白い糸 25歳

 好きになって目で追って、名前を呼ばれて内心喜んで、けれど彼の軽薄じみた性格にどうしても尻込みをした。彼に黄色い声を上げる錚々たる顔ぶれに、学校内のヒエラルキーを思えば気持ちを飲み込むことなど造作もないことだったのだ。それでも自分の名を呼んでくれる関係を手離したくなくて、彼にとって都合のいいクラスメイトであろうと願っていたのは、もう10年前。
 それは入学当初から始まっていた、こちらからの片想いが正解だったのだと、もはや誰が信じてくれるというのか。

さん」

 自分のことをそう呼ぶ人間が増えた。呼ばれるたびには当たり前のように顔を上げ、相手を見つけて手を上げるなり会釈をするなりして自分を見つけてもらう。人は自分の名前を呼ぶ時、案外こちらのことを見ていないものだと気づいたのは社会人になってからだろうか。最近では下の名前で呼ばれることも少ない。、と自分のことを呼ぶ親しい仲間たちとはとことん違う道を辿ってしまった上に、会社と家との往復な毎日の生活の中では名前で呼ばれる機会を作ることも難しくなっていた。

さん、今度のテニス部の応援なんだけどね。人数ちょっと足りないらしくて、行ってあげてくれないかな」
「テニス部ですか? 分かりました」

 何事も二つ返事で快諾してしまう自分という存在は、会社にとって非常に便利な存在なのだろう。名前を呼ばれることはとても多かった。だが事務的な響きが漂う呼ばれ方に何かを感じることはない。そして上司も無理な仕事を与えることはない人だったのがありがたい点だった。

、知ってた? 最近うちのテニス部結構強いらしくて、試合が多くなってるんだって。いい出会いがあるかもよ」

 キャスターの音を小気味よく響かせて、同期入社の親友が笑いながら耳打ちする。思えば名前で呼んでくれるのはもう彼女だけかもしれない、と下の名前で呼ばれるくすぐったさにも笑って手元の書類で軽くその腕をはたいた。

「じゃあ代わってあげるけど。というか一緒に行く? はい、総務提出の申請書。数えておいたよ」
「助かるー、ありがとう。……じゃなくて、せっかくだから出会いでも見つけてきたら? 総務の男の子から告白されたけどまた振ったんでしょ」
「よく知ってるね」
「噂だもん。さんは絶対に彼氏がいることを隠している。なんて言われ続ける独り身のご意見は?」
「変な手間が省けてとても有難いことです」

 ため息が聞こえた気がしたが、はさほど気にせずデスク脇の仕事を片付けることに集中した。
 入社して3年目の初夏だった。2周の経験を積んだ仕事はある程度要領を得ていて、効率性を求める楽しみも増え出している。総務部との連絡窓口になっている親友の仕事を手伝うのも他部署の仕事が分かってわりと楽しく、総務部に顔を出す機会が増えていた矢先に後輩から告白されたのはつい先週のことだ。
 さん、と彼は呼んだ。付き合ってほしいと頼まれた。
 どこかで聞いたことのあるフレーズに少しは嬉しくなったが、は冷静に小さな謝罪とともに断った。総務部の中でも可愛がられている2年目の男性だということは知っていたし、それを振るのはもったいないとさきほど同期の親友に暗に伝えられたことにも気づいている。けれどは後悔することも引きずることもまるでなかった。告白を断ることに心が痛むこともなかった。

さんって呼ばれたって、何も特別じゃない)

 エンターキーを押し終わった手が止まる。というフレーズが特別でなくなってしまった場所で、胸が高鳴ることはほぼありえない。自分は何を求めているのだろう、と窓の向こうの青空を見つめて考えてみるが、既に答えを出したくなる高揚感は失せていた。
 このような突き抜けた青空の下で親友たちとはしゃいだり、瞬時に真剣な表情になってテニスをしたりする人は、もう自分の名前を呼んでくれなくなっていた。


 かつて、そのように自分のことを名字で呼び続けた男子がいたことは忘れていない。
 彼はさも当然かのようにという名字で呼び続け、声を聞かせ続けた。こちらが一方通行の恋愛感情を抱いていたことを、知ってか知らでか。

「ねえねえ。俺の今日最大のお願いを聞いてよ」
「朝会って最初の一言目がそれ?」
「だから最大のお願いって言ってるじゃん」
「千石の最大は1日に何回出てくるの? ていうかもう使うの? はい、ノート」
「あー、もうさすがだね。分かってるねえ!」

 思えば彼が自分の名前を呼ぶ回数はとても多かった。会話の始まりに必ずそちらを向くよう呼びかけるだけで終わらない。会話の端々に、まるでいつまでも視線を外すなと言わんばかりに名字を呼ばれたと思う。がふと意識が違うところに向かいかけるその瞬間を、彼は決して許そうとしなかった。

の字は綺麗だから読みやすくていいよね。時間がなかったから一回だけ南に借りたことあったんだけど、眠くなった時の字といったらひどいんだよ、あいつ」

 常に呼ばれ続けると当たり前のようになる。中学3年の初夏、夏服に衣替えが終わった頃に隣同士の席になった彼はよく宿題を写させてもらえるよう頼んできた。ユニフォームを着替えて白い制服姿で笑いかけてくるその表情はまるで犬のようだった。
 日々夜近くまで練習し、また早朝練習が当たり前のテニス部のエースである彼は、宿題を家ですることの方が少なかったように思う。大抵授業中にそのまま解いてしまっている。その小さなルール違反に気づいてが目を丸くすると、彼は笑って人差し指を口元に立てた。授業が終わるまでまだ10分以上もある時で、そして授業終了間際に教師が指定する宿題の箇所は大抵彼が解き終えた問題の箇所だった。ラッキーでしょと笑って言った。だから、に宿題を写させてくれと頼むのは彼のラッキーが当たらなかった翌朝の出来事と相場が決まっていた。

「俺の法則を破るとか、珍しいことをしなくてもいいのにさあ。というか俺だけ特別待遇ってできないのかな、一応テニス部のエースなんだけど」
「法則? なにそれ」
「大体先生ごとに宿題の出し方って決まってるじゃん。そういうの見抜くの得意なんだよね、俺」

 彼の言う「ラッキー」が適当ではない、人任せではないと気づいたのはその頃だったかもしれない。笑いながら誤魔化していたけれど、どうやら彼なりの緻密な計算が裏にはあって、よくよく見ていると日常生活の行動は全て適当ではなくそれなりの理由があるようだった。意外だな、と様々な行動に目を丸くするを見つけるたび、千石はただ笑うだけだったが。
 千石清純という人間を知らない者は、山吹中の中にはいなかったように思う。
 際立つオレンジ色の髪、あっけらかんとした性格、そしてテニスの腕前。スポーツ推薦で入学してくる者も多いこの学校で、彼が人気を集めるのは当然だった。目立つことが嫌いじゃないのか、学校の活動でもとにかく千石は目立っていた。体育祭やスポーツ大会で彼の活躍を聞かないことはなかったし、実際彼の人懐こい性格を毛嫌いする類の女子でもスポーツをしている姿を見れば感嘆の声しか上げない。普段から好意をむき出しにしている女子であれば尚更だ。テニス部の仲間だけでなく上級生にも下級生にも、男子にも女子にも好かれ、亜久津が彼と当たり前のように話している姿は一種の感動すら覚えさせた。

「千石って、真面目だよね」
「それ褒め言葉?」
「たぶん」
に言われたらありがたく受け取っておこうかなー、いつも宿題ありがとうございます」

 だから千石は、女子との付き合い方にも慣れていた。彼がよく引き合いに出すテニス部部長の南とは対照的で、必要最低限の会話しかしない南とは異なり誰とでも分け隔てなく、広く浅く女子との会話を楽しむ姿は校内のどこにいても見られた。校外でもそのようにしているらしいということは、千石と隣同士の席になってしばらくしてからテニス部女子の親友に聞かされたことだった。

「氷帝の子と仲良くなったんだったら、勉強教えてもらったらいいのに。向こうの方が賢いでしょ」

 一度だけ、皮肉交じりにそう呟いたことがある。ノートを受け取る寸前だった千石は目を丸くしたが、すぐに笑い声を上げた。

「なに、どこから聞いたのそれ。意外だなー、が噂好きとは。結構そういうの気にしないタイプだと思ってた」

 久しぶりに彼のラッキーが当たらなかった翌日、予想外のところから飛びだした理科の宿題をさらさらと写しながら千石は笑う。その笑みはどこに由来したものなのか、若干は苛立たしさを覚える。

「噂っていうレベルじゃないから知ってるのに。というか別にいいんでしょ、千石は。女子と仲良いことがばれても」
「うん、別に気にしないけどね。下心も特にないし」
「……ないの?」
「見識を深めるってやつ? 色々な子知っておいた方が、特別な子を見つけるのが楽しいでしょ。ね」

 深い意味は尋ねなかった。尋ねられなかったというべきか。1時間目の教師が入室しても千石がを向いて笑ってくれていた事実に、返す言葉を見つけることができなかった。

(見識深めるって。なにそれ。……まだ本当に好きな子はいないっていうこと?)

 こっそり下心を抱いているのは実は自分の方だと気づかれるのが嫌で、はすぐに千石から視線をずらす。教師の登場で喧騒が去った教室の中で勝手に頭を悩ませていると、左腕を冷たい何かがとんとんとつつく。
 頬杖をついた千石が教師の隙を見つけて返してきたノートには、ありがとうと無骨な字の落書きがつけ加えられていた。
 そんな生活が続いて、1ヶ月も経った頃だっただろうか。梅雨の終わりが近い学校内は随分と開放的に、テニス部はますます集中的に練習を行うよになっていた時期だった。授業が終わるとすぐ部活に行ってしまう隣人の姿は見慣れたもので、別れの挨拶をかわさないことも珍しくなくなっていた。顔を上げれば既にいないのだから仕方ない。すぐにやってくる明朝また笑顔を向けられるのだから、気にしない。そんな生活が続いていた頃の夏休みに入る直前の出来事を、は今も忘れることができない。

「俺だって好きだったんだよ、ずっと。彼女になってよ、俺だけの」

 どんな女子にも同じ笑顔を同じ声のトーンで向けることが当然だったクラスメイトの、初めて見る顔だった。直前に握りしめられた手首は痛みと熱の両方を訴えていた。見ているよりも大きく感じられて力強かったその手は、おかしなほどに縋りたい気分を増長させる。向けられた言葉の特別な響きは、片想いで終わる覚悟をしていた人間には罠でもあるのかと勘ぐってしまいそうなほどだった。
 それが千石清純という人間に特別な想いを抱き続けていた人間のなれの果てだと気づいた時、けれどは、

「無理だよ、できない」

 咄嗟に口にした言葉に誰よりも驚いたのは、外ならぬ自身だっただろう。甘えてしまえばよかったのだ、自分の不安や醜い嫉妬などすべて打ち明けてしまえばよかったのだ。しかしそれに気づいたのは、彼の告白を拒絶してすぐに夏休みに入り、席替えをして、会話をすることがなくなってから。
 、と何度も呼んでくれる千石の姿を見失ってからだった。

「もしかして、って誰かのこと引きずってるの?」

 そう尋ねられたのは、上司に頼まれたテニス部の試合の応援に繰り出した朝の出来事だった。
 何の因果でテニス部なのか、とその時になってようやく気がつく。いや、上司にテニスという言葉を聞かされたからこその最近の悩みだったのだと今更気がつく。中学時代も高校時代も遠くから見つめるだけで無縁だったテニスコートの会場は、思っていたよりも大きく広い。中学時代、横目で眺めていたテニスコートはもっと小さかった。フェンスで仕切られた小さな世界をより小さく感じさせていたは、そのコートに立つ彼の存在感のせいだったのかもしれない。

「どうして」
「誰に告白されても振ってるし。だからって飲み会に行ってるわけでもないし。そう考えるのが普通だと思うけど」

 テニスにはとんと興味がなかったが、これもきっかけだと親友は付き添いではなくむしろを連れ出す形で一緒に応援に来ていた。妙に尻込みをしていると疑いの目を向けられて、テニス部に何かがあるに違いないと自信満々に言う親友にはただ笑った。

「まあ、何もなかったわけじゃないけど。でももう昔の話だし」
「やっぱりあるんじゃない。教えてよ、聞かせてくれたら案外すっきりするかもよ。答えが出るとか」
「答えを出したって」

 伝えるべき相手は、もう自分の名前を呼んでくれない。どのような感情からか分からないが一度だけ近づいたあの綺麗な顔に、触れることはもう許されない。騙されてもいいから自分のものにしてしまえばよかった、千石のものにしてもらえばよかったと思うことだけは得意だったが、伝えることはどうしてもできない10年だったのだ。
 緑のコートによく馴染んでいた山吹中のユニフォーム。時には白い制服姿のままでふざけながらテニスをしていた。一応退部という形になっていた亜久津を無理やり連れ込んでいたのも一度や二度の話ではない。それらはもう名前を呼ばれなくなった時期の出来事だったが、だからこそ余計に目で追う生活を続けていたことを、コートに立つ彼は気づいていただろうか。

(気づかないよね。自分のことを振った人間なんて、興味ないんだろうし)

 その後のテニスでの活躍を思えば、自分という存在を回顧してもらうことなどおこがましい。広い東京で何の因果か、女子と連れ立って歩いている姿を見つけたのも一度や二度ではない。今更自分がテニスに関わる選択をしたところで、あの10年前、5年前の出来事を手繰り寄せて謝って、本心を伝える権利など千石が許すはずもないのだ。
 始まるよ、と親友が呟いた一言では顔を上げ、目に眩しいテニスコートをもう一度見つめる。引きずることしかできない、抱きしめることもできない思い出ならば、気づかないふりをしてその辺りに捨ててきてしまおうか。新鮮なようでどこか懐かしいコートや社員のユニフォーム姿を見つめながらぼんやりと思ったその時に、あの色は視界に飛び込んできた。

(まさか)

 そこで息を飲んでいるのは自分だけだ。なぜならそこは相手テニスコート、応援席からは見づらい斜め向こうで、自分の周りの誰も視線を向けるような場所ではない。特にテニス部の応援の常連でなければ尚更、相手チームに先に興味を示してどうすると言われるのが落ちだ。しかしは視線を外せない。それはまるで、あの時カフェで彼の後ろ姿を見つけた時のように。
 かつて自分が通った中学校の制服を思い起こさせるような白いユニフォームだった。目を奪われたのはそのためか、それとも。

「あー、ねえねえ。知ってる? 向こうのチームで結構有名な選手がいるらしいよ。昔、日本代表になったことがあるとかないとか」
「へえ……」
「テレビでよく見るわけじゃないから有名じゃないのかな」

 違うよ、と言葉に出すタイミングはなかった。有名だったよ、と教えたくなる感情をどのように扱ってよいか分からなかった。
 その鮮やかな橙色の髪は、夕暮れに染まるコートに同調しているようでよく似合っていた。どこにいても聞こえる笑い声は、人を和ませることに長けていた。明るい髪色に明るい性格には、その白い服装がとてもよく映えていたのだ。

(千石)

 心の中で呟くだけで想うだけで精一杯だった人のことを何だと思っているのか。いつもこちらの心構えなど平気で無視して自分の感情をさらけ出してくる千石清純という男は、その日も当然のようにに気づいてしまった。あの山吹中学での毎日のように、あのカフェテラスでの日のように。
 最初こそ見間違いとでも思ったのかすぐに視線を外されたが、しばらくして今まで見たこともないほど驚いた顔をして応援席を見上げてきた。昔であれば名前を呼んでくれたその瞬間も、10年という時を経ると妙な沈黙で埋められる。そうさせたのは自分か相手か、答えを言い合える距離でも関係でもなくなっていたが。
 ただ、その後の試合は見事だった。まるで山吹にいた頃を彷彿とさせるような歓声の似合う男の試合だった。テニス部に所属している段階でそのレベルを推して知るべきだが、その中でも千石が群を抜いていることだけは贔屓目でなくともよく分かる。相手チームの勝利に沸く試合会場で大げさなため息をつく親友とは裏腹に、は心の中で拍手を送る。千石がこちらを向いてくれる瞬間もあって、手を振りたくなるのを必死で堪えた。過去に、千石の優しさに甘えて良い時期はとうに過ぎている。
 それなのに、今日最も活躍したであろう相手チームのユニフォーム姿の男は、さも当然のようにの会社側の応援席にやってきた。

ー、久しぶり」

 その声で呼ばれなければ、もうこの心は喜ばない。どれほど上司が、自分のことを好いてくれた後輩が呼んでくれようとも、その声の持ち主には全く敵わない。
 千石、と声を出すことも、隣の席でぎょっとしていた親友に説明することもできず、はただ頷くばかり。その反応が懐かしかったのか、千石は大きな笑い声を上げて「昔のままだね」と屈託のない表情で手招きをした。
 中学生の時は、その優しさが自分だけに向けられているとは思えず拒絶した。大学生の時も、片想いだったことを見透かされて笑われているかのように感じて拒絶した。では今は。

「珍しい。今日は来てくれるの? 昔のは俺が近づいたら怒ってたくせに」

 それは、と否定する息苦しさを見抜いているのか、千石は笑い声で沈黙を埋めてくれた。優しさがそこかしこに溢れていて、自分は一体この人の何を見ていたのだろうとこの年になってようやく気がつく。の会社のテニス部員が声をかけたら笑顔で返し、千石の会社の女性社員が名前を呼べば適当に返す。上辺は丁寧に取り繕いながらも、その目は決してを視界から外そうとすることはなかった。それは中学の、隣の席の時から続いていた懐かしい感覚だったのだ。

「ねえ、。10年待ったんだから認めてくれる?」
「……なにを?」
「認めてくれないと、俺もう用意する言葉プロポーズしかなくなるよ」

 敗北に沈んだ会社の応援席に突如として現れた対戦チームの鮮やかな白色のユニフォーム。まるでそれは中学時代、彼が窓際の席で着こなしていた山吹の制服と瓜二つだった。過去を引きずってもよいと認められているような濁りのない白だった。
 は答えなかった。ただ俯いて涙を堪えることに必死になって慌てて髪を耳にかけると、「変わらないね」と千石が笑ってくれた。

「それで、返事は?」
「え?」
「俺告白するたびにいつも振られてきたんですけど。今日もはぐらかす気? それとも怒って帰る?」

 コートと黄観客席を仕切る塀に両手を預けて、千石は笑って尋ねる。思えばその通りだった、いつも二人きりになった大切な瞬間に、彼はむき出しの好意を伝え続けてくれていた。そこに踏み込めない自分の意気地のなさを責められてしかるべきところを、千石は今日も笑っての返事を待つ姿勢を見せてくれる。

「それとも、本気でプロポーズされたい?」
「千石!」
「あはは、冗談冗談。うん? 違う違う、冗談じゃないよ。俺次にに会えることがあったら、結婚をお願いするしかないって決めてたからね。返事ぐらい聞かせてよ、次の作戦が練れないじゃん」
「……振られたらどうするつもりだったの」
「もう略奪しかないよね、それは」

 真顔で呟く言葉は、懐かしい人の顔から零される。耳に優しい懐かしい声で、まるで台詞を読み上げているかのような淡々とした空気をまといながら。けれどその目がいつまでも自分から離れないことを今日まで知っているのは、だけだった。
 早く、と急かす千石は少し珍しかったかもしれない。こちらの心情を考慮しない言動は相変わらずだったが、その日彼はいつまでもの次の行動を待ってくれていた。そこでが逃げない限り、いつまでも千石はテニスコートから離れようとしないだろう。視界から自分を消してしまわないだろう。
 それが痛いほどに分かる10年という月日は、そこで千石に抱きつくという選択肢以外を認めようとしなかった。

「千石ー! 写真撮影するんだから早く戻ってこい!」

 今日もお前は、と相手コート側から怒声が響く。途端には千石から腕を離したが、手首は逃げ切ることを許されずあっさり捕まった。慌てるなどお構いなしに、千石は向こうに軽く手を挙げるだけ。部長に怒られる姿も動じない姿も中学時代そのままだが、今の部長の方が南よりも若干千石に厳しいらしい。何度も怒声とともに催促されて、やれやれと千石は小さく息をついた。

「彼女そっち連れて行っていいですかー、部長」
「冗談言ってないで早くしろ。そもそもそっちじゃないだろうお前の会社は!」
「冗談じゃないんだけど」

 この年になっても相変わらずなのか、と部長らしき人の辟易した態度にが疑惑の目を向けると、千石は「懐かしいな、その目」と笑った。

「昔のままでに告白した方が、俺の片想いを分かってもらえるかもってね。ほら、俺適当じゃなかっただろ?」

 はいはい、とおざなりな返事をして千石はそっとの手を離し、コートに戻っていく。遠ざかるその背中を、は慌てて見送る必要はもうなかった。
 手元には千石のタオルが、後で取りに来ると言わんばかりに預けられていた。



21/06/15再録