| 天王寺慕情 01天王寺駅 白石編 |
夏は駆け足で去っていった。 呼び止める隙を見逃した。引き止める手を動かさなかった。それはまるで高速の、そう今目の前の景色を躊躇なく振り切っていく新幹線のように高速の出来事だった。 優勝旗が自分ではない他人の手に渡る表彰式を見つめていた時、そばでは忍足がやるせない表情を浮かべていて、ああ本当に、すべて終わったのかと悟った。 「謙也、水流れてんで」 「涙やし。しかも流れてへんし。こういう時にお前はなに冗談かましてんねん」 「せやで、白石。はよ東京のうまいもん食べに連れてってや」 「お前はもう少し余韻に浸らんかい、金太郎!」 本当はもっと後悔の色が強い瞬間を予定していた。昨年のこの時間、自分はどのように過ごしていただろうと白石はふと考える。だが去年は自分は試合に出ないままに終わった。高揚も後悔も中途半端に終わったと言われればそれまでで、実際そうなのだろう、帰りの新幹線でどのように時間を見送ったのかあまり覚えていない。大事ではなかったわけではないが、大事にしようという思いは、さほど強くなかったのかもしれない。 少なくとも、今年よりは。 (まあでも、ええ後悔やな。やりきった感が強くて、もっと楽しみたかったっちゅうのが本音やから。それに) 高速で流れ去っていく景色に向けていた視線を、そっと戻す。窓際に座ったのは失敗だったかもしれないと最初は思った。なにせ静かにじっとしていることが一番苦手な者ばかりである、コート上では放任主義を謳う白石も公の場となれば話は別だ。いざという時は自分が仲裁であったり叱責であったりという役目を担わなければならないのだが、窓際の奥まった席ではそれは難しい。 しかし、隣の金太郎(強制連行)と石田(監視役)の瞼はしっかりと閉じられていた。金太郎はともかく石田のそのような姿は珍しい。 白石は頬杖をとき、ふたりを起こさないようにしながらそっと上体を伸ばして周囲をうかがう。 通路の反対側の小石川は、石田と同じように瞳を閉じていた。前の席では千歳が大きな身体を窓に摺り寄せるようにしている。間違いなく寝ている。中央の一氏も首の角度が起きている人間のものとは若干異なる。その隣、小春は本を読んでいたが集中しているのか白石の動きには気づかない。だが小春が起きていただけでも十分だったのかもしれない、通路を挟んだ向こう側のふたりがけの席では数十分前まで言い合いをしていたはずの忍足と財前が、反発しあった磁石のように窓側と通路側に重心を預けた形で眠りに入っていた。 (……こんだけ熱中できた時間の過ごし方ができたんやったら、それでええか。後悔する時間がもったいない言えるわな、たしかに) 苦笑を零し、白石は席に深く腰かける。 全国大会が終了し、大阪へと戻る新幹線の中だった。東京観光はそこそこにしたつもりだったのだが、如何せんこの仲間である。全国大会の疲労も無視して遊びきった時間は、車内を静かにするための前触れだったのかもしれない。そんなことを思いながら、白石は外の景色を見つめていた。 (せやけど、あっという間やったなあ。続きは高校行ってからのお楽しみっちゅうやつなんやろけど、高校なんか行ったらもっと強くなってしまうやつらばっかりやんか。恐ろしいなあ、来年) 口元に浮かぶ笑みはそのままにした。そんな期待という名の高揚が、過ぎ去る夏への執着を少なくしているのかもしれない。 新横浜を過ぎてからどれほどたっただろう、それは分からない。行きはもう少し途中の駅に停車する新幹線だったが、帰りは校長のはからいで最速の新幹線に乗せてもうことができた。しかしそうすると今一体どのあたりを通過しているのかがまるで分からなくなる。 だが、そんな時間の使い方もいいのかもしれない。滅多に乗ることのないものである、なにかに気を取られているよりかはのんびりと目の前のものを楽しめる余裕を味わってみてもいいと、隣の後輩の寝顔が教えてくれているような気がした。 「……寝なくていいのかしら、蔵リン?」 そっと、前の座席から顔を出して小春が尋ねてきた。やはり気づいていたか、と白石はふと笑ってうなずいてみせる。 「いつ金太郎が起きるか知れんしなあ。みんな寝てしもてるやろ、ひとりぐらい起きっぱなしのやつがおってもええんとちゃうかって」 「まあ、相変わらず。さっき誰かさんに部長の名前を譲った人の台詞やないわね、それ」 「そういえば。ほんまやな、せやけどあいつはああしとる方が似合うと思ってしまうからなあ」 白石の視線を追って小春が自分の隣の席を見つめる。窓際に座る忍足と少しでも距離をとろうとしているのか、通路側にできる限り身体を寄せて頬杖をついて寝ている財前の姿に、小春は口を押さえて必死に笑い出すのを堪えた。 「お疲れ様、蔵リン」 突然、小春が呟いた。白石は少し目を丸くして彼を見上げる。 「なんやねん、急に。俺なんかしたか」 「別にええやないの、なにかせえへんかったら言うたらあかんの? お疲れ様って」 「身に覚えがないと心配になる」 「そんな人やから、お疲れ様。そういう意味よ」 小春は優しく微笑むと、姿勢を戻して白石の視界からその笑みを消した。 レールの上を高速で進む新幹線の車体の音が、再び静かに車内に満ちていく。耳を澄ませば金太郎のかすかな寝息が聞こえてきた。 白石は視線を落として困ったように笑う。窓の向こうの景色は、夕暮れを迎える準備をしている西に向かうにつれて青空の中に儚さを混ぜていった。 名古屋に停車した後、幾分か寝てしまったらしい。何の夢を見ているのか金太郎の左手に攻撃されて目を開ければ、ちょうど京都を出発するところだった。 意識をしていないと、何事もあっという間に時間というものを連れ去っていく。いや、時間に置いていかれていったのかもしれない。どうして自分の心情ひとつで時間の流れが異なるように感じてしまう瞬間があるのか、そればかりは永遠の謎だと改めて思う。 (ま、ええか。今日は難しいこと考えるのなしって決めたし) 身体を伸ばし、一呼吸。京都を過ぎれば新大阪までさほどの時間は必要としない。金太郎を揺り起こし、降りる準備を始めようとするが結局彼の目は新大阪に到着するまでまともに開くことはなかった。 四天宝寺中学は学区の広い学校である。最寄り駅が違うことは至極当然のことで、部員は新大阪駅で解散となった。明日部活はないが打ち合わせはあるぞ、という渡邊の言葉を一体どれだけの部員が聞いていたかは分からない。地下鉄へと向かう者そのまま乗り換える者、もともとまとまりのなかった集団がさらに散り散りに、様々な方向に流れていく。 「千歳、お前なにしてんねん」 ふと視界から消えた千歳を振り返り、忍足が尋ねる。その一言に白石も振り返ると、千歳はにっと笑って見せた。 「待機」 「は? なんでや」 「男には男の事情があったい」 新幹線改札口を出たところで鞄をおいた千歳は、ひらひらと手を振って見送りの姿勢を示す。忍足が不思議そうに首を傾げていたが、理由を知っている白石と小春はそんな彼をあっさりと大阪行きのホームへと連れ去る。 「なんやねん、白石。あいつもしかして熊本に帰るんとちゃうか」 「熊本やったら飛行機で帰るでしょ、東京から」 「あ、そうか。せやったらなんで」 「男には男の事情があんねん、謙也。財前みたいにな」 大阪駅から環状線で天王寺駅へと向かう一行の中に、財前の姿はなかった。小春とともに仕組んだ一件があったのだが、それが薬としての効果を通り越して別の作用を引き出してしまい、彼は怒ってひとりで帰ってしまっていた。仕方ない、と財前の役だった金太郎の送迎を小石川が引き受けたのが数分前の出来事。 迎えにきていた(正確には白石たちがこさせた)恋人を前に逃げ出した財前と、千歳。それがどう結びつくのか、忍足には見当がつかないらしい。何度も首を傾げては、やがて眉間に皺を寄せた。そんなことをしているだけで新大阪から大阪までの数分はあっという間に過ぎる。 「まあ、身体の休め方はいろいろあるっちゅうこっちゃ。とりあえずはよ帰るで、俺腹が減って死にそうや」 「もう7時やもんねえ。どうする? みんなで軽く駅前でご飯食べる?」 「ええな、それ。俺行くわ」 「小春が行くんやったら俺も行くで」 「ワシは、遠慮しよう」 「そうやなあ……」 環状線の混雑の中で、考え込む忍足に誰も構わなくなったころ。 小春の提案に次々と賛成の言葉が続く。新幹線の中では気にならなかったが、動き出してしまうと途端空腹が自己主張をし始める。少しぐらいなら食べていっても夕食には差し支えないだろうか、と白石が携帯電話を取り出した時、着信を告げるその光は優しく輝いていた。 数分前に届けられていたメールの文面を白石は黙って見つめていたが、やがて天王寺駅に到着する手前、ぱたんと携帯電話を閉じて小春を見つめる。 「悪い、俺パス。小春らで行ってもろてもええか」 なんでや、と忍足が声を出そうとするよりも早く、小春が忍足と白石の視界の中央に顔を入れ込んできた。 「ええわよお、責任もって送り届けるから。アタシが。ケンヤくんを」 「アホ、なんでお前に送られなあかんねん! ちゅうかどこ連れていく気や!」 「小春、なに言うてんねん! 俺と一緒に帰るんとちゃうんか!」 「……ワシも一緒に行った方がええのう、これは」 石田が呟く。白石は申し訳なさそうに空いている左手をあげ、石田に詫びた。石田はゆっくりと首を横に振っただけだった。 「人の放縦を一番受け入れて、聞き届けてきたんは白石はんや。ワシができるのはこれぐらいで、申し訳ない」 環状線のホームに雪崩のように押し出された時、石田は改札へと向かう階段を見上げた白石にそう呟いた。そんなことはない、と白石が首を横に振るが、その否定は受け入れてはもらえなかった。 はよ、と。呟いて、石田は忍足たちを白石とは反対側の階段へと促す。小春がその隙間から手を振っていた。 (どんだけお人よしの集まりやねん) 東京からの帰りという、お世辞にも軽いとは言えない荷物を抱えながら去っていく親友たちの後ろ姿に、白石は堪えきれず笑い出す。声を上げられないのが心残りだったが、振り返って階段を見上げればそのような瑣末なことはなに、気にすることもない。 白石は階段をのぼる。これが中央改札へと向かう階段であればもっと広々とした幅があるのだが、今自分が歩いているのはそのような幅とは無縁の小さな階段だった。だが比例して人の数も少ない。 そのようなことを考えてくれているのか、とのぼりきった階段を振り返って考えてもみたが、すぐにやめた。それも、意味がない。 むしろ違う意味を考えよう。様々な乗り場へと向かう人の波とすれ違いながら、目的の場所を目指して白石は考える。 中央改札よりもこじんまりとした東改札口に、その姿はあった。 「おかえり。お疲れ様」 「ただいま」 改札を通り抜ける時、思わず視線を逸らした。恥ずかしさからくるものだと気づいたのは、出迎えてくれたが遠慮がちに笑った時だった。それが恥ずかしさから生まれていることなど、考えなくとも分かる。自分が視線を逸らすのとまるで変わらなかった。 「なんで東口やねん、普通中央改札んとこちゃうん」 「え、だってあっちむっちゃ人いっぱいやんか、いつも。白石くん疲れてるのにそれはどうなんかなあと思て」 遠慮がちに紡ぎだされる言葉は、夏の夜にはいささか不釣合いだった。暑苦しさとまるで寄り添えない。耳に優しすぎる。 今、そのような言葉を聞かされて冷静に受け止めるだけの余裕など自分にはないのだということを、その緊張から思わず返す言葉を見失うほどの言葉ひとつひとつに今でも、いや今までよりも一喜一憂している自分に、が似てしまえばいいと白石はいつも思う。 「あかんかった?」 沈黙する白石に、は上目遣いでそっと尋ねる。まさか、と白石は首を横に振った。 白旗は、当分自分専用らしい。率直に尋ねるの態度に、似てくれと申し出る勇気のない自分がおかしかった。 「優しすぎて困ります。俺そんなええ人やないのに、なんでみんなそんな優しいんやろな」 「え? みんな?」 「小春なり、銀なり。まあ謙也もか。ちゅうかみんなか。なんちゅうか、ほんまにええんかなとか思ってしまう時があるわ」 独りよがりという言葉の意味を、どこまで都合よく利用しているのだろうか。ふと考え始めると、自分の性格はなかなか元に戻らない。今日は難しいことは考えないようにしようと決めていたはずなのに、とたしなめる自分というのも見失いそうになる。 いつもであれば、いや今までであれば、その思考のまま行動していただろう。夜道の供にその苦悩を選んでいただろう。 「なんて言えばええかな」 だが、今日はひとりではない。 小さな改札、人の流れは途絶えることはなくとも多くない。公共の場であっても雑音は大きくなく、の声ははっきりと耳に届く。駅の無骨に明るい照明が、の表情をどこもかすませることなく映し出す。 「みんな多分、ものすごいありがとうって思ってるから。せやけど白石くん、部長の仕事は感謝される仕事とちゃうって思うところ……あるって、前言うてたやん?」 「え? ……ああ、言うたかな」 普段意識していることなので、言葉に出したかどうかは覚えていない。がしっかりとうなずくのでそうだったのだろう、と認識する程度だ。 「そうすると、みんなが感謝を伝えられるのって。もう、それしかないと思うんやけど、私」 「それ?」 「お疲れ様とか、声かけたり。白石くんの代わりになにかを進んでしたり。私が言える立場や絶対ないんやけど、白石くん、……そういうとこ頑固やん?」 「は」 「なんていうか、こう……正義のヒーローすぎるところあるやんか?」 「……はあ」 「それ、小春たち分かってるし知ってるし、多分。せやから『お疲れ様』。と、思う。私は」 何の話だ、と問いかける心は置いてきぼりだった。唐突に、しかも珍しくが多弁になっているのを止める手段が白石にはなかった。 しかしこの、胸にすとんと落ちてくる感覚は悪くない。見抜かれている自分などというのはあまり好きではなかったはずなのに、恋愛というものはかくも勝手な産物だ。知っていてもらわないと困るのだ、などという傲慢な考えが基盤にあって、が自分について語る瞬間がまるで居心地が悪くない。 「やから、白石くんに悩んでほしくて言うてるんとちゃうんやから。そこは素直に受けとめてほしいなあ……なんて。勝手に迎えにきてしもた私が言える立場やないんやけど、ほんま。ごめんね、せやけど応援行けへんかったの申し訳ない……ちゅうか、寂しくて」 「……うん」 「……会いたかった、って言うたら怒る?」 申し訳なさそうに、手持ち無沙汰のように髪に触れながらが呟く。 白石はしばらく黙っていたが、やがての手を取って改札の前から離れる。平日の夜である、まわりに恐らく同級生はいないだろう。いや、いない。断定してしまえば視界は前だけを見ればいいし手はの熱だけを感じればよいし、心は、思うままでよい。 「あかんわ、まさか告白されるとは思ってもみいひんかった」 「え、ちょっと! 白石くん!」 「、俺な、部活引退やねん」 「知ってる」 「ということはやで、もう少しとの時間について考えてもええっちゅうことやんか」 「……ええ?」 「とりあえず、その名前の言い方から変えさせるわ。なんかむず痒いわ、いまだに名字とか」 笑いながら呟くと、はあからさまに言葉につまったような顔をした。しかし握り締めた白石の手を決して振り払おうとしないどころか、強く五指が絡むように組みなおす。おや、と振り返れば、察しろというように拗ねているのか照れているのか分からない恋人の表情。 難しく考えなくていいと誰かが言う。時間の流れに身を任せていいと誰かが言う。 すると自然、今の自分は笑うことしかできないのだが、それでいいだろうか。誰に問いかけるでもなく心の中で呟くと、煌々と夏の夜に光り輝く店の照明の下、白石は笑いを堪えることができなくなった。 「キスでもしたら言うこと聞いてくれるんやろか、わがままな彼女っちゅうのは」 「しなくていい!」 引き寄せるように手に力を込め、を自分の隣に並ばせる。 怒る表情も見上げる角度の視線を伴ってしまっては効果が薄れる。そんなの仕草ひとつひとつに熱中しそうになる自分に白石は気づいてしまう。後悔するのがもったいないと、新幹線の中で思ったことが当たり前のように心の中に宿る。 「、覚えといた方がええで。いっこ」 「え?」 「俺な、目標ひとつ作られると結構真面目にそれに取り組むやつやねん。結構頑固やねん。せやから絶対名前で呼ばせたる、今決めた」 「……ええ?」 「考えてもみい、小春しか下の名前で呼んでくれへんとかありえへんやろ。しかも蔵リンて。なんやねん俺は小春の彼氏か。あいつは俺の彼女か」 自然、の家への道を歩きながら呟いた一言に、は珍しく派手に笑い声をあげる。 今にみていろ、なんて。なにを躍起になっているのだろう、いや仲間たちの優しさが無邪気にさせてくれているのだろうと思ったその時、そっと腕に寄り添った恋人が恥ずかしそうに耳元で囁いた自分の名前は、結局白石に再び押し黙るという白旗を振らせたのだった。 |
| 11/01/09 |