Transparent Filter

 あの部屋が威厳をもつようになったのは、部屋の主が交代してからだと誰もが言った。
 私はそんなクラスの女子たちの、半ばミーハーな色を隠しきれていない会話に興味を向けるでも非難の目を向けるでもなく、手元にある書類を一瞥した後に窓の向こうを見つめた。
 青葉薫る初夏、生徒会室は今年から女子たちの憧れの部屋になっていた。



 憧れと言うには少し語弊があるかもしれない。むしろ憧れの一言では済まされないのかもしれない。
 廊下から流れ込んでくる涼しい風もそのままに、廊下ですれ違う友達との挨拶も適当に。私は学級委員から渡された書類を片手に、昼休みの開放感に浸っている3年生の教室の前を通り過ぎる。途中、笑い声の絶えない6組や誰かが暴れている4組の前を通った時、そういえば彼らはあの人と同じ部活だったな、と頭の片隅でなんとなく考えていると、2組では穏やかに今度の体育祭の種目決めをしている優等生の姿が垣間見えた。キャラの濃い部活だと改めて思った。

(そういえば、あの人たちも人気者だったっけ)

 小学校の頃まで1学年4クラスが当たり前だった私にとって、1学年12クラスというこの青春学園は少し規模が大きすぎるといつでも思う。ただでさえ同級生のほとんどが初対面の人間ばかりなのに、そのうえ12クラスも存在していると、たとえ同級生という同じ分類に配属されていたとしても、半分以上は顔と名前が一致しない。入学前に抱いた危惧そのままに、3年生となった今年になっても結局私は同級生の半分も記憶できていなかった。
 ただ、人数が多くても誰もが知っている、といういわゆる「有名」な人は存在するわけで。
 6組ではしゃいでいた2人組も、4組で男子の喧嘩を止めるついでに大暴走している男子も、2組で爽やかにじゃんけんをうながしていた男子も。全員、一応は私の記憶の中にその名前を刻み込んでいてくれた。
 そして。この部屋の主は。

(大石くんたち以上に有名人)

 一般教室棟から外れたところにある、少しだけ閑散としたその場所。
 滅多にくることのない生徒会室前で立ち止まり、私は小さく息を吐いた。鼓膜に必要以上に響いてくるような騒音はなく、まるでその呼吸ひとつすら誰かに聞こえてしまいそうな雰囲気は、やはり彼がこの部屋の主だからなのかなと適当なことを考えて。

「失礼します」

 軽く手の甲でノックをした後、返事も待たずに私はドアを開ける。普段強引な使い方をされている教室のドアとは違って、そのドアは少しだけ重たく、そして少しだけ皆の言う「威厳」というものが込められていた。
 私は一歩を踏み出した後、そっと視線を前に向ける。3年生の教室の騒がしさが嘘のような、ゆっくりと時間が流れているかのようなその静けさの中、目的の人はそこにいた。

「手塚くん、ちょっといいかな? 3年10組の者なんだけど……」
「なんだ」
「これ、10組の体育祭出場名簿」
「ああ、確かに。……あと、それで君は」

 生徒会長のデスクと、その背後にある明らかに教室の安物とは違う高級感漂うカーテンという、その風景と。それらに違和感なく溶け込んでいる手塚くんの視線が、その時初めて私とあった。
 視線の高さ的には私の方が高い。手塚くんは椅子に腰掛けていたから、その高低差は当然できてしかるべきものだった。目を合わせるということは、自然と彼に見上げられるカタチになる。けれど見上げられるこちらの方が少し萎縮してしまいそうになるのは何なのか。
 その視線を受けて、その中にわずかながらの疑問の色を見つけて。私は「ああ」と言葉をもらしてから、左胸につけられた名札を指差した。

「10組の。うちのクラスの学級委員の代理。2人とも先生のお使いに行ってるから」

 3年生にもなって、同級生に対して自己紹介をしなければならないこの現実。
 けれどそんな寂しさを感じる私の回答は的を得たものだったらしく、手塚くんは書類を受け取った後浅く頷いてみせた。

「なるほど、そういうことか。分かった。わざわざすまない」
「どういたしまして」

 律儀にお礼の言葉を述べる手塚くんに微かに笑って、私は自分の仕事を終える。
 その時視界の片隅に映ったのは、徐々に集まりつつあった各クラスの出場予定名簿と、その横に何気なくおかれていたある部活のメンバーの名前。
 仕事を終えた身として何事もなくその部屋を撤退しようとしていた私は、その名前のほとんどが見覚えのあるものだったことに気づいて思わず足と視線を止めた。踵を返す予定だった足の行き場のなさすら忘れるほどに、夢中になるというよりは……ああ、やっぱりこの人はあの世界の住人なんだ、という事実を改めて思い出しながら。

「なんだ?」

 動かない私に手塚くんが声をかける。私がつい数秒前に手渡した書類をチェックしている仕事真っ最中の彼には申し訳ないと思いながら、私はそのまま思っていたことを口にした。

「うん、ごめんね。これって男子テニス部のやつだなーってちょっと見てて」
「……分かるのか?」
「え? うん、まあ。同級生の名前ばっかりだし。間違ってる?」

 部外者がこんなことを言ったら単なる迷惑だろうか。それともこの部屋に残っていること自体が関係者以外としてはた迷惑な行為でしかないだろうか。
 その両方だな、と自分に呆れながら、それでも心に出た疑問をそのまま口にした自分に更に呆れながら、私はそっと手塚くんの瞳の動きを見つめる。
 眼鏡の奥の細くて切れ長な瞳がそっと私の指差す書類に向けられた後、けれど彼は。

「いや、間違っていない。今度のレギュラー戦の名簿だ」

 邪険に扱うことも怒ることもせず、淡々と事実を教えてくれた。
 あれ、と私の中の誰かが首をひねる。同級生とはいえ仮にも部外者に教えてもいいのかな、と思うのと同時に、去年まで同じクラスだった乾が教えてくれた手塚くん像と、それから遠目で見る印象と。それのどれともかみ合わないスムーズな会話の流れに、意外性を発見する喜びよりも、むしろ驚きを隠せない。
 私は彼を特別視したいわけでもしたくないわけでも、むしろどちらでもないというか縁のない人だという認識があった。それだけしかなかったと言う方が正しいかもしれない。
 それが私が手塚国光に抱いていた思いで、中学生の恋愛らしくこの人に憧れている子たちは周りには何人かいて、それでも結局それらと意見交換をすることのなかった私にとって、同級生ではあっても所詮彼は今日という日までは「テニス部部長」とか「生徒会長」という肩書きの方が、よほど彼の人格や人となりを説明してくれているような気がしていた。
 けれど、そんな私の「手塚国光像」にはこんなスムーズな会話はインプットされていない。
 そんな私の疑問になんて気づくはずもなく、手塚くんはさらさらと会話を続ける。

「意外だな。は女子テニス部じゃなかっただろう?」
「え? あ、うん。違うけど。でも同級生の活躍って嬉しいじゃない。だから覚えてた」
「そういうものか?」
「駄目だった?」
「いや。名前ばかりが先行するのは問題だと思っていたが……。そうか、そういう評価の仕方もあるか。なるほどな」

 妙に納得した様子を見せて、手塚くんは綺麗な頬杖をつきながら私の視界を独占していた対戦表を取り出す。5月の柔らかい日差しに透けて、逆向きの「手塚国光」の文字がやけに大きく見えた。
 妙な感じだった。どうして私はこの人と話をしているのか、学級委員代理という偶然にしては違和感がなさすぎて、むしろその違和感のなさに妙な印象を抱くほどだったけれど。
 青学に入学して初めて手塚くんと至近距離で話しながら、けれど私はひとつのことに気づいて勢いそのままな会話を続けてしまう。
 そこにあるのは確かに初対面ではあっても、同級生たちとなんら変わらない空気だった。

「同属意識みたいなものだから、皆も青学の名前が広がるのは単純に嬉しいんだと思うよ」
「そう言ってもらえるのは助かる」
「助かるって。そんな、私たち同じ学校の生徒じゃない。それを言うなら、私たちこそ『ありがとう』でしょ?」
「……そういうことを言われたのは初めてだな」
「え、そうなの? ああ……ごめん、的外れだったかも」
「いや、そんなことはない」

 彼が冷酷無比だと叫んでいたのは誰だっただろう。ああ、あれは部活帰りに疲れ果てた菊丸くんたちだったような気がする。
 同級生に見えない、近づけない、と頬を赤らめて内緒話をしていたクラスメイトたちはなにを思っていたのだろう。ああ、きっとそれは故意に作られた硬度の高くて破壊不能な、一方的な価値観で定められたフィルターの存在に気づいていなかったからかもしれない。
 冷静に考えれば、私自身知らない同級生なんてたくさんいるわけで。その中でも初めてお互い名前を明かした相手ととりとめない会話をするというのは、その機会が多い青学の中じゃ至極日常の出来事と捉えてなんら支障はないわけで。
 そう思えば、今の手塚くんの態度は、随分と当たり前のような気がしてきていた。

「じゃあ、お邪魔しました。帰ります」

 この部屋に入るまでまったく感じなかった、いい意味で予想外の後ろ髪を引かれる感じに戸惑いを覚えつつも、私は小さく頭を下げる。そのすぐ後、違和感なく「ああ」という私の言葉を受け止める言葉が返ってきて、思わず苦笑してしまいたくなったのは秘密の話。
 なんだかな、というその苦笑は、けして彼にはばれてはいけない。
 なぜなら、フィルター越しじゃなくなった彼は、随分と。随分と近しい人で、私の思っていることなんてすぐにばれてしまいそうだったからだ。それは恋愛感情というものとは類の違うものだったけれど、私の中で手塚国光という人間が屈折した光のみをあてられた存在じゃなくなった、他人の感情によって定められた価値観抜きで直視できる存在になったというその意味は、本当はとてつもなく大きいはずだった。
 だって私は、それまで。この人とは無縁の生活を送っていたのだから。
 彼を判断する材料は、すべて既成された価値観に頼ったものでしかなかったのだから。

「部活、頑張って。あと生徒会も」
「責任は最後まできちんと果たすつもりだ」

 綺麗な声だな、と思う。意志の通った迷いの見えない声は心地よい。
 神様でも聖人君子でもないのだから彼だって迷うことはあるに違いないのだろうけれど、それでも自分で決めたことは責任という意志をもってきちんと発言する。そういう、人間として尊敬したいところが多い同級生なんだ、と気づいてしまえば、興味をもたずにはいられない。人というものは、自分にないものをもっている人間には自然と憧れるものなのだから。
 ただ、この憧れは同性に向けるのと異性に向けるのとでは意味が違うと。
 そんな基本的とも呼べる差異に気づいてしまった時は。

「うん、そうだね。頑張ってる人には相応しくないね、ごめん」

 うまい言葉が見つけられない、と自分の体裁の不甲斐なさを感じてしまっていた時は。

「いや。ありがとう」

 その時見せてもらった柔らかい笑顔に、視線が奪われてしまった時は。

 すべて、興味という関心が違う意味で動き出す瞬間だったのだと。
 後日談、そんな簡単に揺り動かされた私の気持ちを見つけるのは、自分自身よりも彼の方が早かっただなんて。それが笑い話になるのは、随分と先の話ではあったけれど。
 あの日以降格段と増えた手塚くんとの会話は、今でも色褪せていない。それは真実。
 それまでの印象も価値観も関係ない、ただ心の想うままに彼を見ることができる。
 そんな透明なフィルターを手に入れたのは、間違いなくこの時だった。



04/05/05