| 彩光 04 |
きちんとできるのであれば最初からそうしろと、彼の目は呆れながらそう訴えているようだった。 悪い、と忍足は右手を真っ直ぐに立てて、言葉の代わりに真意を伝える。話しかけると逃げていきそうにも見える一氏にできる伝え方といえばそれが最も適切なような気がした。 「なんやねん、その『俺、思いやりあるんです』みたいな言い方。アホちゃうか」 呆れてそう呟いたと、苦笑する小春から聞かされたのは後日のこと。 自分は色々な人間に見守ってもらっているのだとしみじみと感じ入るような、そんな出来事だった。 四天宝寺中学にいなければ、テニス部で出会わなければ、そして時間が流れてくれなければ与えてもらうことも自分が感謝の気持ちを抱くこともできなかった一氏の言葉に、最近の自分をとらえてやまなかった悩みとその答えを見ているようだ。昇降口で秋の空を見上げながら忍足は思う。 秋はいつしか去り行き、吐く息が白くふわりと浮かび上がる冬へと変わりつつあった。 (最後の冬か) その言葉に悲痛な思いはない。むしろ最後のこの時にこの感情を抱くことができたことに妙な力を感じる。前向きにとらえすぎだとは財前の言葉で、言われてみれば自分でもそのとおりだと思うのだが、しかし一度そう思ってしまうとなかなか抜け出せなくなる。まるで悩んでいた頃、誰になにを言われても受け付けられなかったように。 「ケンヤくんは真っ直ぐで不器用な人間やから。ま、それがええところなんやと思うけど」 「うるさいわ。全然褒め言葉ちゃうし、それ」 「あら、褒め言葉やない言うたら白石さんの言葉の方がよっぽどそうやと思うけど。憎らしいぐらい真面目って、アタシよりもっと直球よ」 「……それはそうや。たしかに」 昇降口で偶然出会い、なにを伝えたわけでもないのに唐突に会話の流れを今の思考回路にあわせてきた小春。 だが、いつになっても彼の口から零れるのは真実だ。1年の時からそうなのだ、そして時間が流れた分だけ自分という人間をもっと深く知った言葉を向けてくれるのだ。 今日という日も改めてそれを実感すると、苦笑とともに手入れの行き届いた、けれどきちんと男の手をしている利き手がひらひらと揺れる。 「ほな、頑張って」 マフラーを冬の風に遊ばせて校門へと向かう。一氏とともにいないのが珍しかったが、声をかけてその謎解きをするのも違う気がしてただ背中を見送る。 いや、と忍足は小春の姿が校門の向こうに消えた時に口元を緩める。 心に宿ったのは自嘲めいた内容ながら、けれど皮肉の笑み浮かばない。 「お待たせ、謙也くん。ごめんな、先生の話が長引いてしもた」 が小走りで駆け寄ってくる。その息が若干あがっていることに気づいた時、小春を引き止めなかった理由を知らされる。 その行動を誰のためにとってくれてきたのかを知るのは、ひとりきりがよかったのだ。 「待ってへんし。なあ、なんや勘違いしとるみたいやから言うとくわ」 「……え?」 「謝るとしたら、俺の方やし。なんで真面目にやってきたの方がごめんごめん言うんか、俺が分からんくなってきた。もう禁止、それ。あ、ケンカした時以外」 周囲は受験生という肩書きを背負っているはずなのに気負いがない笑い声に満ちている。それらが飛び出してやまない昇降口の喧騒の中、いたって真面目に心の中の言葉を呟くと、はまた目を丸くする。 やがて小さく零れ落ちたのは、ため息でも拒絶の言葉でもなく、小さな笑い声だった。 「なんや、今日の謙也くん不思議やなあ。どうしたん? なんかあったん?」 柔らかい笑い方に丸みのある笑い声。決して身長は高い方ではなくて、本人がそれを気にしていることは知っていたが、なぜかにはそれがいいと思ってしまう自分がいる。財前の彼女を見ても、白石の彼女を見ても、千歳の九州時代の話を聞いていても、全く動かない心が妙に落ち着きがなくて手に余るほどになる。 忍足は少し鼻をすすったあと、空を見上げて静かに心の中を整える。 意を決した時には、の小さな右手を掴んでいた。 「話すとこがちゃうな。行こ。まあ、すぐに言えるもんでもない気がすんねんけどな」 3年生の帰宅の波でごった返す昇降口から離れる。ある程度ゆとりのある空間まで足を運ぶとすぐ手を離してしまうあたりが情けないとも思い、ちらりとを振り返るが、 「なんやよう分からんけど、謙也くんが楽しそうやからそれでええんかなあ」 なにも咎めず、不機嫌の欠片も抱かずただ笑ってこちらを見上げてくる瞳がそこにある事実に、心は安寧と高揚の入り混じった不思議な海に落とされた気分になる。 「せやなあ。がそう言うてくれたら、俺も気兼ねなく今日1日時間もらえるわ」 それを心地よいという以外、どのように表現すればよいというのか。 身体と身体には微妙な隙間があるのに、心には苦痛はない。その居心地のよさは誰にも分からないだろうと心の中で呟く、それは今まで一度も感じたことのなかった帰り道だった。 「お前、アホちゃうか。それ絶対時間かかるだけやろ」 目の前に、必死に力仕事をしようとしているクラスメイトがいた。 それは男の自分から見ても決して軽くは見えないいくつものハードルで、それをなぜ相手がひとりで片付けることになっているのかという思いよりも、なぜひとりで片付けようとしているのかの疑問が勝る。気づいた時には後ろから声をかけていた。 振り返ったというクラスメイトは、忍足の言葉に何度も目を瞬かせる。意味が分からないとその顔に書いてあるが、その反応こそ意味が分からなくて忍足は眉根を寄せた。 「男子やなくても、誰かと運べばええんちゃうの。……ちゅーかもうええ、俺手伝う。おーい、白石! お前も手伝え!」 「なんや、先生も薄情やなあ。なんで男女合同の時に女子にだけ片付けさせとるんや」 「忘れとったんとちゃうか。それか小春に頭ん中全部もってかれたんや」 「はは、それええなあ。今日のMVPは小春やな」 白石が笑って軽々とハードルを持ち上げる。決して左手を使わないその姿を見て、忍足は慌てて自分の左手でハードルを掴む。同級生ながら見習うことしかない白石の存在は尊敬を通り越して時折呆然とすることもある。 同じ1年ながらどうしてこうも違うのか、と小首を傾げたくなる気持ちでハードルを持ち上げると、 「忍足くん、ありがとう」 、という名前だったかと思い出すタイミングで背後から声が飛ぶ。 忍足は振り返って「別に」とだけ呟いて体育倉庫へと向かおうとしたが、ふと足を止める。 「そういえば……」 「え?」 「と話すの、これが初めてやな。小学校ちゃうし。せやけど、同じクラスなんやから話さん方がおかしいか。なんかあったらちゃんと言えよ、お前言えなそうやし」 「……」 「まあ、今はハードル持つぐらいしかできへんかったけど。せやけど案外いいやつ多いと思うで、うちのクラス」 唐突な忍足の言葉に、今度こそは驚いた顔をして唇をきつく閉じた。その仕草になにか間違えたことでも口にしたかと忍足は一瞬不安になったが、尋ねる度胸など中学1年生の時分ではあるはずもない。 忍足は疑問符のついた言葉も謝罪の言葉も用意できないまま、白石のあとを追って小走りでのもとを去る。だがその日から、との会話は増える一方だった。 付き合うことになった時、が最初に零した言葉は嬉しさでも安心感でもない、感謝の言葉だった。 「ありがとう、忍足くん」 「え、なんで。別に礼言われるようなことなんも」 それがなりの嬉しさの伝え方だと気づくまでは、少々の時間を要した。 偶然という名前の力を借りてもよいのであれば、それはまさに力の為せた業であったように思う。 広い四天宝寺地区の中で、通った幼稚園も小学校も異なって、クラスの溢れる四天宝寺中学に入学して最初の1年目で同じ時間と空間を共有することを許された。それは偶然以外のなにものでもない。 「そんなもんか? まあ、小難しいことなんか考えんでもええんとちゃうか」 白石がそう言うので、そうか、と納得する。考えれば偶然という言葉は随分と都合のいい言葉で、意味のある偶然は勝手に特別扱いをするのに対して、意味がないと思うどころか意味さえ考えない偶然に対してはその存在すら取り扱わない。 「偶然のおかげ、なんて言いたくないやんか。勝負事は自分の力で勝つから楽しいんやで」 異例の下級生部長に就任する前、いや入学してからの時間を数える方が早かったかもしれない初夏の太陽が眩しい頃、白石の呟きに忍足はなるほどと深く納得する。自分が今までの人生の中で最も時間を費やしてきたテニスにおいて実感できる事実を、否定できる力も理由もない。 それに、自分がと付き合う関係になったことは偶然のおかげではない。あの日あの時、自分が声をかけたことからすべては始まった。それすらも偶然と呼んでしまえば、一体自分という生き物を動かしているのは自分なのか他の目に見えない誰か、なにかなのか。 いや、と首を振ることは簡単だった。 その時は、首を横に振るだけの自信があったのだ。 (裏返しか、全部) 突然よみがえった記憶は少し微笑ましくて、けれどどこか苦い。無知という言葉を武器に使うことを許されていた頃の妙な自信は、恥ずかしい過去という別の名前も持っている。 だが、ととともに帰り道を歩きながら忍足はマフラーの中に口元までうずまって考える。 だが、あの頃の自信は行動の裏返しだった。動いた結果の、それに付随したものだったことを忘れている自分がいた。 「俺、ちょっと真面目になろ思て」 「謙也くんは十分真面目やと思うけどなあ」 予想外の言葉が飛び出してくることに、そろそろ慣れたのだろう。どうしてという疑問の表情をどこにも浮かべず、は笑ってばかりいる。昔であればそうさせているのは自分だなどという驕りのような自信があったが、今の自分はどうだ。 (してくれとる、っちゅう感覚やな。それはそれでええんやろうけど、せやけど) 忍足の家にたどりついたあと、誰もいないリビングを横目にに部屋へと向かうよう送り出す。きちんと冷蔵庫にむかって謝罪を述べたあと、姉のジュースを勝手に取り出して忍足は部屋へ急ぐ。 (せやけど、それに甘えるんも変な話やないか。そうやろ、お前らも) ふいに浮かんだ、生意気な後輩。いつも頭の片隅にいる親友。彼らがこの1年、どのような経験を積んできたかを思い出せば、 「なあ、」 「なに?」 「俺さ、頑張るから。頑張るっちゅーのも変な話やし、ほんまに頑張っとる人間はそんな宣言絶対しやへんのやろうけど……せやけど、お前だけは知っといてほしくて」 自分が動けないはずはないのだと、動かない理由などどこにもないのだと心に決める。 忍足の視線を受けて、は沈黙の中でわずかに首を傾ぐ。疑問に思ってのことではない、黒髪の揺れ方でそんなことは見抜いている。無防備という別名を持っているそれは、いつも、話を聞いてくれる時の姿だった。 「3年間、と付き合うてこれてよかったて、ほんまに思っとる。せやから、ありがとうって思うから、俺は頑張るって決めた」 話の流れは自分でも分からなかった。言葉の繋げ方も分からなかった。 けれど、と忍足はぐっと両手に力を込める。 けれど、3年間の時間をかけても絶対に心から離れようとしなかった感情を、大切にしたいという気持ちはもう見逃していたくなかった。 しばらくの沈黙のあと、は笑った。 「私は、謙也くんが好きでいられてよかったと思うよ。謙也くんみたいなええ人独り占めできるなんて、贅沢」 わずかに伏せた視線の睫毛が揺れる。白石のような笑い方だった。 それがどのうよな意味をしているのか、3年の時を経て分からなかったはずがない。だから心臓は派手な音をたてる。 「贅沢とかちゃうし。俺普通やし。……いや、普通なりに頑張るけど!」 「あはは、じゃあ私も頑張る」 「なんやそれ、俺が頑張る言うとるやないか」 「なんで私もやったらあかんの。謙也くん、勘違いしてるわ」 細い指がそっと伸びる。忍足の手に触れ、微かな温もりを乗せる。 息を飲んで真っ直ぐにを見つめれば、はふわりと笑った。 「私、謙也くんが思うとるよりもっとずっと、ずっとずっと謙也くんのこと好きなんやで」 それが合図だったのかは分からない。引き金かどうかを確かめることは億劫だった。 触れた五指を掴むこと、手首を握り締めること、身体を引き寄せること。すべてをが拒絶ではなく受け入れる姿勢を取ってくれたのではあれば、答えを言葉に出す時間ももったいないと思えた。 触れるだけのキスが、これほどまで胸を熱く苦しくさせるものなのかと知ったのはその時だった。 「先輩、丸く収まったて聞いたんですけど」 久しぶりに訪れたテニスコートで、財前がラケットのガットに五指をかけながら呟いた。 なにを突然、と白石は目を丸くしたが、すぐに彼の性格を思い出して苦笑が零れるのを止められなかった。なぜ笑う、と拗ねた猫のような視線が飛んでくる。包帯の巻かれた左手を軽くあげて謝罪の意味を見せれば、きらりと彼のピアスが間もなく夕陽に変わろうとしている冬の太陽にきらめいた。 「まるでそうなったらあかんみたいな言い方やないか、財前」 「別に。まあよかったんとちゃいますか、悩まれるよりはよっぽどええってユウジ先輩も言うてましたし」 言葉とは裏腹に、その視線も言葉もどこか刺々しい。だが憎らしさがまるでないあたりがこの後輩の魅力のひとつだと、忍足との共通認識を頭の片隅に招いておく。 「せやけど、みんなよう先輩にはちょっかいかけますね。俺が入部した時から、1日1回は絶対小春先輩らにからかわれとったような気がする」 「せやなあ。それが謙也の日課みたいなもんやったかもしれへんな」 やっぱり、と財前が小さく吐息を零す。その仕草が妙に猫のように見えて、白石は一度声をあげて笑った。鋭い視線が再び飛んでくる。 「お前が俺の言うことはよう聞くくせに、謙也にはなにかとつっかかるのと一緒やで」 笑い終えたあと、そっと呟く。白石の温もりを含む視線に、財前は一度ゆっくりと瞬きをしたあと小首を傾げる。しかしその表情に疑問符が見当たらないあたり、この後輩も素直なものだとおかしくなった。 「単純におもろいと思うんすけどね、俺は」 「おもろいっちゅうのは小春たちに預けとけ。謙也はおもろいんとちゃうで、あいつが」 ちらりと財前の視線が動く。テニス部のユニフォームはこれほどまでに目に眩しく、そして羨望にも似た感情を呼び起こさせるものだっただろうかと目を細めると、若干財前が居心地が悪そうに不機嫌な顔になった。 素直な仲間が多いと、白石は改めて思う。それが心をくすぐるから仕方がないのだ。 「あいつがええやつやから、みんな放っておけへんようになっとるだけや。俺かて小春かて、銀さんかて、みんな。それこそ、ユウジがつっかかるんも同じやんか。俺らが甘えとるんやで、実は。そういうやつが幸せにならんでどうするっちゅう、そういうことや」 財前はなにも言わなかった。ただ真っ直ぐにテニスコートを見つめる。 胸がすくような笑い声をあげながらテニスをする金太郎に笑いながら、白石はこの場で自分だけがまとっているマフラーが風に遊ばれていることに気づく。 それはいずれ、目の前のふたりにも訪れる引退の証明。 その時が実りあるものになればいいと、心の中で願うように呟く。 金太郎の打ったテニスボールは美しい放物線を描いて冬の空を舞った。 |
| >>05 10/04/29再録 |