君だけの鎖 02

 絹糸程度の雨であれば、降らなければよいものをと毒づく。
 見上げた空は灰白色。雨を降らせるために青空を隠したというよりは、雨に誘われて仕方なく曇ってみせたというような色だった。白くも黒くもなれず、困惑しているようにも見える。
 その下を歩く財前の視界は、うっすらとした暗がりの中にある。足元のスニーカーは見事に雨を吸い込んでいく。
 こんな日に、なぜ出かけるのだろう。財前は玄関を出て傘を開こうとした瞬間ふと思う。
 全国大会が終わり、9月になって2学期が始まった。大会前に比べて比較的ゆっくりとした時間が流れるテニスコートは、3年生がいなくなったためかそれとも秋の風のせいか、少しばかり慣れない。部長としてその発言はあるまじきものだという感覚はあるので口にはしないが、渡邊には当然見抜かれていたのだろう今日という日曜を休みに変えてしまった。

「まあ、たまにはええやろ。気分転換でもしてこい」

 夕方のコートで飄々と口にされた言葉は、本当は自分にだけ向けられた言葉だったと痛いほど分かる。
 だから、雨だから休みなのではない。雨は付加項目に過ぎない。
 それなのになぜ雨が降るのか、降る必要はまるでないのにと愚痴はとめどなく零れる。まるで雨に促されているかのようだった。その雨は、こちらの心など見透かして笑っているに違いない。
 
「あら、光くん。お出かけ?」

 出かけにあの人が声をかけたのも、雨の笑いに気づいているからに違いなかった。

「うん」

 億劫さを全面に出した手つきで靴紐を結んでいた最中、届けられた声に背中を向けたまま頷く。返事はなく、どうしたと顔を上げた時がすべてだった。

「あれー、背中が嬉しそうやなあ……あー、分かった。ちゃんのところやろ、な、な? 全国大会終わって一息つけるから、せやろ? 光くんも純情やねえ!」
「母さんに聞こえるように言わんといてください!」
「えー、なんで? 絶対喜ぶと思うんやけどなあ」
「それは義姉さんだけや!」

 兄の妻という立場ではなく、本当に姉に近い感覚で接してくる彼女にはいつも手を焼く。あの兄の結婚相手である以上、その拘束からは簡単には抜け出せないことは分かっていた。だから雨の待つ外へと飛び出したのに、あまりに弱々しい雨があるばかりで気持ちが削げた、そういうことだった。

(口出しするやつが多すぎる。なに皆して暇人やっとんねん)

 傘の下、雨の道路をゆっくりと進む。
 右手に持つ小さな紙袋は頼りなさそうで、雨に濡れてすぐに破けてしまいそうだ。大丈夫か、と何度も確かめながらの道はどうしてもゆっくりとした光景になってしまう。
 こういう時に必ず頭をよぎるのが、白石たちだった。

「物でつるわけやないで。物にしか託せん時があるっちゅうこっちゃ」

 目の前の光景に財前が目を丸くし息を飲んだあの時、白石は静かにそう呟いた。
 上手い逃げ言葉のようにも聞こえてちらりと横目で見上げると、妙に真剣な面持ちで呟く彼がいた。目が合うとすぐに何層もの見えない幕に遮られた笑みが浮かぶ。それでも不快感を与えない彼には、いつまでも勝てる日などないのではないかと思えてしまう。
 ぱしゃん、と水溜りの水が小さくはねる。駅前で空を見上げれば少し明るい。

(俺は、ずっとあの人には勝てへんやろな。テニスでは勝つ気でおるけど、部長としては)

 白石にはなれない、と思う。なぜ2年の時から、今の自分よりももっと若い時からあの人は部長という肩書きを背負うことができたのか、その肩書きに見合った行動をとることができていたのか、過去を振り返れば振り返るほど不思議なことだらけだ。
 その白石が、自分に言葉を授ける。無縁だと思わせるのではなく敵わないと気づかされる相手の言葉に、従わない心はない。
 地下鉄で1駅、もともと同じ小学区内である。だから降りた駅で見上げた景色も相変わらず雨に染まり、気分が晴れることもない。ただ、足は進む。

「……あ、俺。ついたで、駅」

 信号待ちを利用して電話をかける。相手は迎えに行くと口にしたが、冷静にそれを断る。このような雨の中出歩かせる必要はまるでない、しかも絶対に自分よりも汚れてはいけない服装をしているに決まっている。
 渋るを黙らせて、記憶に従いながら道を抜ける。
 ついたら連絡を、と電話ではなくメールで届けられた言葉に少し笑って、インターホンを押す手を止める。傘を肩に預け、顔を上げて鳴らした着信音。相手は電話に出るよりも早く玄関のドアを開けた。

「……別にそない慌てんでも」
「え、だって雨やし。濡れて風邪でもひかせてしもたら私学校行かれへん」
「なんでが行けへんのや」
「テニス部部長の肩書きをなめんといてください。……って、私が言うのも変か」

 からかうように呟くと、は小さな手で招く。弱く、けれどいつまでも降り止むつもりもなさそうな雨に見送られるようにして家の中に入ると、人の気配はまるでなかった。それはリビングに向かうの雰囲気からも見てとれる。

「……誰もおらへんの?」
「うん、出かけた。せやからゆっくりしてええよ」

 日曜の午前中という言葉とはまるで不釣合いな薄暗さの中、傘を適当に片付けての後を追う。はじめこそテレビを見ながら喉をジュースで潤しながら当たり前のように時間を見送っていたが、やがてソファに座る自分たちの間にいつまでも佇む距離が鬱陶しくなった。
 溺れるなとは、誰の言葉だっただろう。再放送のテレビ番組からはとうの昔に興味が削がれてしまっている。頭の中では詰めきれていない距離に対する小さな苛立ちに負けた誰かが昔をそっと思い出して冷静になろうとしている。

(そもそもは小春先輩か? せや、基本全部あの人発信やないか。部長は自分のこと話したがらへん。どうでもええことばっかり口にする、むかつくぐらい)

 テレビを見ながら本気で笑っているのかと問いかけたくなる笑みを浮かべるをよそに、頬杖をついて考える。

(……せやけど、時々核心をついてくる。しかも隠れて言うてくるし。経験者の顔つきで)

 普段であれば絶対に考えられない左手での頬杖に、先に気づいたのはの方だった。

「光くん、あかんで。左手使てるよ」
「……あ、しもた」
「なんや、考え事? ……って、そらないほうがおかしいか。部活、大変やもんね」

 は困ったように、けれどどこか嬉しそうに笑った。
 白石の言葉の本意を探る心と、距離を煩わしく思う心が言葉をなくさせていた。
 今となっては白石の気持ちも分かる立場になっている。部長としての責務はいまだ全てを理解するにいたっていなくとも、白石が当時部長の肩書きとともに背負っていた溺れて崩れる感覚を、今の自分は痛いほどに理解していると財前は思っている。
 沈黙の中で利き手を使うことをためらわない。
 頬杖の役目を終えた左手で小さく招き、一瞬目を丸くするの反応にも焦れて細い手首を握り、引き寄せる。忍足ほどの身長がなくとも、白石ほどの包容力がなくとも、の身体は自分の腕の中にきちんとおさまるようにできている。

「……どないしたん? 渡邊先生になんや言われたん?」
「なんでここで監督の名前が出てくんねん」
「……なんとなく」

 自分のものとは違う香りが漂う髪の中に顔をうずめる。頬をさする感覚が心地よい。細く柔らかい雨にはなんの感謝も抱かないが、細く柔らかく、温かい髪には目を閉じて身を委ねても構わない。
 恐ろしい感覚だった。自分の感覚を投げ出すと言ってもいい、誰かに預けるとはすなわち自由を奪われることと同義だと、昔の自分ならば言うだろう。

「……光くん、あの」
「ええから。少しぐらい黙っとき」

 閉じた視界の中で呟くと、腕の中のはそれ以上動かなくなった。
 それを平然と自分にさせる、そして拒まない恋人の存在を、大切にしろと白石は何度も口にした。鬱陶しいほど、聞き飽きるほど、何度も何度も自分の目を見て呟いた。くどいと忍足たちに呆れられたり罵られようとも、白石は決して自分の考えを曲げることはなかった。
 分からないでもない。頷いてあげてもいい。心の中の誰かは言っている。

(せやけど、俺は部長みたいにはできへん。あんなうまく立ち回ることなんか考えたこともない、俺は全部うまくなんかできへん)

 一般的にはどちらが正しいのかはよく分かっていない。ただ白石はすごいと思う、その感覚は誰かに否定されたとしても気分を害することはない。自分にできないことをしてしまう人間を敬う(という言葉はどこか浮いてしまっている気もしないわけでもないが)感覚は間違っていないはずだ。
 そうでなければ、今自分は他人であるを抱きしめたいと思うはずがない。
 しばらくの時を見送ったあと、財前はそっとを離す。少しだけ物足りなそうな顔を浮かべるに苦笑が零れるようになるのは後のことで、頭の中に在住できる考えはそう多くない。

「せや、渡すもんがあった」

 ふと思い出した紙袋が、途端財前の頭の中を占領してしまった。

「……渡すもん? なに?」
「土産」
「え? ええよ、って言うたのに」
「聞いとったけど、不可抗力やった。俺あの人たちには逆らえへん」

 を手離した手でガラス板のテーブルの上に載せられていた小さな紙袋を取る。用途の限られた、こんな時でなければ絶対に触れることはないだろうと思う小さな袋だ。それを無頓着に差し出せば、は目を丸くした。

「……お菓子とちゃうの?」
「菓子はいらんって言うとったやないか。なんや、いらんのなら別に……」
「いる、いる! ごめん!」

 は慌てて財前の手から紙袋を奪い取る。いつのまにかソファの上に正座をしているその姿はおかしかったが、その表情がどこか強張っている。背もたれに必要以上にもたれかかり、ぼんやりとその様子を見つめていた財前の口も思わず次の言葉をなくす。

「……でも、なんで? なんで」

 細長い箱だった。の指が箱に飾られた淡い桃色のリボンをほどき、中を光にあてればそこには銀色のネックレスがある。

『物にしか託せん時があるっちゅうこっちゃ』

 ショーケースを見つめて呟いた白石の言葉が、妙にしっくりとあてはまる空気。手に取ったあと何度も瞬きをし、恐る恐る自分を見つめてくるに、財前はようやく言葉の代わりに苦笑を零した。

「全国大会まで付き合うてくれた礼、やって」
「……やって、って」
「ごめん、俺にはまだよく分からへんねん。白石部長の言葉。悪い、俺はまだなんでに今このタイミングで礼っちゅうてこれをあげるのか、本当に分かってへん」

 素直に今の心境を呟く。はその言葉に害する様子は絶対に見せない。素直に頷き、自分もよく分からないという顔でただそのネックレスを見つめるばかりだ。
 白石と、小春。遠くで苦笑しながら見守っていた千歳たちの言葉の意味は、やはりこの場になっても分からない。

「せやけど、部長たちが言うから。間違ってへんはずやし、お前もあんま嫌がらへんかなあ……って」

 の様子を気にする言葉を口にして初めて、その表情を深く読み取ろうとする。真っ直ぐな視線にはすぐに首を横に振り、ただ「嬉しい」とだけ零した。
 喜んでくれている。それは分かる。だから白石たちが間違っていないことも分かる。
 分からないことが多すぎる自分というのも、分かる。

(ほんま情けない、俺)

 言葉を紡ごうとしているのかそれとも単に感嘆の(と自分で思うのもおこがましいかもしれないが)ため息をつきたいのか、よく分からない小さな唇の動き。手のひらに乗せられた銀色の輝きに幾度か睫毛が揺れ、はもう一度財前を見つめた。

「つけてもいい? 今」
「え? ……あー、ええんとちゃう」

 うまく言葉がでてこないのは自分も同じか、と心の中だけで苦笑する。
 は財前の思いに気づかないまま、そっと首の後ろの髪を流してネックレスをつけようとする。だが身内の自分から見ても到底器用という言葉と寄り添うことができないの手は、首の後ろから離れられそうになかった。

「……」
「仕方ないやんか、見えへん……」
「いや、別になんも」
「うそ。『不器用』ってその目で言うてる」

 よく分かっているではないか、と笑いたくなる心をぐっとこらえ、の様子を見つめる。結局不器用に飽きたという言葉を被せて、首筋を見ているだけというのに耐えられなくなった手が動くまでそう時間を必要としなかった。

「俺がしよか」
「え?」
「貸して」

 慌てるの手からネックレスを受け取り、向き合う姿勢のまま指をの首の後ろに回す。左利きの自分の融通がきくネックレスは、あっさりとの首にかけられた。
 自分の手で施した銀色の鎖。
 首元にそっと吐息が零れる。向き合う姿勢の近さに気づいたのはその時だった。

「……卑怯やなあ、左利きは。あーでも、光くんが左利きでよかったかも」

 不満と困惑と、付け加えていいならばそこに小さな歓心と。
 学校では絶対に見られない、見させない表情に心は簡単に悩みを忘れる。ひとつのことに集中したくなる頭が、首の後ろに回していた手でその小さな身体を引き寄せる。
 髪の中に顔を埋めるように、そっと閉じた視界の中で「なんで」と問いかける。

「だって、こうやってつけてくれるとなんか嬉しい」

 はにかむのが先か、熱い手のひらが自分の背中にそっと回されるのが先か。抱きしめてしまった自分はそれらを確認することができない。
 定説など知らない。常識など理解できているのかも分からない。今の自分が正しいのか、量ることができるのは自分ではないことは分かっている。だから白石の真意も分からない。
 一番よく分かったのは、その言葉ひとつで抱きしめる手を緩めることができなくなった自分の単純さだった。



「なにしとんねん、さっきから。はよ出かけるで」
「ちょ、待って。もうちょっと……」
「は? なにして……ああ、そんなもんいらんやろ。もう行くで、俺」
「アホちゃうの、あんた! どこに妻に向かってオシャレすんな言う旦那がおんねん!」

 ここにいる、と財前は兄と義姉のやり取りを横目で見ながら雑誌をめくる。
 右利きの兄と左利きの義姉はよく利き手の違いを会話にあげる。左利きの財前はよく義姉によって強引に騒動に巻き込まれるが、今日は女性に関わる内容のため一線をひくことができていた。
 に触れた感覚がまだ残る左手。ソファに深く腰かけるというその姿勢が同じことも災いして、すぐに頭の中が今日の昼まで逆戻りする。物足りなさも心の中で動いている気がする。こんな感覚にさせるために白石はネックレスを贈らせたのか、と左手のひらを見つめるが答えはでない。

「光くんからも言うたって、この人無茶ばっか言うねん」

 義姉が肩を叩き、視線を強引に兄に向けさせた。
 瓜二つだと母と義姉に言われる兄は、財前の視線を受けて肩を竦める。また始まった、というつまらなさそうな表情だ。これでいて次の日には見ているこちらが鬱陶しくなるほどの円満ぶりを見せ付けるのだから、大人というものは勝手なものだ。

「なんの話っすか。義姉さんのオシャレとか俺は味方にはならんでしょ」

 自分ともこうなるのだろうか、いやと義姉は絶対に違うと呟く心は見透かされていたのかいないのか。

「ネックレス」
「……え?」
「ネックレスのこと。分かるやろ? この右手に優しく左手に冷たいもの!」

 シャラリと義姉の左手から銀色のネックレスが零れ落ちる。自分がに贈ったものよりは数倍値の張るものだと一目で分かったが、その構造は昼間見たものとまるで同じだ。

「そんなん、慣れればええ話やんか。ちゅーかつけれへんのやったら買うな」
「なに言うてんねん、これ買うてくれたのアンタやんか」
「あれ。そうか?」
「もうええわ、光くんにつけてもらうで」
「は」
「はい、光くん」

 義姉は返答も待たずに財前にネックレスを預けてきた。兄は記憶の糸をたどろうと腕組みをする。ネックレスひとつにどうしてここまで熱くなれるのか、と愚痴を零したくなる弟の心など誰も読み取ってくれそうもない。

「……あ、あかんわ」

 義姉が呟く。とは違う、綺麗に化粧で彩れた顔に小さな困惑が浮かぶ。

「光くんにつけてもらおうと思たら、向き合わなかんのやね。あかんわ、ちゃんに怒られてしまう」
「……は? なんでが」

 見上げて尋ねると、義姉は小さな笑みを見せつけた。

「『お前は俺のもん』って言うてるみたいやろ?」

 右利きの兄は、一向に会話の流れに興味がない。そっと呟いた義姉の言葉に思わず言葉をつまらせるのは、ただただ財前ひとりだけ。
 硬直した義弟に何を思うのか、義姉は至極満足のいったという表情を浮かべて兄のもとへと去っていく。

「ま、それを嬉しがるような男にならへんと格好よくないで、光くん」

 リビングの去り際、顔だけ覗かせた義姉の言葉が最後の言葉だった。
 誰もいなくなったリビングで、雑誌を落としていたことに気づいたのはしばらくしてからのこと。身体が動くことよりも心が動いて重い瞬きをひとつした時に初めて呼吸をしたかのような息苦しさが残る。

(……それを自分は経験しとったってことですか、部長)

 白石の高笑いが聞こえたような気がして左手を見つめてしまう。
 同じ道を無理やり辿らされている。白石にはやはり勝てないのだと痛感させられる。それは誇らしくもあり、同時に情けなくもある。敵は手強いとつくづく思い知らされて、ため息が零れそうになってしまう。
 それでも、左手は昼間の熱を思い出して頬を緩ませるのだ。



10/05/05