永遠聖域

 限られた視界の中で見つめることができたものは、たったひとつだった。
 けれどそのたったひとつが、俺にはとてつもなく大きくて重い。愛おしいと同時に不安も招き寄せるそれは辛くてどうしようもない。そんな自分の想いをどうにかしようと思えば思うほど、自分が望むのはそれを抱きしめることだけで、そうなれば結局はエゴの押し付け。結果的には自分勝手極まりない自分の姿を見せ付けられているような、そんな気がしてたまらない。
 だから、俺にはそれが限界だった。限界だったけれど、それが嬉しかった。
 彼女の後姿だけは、俺の勝手な気持ちを認めてくれているような気がしていた。

「あ。また」

 ひとつだけ、その背中に口付けの跡を残そうとするとすぐにお咎めの声が飛ぶ。
 綺麗に浮き出た肩甲骨がかすかに震える。俺はその小さな反応が妙に嬉しくて、思わず首筋に噛み付くようにキスをすれば、調子に乗るなと言わんばかりの手が飛んできた。もちろん痛みを伴うような、そんな乱暴なものではなかったけれど。
 どうしてこんな色になるのか、同じ人間なのにまったくその構造がわからない薄い色素のその背中。テニス部のおかげで見事な健康色に恵まれている俺からすれば、その白さは贅沢品だった。白はどことなく薄命というか、儚さを抱かせるには十分すぎて、俺はいつもその背中をなくしてしまわないように抱きしめたくてたまらなくなる。それは単純な性的な欲求というよりも、失うことを恐れる子供のような心境に近いと思っている。

「……いつまでそうしている気?」

 だから、そんなわずかに不機嫌な声が飛んできても、俺はけして自分の腕を解こうとはしない。その温もりをやすやすと手離すこともしない。いつもこの繰り返しだった。
 正直な話、俺はマニアックなんだと思う。
 女のどの部分が好きかだなんて、聞き飽きるほどに議論したテーマだった(だって俺たち健全な男子テニス部員)。むしろこういうネタは南をからかうにはもってこいで、進んで話してたような記憶がないわけでもない。さりげに亜久津が参加してたあたりに俺はテニス部員の仲間の結束を見た(そして誰もが南を攻撃の的にしていた事実に、山吹中学男子テニス部の明るい将来を確信した)。
 俺の回答はといえば、まあそれこそ適当に脚なりなんなり答えていた気がする。
 でも所詮それは仮想上の話。あくまで顔の見えない、むしろ適当な誰かを例にして挙げただけの嘘っぽい答え方だった。
 そう、俺の本音は。

「物好き」

 呆れた表情でそんなことを言われようとも、絶対に引き下がらない。むしろ最愛の感情を込めて、絡めた自分の指をますますきつくした。砦を堅固にして、中に閉じ込めた彼女が逃げられないように。
 輝く夕陽の彩りを受ける樺色のベッドの上、睫すら影を生み出すほどに傾いた太陽が暖かい時間だった。制服に手を伸ばしかけていた彼女を慌てて後ろから抱きすくめ、静かに、けれど延々とその温もりを享受させてもらうようになってから時間はかなり経っていた。肌寒さとは無縁の初秋とはいえ、それでも物好き呼ばわりされるほどの時間が流れていることだけは俺は認めなければならなかった。

「子供みたいだよ、清純」
「いいよ、子供で。それでこうしていられるなら。喜んで子供でいてあげるよ」
「もっと利口な言い訳はないのかなあ」
「言い訳なんてするようなもんじゃないから、それでいいよ。ていうか違うな、言い訳してる暇ないんだ俺。くっつくことに忙しいんで」

 そう言い返すと、腕の中の恋人は小さくため息をついた。少しだけ揺れた肌のその感覚に、ただ俺は頬を緩ませる。
 俺はなんだかんだと言いながら結局優しく接してくれる彼女に心の中でありがとうを言い、背中に頬をつけたままそっと目を閉じる。思い出という名の記憶は、そうするだけであっさりと戻ってきてくれた。
 というクラスメイトとは、最初は本当に無縁の間柄だった。
 3年生になるまでは一言も口をきいたことがなかったし、お互いその存在をきちんと認識していたどうかすら怪しい。俺は一応テニスのことで学校内では名前は通っていたけれど、それすらも所詮の興味という対象から外れていれば、Jr.選抜という肩書きも何の意味もない。言い返せば、それほど俺たちの間にあるものは何もなかった。むしろそれが自然なことだった。
 付き合うことになったと告げた時、面白いぐらいに南は絶句していた。いつもどおり呆れられるのかと思いきや、あまりに予想できないことだったらしく、後日談本人曰く呆れることすら忘れていたらしい。それは端的に事実を表しているな、と俺はぼんやりと思った。

「本当に、そこが好きだよね。清純は」
「ん?」
「背中。そんなに綺麗でもないのに」

 もう抵抗することにも疲れたのか、はシーツを手繰り寄せながら俺に背中を預け、うつむきがちに苦笑して呟いた。流れ零れた髪の隙間から覗くうなじの白さに眩暈がした。
 そこで「綺麗だよ」なんて、浮ついた台詞を用意することは簡単だった。不可能ではなかった。なぜなら俺たちは、今思い出せば顔をうずめたくなるほど恥ずかしいような言葉と行為を何度も、何度もこのベッドの上で繰り返していた。今更という感が拭えない、だからこそその言葉は別段おかしな意味を伴うものではなかったはずなのだけれど。

(……言えるわけないよなあ)

 俺は無言のまま、背中にキスを落としながらそっと思う。
 俺にとって背中は特別だった。それはという限定の人にしか用いたことのない感情ではあったけれど、それでも俺にとっては本当に、背中は愛しいものだった。

「まあ、いいじゃん。減るもんじゃないし」
「言い訳の仕方がどこか的外れだと思うのは私だけ?」
「いや、俺もそう思う。正解」
「適当だなあ、もう」

 その言葉に苦笑こそ含まれるが、けして蔑むような色合いは込められていない。むしろ俺の執着を理解し、思うが侭にさせてくれているの心情それ自体に触れるたび、俺はいつも、いつも言葉につまった。ふさわしい言葉というものが分からずに。自分の本音をストレートに表現できる、屈折も隠蔽も何もない、気持ちそのままを伝えられる言葉が見つけられずに、いつも黙るしかなかった。
 今日も完敗だ。そんなことを思いながら、見つめる先にあるのはただひとつ。視界をあっさりと占領し、何もできなくさせるものはただひとつ。
 そこは、唯一俺の片想いを認めてくれた場所。
 俺にとって、女子との交際関係に恋愛感情は大して必要じゃなかった。それが常識から外れたものかもしれないということは重々分かっていたけれど、それでも俺にはそれが不可能ではなかった。表向きの「千石清純」の性格はあっさりとそれを肯定してくれていたし、なによりその方が疲れなかった。執着という感情を覚えるのはテニスだけで十分だった。それで俺は、満足していた(言い訳しておくと、常識を疑うレベルの付き合い方や人数はこなしていないはず)。
 だからこそ。だからこそ、この背中はものすごく重みがある。

「……あれ、なんだっけ。この跡」

 視界の片隅に申し訳程度に映った痣のような跡を指でなぞれば、わずかに振り返るようにしてが答えた。

「自分でつけた跡すら覚えてないの? 私いつも困ってるんですけど」
「……あー。そういえば。こんなに時間が経っても残ってるなんて優秀だなあ俺」
「褒めてない、褒めてない。なに自分で感動してるのよ」

 そこは左肩甲骨の斜め下。この体勢からでは見にくい場所につけられたその跡は、確かに1週間前の記憶を手繰り寄せればあっさりと合致してくれる。あれは、そう、確かうつ伏せになっていたの背中を見て、いてもたってもいられなくなった時。でなければこんなところには跡をつけるなんて不可能だった。
 俺はその跡を見つめながら、今日もまた実感させられる。
 本当に、この場所は特別すぎる。かけがえのないものすぎる。
 今まで丁寧な恋愛をしたいと思わなかったわけじゃない。何度もその気になれそうな女子はいたし、自分から触れ合いたいと思った女子だっていた。実際その子たちと付き合っていて、楽しくなかったと言えば嘘になる。けれど俺は、いつもタイミングを見逃していた。そして誰とも長続きしなかった。それで困ったことはなかった。悲しくもなかった。
 だから、最初。を好きになるなんて予想もしていなかった頃。ただ視線が移動するだけだとか、それは単に恋愛感情とは無縁のものだろうなんて勝手に決め付けて、そして見つめていた頃。その背中は、いつのまにか理由もなく視線を奪ってやまない場所になっていた。
 この背中は、俺の片想いの時間を知る唯一の場所だった。興味がより深い関心へ、そして恋愛感情へと変遷していく様をすべて見抜いていた、たったひとつの場所だった。だからこそ大切すぎて、俺はいつも抱きしめては口づけて自分の跡を残そうとしてしまう。

(不安なんだろうな。こんなこと、今までなかった)

 たいていは首筋や胸元につけていくのだろう、いくつもの赤紫色の跡を今の背中に見つけていると、そんなことを思わずにはいられない。それが独占欲や所有欲を端的に表したものだと分かっているからこそ、なおさらそう思ってしまう。
 俺はじっとその跡を見つめた後、そっと苦笑した。

「なに笑ってるのよ」
「いや、なんでもない」
「……それが目に涙をためながら言う言葉?」
「なんでもないって。あーほら、そんなに振り返ると胸見えるよ」

 慌ててがシーツを手繰り寄せなおすのを笑って見つめながら、俺は心が途方もなく嬉しさで温かくなるのを感じていた。言葉にできないぐらいの嬉しさだった。
 俺は、相変わらずこの子の前では何かを恐れている。かつて自分の本音を真正面からぶつけることにためらわずにはいられなかったあの頃と同様、俺の心には何かいつも不安のようなものが渦巻いていることを知っている。
 もちろんが好意をもってくれていることも、俺の心が過去とは比べ物にならないほどに揺らがないことも、分かっていたけれど。それは自惚れながらもそう理解していいだろうと、暗黙のうちにも認めてくれていたけれど。
 けれど、俺にとってこの背中は、けして裏切ることはできない。というよりもむしろ敵うことのできない、そんな場所であることには違いない。
 背中しか見つめていられなかったあの頃の記憶は、苦くて、少しだけ優しい。
 自分で自分の感情に名前を付けられなかった頃。今まで体験してきた感情と酷似するものだとしても、そのあまりの深さと重さに眩暈がしそうで、必死に恋心を否定しようとしていた頃。のめりこむのを怖がっていた頃
 そんな時期の俺の姿を見続けていたこの背中は、いまや俺のに対する気持ちがどれほどのものなのかを証明してくれている相棒のようだ。
 それと同時に、そんな情けない姿ばかり見せてしまっていたこの背中には、俺はやっぱり敵うことができないと思う。考えればたったそれだけのことだった。

「……でもねえ、清純」
「なに?」

 俺の思考回路の中に溶け込んでくるその声は、今日も変わらず柔らかい。どんなに怒声を発しても、この場所で誰にも聞かせないような声を零してくれたとしても、いつもの声ほど俺の心をゆっくりと抱きしめてくれるものはない。
 そう、思えば。俺が恋をしたのは、教室にいた「いつも」ので、堪えきれないほど見つめつづけた背中があったのは、日常の風景の中なのであって。
 そんな俺の心なんて知ってか知らずか、はその声で淡々と会話を進めた。

「人って本能的に背後を守ろうとするでしょ? ほら、レストランの中で壁際に座りたがるとか。あれって古来からの狩りの習性なんだって」
「へえ(……長くやりすぎたかな、お説教かな)」
「背後を完璧にしてから攻撃するのが一番被害が少なくて済むじゃない。逆に言えば、敵の背後をつくのが一番効率がいいっていうか。だから皆壁際が好きなんだってね」
「ふうん(じゃあ俺は背後を狙う動物同然か)」
「だから、やっぱり教室とかでも一番後ろの席がいいじゃない。背後に人の気配を感じなくていいっていうのは、それだけでストレスを減らしてくれるものだし」
「そうだねー(いやそれは困る。俺的に困る。……あ、いや、余計な敵を作らないで済むのならそれがいいのかもしれないけど。いやいや、でも)」
「でもね」

 目の前の髪の毛をいじっていたら、ふいに手から離れていった。俺が少しだけ目を丸くしたその時、はいまだ囚われの身のままで振り返って、けれどかすかに笑って、こう言った。

「清純に背中を預けるのは、嫌じゃなくて私。むしろずーっとくっついていたい。ごろんって。ダメ?」

 拘束の手を必要としなくても舞い戻ってくる重さ。鎖骨の上をなぞって遊ぶかのように流れ落ちていく柔らかい髪の毛。
 そして、俺の心を安心させてくれるかのようにそっと指に口付けてくれた、その感触。
 俺は、表情が見えなくてもそれでも確実に自分の目の前にいる感覚、そして過去の記憶と比較できないぐらいに胸が嬉しさで苦しくなるその感覚に眩暈すら起こしかけながら、ただそっと。そっと、の背中にもう一度だけ口付けた。
 背中を預けても不安にならない相手だなんて、それは俺にとって最上の褒め言葉。
 そして聖域と信じてやまない場所を見つめて守りたいと思った、そんな想いに対する、例えようのないほど、比べようのないほどの嬉しさと喜びをもたらしてくれる言葉。
 俺たちは視線を交わすことは少なかったけれど。けれど、ただ温もりを共有しているその事実があるだけでなぜか嬉しかった。それは説明することのできない、けれど完全に成り立ってしまっている2人だけの特別なシステム。

は言葉の使い方がうまいよね」
「うん? 何か変なこと言った、私?」
「分からないならいいよ」

 むしろ分からない、無意識の産物であればあるほど、その存在はますます俺にとって奇跡に近くなる。それだけのことだった。
 奇跡といっても、けして手に届かないようなものではない。ただ俺が限られたもの以外に有意義なものを見つけてこられなかった日常の中で、と偶然同じクラスになってその背中を見つめることができた、自分の想いを認識することができたその事実に感謝の気持ちを抱く。その結果が奇跡という言葉なだけであって。
 そして俺は、今日もまた温もりを抱きしめて背中に口付ける。
 そこは、出会えた奇跡と、大切なものを増やしてくれたに対する感謝の気持ちを込められる最大の場所だった。



04/04/16