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人は彼を、素直な人間と呼ぶ。
表情と感情が誰よりも直結している。喜怒哀楽すべての感情を表に出せる。隠していないのか隠せていないのかは知らない。だがひとつ必ず覚えておかなければならないのは、嫌味なほどに嫌味がないことだ。そしてほぼ、喜楽に8割以上を割いているという現実だ。
一氏にとって、それはまるで摩訶不思議な現象だった。芸として様々な表現を意図的に操る生活を送っている自分には、到底真似できないし相容れない。
それが、一氏と忍足の関係だった。
「せや、思い出した。白石、千歳ってむっちゃテニスうまいな、ほんま」
「なんやねん、突然。言うたやろ、九州の二強のひとりやって。謙也、人の話聞いとったか?」
桜の名残が風に揺れる。ほのかな赤みとでも言うのか、薄く色づいたそれらが舞う光景はもう見納めだ。青葉が木々を埋め尽くしている。咲くまで焦らし、咲いたら勝手に去っていく。自分の好きなように一番輝く時を演出できる桜が、その傲慢さと高貴さを称えた正門前の花が、一氏は嫌いではなかった。
中学最後の桜を楽しむ余裕は、しかしこの男にはまるでないらしい。
柔らかく入り込む春の日差しに思わず瞼を閉じそうになってしまった時、突然忍足が大音声を響かせた。頬杖に頼って眠りに陥りそうになっていた、食後の食堂での出来事だった。
またか、と一氏は細く開いた視界の中で忍足を一瞥する。まだ肌寒さとは無縁でいられないというのに、彼はご丁寧にもカッターシャツの袖を肘までまくった姿で興奮を訴えていた。
「いやー、あれはびびるわ。打たへんか言うたらなんや軽いのりで来よって、ふざけてんのかと思うたら全然。白石、悪いな。結構な完敗やったわ」
「そら負けるわな。悪くはないから別にええで」
「いや、そこは少しぐらいかばおうとせえよ!」
「いや、そこは九州二強の意味を理解せえよ。うん、二翼やったか? まあええか。とりあえず強いっちゅうこっちゃ、謙也」
口調だけなぞればそれは一般的には怒りの感情だ。だが表情はどうだ、笑っている。なにがしたいのだ、なにを言いたいのだ、どの感情から伝えたいのだ。負けて嬉しがるなんてそんな高度な技は使わないでほしい。食堂の机に頬杖をついた姿勢のまま、一氏がぼんやりと考えてみても彼の視線がこちらを向くことなどなかったのだが。
白石は慣れたもので、淡々と水を飲みながら忍足の相手ができる。だが白石の斜め前には自分と似たような表情をした2年生がいて、そらそうやと一氏は心の中で勝手に仲間意識を持った。
淡白な面があるこの後輩は、どこか相通じるものがある気がする。負けに行ってどうするんすか先輩、とつぶやいた財前に、忍足は転校生の強さを力説し始めた。嫌味に嫌味が返ってこない。方向性のかみ合わない会話に財前の眉根が寄っていくのも時間の問題だった。
一氏はそっと視線を忍足から逸らし、彼に気づかれないようにため息をひとつ零す。
素直な男に従うのは、とても骨の折れることだと最近知った。
「ま、即戦力としてありがたく思う部分と、四天宝寺の力を見せる部分と、両方きちんと持って練習せえって監督は言うとったからな。負けても別に構わへん、その代わりひとつぐらいはなにか学んでこい。そうすれば負けとちゃうやろ」
「そうやなあ、うまいこと言うなあ白石」
白石が説明するのは、恐らく自分に対してではない。忍足に対してだ。だから頬杖をついたまま、食堂の窓の向こうにある桜を見つめることに意識をむける。
(自分の感情をそこまで相手に伝えてどないするん。しかも全部受け入れる方向ばっか。弱味握られたら終わりやないか。アホか。アホなんか、こいつは。アホなんやな)
勝手に咲き、勝手に散る桜が好きだった。誰にも関与されない自分の意思の強さを持っているようで、見ているこちらも気が楽だった。
そんな自分とは正反対のはずの忍足が、よく視界に映る1日だった。
「まー、強いもんが試合に出るっちゅうのは当たり前のことやしな。その分練習せえってことか。よし、今日からの練習楽しくなるやんか、任せとけ白石!」
「はいはい。ほな、今日は謙也が張り切ってやってくれるっちゅうわけで、財前」
「え」
「今日お前謙也とダブルス練習の予定になっとるから、一緒に張り切ってやれよ」
「……」
財前の顔には、またも心底面倒だという表情が浮かんでいる。
そらそうや、という言葉の2度目の用意に入った時、白石が苦笑しながら立ち上がって昼食は終わりを告げた。
素直な人間の、迷惑なところなら忍足を見ていれば分かるような気がした。
「あ、ユウジ。せや、部室の掃除当番やねんけどな」
背後から声をかけられ、一氏はトレイを持ったまま漫然とした態度で振り返る。
忍足の顔にはまたも笑みがあった。
「掃除当番? 今週はお前と師範やろ?」
「そうやったんやけどな、師範が今週諜報部から精神統一の仕方教えてくれ言われて少し顔出したいらしいねん。頼まれたら断るもんちゃうやろ、せやから俺行ってこいって言うたんや」
ちらりと横目で忍足を見つめる。昼休み終了間際の食堂出入り口は、1000人を越える四天宝寺中学の生徒が一斉に一ヶ所を目指す、校内渋滞箇所のひとつだ。自然足も歩みを遅らせる。視界に、忍足が映る時間が長くなる。
「……それで、俺が交代して掃除せえっちゅうことか?」
「あかんか? 当番表見たら来週お前と小石川やって、師範とお前を入れ替えても別に問題ないなあ、と思て。あ、白石にはもう相談済みやで」
「白石はなんて」
「お前に任せるって」
掃除当番と聞かされて、嬉々として受け入れる人間の方が少ないだろう。義務としての理解と趣向としての受容は全くの別物だ。沈黙の視線の中にその気持ちを込めるが、直線的な視線で、口調で許可を求めてくる忍足に、一体どれほどの効果があることか。自分でそこまで考えて、一氏はため息をつきたくなった。
(あかんわ、こいつと俺とは真っ向対決や。いや、面倒くさいで対決なんかせえへんけど)
そもそもどうして自分なのか、と首を傾げたくなる。小石川という選択肢はそこにはないのか。だが忍足は小石川ではなく自分の横に並んで自分の目を見て掃除当番の可否を聞いてくる。これではまるで自分が掃除を嫌がっているような図に見えないか、と気づけば白石はこちらを見てにやにやと笑っているし、財前はつまらなさそうな顔をしているし、
小春は、「ユウくん頑張って!」と言っているようないないような。分からないし。
「……まあ、別にええけど」
「ほんまか、助かるわ! 師範には俺から伝えとくから」
これで満足か、と忍足ではなく白石に視線を向ける。
わずかに肩をすくめたあと、その口は「悪いな」と呟いたように見えた。
自分と反対のものを持っている人間を見るのは、時々苛立ちなどというものを軽く飛び越えた感情を生み出す。苛立つ以前に唖然として、こちらの思考が止まってしまうのだ。テニス部の中ではえてしてそれは忍足が視界に映っている時によく起きることだった。
忍足と自分では、様々なものがとてつもない深度で違いすぎているに違いない。そう思い始めて久しいものだ。
春の昼下がり、その日も忍足と自分の相違点のひとつが眼下に広がっていた。
「謙也くん」
などとその口が呟いたかどうかは知らない。けれどそう呼びかけられて、振り返る忍足の仕草や表情が柔らかくなる様子を、一氏は2年近く傍で見てきた。
8組の教室の窓。箒片手に腰をおろし、春の風に髪を揺らす。清掃の音楽を聴きながらぼんやりと見つめるその先に、忍足と彼の彼女であるがいた。
中庭掃除は3年2組の担当だった。忍足の手には竹箒があり、掃除中の忍足にゴミ箱を持ったが呼びかけたという格好だ。もうゴミ箱を分別場所に持っていく時間か、と一氏は教室の中の時計に目を向けたが、どうしてかその日は窓際から身体が離れなかった。
「ねえねえ謙也くん、今度の日曜って練習試合? 忙しい?」
「おう、せやで。あ、でも白石が3時には終わる言うてたなあ……どっか行くか? 、映画見たいって言うとったやろ」
「うん、見たい。ええの? 今週練習きついんとちゃった?」
「練習はきつんもんやねんって。平気、平気。お前との約束は守るし」
「本当? 嬉しいなあ」
「……なにしとんねん、お前ら。きもいで白石」
背後からささやくように飛んできたふたり分の声に、一氏は冷めた視線を向ける。
そこには雑巾を手にした小春と、なぜか白石の姿までもがあった。
「なにって、実況中継やないか。お前が寂しそうに謙也たちを見るもんやから、気になるんかなと思て」
「ちゃうわよ、蔵リン。これは吹き替えね」
「あ、そうか。ちなみに俺が謙也役やで、ユウジ。結構似てるやろ」
「説明せんでも分かるわ、アホ! そんな嬉しそうに説明すんな」
同じ教室掃除担当の小春はいて当然としても、なぜ2組の白石までもが8組にいるのか。思わず怒りをぶつけそうになるが、しかし予想外なことは自然であり当然、その波に逆らうことは愚行であり愚昧。それがこの学校でもある。先手をとられていた。
「まあ、それにしてもあそこは長いわよねえ。アタシたちがまだ一緒のクラスだった時やから……もう2年かしら。そのわりにはいつまでたってもほのぼのとしてるんやけど」
一氏と同じように窓辺に身体を預け、小春が少しだけ優しい目をして呟く。白石は小春の後ろから覗くようにして頷いた。
「最初はどうなることかと思ったもんやけどなあ、あのおとなしいに謙也じゃ会話が成り立つんかもわからへんかったし」
「あら、アタシは案外うまくいくと思ってたわよ。ケンヤくんがよく教室の中でさんのこと気にかけてたの見てたし」
1年の時、白石と小春と忍足は同じクラスだった。そして今、階下で忍足と話し込んでいる女子も。それはテニス部の中では基礎知識といった類で、他人の恋愛事情に聡くない一氏でも自然と入力されている情報だった。まるでボールやネットの片づけ場所を覚える感覚に、それは近い。
聞き慣れた掃除の音楽が今日も平和に流れている。これは1年の時から変わっていなかった。
思えば、1年のあの時。忍足に彼女ができたという情報を、あの時の自分は今とまるで同じ表情で聞いていた。
「ええっ、お前本気か! って、あのか!」
「せやで。うちのクラスの。他におったか? おらんよなあ、確か」
「ちょ、ちょっと待て謙也。お前いつから付き合うぐらいまでと仲ようなっとったんや? いや、仲ええとは俺も思っててもやな、そこまでは……」
「さあ。あんまり覚えてへん。いつのまにかこうなっとったって感じやな」
「いつのまにかって……!」
白石が一番動揺していたのが、まるで昨日のことのように思い起こされる。当時は忍足に先を越されたことに慌てふためいていたのだとばかり思っていたが、そのような小さなプライドに振り回されていたのではなく、単純に恋愛におくてだっただけだと気づいたのは最近のことだ。
その白石も、3年生になって忍足に準じたような立場に立ってしまった。一氏はちらりと視線を白石に向けるが、その横顔にかつてのような動揺の色はない。あるとすれば、温かく仲間の恋愛を見守る部長の目だ。
(どこもかしこも春やなあ。みんな浮かれとるようにしか見えへんわ)
忍足が手を振る。は小さく笑い声をあげて、手を振り返して分別場所へと向かっていった。その背中を見送る時間が少し長いように思えて、つい眉根を寄せてしまう。
「なんや、ユウジ。お前まだ謙也の彼女と話したことあらへんのか。結構なええやつやで」
なにをどう見ればその解釈になるのか、甚だ疑問だった。その意味をこめて視線を返せば、白石が妙に理解した顔でこちらを見ている。癪という漢字を嫌味なほど綺麗に書いて突きつけてやりたくなった。
「あいつが誰と付き合おうと、別にええんとちゃうか。部活に支障がなければ」
「なんや、それ。手本みたいな返答の仕方やなあ、それ俺が言わなあかん台詞やんか」
「嘘つけ、お前絶対そんなこと思ってへんくせに」
「そやで。せやからユウジが俺の代弁してんのとちゃうかと思ってしもたっちゅうところか」
「アホぬかせ」
白石は忍足に対しては甘い、というのが一氏の見解だった。甘いというか、自分には入り込めない一線がふたりの前に引いてあるのだ。それが見抜けない自分ではなかった。他人について芸の勉強以上の興味はないが、仲間についは深く知っている義務がある。
一氏の言葉に白石は笑う。また見透かしている笑い方だった。露骨に嫌そうな顔をした時、チャイムが鳴り響いた。
「一氏ー、小春ー。いつまで遊んでんの、机運ぶの手伝ってよ」
「白石くーん。やっと見つけた、先生が白石くんがおらへんって探しまくってんで、はよ廊下戻ってきて」
クラスの女子の一声に、小春も白石も慌てて窓から離れる。気づけば白石の手には廊下と書かれた箒があった。
階下の忍足も、慌てて砂埃をたてて竹箒を使い、掃除道具入れのある方向へと走っていく。
忙しないやつらや、とため息をひとつついたら小春に笑われていた。
健全な男子である以上、彼女の存在に目がいってしまうのはどうやら当たり前らしい。
それを白石でも小春でもなく、石田に言われてしまっては返す言葉もなかった。
「ワシはええと思うがな、相手がいることでケンヤが内側から成長してきたのがよう分かる」
他人にここまで認められる忍足という男は、一体なんなのだ。そう思ったこともあった。だがすぐに答えは見つかった。素直なのだった。自分とは、違うのだ。
(待てよ、素直なら素直で別にそこで終わったらええやないか。なんであいつの彼女の話までくっついてこなあかんのや?)
春の陽気がなせる業か、ここ最近どうしても頭か心のどこかが緩む瞬間がある。そしてその時、このテニス部は面白いほど揃いも揃って互いの恋愛事情に介入したがるのだ。まるで伝染病のように自分にもしみこんでしまっている習慣に、一氏はますます眉根を寄せた。
「ユウくん、ご機嫌斜めね。休憩らしいから、水でも飲んできたら?」
小春の言葉に頷き、テニスコートをあとにする。いつもであればその輪に入りたくなるコート内の騒々しさも、今日はどこか遠巻きにしか見られない。
後から思えば、そこに忍足がいないことに気づくべきだった。小春の言葉の真意を、考えるべきだった。
先を越されていた。
「あれ、謙也くん。1日に2回も会うの、珍しいね。休憩中?」
四天宝寺中学テニス部のユニフォームは目立つのだ。
その声は、妙に相手に優しいのだ。人の耳にも、優しすぎるのだ。
一氏は足を止め、真っ直ぐにその光景を見つめる。に忍足が手をあげていた。
「おう。もか」
「うん。1年生にペースあわせてるからかな、最近はゆっくりな感じがする」
「ああ、どこも体験入部でごたごたしとるしな。うちもなんやごっつうるさい1年がおってそれだけで体力奪われたわ、すごいでほんま」
「『ごっつうるさい』?」
「ほんまやで、まだ4月やっちゅうのにタンクトップ1枚でラケットぶんぶん振り回しよんねん、どう思うこれ」
昇降口の前の石段に腰掛け、ペットボトルを揺らす忍足にが笑う。このふたりはいつも笑いあっている気がする、それほどまでに一氏の視界に映るふたりはことごとく微笑ましい図を作りあげている。
水飲み場に行きかけた足を止め、一氏は静かにふたりの様子を見つめる。
「ねえねえ謙也くん、今度の日曜って練習試合? 忙しい?」
「おう、せやで。あ、でも白石が3時には終わる言うてたなあ……どっか行くか? 、映画見たいって言うとったやろ」
「うん、見たい。ええの? 今週練習きついんとちゃった?」
「練習はきつんもんやねんって。平気、平気。お前との約束は守るし」
「本当? 嬉しいなあ」
白石に聞かせてやりたいと思えるほど、その言葉には何の違和感もない。まるで言葉が忍足のために存在しているかのような空気がある。
そこには、忍足は笑っていないとおかしいという感覚さえ生まれてくる。素直でなければありえないという妙な納得すらしてしまう。
「謙也くん」
違和感のない関係であれば、それでいいのだろう。自分には関係ないが。
わずかに乱れていた髪を無造作に整え、小さくため息をひとつこぼす。の呼びかけた声にまだ続きがあることを教えられ、水を飲みに行くのは諦めようと踵を返す。
「今年の大会は、一番いいところまでいけるといいね」
はずだった。
「謙也くんとみんなが、一番嬉しい最後になるといいね。1年生の頃からの夢だったもんね」
帰るはずだった。帰りたいはずだった。
一氏は振り返る。視界に忍足とが映る。見上げる姿勢の忍足が笑い、ペットボトルを差し出した。が遠慮するのにも構わず、滴したたるそれを渡して立ち上がる。
「3年まで待たせてしもたからな。今年はほんまのほんまに優勝して自慢したるわ、まあ楽しみに待っててや」
は嬉しそうに頷いた。その様子を見ただけで、忍足もつられて笑っていた。
さて、と。一氏は忍足に見つからないようわずかに首を傾げる。誰にも見られないようにしてコートに立った時にの言葉を思い出す。
仲間の集うコートで、仲間たちが同じ夢を託すラケットを握って、ふと忍足が視界に入ってきた時、の言葉がひどく優しく、そして、妙に羨ましい気分になっている自分に気づいた。
(……春やなあ。ほんま春や。忙しないで、お前らも俺も)
遠山金太郎という新入生に懇々となにかを伝えている忍足の後ろ姿を見つめる。視界片隅の財前も、いつもの通り興味があるのかないのか分からない顔をして同じ方向を向いている。
その横顔を見つめていたら、一氏は今日3度目の同じ言葉を用意する羽目になった。
「そらそうや。お前、素直なんやなくて度の過ぎたお人よしや」
「うわ、いって! なんやねん、ユウジ!」
「アホ、自分の練習後回しにしすぎるんは親切とはちゃうやろ。はよ財前のところいかんかい、捨てられた犬みたいにしとるやないか」
「……なに言うてるんですか先輩、きもいっすわ」
「アホぬかせ、これ以上の親切があるかい」
金太郎を白石の方に向かわせ、小春が親指と人差し指をくっつけてみせたのを確認して頷く。意味も分からずボールをぶつけられたと思っている忍足は理不尽だと怒って見せたが、財前のもとに行ってしまえばおかしなほどにいつもの表情に戻っていた。そして財前も、つまらなさそうな表情が消えている。
人生の8割以上を素直に笑って過ごせる男に対し、冷たくすることができる者などいない。
「財前の我がままとお前のお人よしは同じレベルやな。まあ、お前が行かへんかったら俺が行こうと思ってたぐらいやから、俺も同類やけど」
「お人よしはケンヤやで。俺はあいつのああいうところは別に好きとちゃうし」
「まあ、それは嫌いでもないっちゅうことやからな。お前は通訳がいるな、ほんま」
憮然として白石を見つめると、春の夕暮れに笑い声が響く。
この男も随分と素直な人間だ、と心の中で独りごつ。伝染するのはなにも恋愛野次馬だけではないらしい。
(まあ、ひとりの人間とそれだけ付き合えるなにかがあるのは、まだあいつだけやしな)
それでも絶対に素直に教えを請うなんてことはしないと、一氏は春の夕陽に誓う。
その後で、今日の部室掃除は先に進めておいてやる、程度なら忍足の背中に向かって言うことはできた。
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