秘密の代償

 生きていれば秘密のひとつやふたつ。小学生の時に友達とけんかをして大泣きしていた理由を親に隠したこと、中学生の時に宿題を忘れていたのを誤魔化したこと、それらは自分でつくった綻びを、自分で不器用に縫い合わせた嘘だった。秘密だった。
 けれど秘密はひとりでいることができない。押さえ込まれることができない。必ずいつかどこかのはけ口を狙っている。それを許してしまう時が、秘密が漏れる時だ。だから親にも、先生にも簡単に見抜かれてしまった。嘘はつくものじゃないと、秘密はつくるものじゃないと、何度自分に言い聞かせてきたか分からない。はずだった。

(ごめんね、お母さん)

 はずだった。守りきることができない嘘など、秘密など、無縁でいればいいと思っていたはずだった。

(私、秘密ひとつ作ってしまった。絶対に知られたらあかん秘密)

 かちり、とはぼんやりとシャープペンシルの芯を押し出す。
 ノートの片側をまるっと使ってようやく解き終わる数学の問題だった。復習を疎かにしてきた最近の不真面目さが理解力に直結してしまっている、途中からはなにを写しているのか正直分からない。そもそも数学自体、もともと得意の科目でもない。この50分はきっと、頭も目も手も思っているに違いない。つまらないと。
 それでも、の手は筆記具を投げ出すことはしなかった。目は、窓の向こうを見ることはしなかった。

(絶対、一生大事にしていく秘密。……ううん、ちゃう)

 頬杖をつきながら、一度手を止めて黒板を見つめる。

「これなあ、去年のセンター試験の問題とほぼ一緒やねん。つまり王道。テストに出る出えへんだけ考えるんはもう卒業せえよ、これぐらい解いてもらわへんと」
「先生がまた校長先生に怒られるんですか」
「そうそう、そうやねん……って、アホ! 受験ぐらい自分らの力で受けようとせんかい!」

 笑いがおこる教室の中、はまっすぐに黒板の前に立つ教師に視線を送る。

(一生、大事にしていくってふたりで決めた秘密)

 亜麻色の髪が目に優しい。口を閉じていれば、とため息まじりに周囲に呟かれたのは一度や二度のことではない端整な顔立ち。すらりと伸びた体躯。ほんの少しだけ、生徒に近いようなスーツの着方。
 目を奪われて仕方ないと思うのは、自分だけだろうか。ぼんやりと見つめながら考えると、彼は重苦しいため息をついた。

「とりあえずなあ、頼むわ。担任の名前に傷をつけんといてくれ」
「先生のためになるやんか、それやったら」
「当たり前やろ、なに言うてんねんいまさら」
「当たり前ちゃうし!」

 怒声が飛び交ったように聞こえるのはほんの一瞬。彼とのやり取りでこのクラスの生徒が本気で怒りを示したことなど、記憶のどこにもない。約束していた席替えの時期を延ばされていた時ですら、生徒は怒るのではなくいたずらをしかけて笑って終わってしまう。
 誰もが、彼を見つめる視線が優しい。それは嬉しくもあり、嬉しくもあり、嬉しく「も」、ある。

(また子どもやって笑われるんやろなあ、こんなことで拗ねたら)

 は数学の教科書に意味のない落書きを加えていく。中学校の時よりも長い式や小さくなった文字や数字は、意識をきちんと向けて向き合わないとまるで意味が分からない。けれど素直に周りと同調して笑うことはできない。その理由を、は知っている。

(だって、隠せる自信がない。笑ってしまったら絶対、顔に出てしまう)

 授業はどこへ行ってしまったのか、難しいと言わしめてきた数学の時間を笑いの時間に変えてしまって、それこそ校長に叱られるのは誰なのか。ひねくれた見方をして落ち着こうとする心は、しかしすぐに役目を終えてしまう。いや、終わらされてしまう。
 が顔をあげ、教師の顔を見つめた時。
 担任であり数学の担当であり、そして、

「まあ、少なくとも。俺が自慢できる生徒でおってくれ、それぐらいは頼んでもええやろ」

 自分の恋人である、忍足と目が合ってしまった時。
 それはすべてを投げ打って、振り返ることも止めて、ひとつのことだけを考えて想っていいと認めてもらえた時。は、拗ねた気持ちを一瞬で忘れ去ってしまう。
 反則、と小さく呟く。意味の読み取れなかった忍足は一瞬目を丸くする。だがそんな表情を見ているのはひとりではない、クラスの男子がそれを間抜けだと表現して教室が再び笑いに包まれれば、忍足の視線は全体に向かざるをえなくなる。
 けれど、自分の心が今どのような状態であるのかは分かっている。

(先生にされたことやったら全部受け止めてしまう私の性格も問題なんかなあ)

 そんなことを思いながら、しかし忍足を見つめる自分の頬が緩んでいることも、は分かっていた。
 誰も知らない、一瞬だけの視線の交差。たったそれだけに感情の種類や高低を決められてしまう自分は情けない。けれどは苦笑を隠すためにそっと手を口元に持っていくのは恥ずかしくはないし、それに気づいて自分にだけ笑ってくれる一瞬がある彼が、どうしても好きでたまらなかった。



 初めての恋人は学校の数学教師。
 それは絶対の秘密だ。親友にも親にも知られてはいけない、嘘をつかなければならない秘密だ。
 けれど自分の心にうずく感情に踊らされる自分を隠すことは、非常に難しい。困難と少しばかり狂おしい歓喜が同居する秘密だ。

「忍足先生、若い時めっちゃテニス強かったんやろ? インターハイとか常連やったってほんま?」
「そう言うてるやろ、いつも。なんで自分らは人の話を真面目に聞こうとせえへんねん」
「えー、だって」
「だってなあ」
「ちゅうか若い時ってなんやねん、俺今でも若いやろ! 26やで!」
「えー」
「えーちゃうわ!」

 そのような会話をは学校で忍足と交わしたことはない。交わすのはいつも、他の女子だ。それはテニス部の女子だったり3年の女子だったり、全く彼と関わりのない女子であったり、様々だ。
 廊下や職員室付近では、大抵彼のそのような姿を見つけられる。そして大抵、忍足はの存在に気づいて少しだけ焦るのだけれど、目の前の生徒をむげに扱うことができればそもそも彼はそのような声をかけられる存在ではない。
 はいつも隣を通り過ぎるだけ。忍足もいつも、見送るだけ。

「こらー、自分らー! なに時間すぎてんのに練習しとんねん! もう正門しまるやんか!」
「そんなん先生が身体張って止めてくれるんやろ? 顧問やしなあ」
「そうそう、練習熱心な生徒を叱るとかありえへんで、先生」
「アホ、俺が会議でおらへん時にそんなむちゃな練習すんな! 俺がおる時だけにせえ!」
「それやったら今から先生もやればええやんか。はい、ラケット」
「……しゃあないなあ、ほんま。自分ら、次の練習試合全勝せえへんかったら覚えとけよ」
「おーい、みんなー。次の練習試合勝ったら先生がメシおごってくれるらしいでー!」
「アホー! どんだけ過大解釈やねん!」

 そのような会話は、男子テニスコートだけで繰り広げられる会話で当然はまじることができない。ただ開け放たれた窓から聞こえてきた時だけ、耳を傾けてもいいだけ。
 窓からそっと顔を出す。西のビルの向こうに隠れようとしている太陽が届ける残り火が、テニスコートを橙色に染めている。そこにジャージ姿の忍足を見つけてしまっては、これは最初から練習に付き合うつもりだったでしょうと誰が言わなくとも分かる光景だった。
 夕陽が優しい。はそっと目を細め、窓を閉める。

「卒業までの、絶対の秘密」

 そう口にしたのは、ではない。忍足だ。互いの気持ちが同じ方向を、いや互いの方向を向いていることを知った瞬間、嬉しそうに笑ったあとに呟いた最初の言葉だった。
 真面目な忍足にとって自分との関係は枷にも近い。それをも分かっている。それでもこの関係になることを望んでしまったのは、秘密という言葉を忍足が使ってくれたからだ。
 秘密を話していい相手が、最愛の人であれば。それは枷ではない。力だ。

(私は、先生やからこうしていられる。先生が相手やなかったら絶対、とっくに負けてる)

 誰もいない教室を後にし、薄暗い廊下を進む。忍足の今日の予定は確認せずとも知れている。いや、そもそも確認などしても夜に会うことなど滅多にないのだが。だがそれでも、会話ができない以上その動向を知るにはこうして自分の目で、耳で、誰かと話している姿を見つめるしかないのだ。
 学校は忍足との出会う場所であり、秘密を守る場所でもある。
 優しいのか優しくないのかよく分からないこの場所に、それでも授業が終わった後も残っている自分というのは随分と傾倒してしまっていて、そんな自分を笑う余裕の力だけは随分と蓄えてきたように思う。

(ほんまやったら、もっと拗ねるんかな。ひねくれるんかな)

 会えない苦しみを、なにかにぶつけようとするのだろうか。特殊な恋愛をしているけれどそのような境地に至ったことがないは、自分が苦しむことになった時どのような態度を取るのかは想像がつかない。ただひたすら、今は熱に溺れた秘密にしがみつくしかない。
 だが、心配しすぎて息苦しくなることはない。不安は抱いても負けたことはこれまでに一度もない。
 生来能天気な性格だった。日和見主義のようだといわれたこともあった。けれどそれで間違ったと思ったことは、一度もなかった。
 今日もそうだ、と。は昇降口に辿りつき、自分の下駄箱の前で足を止める。
 靴のために伸ばした手は、一度止まる。

「……こういう時に、これやもん」

 誰もいない昇降口でひとり呟き、は笑う。鞄の中から伝わる小さな振動を見つけることには長けていた。届いたメッセージの文面をもう一度読み直したあと、急いで母親に連絡のメッセージを送る。今すぐ飛び跳ねたい気持ちを、少しばかりの罪悪感に隠しこんで。ごめんなさいと呟くことも忘れずに。
 夕暮れに染まる校庭を横目に、テニスコートを一瞥して。笑い声に目を細めてから、から足早に駅へと向かう。そして、家へ向かう電車が来るホームとは反対のホームへ。
 夕方の人ごみには負ける。だが目的の駅で降りるためのことは考えられる。右側のドアの傍にいよう、次の駅は乗ってくる人が多いから気をつけよう。そんなことを考えていれば電車はやがて、目的の駅へとたどり着く。
 宵闇もやがて本物の闇に負ける頃合だった。制服姿も目立たない。駅前の商店街の明るささえ逃れれば、向かう目的の場所までは誰かの視線を気にすることもない。閑静な住宅街に佇むマンションの一室の扉の前、滅多に使わない鍵を手にすることができればそれでよかった。
 真っ暗な部屋に明かりを灯し、手早く片付けることのできるものだけ片付け、あとは食事の準備、と思ったところでもう一度はスマートフォンを取り出す。

『夜、ご飯でも食べるか。
 準備俺がするから先に家に行けるか?』

 はい、と呟いた言葉は誰にも届かない。嬉しさに負けて頬を緩めた姿も見られない。
 することがなくなってしまった部屋でひとり、なにに疑問を感じることもなく宿題をしていればやがてドアが開く音がし、は顔をあげて出迎える。
 少しだけ髪を乱した忍足が、億劫な手つきでネクタイを緩めながら靴を脱いでいた。

「おかえり、先生」
「あー、疲れた。ただいま。悪いな、部活もう少しはよ終わる思ててんけど」
「先生、ジャージやった」
「……あれ、見てたんか」

 うなずいて手を差し伸べる。忍足は玄関から一歩、部屋の中に足を踏み入れたところで目を丸くする。それは今日の教室でも見せた隙のある表情で、は年上ながらどうしてこうも素直な表情を浮かべることができるのだろう、と笑ってしまう。
 鞄をください、お疲れ様。そんな意味があっての伸ばした手であったのに、

「……え、ちょっと! 先生! 苦しい……!」
「あー、なに。ちゃった? なんや、抱きしめてください言う意味かと思た」

 受け取るはずの手は受け取られてしまって、学校では触れることのできないスーツが視界いっぱいに広がる。学校で誰も共有できない温もりが一瞬で自分の身体を支配する。
 腕の中でもがくに、忍足は無邪気に笑う。

「小動物みたいやあな。反則やで、

 もう一度抱きしめられたあと、そっと離れて忍足が笑う。
 自分だけに向けられる笑み、言葉、温もり。それがたったひとつあるだけで、心はこんなにも穏やかだ。
 子どもだと、やはり笑われるだろうか。それは作り物のような恋愛の仕方をしているだけだと冷たく突き放されるだろうか。子どもの自分には分からない。けれど胸に宿るこの温もりだけは、他の誰に否定されようとも絶対の自信を持って大切なものだと断言できる。
 どう思うのだろう、この人は。そんな思いをこめて見上げれば、

「……うーん、難しい」
「……え? なに?」
「俺、がお腹減らしとると思てむっちゃ急いで帰ってきたはずやねんけどな、今ちゃうこと考えてしもた」
「なに? 先生」
「ま、でもええか。ここ俺ん家やし」
「え? わっ!」
「俺がすることを怒る人もおらへんし、なあ?」

 数秒考え込む仕草をしてみせたあと、忍足はもう一度自分の腕の中にを押し込む。
 秘密を共有する唯一の人は、子どものように笑ってそっと口止め料という名のキスをした。



21/01/25再録