいとか言うなあ。びびるわ」
「……光くんかてお義姉さんにしか言うてへんくせに」
「あれは勝手にばれたんや。ああもう、変な汗かいた! もう帰る!」
もと来た道を振り返り、少しだけ怒りながら歩を進める。
けれどあと数歩、と思ったところできちんとその身体は振り返ってくれる。
「20日までに言うといて、俺変な人扱いされるの嫌や。夜来させるの怖なる」
予想以上の言葉を、きちんと向けてくれる。
苦笑しながら頷けば、また少しだけ不機嫌になりながらもそれ以上なにも言わずテニスコートへと戻っていった。
背中を見つめる視線は、その姿が消えるまではずすことはできなかった。
「母親に挨拶したっちゅうんはほんまか! なんや財前、どこまで話飛ばす気やねん!」
「は、なんやて?! お前アホちゃうか、なんで急ぎ足なことばっか……!」
またが口を滑らせたのかと、その時の財前は思ったらしい。しかし白石と忍足、このふたりにはが助けられているところがないわけでもないので、その時は顔をしかめるだけでさしたる抵抗もせずにぐっと我慢をしたらしい(誇らしげに語る財前に、としては正直な話笑いを堪えるのが大変だった)。
「……お前、俺のおらんところで暴走せんといてくれ。冷や汗かいたで、ほんま。小春を尾行させといて正解やったわ」
「……尾行? は? 部長、なに言うて……」
「部活中に外行かせるんやで? 尾行ぐらいつけるやろ、普通。なあ小春」
慌てて振り返れば、小春がいつものお得意の笑顔で親指と人差し指をくっつける。してやられたと思ってもあとの祭りで、一氏が淡々とその時の状況を物まねで披露する舞台が始まってしまってはもはや取り返しなどつくはずがなかった。
「……もうほんましつこいし、先輩ら。ああ、せやから部長はいつまでも片想いひきずるっちゅーことですか。そうですか」
「財前くん、それは関係ないと思うよ」
標準語と無敵の笑みで近寄る白石をあっさりと払いのけてから小春に視線を向ける。この人は敵か味方か、やはり分かるようで分からないものだとじっと見つめていると、返されたのはどこか優しく見守られるような笑み。
いつまで自分たちはこの上級生の管轄下なのだろうとふと思う。いつになったら自分は自分の思うままに人生というものを歩むことができるのだろう。小春の笑みを前にしては答えなどまるで出てこない。
「夏男の気概を見せる時よ。頑張って!」
白石たちには聞こえない場所でひっそりと呟かれた言葉はすぐに夏の風の中に消える。
いつ支配下から逃れられるかなど、恐らく抱きべきではない悩みなのかもしれない。20日の予定が心置きなく埋められている、今の状況には少しだけ感謝をする。
白石にはそんな頭の中すら見抜かれているかのように、小さく苦笑された。
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