子どもの仮面

 お兄様ですか、と尋ねられることにはもう慣れていた。

「ああ、はい」

 当の本人も答えることに慣れていた。答えるという名の相手に合わせる行為だったが、真実は憚るべき内容のため当然とも言えた。
 ただ、嘘ならば嘘で、もっとありがたみのある偽りでなくては面白くない。

「なに拗ねてるの、いまさらなことに」
「拗ねてなんかいません」
「説得力ないなあ、その顔と声」
「生まれつきです」
「それは困った」

 自然な笑みを向けるこの男に、何度言葉を飲み込まされたことだろう。
 ぎゅっと鞄の取っ手を握る手に力を込めて、は可愛げのない上目遣いで佐伯を見つめる。仕事のない日の佐伯は出会った頃とまるで変わっておらず、いつも大学生と間違えられる。体つきのわりに表情ひとつひとつに屈託がないせいで、実年齢より上に見られることは実はあまりない。俺たちも同い年に思えなくなってきたというのは黒羽の言葉で、口さえ開かなければ天根が年上に見られることもざらにある。
 ただ、それならばと余計には思う。それならば、着飾って必死に追いつこうとしている自分に対して、周りはもっと優しくあってもいいのではないだろうか。

「どうして兄妹なの、ありえない。どう見たって彼氏と彼女なのに」

 むくれて唇を尖らせる。今日は久しぶりに佐伯が休みとなったこともあって、すべての準備を万端にして臨んだデートであったというのに、そんな気分は一瞬で打ち壊された。は去っていった店員の背中を恨めしく見つめることしかできない。

「離れて歩くからだよ。手も繋いでないしね。そう見させているのは俺たちだし、そうあるべきだと思うんだけどな、俺は」
「でもそれは、仕方ない……」
「うん、だから。そこで店員さんを怒るのは筋違いだということ」

 諭すようにゆっくりと言う佐伯に、は不機嫌を隠せないままうつむく。
 このような時、自分との年の差を実感させられる。正論を言葉にして、浮ついた響きなどまるでさせないで相手を納得させる術に関しては絶対に勝つことができない。
 自分はいつまでも、自分の幼さをこの人の言葉によって教えられ、その都度この人の口を煩わせ、迷惑をかけてしまうのだろうか。ふとそんな考えがよぎるが、

「そもそも、彼氏彼女にこだわってどうするの。俺は今の方がいいよ」

 自分を喜ばせる方法に関しては、この人の上を行く人間に出会える自信がまるでない。
 そっと視線を向け、引き際が分からなくなっている唇を小さく噛み締める。その仕草だけで佐伯はすべてを理解し、優しく微笑む。

「結婚したらデートできないなんて、誰かが決めた?」

 たったそれだけの言葉で、身体の強張りがほぐれてしまうのだからおかしな話だった。
 優しさは卑怯だと時に思う。優しさは大人と子どもの違いを見せつけるための方法にも見える。そして佐伯がそれを用いると、自分はまるで駄目な人間のようにも思える。まるで佐伯に追いつけない、情けない人間のように思えてならない。けれど、

「……言いくるめられるのは私の仕事のような気がしてきた、最近」
「言いくるめられるとは、また随分な言い方だね。そんなことを教えたつもりはないけど」
「だって、先……!」
「はい、それは今日は駄目。手繋ぐの我慢してるのに、追い撃ちかけてどうするの」

 そっと伸びる人差し指が、意外としっかりしていることを知っている。
 見つめる瞳が、自分にだけ違う色をしてくれることも知っている。
 その独占欲の前では、時々情けなさも礼儀のなさも覚悟の上となる。なにもかもをかなぐり捨ててその胸に飛び込みたくなる瞬間があることも、は知っている。

「初めて会った時から先生だったんだもん、簡単には変えられないよ」

 笑われるだろうか、呆れられるだろうか、一抹の不安とともに小さく呟けば、しかし佐伯はいつもどおりの優しい笑みを浮かべるだけだった。

「知ってるよ。高校を卒業するまでは、はまだ俺の生徒だから」

 言葉の表面だけを捉えればどこか突き放すような響きを持っていてもいいかもしれない。しかしその言葉が信愛から生まれていることに気づかないはずがない。
 教師であり、夫。教師と生徒という関係は、夫婦という関係の前ではいくらでも弱くなってくれる。
 飽きたのではない、理解してくれているのだ。突き放しているのではない、待ってくれているのだ。言葉の真意は問わずとも手に取るように分かってしまう。そして分かってしまうことを佐伯も理解している、だからそれ以上の言葉を用意しない。

「先生」
「だから、それは今日は……」
「私、早く大人になるから。それまで待ってて」

 小声で耳元で囁けば、苦笑ばかりが返される。

「ずっと一緒にいるのに、待っててなんて言われても」

 やはりこの人は大人だ、とは思う。頬を赤らめることがこんなにも簡単にできることを教えられるのは、この人以外にはいないと思う。
 個人的な感情で表情を、体温を変えていいと認めてくれている大人だと、心から思う。
 歩を進めた佐伯の横に並び、見上げて笑みを向ける。さきほどよりも簡単に笑うことができた。頬は強張らない、素直に情愛をのせた笑みを向けることができる。
 佐伯は今日も、それを温かい目で受け止めてくれた。





 初めて佐伯と出会ったのは、が中学3年の時だった。
 当時佐伯はまだ大学生で、家庭教師のバイトというありふれた理由での前に現れた。千葉県の地元の小学、中学、高校、そして大学までも千葉の国立大学という、その風貌に似合わず千葉一筋で生きてきた佐伯は中学3年のにとっては話しやすく、親しみのある教師だった。
 そしてが合格した高校の新任教師となっていた佐伯と、諸々を経て結婚にいたったのが高校2年の春。
 それ以来、朝目覚めた時に目の前にこの端整な顔があることにも慣れてしまった。

「……おはようございます」

 小声でそっと呟いて、いまだ夢の中の佐伯を残して寝室から出る。中学時代よりも随分と早起きが得意になった身体は、朝陽を見ても嫌な顔をしなくなった。
 朝は洗濯と朝食の準備だけでいいことになっている。むしろ洗濯すら帰宅後で構わないと佐伯は言っていたが、いくら大丈夫と言われても太陽の光を浴びない洗濯物は好ましくないというのがの持論だった。
 慣れた手つきで洗濯の準備を終え、キッチンに立つ。制服の上からエプロンをつける感覚にも、洗濯をしながら朝食に準備するものを考えることにも慣れてきた。
 後にして思えば、その時。味噌汁をいつも通り作ろう、その何気ない選択からその日のすべては始まっていた。

(あ、そういえば赤味噌……)

 豆腐を切った直後に思い出し、慌てて確認するも冷蔵庫の中に入れておいたパックの中身はもはや残骸というに等しい状況だった。しまった、とため息をついて冷蔵庫の中を見つめる。
 佐伯が家事に関して口うるさくなることは滅多になく、たとえ失敗しても笑って許してくれるのが常だった。むしろ手伝い、助けてくれることの方が多く、それでは申し訳ないからと料理にだけは極力手を出させないようにしている。
 そう宣言している以上、佐伯の嫌いなものは作ることができない。
 冷蔵庫を見つめているうちに、眉間に皺ができていたことにようやくは気がつく。慌てて首を振るも、しかし目の前には空になった赤味噌のパックがひとつだけ。
 スポーツをしている佐伯に、好き嫌いはあまりない。
 好き嫌いがない代わりに、小さなこだわりがある。

「……しまったなあ、味噌汁が作れない」

 幼い頃より魚介類の中でも特に貝を食す機会の多かった佐伯は、味噌汁だけは断固として赤味噌がいいと断言した。料理に関しての数少ない注文のひとつだった。自身にはこだわりはあまりなかったため、その注文を受け入れることにはなんの問題もない。
 だが、それは個人感情の話まで。
 注文ということはつまり、それ以外の選択肢は初めから存在しないということになる。

「……いや、でもインスタントよりは。多分いい。はず」

 しばらく躊躇した後、差し出された選択肢の片方に踏み切る。
 佐伯の好みか、料理の責任か。
 大概のことであればほぼ前者に委ねる。それを佐伯は子どもだと笑うことが多いが、無理でない範囲でなければと止めはしない。彼は激情を表に出すことは滅多にないが、自分に向けられている熱情と敬愛の混じった感情は受け入れる姿勢しか取らない。
 だが、今日は佐伯に甘えるわけにはいかない。なぜなら自分には甘えだけでは通用しない妻としての立場がある。
 はシェルフに常備してあるインスタントには手を出さず、あまり使わない白味噌を手に取る。せめて白味噌に合う具材をと洗濯をしながら組み立てた朝食プランを一度流す。少しでも美味しいものを作るべきだろう、と躍起になればその日の朝は瞬く間に時間が過ぎていった。

「……白味噌?」

 静寂を破ったのは、その一声だった。
 御飯をよそいながら振り返れば、ネクタイをしめる手もそのままに呆然と佐伯が呟く姿。あまりに端的に今朝の出来事を語ってしまうその一言には一瞬ひやりとし、息を飲む。
 思えば、白味噌の味噌汁を用意したのはこれが初めてだった。佐伯が白味噌の味噌汁を食す場面に出くわしたことも記憶にはない。
 赤がよかったとため息をつかれるだろうか、それとも現状を理解して認めてくれるだろうか。様々な考えが頭をよぎったが、

「白は無理だよ。どんなに美味しそうに見えても、赤には勝てないよ」

 佐伯は静かに、しかし冷静な中に怒りを隠しながら呟く。
 まさか朝から怒られることになろうとは、予想もできなかった。

「ごめんなさい、赤味噌がきれてて」
「きれて? え、いや、ありえない。ありえないよ、それは」
「……インスタントよりはいいかなあって」
「インスタントでも赤がいいに決まってるじゃないか」

 怒りはやがてあからさまに声調に表れる。
 しゃもじを持つ手は止まっていた。予想外すぎて怒られたことに萎縮するよりも早く唖然としてしまう。
 まさか、受け入れるどころか完全に拒絶されるとは。はあまりの展開に返す言葉がない。

「白が絶対に駄目っていうわけじゃないけどさ、味噌汁はやっぱり赤だと思うよ。合わせにする必要もないと俺は思うんだけどさ、どうして皆そんなに赤以外も飲めるのか。俺は本当に不思議で仕方ない」
「でも、インスタントに頼るのはなんだか手抜きしちゃったみたいで、駄目かなって」
「美味しければ構わないよ、そんなこと。赤の方が引き締まる感じがするし、朝御飯には絶対相応しいと思うんだけどな」

 幾度目かのため息ののち、佐伯は諦めたように腰掛ける。
 はしばらく呆然と佐伯を見つめていたが、やがて別の感情がむくりと頭をもたげた。

「……先生、私ひとつだけ怒っていい?」
「え?」

 不機嫌ながらも朝食をとりかけていた佐伯に、立ったまま呟く。
 得意ではない白味噌でも飲もうとする姿勢は持ってくれている、それは分かった。
 しかし、握ったままのしゃもじは離せない。手に込められた力は自分でもどのようにして出しているのか分からなかった。

「私の料理がまずいならそれは努力するけど、でも先生の好みだけでまずいって言われるのは、それはすごく心外なんだけど」

 呆然となるのは、今度は佐伯の番だった。目を丸くしてを見上げる。

「誰もまずいとは」
「言った。絶対言った。そういうふうな言い方だった、絶対そうだった」
「またそんな、子どもみたいな」
「子どもです、17です先生よりずっと若いです。自慢できるほど、まだ料理は上手くないです」

 静かに、けれど絶対に聞き逃しなどさせないようにゆっくりと呟けば、佐伯はわずかに困惑の表情を浮かべる。それがまるでが一方的に佐伯を責めているようで、そんな時にも素直な表情を浮かべる佐伯が勝ってしまうこの関係が癪で仕方なくなる。

「美味しくなくてごめんなさい、これからは間違えないようにします」

 精一杯の嫌味のつもりだった。左手の箸も止まったままの佐伯に対し、立ったまま見下ろす角度から吐くことのできる棘を蓄えた言葉をぶつけたつもりだった。
 だが言い終えた後、はうつむく。
 相手のためを思う行動が、まるで正解とは程遠いものになってしまったことに申し訳なさと自分に対する腹立たしさがごちゃまぜになっていた。

(料理でも、頑張って気に入ってもらえなかったら、全然追いつくことなんてできない)

 佐伯の前に茶碗を置いたあと、くるりと踵を返して脱衣所へと向かう。洗濯はとうの昔に脱水まで終わっていた。それに気づかないほど熱中していた朝食づくりはしかしインスタントに負け、洗濯物を干す時間だけが奪われて終わった。
 なにひとつ、報われていない。その事実に目の奥がじわりと熱くなる。
 見られてはいけないとぐっと手の甲で押さえつけたその時、頭の上を大きな手のひらが触れた。

「ごめん、。せっかく作ってくれたことを全然考えてない発言だった。ごめん」

 背中から届く優しい声。耳はそれに癒されることを知っている。
 しかしその声が、慙愧の念に満ち溢れていて心を抉る。

「……どうして先生が謝るの、まずくしたのは私だよ」

 また目の奥が熱くなってきて、到底振り返ることなどできない。
 背中だけを見せたりそのような言葉を発する理由は、佐伯にはもうすべて伝わってしまっているのかもしれない。静かに頭を撫でたあと、ため息が零れるのが聞こえた。

「大人気なかったよ。反省してる、ごめん。きちんといただいたよ」

 その言葉にようやく振り返る。佐伯は困ったような申し訳ないような複雑な表情をしていた。

「……おいしい、とは言わないんだ。嘘でも」
「うん、ごめん。そこは子どもだから」

 しれっと肯定する様は、確かにまるで大人を感じない。年の差を実感する時は、もっと自分には真似のできない笑みを浮かべる。ところが今の表情は、絶対に普段自分でもするようなあっけらかんとした表情だ。はただ目を丸くする。

「でも、がなにかをしてくれるのは全部俺のためだっていうことは分かってるから」

 だが、そのような言葉で相手の心を包み込む術は、絶対に自分には真似もできない。
 いつのまにか握り締めていた両手を、そっと佐伯の手がほぐす。大きくてやや自分よりも体温の低い、それでも触れていると肌ではなく心が温まる指に目が奪われる。

「だから赤味噌が好きなのは譲れないけど、でもの作ったものを否定することは絶対に駄目だよな、それは分かってるつもりだよ、俺。……いや、さっきの一瞬はあれだけど」

 子どもじみた言い訳を口にするのも様になるとは、どれだけ卑怯になれば気が済むのか。
 もう一度謝ったあと、佐伯はリビングへと戻っていく。しばらく呆然と両手を見つめていたが、そっとその背中を見つめるために顔を覗かせれば朝陽が眩しく佐伯の髪を染める。

「……先生、子どもの部分があってもいいよ。私が追いつきやすくなるから」
「冗談」

 本心を隠してそう投げかければ、佐伯はジャケットを羽織りながら笑う。

より大人じゃないと、楽しめることが減ってしまうじゃないか」

 あっさりと言い切ることができるのは、大人の証拠。しかし浮かべる笑みは屈託のない子どもらしさを残すもの。同時にそれらを見せ付けられると、まるで味噌汁ひとつにこだわる姿はむしろ自然だと思えてしまうのだから怖い。
 しかしそれを口にするよりも早く、学校の教師の姿になった佐伯にそっと唇を奪われては、子どもには反論ひとつすることができなかった。





「ご兄妹ですか?」

 店員の言葉に嫌味はない。けれど聞き飽きた印象には勝てない。
 また今日も偽らなければならないのか、自分とこの人との差を傷を抉るかのように理解させようとするのか、と顔を背ける。せっかくの時間も台無しになると心の中で呟く。

「あ、すみません。妻です」

 けれどそんな心の内に閉じこもるような苦痛は、たった一言で消え失せてしまうことを初めて知る。
 は慌てて佐伯を見上げる。恐縮して訂正する店員に柔らかく遠慮する佐伯の横顔に、苦痛の色はまるでない。

「家のエアコンが壊れてしまって。なるべく早く新しいものをと思ってるんですけど」
「リビング用ですか?」
「寝室用、でいい? あれ」
「う、うん」

 家の内情を語る口にも、まるでよどみがない。むしろの方が動揺してならない。会話の中身などなにひとつ聞きとめることができないまま、いつのまにか設置日まで決めてしまって店を出る。

「先生は私を怒らせたいのか、動揺させたいのか、分からなくなる」

 思わず背中に向かって呟くと、振り返る佐伯の笑みは無邪気にも大人びても見える。

「喜ぶっていうのはそこにはないんだ」
「心臓に悪いよ」
「うん、そういうのも全部含めて特権なんだと思うよ」

 ただ、ひとつだけ分かることがある。そんな言葉を当たり前のように紡ぐことができる相手が望むのであれば、赤味噌の味噌汁だけの毎日に満足するのはきっと佐伯だけではなく自分もそうに違いない。作って喜んでもらえるのならば、張り切って作りきってしまおうではないか。
 思わず決意してしまった自分は、やはりこの人からは離れられないらしい。嬉しいような悲しいような、自分でも分からない感情からため息を零してしまうと佐伯が笑って手を伸ばしてくれた。



09/05/02