清麗な籠

「自堕落な生活は簡単には直りませんね」

 無機質という言葉をこれほど端的に、かつ正確に表した空間をは他に見たことがない。そもそもその言葉どおりの部屋というものが本当に存在するということを認識するためには、まずこの部屋を現実のものとして受け止めなければならないのだが、なかなか納得できないのが現状だ。
 けれど、綺麗という言葉が寄り添うことのできるこの部屋を、綺麗という言葉だけで飾りたくないという思いもある。
 そんな人を彼氏にもってしまった以上、これは一生の悩みになるのかもしれない。机にむかったまま1時間近くろくな会話をしてくれない観月の背中を見つめたまま、ベッドに腰掛けていたは小さくため息をついた。そして投げかけられたのは、「自堕落」という言葉だった。今度は大げさにため息をつく。

「私はいつか観月の頭の中がデータでパンクしそうで心配です」
「人の限界を勝手に決めないでください。赤澤ならともなく」
「それは赤澤くんにとても失礼だと思います」
「それならばきみがもう少し可愛がってあげたらどうですか、からかうのも大概にして」

 言葉を投げかけてはくれるものの、それは目と目を合わせてのものではない。表情すら窺えない、そんな距離と位置関係は今に始まったことではない。それは分かっている。
 しかし、こんな時ぐらいはと。そのように思う感情があることも、また否定することができない。

「からかってないよ、それを言うなら木更津の方がよっぽどからかってるじゃない」
「……それは、まあ。否定はしません。よく分かっていますね」
「だったら同じテニス部として観月が優しくしてあげればいいんじゃない?」
「結構です。遠慮します」
「……そんな、きっぱり否定しなくても」
「御免蒙ります。僕は聖ルドルフのテニス部のために召集されたのであって、赤澤のお守りをするためにやって来たわけではないんですから」

 時々会話の中にまぎれる観月の本音。確固たる意志。
 それは、もちろん観月はじめという人間に惚れ込んだ理由のひとつなのだから、こうして聞かせてくれるのは何よりも嬉しい。この部屋で、この会話をできる異性は自分だけだという事実は、本当になによりも嬉しいに違いないのだけれども。
 は観月の背中を見つめたまま、小さく下唇を噛み締めた。

(甘えたくなるのは、だめなのかなやっぱり)

 寮生活は善か悪か。自分に都合のいい解釈をしたくなる理由ぐらい、他の誰でもない目の前の恋人にだけは認めてもらいたかった。それが我がままと言われても。
 かつて、この部屋で何かが起きなかったわけではない。同じ寮で生活している柳沢や後輩の不二が仰天しかねないことをしなかったわけではない(木更津はとっくに予想済みというかむしろ彼も常習犯だと思うのでこの場合は候補から外される)。

(我がままかな。でも、でもね、観月)

 理由をつけて自分の胸の内に眠る感情を正当化しようとするが、結局それも言い逃れのような気がしないでもない。好きという感情を免罪符にして、恋人という関係を盾にして自分の願いを叶えたがるのは自分自身でも卑怯な手段だとは思う。観月も本来そのような使われ方をしたくて自分との関係を肯定してくれているのではないと、痛いほど分かってはいる。
 しかし、この無機質なようで整然とされすぎているようで味気なくも見えるこの部屋は、優しく居心地が良い。
 そうしてが押し黙ると、沈黙を気にしたのか観月が背中を向けたままではあったけれど言葉を振ってきた。しかし、
 
「大体、きみはもう少し真面目な学生生活を送るべきです」
「え」
「知らないとでも思っているんですか。授業中にきみがどれほど集中力を欠いた行動をしているのか、僕が気づかないとでも本気で思っているんですか」

 そこからは到底甘さなんてものとはかけ離れている、説教を通り越した叱責の声が飛び続けていくことになる。
 いつものこと、いつものことと思えば思うものの、はため息をひとつつく。それは反論の合図だ。

「悪いけど、観月ほどじゃないけどテストそんなに悪くないからね? 観月ほどじゃないけど、赤澤や木更津よりはまだ成績いいはずだからね?」
「比べる対象が間違っています。というか何の自慢ですかそれは。そもそも僕に勝とうとするのも納得がいかない」
「な、なによ納得って。どれだけ自慢してるの!」
「きみよりはよっぽど真面目な授業態度ですから。授業中にうたた寝なんてしませんから僕は」
「それは私だけじゃない」
「反論するならもっと勇ましくあってほしいものです。そもそも、勉強云々じゃなくて私生活を言ってるんです僕は。男子寮に堂々と居座っているのはどこの誰ですか。はそういう意味ではものすごく不真面目ですよ」

 その一言にはふと顔をあげる。相変わらずそこには背中しかなかったけれど、口調が変化したことだけは相手がどれほど嫌がっても絶対聞き逃さない自信があった。
 観月の呼び方が「きみ」から「」にかわるのは、彼の気がふと緩んだ瞬間。特別に、真面目でなくなる瞬間なのだということは、誰よりもが知っている。
 観月だからこそ女子の名前を名字で呼び捨てなんてするはずがない、と思い込むのは簡単でとてもしっくりくる話で、実際に学校ではそのような場面しか目撃したことはない。しかし一度呼び捨てにされるこの快感を味わってしまうと、定説などというものはなんて色気のないものだと思ってしまうから不思議だ。

(女子で呼び捨てにするのは私だけなんだよね、観月)

 ベッドに腰掛けたまま両手で頬杖をついてその背中を見つめる。
 これではまるでお預けをくらっていた犬が少しかまってもらって尻尾を振っているのと同じだ。けれど、それを素直に嬉しいととった方がよほど心が温かくなることを知っているは、そんな自分に苦笑しつつもう一度会話を繋げた。

「親泣かせはお互い様でしょう? 観月に言われる筋合いはないと思うな、私」
「……なんですって?」
「いえ、なにも」

 あの美麗な顔で振り返られても、もはや初めての時のような硬直感はない。煌々と漏れる柔らかい光や、微かに流れるクラシック音楽だけが空間を満たしている。それ以上のものは何もない。あるとすれば、目が合って嬉しがる自分の浮かれた心ぐらいか。
 再スタートさせておきながらさっさと会話を切り終えたに何を言うでもなく、観月は少しだけ顔をしかめただけでさしたる反応もしなかった。そのまま事の真意を確かめることもしないまま再び背中を向け、机に向かった。
 壁にかけられた時計の短針は、既に7時を回っていた。
 聖ルドルフ学院の地方出身組は一般的には学生寮に入ることが原則となっており、テニス部強化メンバーとして召集された観月もその例に漏れず寮生活を送っていた。6畳ほどの空間に響くものは、さきほどと何も変わらない。壁掛け時計が間違いなく刻んでいく秒針と、オーディオから流れ出る耳に馴染んだ音楽と、観月が綴るシャーペンの文字の筆記音だけ。部屋の主が背中を向けてしまえば、に残されるものはそれだけだった。
 そこには、昔ほど硬くて、痛くて、悲しい空気はまったくなかった。
 手に触れるベッドのシーツの感覚も、耳に流れ込むかすかな音も、目に映るその背中も、すべてが昔と違う。昔と言い切れるほど長い長い時間が流れたものでもないけれど、それでも隙間のないような密度が感覚を鈍らせる。これに喜びを感じてしまう自分の心の変化が何よりの証拠だ。

「私、寝ててもいい?」
「駄目です」

 その変化を今日も感じ取れることが嬉しくて、思わず心の本音を口に出す。
 しかし部屋の主は、彼女であるを見ることもなくきっぱりと言い捨てた。

「横になるだけは?」
は一度寝たら起きないじゃないですか。だから駄目です。7時半には帰りなさい」
「この前もそう言ったくせに、帰してくれなかったじゃない」
「あれはあなたが勝手に寝たんです。帰さなかったんじゃなくて、あなたが帰らなかっただけです」
「その後一緒に寝てたのは紛れもなく観月です」
「……帰らせますよ? 今。家主に反抗するとはいい度胸ですね」

 再び振り返った観月に、は笑って首を横に振った。
 この人の温もりを知っている異性は、きっと自分だけだという優越感が言いようのないほどの嬉しさをもたらす。柔らかい感触のシーツがますます埋まりたいという欲求を大きくさせる。
 我がままな欲求を許してくれる、この空間がすべていけない。
 本当は、部外者立ち入り禁止なうえに当然女性厳禁で、たとえ許可を得た人間であったとしてもこの寮に住んでいる人間でなければ午後7時以降は入寮禁止というのが鉄則のはずなのに。
 それなのに、その背中はを追い出そうとはしなかった。ちょっかいを出す声にも嫌がる反応を示さなかった。それは昔に比べればとても優しく、清らかなこの部屋の中でその優しさを享受できるのは自分だけという感覚が、ますますこちらの感情を欲深いものにさせるということをこの人は分かっているのだろうか。

「相変わらず、熱心だね」

 結局ベッドに横たわり、髪の毛がシーツの上にたゆたうのを見つめながらは呟く。観月は微かに笑った。

「熱心かどうかは。何を基準とするかは、人それぞれでしょう。まあ、仕事として与えられたことはやり通さないと落ち着きませんが」
「でも宿題をするよりはずっと時間かけてるし、集中してる。テニス部のことは」
「それはどうも」

 その笑みはあまり人前で見せるものではないことを知っている。その声は頻繁に他人に聞かせるものでもないということも知っている。
 全て、この限られた空間においてのみ生存を許される優しさで、その優しさに甘えたいと思うのは、本音という一言で説明がつく。
 しかし、そんな一言で片付けられるほど自分の気持ちは簡単なものではないとは思う。
 柔らかいシーツには観月を思い起こさせる芳香が焚きこまれているかのようで、瞳を閉じるだけで抱きしめられるような錯覚に陥る。そんな単純な人間ではない、と思うのと同時に、そうさせてしまった恋人の存在の大きさが身に染みる。

「やっぱり、観月はテニスをしている時が一番楽しそうだね」

 居心地の良さに溺れながらはそっとと呟く。しばらくの沈黙をおいて椅子が軽い音を立てて動いた。
 目をあければ、そこには1時間ぶりの恋人の、真正面からの姿がある。相変わらず椅子に座ったまま、シャーペンを持ったままではあったけれど、久しぶりに自分だけを真っ直ぐに見つめてくれる瞳がそこにはあった。

「何を改まって。というか、その前にそこで寝ない」
「だって」
「だってもなにもないでしょう。スカートが皺になるから嫌だと言ったのはどこの誰です」
「それは、観月が無理矢理倒すから」

 それが、ひとつのお願い事だということにいつからなってしまったのか。
 口にした後そんなことを思っているうちに、視界の中の恋人は小さくため息をついて椅子から立ち上がり、いまだベッドに横たわったままのの両腕を握って軽々と上半身を起こさせた。
 いくら赤澤と比較して細い腕と言っても、所詮は男と女。テニス部で鍛えた体躯の持ち主で、そしてこの部屋の中では観月が主。

「人聞きの悪いことを言わない。第一は自分から寝ることの方が多いでしょう。僕の責任ですか、それも」
「だって」
「だってじゃない。責任転嫁もいい加減にしなさい」
「だって観月のせいじゃない」
「僕が何をしたって言うんです」
「この部屋に来ると、抱きつきたくなるようにさせたのは観月じゃない」

 無理矢理ベッドから引き離されてやや反抗気味に呟く。久方ぶりに傍近くで見た漆黒の瞳は、昔に比べると少しだけ柔らかい曲線を描くようになっていた。
 腕をつかまれたまま、はそっと観月を見上げ、白いシャツを握り締めた。
 観月に執着する独占欲剥き出しのこの感情をどう処理していいのか、は答えを出せないでいる。むしろ知りたくないという思いが先立っているようも思う。なぜならそれは、名前のつけられない、自分でも今までに抱いたことのない感情なのだ。

「ねえ、はじめくん」
「……そう呼ぶ時は悪い予感しかしませんが」
「特別な時って言ってよ、せめて」

 諦めたかのようにため息を混じらせながらベッドに腰掛けた観月に、はかすかに笑って綺麗な瞳を覗き込んだ。
 この人には、やはり綺麗という言葉が最も相応しいと、その怒っているのか困っているのか分からない眉間の皺に痛感しながら。

「私、自分よりも彼氏の方が綺麗な顔してるのって、結構複雑なのね。それなりに」
「なにを突然」
「もちろんそれは観月のせいじゃないって分かってるんだけど。でも、思わないこともないわけで。でも私も可愛くありたいとは思うの。彼女にしてもらえたんだからだから、尚更」

 突然のの台詞に、観月は不可解極まりないという表情を隠さない。しかし観月の腕はがしっかりと掴んでいるため、その温もりに甘んじてくれているのか離れようとはしなかった。
 この人は、無理矢理この手を振り払おうとしないことの意味を知っているのだろうか。それとも、これすらもこの部屋のせいにしてしまっていいだろうか。
 温かくて、優しいこの部屋は我がままを許してくれると思ってもいいだろうか。
 はじっと観月を見つめた後、勝者になるべく口端をあげて笑った。

「だから、こうしたら少しは可愛く思ってもらえますか?」

 柔らかさを訴えるベッドの上で、温もりを伝えてくる観月の頬に唇を寄せる。
 教室はもちろん学校内ではこの温もりは掴まえられない。そもそも学校は観月にとってはテニス部そのものとイコールで結ばれてる場所で、彼女だからこそ入り込んではいけない空間だということをは知っている。そのことを知らない女子生徒が遠慮なく空間を荒らしまわることを、誰よりも嫌っている観月だということを理解している。だから特別な立場を与えてもらっている。
 ならばせめて、この2人きりの空間だけでも。唯一恋人関係であることを行動で示すことができるこの籠の中だけでも、甘えさせてくれてもいいではないか。そんな思いを胸に、そっと唇を頬から離したならば、

に主導権を渡したつもりはないんですが」
「だからこうして待ってました。男子寮の観月はじめくんのお部屋で」
「自堕落な生活に付き合わされる僕の身にはならないんですか」

 それを自堕落と言うならば、と、反論しそうになった口は呆気なく恋人のそれによって塞がれた。
 最初に溺れさせたのは誰だと思っているのか。瞳で暗にそう問いかけていたらしく、観月は一度鼻で笑ったあとベッドにを押し倒し、手首に口づけてから囁いた。

「責任を取る自信があるからに決まっているでしょう」

 清く美しい部屋の中で零された言葉は、ひどく独占欲にまみれた言葉。けれどそれが心に響くことを、観月には全て見透かされていた。



03/10/31