二兎を追う


 持て余す感覚。そのように言いたがる自分に白石は苦笑する。
 持て余すとは随分と生意気な言葉だ。自分がまだまだ頭も心も余裕を手離してはいないというように聞こえる。だが実際はどうだ、むしろ余裕がなくなって追いつめられた感覚に近いのではないか。

(持て余す、とはちゃうなあ。振り回される、やな。情けないことに)

 そんな自分ではあってはならないという思いが、今までの心にはあった。
 自分はもう少し、自制心のある人間だと思っていた。そうでなければならなかった。
 主観では意味がない、客観的に、より絞って自分の望む形で言えばそれはテニス部部長として部員から、学校から、他校の人間からそのように見られていなければ意味がない。
 独りよがりがいかに視野の狭い人間の末路として哀れなものか、最低限のことは知っているつもりだった。
 試合で他校の人間を見るたび、部長の顔を見れば校風がおおよそ理解できた。この部長は私心に負けていない、部というひとつの小さな社会に対して献身的であるのかそれとも私意に突き動かされるだけでここまできてしまったのか、様々な人間を観察することによって見えてきた自分のあるべきすがたというものを、15歳の今、ほどよくつかみとれているという自信も義務も自分にはあるのだと、白石は思っていた。
 そのはずだった。

「そこまで説明できる、定義できるお前の口にある意味感動やけどな」

 喋りをひとつの技術として日々研鑽する一氏に呟かれた時はまだ、ほめ言葉として受け止める余裕があった。

「いやねえ、ユウくん。蔵リンかて普通の男子やねんで。説明できたら逆にあかんのとちゃうかしら、ねえ蔵リン?」

 状況を誇張も歪曲もしない、その時々に合わせた的確な指摘をすることができる小春がいつもと異なる笑みを浮かべた時、それは助言だったと気づいた。
 だがなにを意味しているのかはすぐには理解できなかった。小春も無理に伝えようとしなかった。

「まあ、肩の荷も週に1回ぐらいはおろした方がええんとちゃうの。そんでどっか遊びに行ったって誰も怒るようなやつはおらへんやろ、ここには」

 責務を肩の荷と表現してしまうのはいかがなものか、とはその素直な表情の忍足には言えなかった。後ろで石田が小さく頷くのを見せられてはなおさらだった。
 沈黙の中で、忍足の言葉が小春の真意と同調しているのかとふと思う。投げかけた視線に小春は笑みを返すだけだった。

「部長の隙ってなんですかね。ていうか隙とかあるんすかね。なかったら逆にきもいっすよね。なんかそろそろイライラしてきましたわ」
「隙?  なんや財前、白石になんかしかけるんか?」
「やだよ、そんなん。めんどうくさい。絶対倍以上の仕返しが返ってくるし」
「せやなあ……毒手で捕まれたらかなわんなあ。財前、ワイと一緒やな」

 金太郎がユニフォームの袖を掴んで身体を揺らしてきても、全然違うと言わんばかりの無表情の財前の視線は、少しばかりの居たたまれなさをわきおこさせる。
 肩の荷をおろすことを、財前は隙と言うのかもしれない。そうすればほぼ全員が全員同じ意見で今自分を見ていることになる。

「……なんやねん、お前ら。練習やり足らへんのか? せやったら今から監督に言うてくるけど、あと何分」
「アホ、これだけ痛めつけといて鬼かお前は!」
「蔵リン、本末転倒よ! なに言うてんの! 要点はそことちゃうでしょう!」
「そ、そうか」

 なぜ部活終了後の部室でここまで言われ続けなければならないのか、と首をひねりたい。夕方の部室に緊張感が必要だとは学んだ記憶がない。今日の自分はなにかをしでかしたのだろうか、いや思い当たる節がない。
 しかし、肌に感じる視線には反応しなければならないのが部長の性。
 ロッカーの前に立った、あとは着替えて帰るだけだというこの時間に部員が少なからず自分を見ている。それを無視するほど自分は自分勝手に生きてきたつもりはない。

「……俺、言い忘れたことでもあったか?」

 小石川に視線を向けるが、困ったように首を傾げるばかり。
 隙、と財前の口が呟く。小春が微妙な笑みを浮かべる以外、誰もその言葉の続きを用意してはくれない。

「ま、たまにはお前がぐだぐだっとしたところを見たいっちゅー、優しさやなこれ。うん」

 忍足が近寄ってきてそっと教えてくれたのは、諦めて着替えに入ったその瞬間。

「四天宝寺には心配性しかおらんたい。もてる部長はつらかばいね」

 なんのことか、と忍足に目を丸くしていれば横で着替えていた千歳が呟いて、白石はまた途方に暮れるのだった。



 夏の始まりが近づいていた。
 暦の上でも今肌が感じている暑さも既に世界は夏を受け入れて久しかったが、夏休み前のこの時期というのは夏にさらなる付加価値をつけ加える。
 期末テストが終わり、三者面談も無事に終了。受験生としての1学期の責務は予定通りこなしてきた。それは来年の自分に蓄積するためであり、また、これから2ヶ月間の自分を解放するためでもあるのだ。
 最後の大会だった。
 夕方の色味を西へ西へと追いやる藍色が東より広がり始めた頃、空腹に背中を押されるようにして店に入る。見慣れた店内でその後ろ姿を探すことは簡単だった。

「お待たせ、悪いな。少し遅くなってしもた」

 宿題をしていたが顔をあげる。その表情はすぐに笑みにとって代わられた。

「もっと遅くなると思った」
「え、なんで? 俺遅くても7時って言うたよな?」
「次の大会近いって言うてたから、練習延びるんちゃうかなって」

 ポテトフライの入った紙ケースがこちらを向く。時間が経って少しだけしなびていたが、空腹には十分な栄養だった。
 4月から途中、紆余曲折を経て付き合い始めたとの待ち合わせ場所は、教室かこの店だった。毎日一緒に帰るわけではなかったが、どちらともなく帰りのホームルームが終わった時に目が合えばそれが合図となってこの時間がある。白石の方が部活が終わるのが遅く、は大抵待ち合わせ場所で宿題をするか受験用に配られている問題集をひとりで黙々と解いていることが多かった。

「俺もなんか買うてくるかな……晩飯遅くしてもろうてあるし」
「あ、なら私買ってくる。いつものセット?」
「ええよ、自分で買うてくるし」
「ううん、行ってくる。休憩してて」

 立ち上がるのをの小さな手が制す。見上げるようにして見つめた表情は相変わらず柔らかくて、素直に従わせる力を持っている。
 白石はの言葉に甘え、椅子にゆったりと腰掛ける。自然に向けてもらえる気配り、その優しさが簡単に染み入るほど身体は確かに疲れていたし、に甘える思考回路に変わっていた。
 周囲を見渡せば、時間帯のためか四天宝寺中学の生徒はほとんどおらず、高校生の制服姿が目立つ。

(……高校生になっても彼氏彼女でこういうところくるんか、やっぱり。高校生になったから余計か?)

 視界の中にちらちらと映る恋人同士の様子を、そっと見つめる。白石とがこの店を待ち合わせ場所にしているのは、学校から近いとかこの時間だと校舎が閉まるとか、そんな現実的な理由が前提としてあって、いわば消去法で選択しているというだけだ。
 だが周りはどうだろう、ひとつの時間の使い方としてわざとこの店を選んでいるようにも見える。そんな余裕が表情や仕草から想像できる。それに比べれば自分たちは随分と機械的な思考しかできていないようにも思えた。

(俺に付き合わせとるからなあ。ほんまやったらはもっと早く家に帰れとるし、……宿題かて家でゆっくりできるわな)

 レジに並ぶの後ろ姿を見つめる。教室での座席が前後しているため、その姿は見慣れたという感覚を通り越して自分の視界に映るべきもののひとつとなってしまっているが、その姿が今この時間にこの店にある、それは当たり前とはしてはいけないとそっと自分を戒める。

「どうしたん、白石くん」
「え?」
「難しい顔してるで。あ、メニュー違うやつの方がよかった?」

 トレイをもって帰ってきたが、不安そうに謝る。慌てて首を横に振り、記憶している金額をお釣りのないように手渡した。これを待っていたと納得してもらうためのようだったが。

「家でもご飯食べるんだよね」
「ああ、まあ軽く。妹から見ると全然軽くないらしいけどな」
「それだけ食べてもずーっと同じ体型だもんね、運動量半端ないねえ。やっぱり」

 そうでもないで、と苦笑しながらさきほどのポテトフライのお礼をする。ケースを向けると、最初は断っていたが白石が手を下ろさないので最後にはも諦めて笑ってひとつ口にした。

「せや、私聞きたいことがあって」
「なに?」
「これ。明日提出やんか、でもな、この問題めっちゃ難しくてよう解けへんくて」
「どれ」

 やむことを知らない周囲の騒がしさの中、少しだけ身を乗り出して問題集を見つめる。過去の全国の入試問題を抜粋して構成されている問題集は難易度の高いものの方が多く、得意の化学ではあったがハンバーガーを食べながら白石も一時思案する。どう解けばいいか、ではなくどう説明すれば相手に伝わるか、という過程を考えるのは性格上苦ではなかった。
 ノートの脇に分子を図に表していると、が少し微笑んでいるのが視界に映った。

「どうかした?」
「ううん、なにも。なにも」

 何もないというわりには、その顔からは笑みは消えない。頬が緩むその表情は白石にとって心落ち着くもののひとつだったが、左手にシャープペンシル、右手にハンバーガーを持っている今の状態では、どこか居心地が悪い。防御できずにの笑みに感情がすべて連れ去られてしまいそうになる。

「私、まだ時々こういうことでも嬉しくなることがあってね」

 白石の心境を見抜いたのか、ぽつりとが呟く。白石にだけ聞こえる大きさだった。

「彼女なんやなあ、って思えるだけですっごい嬉しくて仕方なくなる。白石くんのええとこ、みんなが知らんええとこを誰かに言いたくて仕方なくなる」
「……。えらい、突然やな」
「あ、ごめん。邪魔した?」

 しばらく目を合わせて、白石ははにかむのを苦笑で誤魔化す。それしかできなかった。
 決してここまで順風満帆だったわけではない。そんな過去が、幸せに簡単に従う心を作ってしまっていた。飢えているかのように。
 言葉にすれば4ヶ月。たったそれだけだ。今までの15年の人生の中で、幼き頃の記憶を占めるテニスの中でも絶対にたちうちできない時間の軽さ、短さ。量だけで考えれば、自分の思考回路がそこまで従順になるのはおかしな話なのかもしれない。
 白石は食べ終えたハンバーガーの包みをトレイの上に置き、頬杖をつく。視線を少し落とし、わずかにうつむく。
 蓄積された時間と感情は、比例しない。テニスの練習のようにはいかない。
 頬が緩む感覚に、これ以上負けないように必死で視線を落としていた。

にはかなわんわ、いろいろ」

 ようやく呟いた言葉に、は目を丸くした。色気のない言葉だと思った。苦笑しかない。

「どうして、なにが? 白石くんの方が絶対上手やんか、いろいろ」
「上手ってなんや、上手って。そう思てんのはお前だけや。俺も、謙也たちかて絶対そうは思ってへん」
「そうかなあ……私、勝てた記憶ないんやけど」
「気づかれてしもたら俺も立場ないしな。謙也なんかこの前……」
「え、なに? 忍足くんが、なんて?」
「……やっぱやめた。言わへん」
「なんで。そこまで言うといて、ひどい。ポテト食べてしまうよ」
「ちょ、待った! なんでやねん! かなわん言うてるやんか、それ以上言わすな!」

 完成した化学反応式に助けてもらう羽目になった。心にも身体にも熱を送り込もうとするの視線をノートに戻させ、冷静に説明をしていけばやがて落ち着きを取り戻す。
 が小さく感嘆のため息を零す。ほら、とでも言わんばかりの視線が向けられる。その視線にこそ、白石はほら、と言いたくて仕方なかった。
 周りには高校生。自分たちで選択をして、その時間を、表情を、感情を楽しんでいる「大人」がいる。

(自制心があったんとちゃうんかい。あかんわ、自分。はまってんのは分かってても、ここまで色んなことに反応してしまう想像なんてしてへんかった)

 小春たちはこの心を諌めたいのだろうか。ふと思う。と視線が合う。細い指に、香る髪に触れたくなる。情けないと思うことが一番簡単だった。

「あ、もうこんな時間。ごめん白石くん、お家の人ご飯作って待ってくれてるんだよね」
「あー……まあ、うん」
「帰ろっか」

 プログラムが仕組まれた機械のように、の視線ひとつに身体が動く。動かなくなったり動かされたりと忙しい。だが厭えない。矛盾をはらんだこの感情は、たった4ヶ月で作られてしまった。経験の上塗りをしていくことが巧みすぎて、ついていくのがやっとな気持ちになる。
 店の外では、夏の夜を待ちわびていた風がわずかに街路樹の葉を揺らしていた。が一歩先に出た時、店の光に照らされた艶のある黒髪も揺れた。

「夜になっても暑いね、本当。部活、大変?」
「大会の日に晴れてくれるんやったら、って思えば案外楽になるで」

 風に揺れるの髪を見つめながら考える。
 目の前に好きな人がいる。
 自分を想ってくれる、自分のこの夏の意味を理解しようとしてくれる人がいる。

「……まあ、両方頑張ればええっちゅう話か」

 素直に現実を見つめた時、その言葉は簡単に口から零れ落ちてくれた。

「え? なにか言った?」
「なんも。独り言」
「聞こえる独り言ってどうなん」
「聞かせようとしたのかもしれへんで」
「……えー?」

 振り返ったが、不服そうに呟く。表情が一瞬で幼くなり、その表情にすら嬉しさを誘発されてしまう自分が情けなくもあり、恥ずかしくもあり、

「いつも待っててくれてありがとう。……会えると思うと気が楽になる、て言うたら怒る?」

 それでも一番、嬉しくてたまらなくもある。
 大通りから外れた、の家へと向かう道。きれかけた外灯は頼りにならない、鮮やかに光り輝く月がの髪にかすかな艶を宿し、くもりない瞳が自分を見上げる姿を照らし出す。月と夏の夜空と、自分だけが見ることを許された姿だ。
 白石の言葉に、は返事をしなかった。
 返事をさせないほど、手を引っ張ってこの腕の中に抱き寄せていた。

「こういう時ぐらい、勝てへんとおもしろくないし」

 誰もいないことを確認するぐらいの余裕はある。自制心もこんなところで役に立つ。
 だが離れ際のキスに、は夜道でも分かるほど頬を赤くしてなにも言えなくなっていた。おかしくて笑うと、腕を叩かれた。右手だった。利き手を絶対に軽んじないにはどうしても勝てる気がしない。それこそ、独り言として胸にしまう。言葉にしてしまうと自分がキス以上のなにかを求めたくなりそうだ。
 月明かりのおかげかと、小さな胸の鼓動に誘われて天を仰ぐ。
 見上げた夜空には、明日の晴天を予告している月と星ばかりがあった。



 夏休みに入ると、夏の始まりは目の前だった。
 午後の練習前の柔軟体操ひとつにつけても力が入りそうになる。ぐっと身体を伸ばすだけで小さな高揚が身体中を駆け巡る。それは過去2回経験したきたものだったが、今年の空がやけに青く澄んで見えるのと同じように、まるで痺れにも似た刺激は過去の比ではない。
 テニスの技術を高める3年間を、正しく過ごせてきた証だろうか。
 テニス以外にも心を満たすものを見つけられた安寧からだろうか。
 見上げる夏の空に浮かぶ太陽が眩しすぎて、熱すぎて、けれど流れる汗はまるで厭えない。白石はこの感覚がたまらなく好きだった。

「白石くーん」
「うわっ!  なんやねん、ユウジ! のっかるな!」

 もしかしたら、それは部員全員の総意なのかもしれない。
 地面が急に近くなったと感じた時、背中に突然強引な重みが加わった。

「いや、お前の背中が俺に乗れ乗れ言うてたんや。もっと柔らかくなりたいですー、一氏様乗ってくださいー言うて」
「アホか、お前みたいに柔らかくなれるか!」
「まあっ、蔵リン! 柔軟練習? アタシも手伝っちゃうわよ!」
「ちょ、待て……無理無理無理!」
「……なにしてんすか、先輩ら。部長まで。ほんまきもいっすわ」

 いくらテニス部内では小柄な体型に属するとはいえ、なにもここまで一緒にいる必要はないだろう。そんな批判の意味を込めて起き上がろうとすると、生意気な後輩が見計らったかのように現れる。
 アイス片手に冷めた視線を向ける財前は、ちらりと白石を一瞥し、じっと見つめ合ったあと美味しそうにアイスを食べ始めた。

「……財前、そこで俺を助けるっちゅー選択肢はないんか」
「アイスとけますよ、部長。あそこ。師範が買うてきてくれたんですよ、チョコとバニラで早いもん勝ちらしいですわ」
「いや、だから。アイスやなくて。このふたりをなんとかしたろうっちゅー考えが」

 ふたりの重みに耐えられうるぎりぎりのところだ。そんなことはすべて計算づくで小春が体重をかけているに決まっているのだが、それを優しさととれるほどの余裕は今の体勢では生まれない。
 もう一口アイスを口にしたあと、しばらく財前は考えるそぶりを見せる。太陽がアイスを溶かすのが先か、財前が口を開くのが先か、白石が力つきるのが先か。一氏と小春が離れるという道だけは思いつかなかった。

「俺ね、部長。テニスはテニスとして、それ以外は結構どうでもええって思うんすけどね」

 アイスを口にしたまま、しゃがみこんで白石と視線の高さを等しくする。優しいのか優しくないのかまるで分からない目の色をしている。だが愛嬌だけは金太郎に負けず劣らずのものを持っていて、後輩の立場に位置するこの天才肌の男は、白石にとって扱いやすく、扱いにくい。その境目を日々本人が自由気ままに移動しているようにすら思う。

「なんて言うか、それ以外も絵になる部長って結構すごいっすよね。……マクドにおるのがあんなに絵になるの見たことない」
「……は?」
「って、あいつが。らしいですわ。あ、俺やないんで見たの。たまたま塾行く時に見た言うてたんです。部長、やること結構やりますね。あ、アイス溶けた」

 周りをどうでもいいと宣言した後輩は慌てて立ち上がり、そのままコート脇へとさっさと帰ってしまった。当然白石を助けることもなく。

「うちの部は心配性ね。千歳くんの言うとおり」

 今日は扱いにくい日の方かと。助けを願った自分が愚かだったとため息を零したくなった時、ぽつりと小春が呟く。視界にははしゃぐ金太郎にアイスを渡す財前の姿がある。

「彼女のことを『あいつ』としか言えへん光くんも心配でたまらないんやけどね」
「小春、なに言うてんねん。彼女のことを口にできるようになっただけでもえらい変化やろ。多分誰もあいつのこと心配してへんで、今は」
「あら、そうね。ほなやっぱり、みんな蔵リンのこと気にしてしまうのは当たり前っちゅうことね」

 体重が移動する。足でも組み替えているのだろう、小春の独白にも近かった言葉に一氏が心地良い間で返答する。
 人の身体の上でなにを優雅に話しこんでいるのだ、と頭のどこかで文句は暴れまわっていたが、白石は財前の言葉の方がどっしりと耳に、頭に、心に残ってしまって離れない。文句が飛び出す隙間を埋めてしまう。

「ねえ、蔵リン。アタシたちに中途半端って言葉、一番似合わないと思わない?」

 背中から下りた小春が、財前の姿を遮るように視界に飛び込んでくる。

「絵になるぐらい楽しんでくれるひと時があったなんて、水臭いわ。アタシにも教えてくれたらよかったのに」
「……絵になっとるかどうかはよう知らんけどやな、」
「なってたのよ。他の人が見て。それって結構大事なこと。……や、なかったかしら? 部長」

 開きかけた口を閉じる。反抗する言葉はそれだけで消えてくれた。
 我慢をせず盛大に思い切り、自分の道を行けとその顔に書いてある。小春は滅多に攻撃的な言葉は用いない、けれどいつも気遣ってくれていると改めて気づかされる、そんな夏の爽快さが白石に苦笑をもたらす。

「心配されるのはやっぱり性に合わへん。俺、こう見えても結構自制心あるんやで」
「知ってるわよー、そんなこと」
「そうか。ほな、おもいきりやらせてもらいますわ。全部な」

 小春が笑う。それは正解という合図だった。ユウジが背中から無言で離れる。それも、合図だった。
 最後の夏ぐらい、過去にないほどの忙しさで駆け抜けていってもらってもいいのかもしれない。それに縋るどころか操るぐらい気持ちを、身体に宿し続けるのは案外難しくない気がする。
 今日も暑いな、練習をどう組み立てるかと午後の練習再開前にコートの上で考えれば、2本目のアイスを口にした財前が無言で白石用のアイスを持ってきた。
 忍足が自分のアイスがなくなったと慌てている視界の中、感謝の言葉とともに受け取る。
 それだけで頬が緩む感覚で、最後の夏を彩ることができる。贅沢な話だった。



10/05/27