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始まりは、自分の部屋だった。
家庭教師を雇ったと。最初は威嚇の意味を込めた冗談だとばかり思っていた母親の言葉が夢でも嘘でもなんでもなく、真実であったことの衝撃に一度軽く眩暈を覚え、そしてその相手が異性であることに二度目の眩暈が起きた。
「冗談!」
最初に呟いたのがその言葉であったことを、今でも鮮明に覚えている。
中学生にとって、面識のない異性――しかも年上で、自分が勝てるものが肉体的にも精神的にもなにひとつ見つけられないという男性相手に、拒絶以外のなんの態度をとればよいというのか。至極真っ当に用意した解答は、絶対に正解だと信じて疑わなかった。
逃げる、という第一策は母親に家に連れ込まれた時点で失敗した。2階の窓から飛び降りるという考えは無謀だと判断する頭では、この部屋はほぼ密室に近い。
ならば第二策は、もはや存在そのものを無視する強硬手段しかない。この密室にはそもそも自分しか存在していないと決めてしまうこと。鞄を乱暴にベッドの上に投げ出したあと、昨日宿題をしたままになっていた机を苛立ちまぎれに片付けながら強行手段に踏み切らざるをえないと思っていた、その時、
「初めまして、佐伯といいます」
教科書片手に止まってしまった自分の姿こそ、鮮明に覚えていると。後日佐伯は笑いながら語る。
その声にとらわれることを拒めなかった頭では、第二策の失敗も予感せざるをえない。
だがその失敗はやがて、入学先の高校の新任教師として赴任した佐伯との秘密の結婚という大それた結末を用意してしまうのだった。
太陽に暖められた春の風がスカーフを揺らす。
ネクタイであればそんな悩みとは無縁だっただろうに、と出かける直前呟かれるほどのそれは、3年間の奉仕はくたびれたと呟いているのか、学校に到着して何度結びなおしても頼りなく映った。
最後の日ぐらいは、という願いはいくら心で繰り返そうと言葉にしようと届く気配も見せない。
ため息ひとつを零せば落ち込むなと言わんばかりの春の風が流れる。そっと顔を上げれば考えすぎるなと笑い飛ばしているかのような青い空。絵に描いたような卒業式だった。
「じゃあ、これで本当に最後だ。みんなが元気に次の生活を送ることを期待しているよ」
黒板の前に立つ佐伯が頬を緩めて言った。男子からは返事代わりの歓声があがり、一部女子からは涙まじりの声が上がる。良くも悪くも、というよりはほぼ予想どおりに生徒に好かれる担任だった。
筒の中に収まってしまうと、卒業証書はまるで開かれるのを固辞しているかのように中から抜き出せなくなった。だが今目の前の光景が、十分に卒業という出来事を実感させてくれている。思い思いに佐伯や仲間たちに近寄って笑い声をあげるクラスメイトを見つめながら、はそっと視線を佐伯に向けた。
黒板の前と、机の前。スーツ姿とセーラー服。3メートルもない距離には、様々な障壁が存在した。近いと感じられる、視界に収めることができる権利の代わりに近寄れない枷を与えられていた。それが、この教室だった。
それでも、自分は恵まれていた方なのかもしれない。ふと教室の中を見つめ、佐伯と離れることを名残惜しそうにする女子の姿に小さく首を傾いで髪を流す。
自分は、彼女たちのように近寄ることはできない。
けれど自分は、障壁や枷に焦りを覚える必要は全くなかった。
「先生、卒業したんだから絶対に遊んでね。みんなで同窓会やろうって話になってるから」
「今卒業したばかりなのに、もう同窓会か? 気が早いな、お前たちは」
「だって卒業したんだから、もう先生と生徒の関係じゃないじゃない。だから遊んでくれるよねーって」
「俺の都合も考えてくれないか、少しは」
ひとり、またひとりと教室を出て行く。廊下は昇降口へと向かう人の波で溢れている。だがその女子たちは、一向に佐伯のそばから離れようとしなかった。
賞状筒を持ち、必要最低限のものしか入っていない軽い鞄を取って席を立つ。馴染んだ机を一度丁寧に撫でたあと、は佐伯を一瞥してから教室の入り口へと向かう。
「、帰るか」
女子の輪の中から、佐伯の声が飛んだ。あと一歩、足を多く進めていたら聞き届けることができないような小さな声だった。
振り返り、佐伯を見つめる。は笑みを浮かべて頷いた。
「はい」
「そうか、元気でな」
「はい、先生もお元気で。今までありがとうございました」
頭を下げて教室から出る。自然と名残の欠片も残らなかった。
歩きなれた廊下を渡り、使い慣れた昇降口から青空の下に出る。周囲には3年生を送り出そうとする各部活の下級生たちが必死に目当ての先輩を探していたが、その波すら自然にすり抜けて正門へと向かうことができた。
仰ぎ見れば、真っ白い校舎が青空によく映える。
綺麗な形で心の中に残ってくれる、残すことを許してくれている今の自分に感謝にも似た気持ちを抱いた時、携帯電話が着信を告げた。
「職権濫用」
着信相手の名前に笑いながら応答する。電話の向こうで佐伯も笑った。
『あんな挨拶をされる予定はなかったんだよね』
「うん、私もする予定はなかった」
『それはひどい』
「うん、そうだね」
春風が心地よい。夕方になれば冷えるだけの、冬の色を忘れていない風だと分かっていながら、この日差しの中を泳ぐ風は随分と足取りが軽い。つられて頬も緩む。
「でも、ちょっと本心だよ。ううん、ちょっとどころじゃないかな、全部」
『……そう?』
「うん。先生のおかげだって思えることが、本当にたくさんある」
笑っているのが分かる沈黙だった。青空と校舎しか映さない視界しか持たない心で聞く沈黙は、なぜか優しく聞こえる。遮られるもののない視覚は心に余裕しかもたらさない。
今この感覚であるのは、佐伯のおかげだった。携帯電話を握り締めたままは空を仰いで改めて思う。
(先生がいたから。全部、本当に全部先生のおかげで楽しかった)
現実を見れば楽しいことだけではなかった。今まで母親に依存しきっていた生活の一部がすべて自分の肩に降りかかってくるあの感覚は、今まで経験したことのない類だった。この先の人生でこれ以上の経験が待っているのかと思うと冷や汗すら出てしまいそうだ。
それでも楽しさだけを追求して結婚したわけではない以上、そして自分の身と肩書きが佐伯に依存した上で成り立っていることを知っている以上、それらに不服を並べることなどできるはずがないしそもそもやりたくもない。
そんな生活を支えていたのは、まぎれもなく佐伯だった。
家で、部屋で、学校で教室で。自分の一般的ではない高校生活が成り立たっていたのは、相手が佐伯だからこそだった。それだけは誰にも否定させる権利を与えるつもりはない。
「先生」
『……なに?』
「私、先生でよかった。いろんな意味で。高校生活本当に楽しかった、だから泣くんじゃなくて今笑って出てこれたんだと思う」
素直に心から零れた言葉を紡ぐ。一瞬佐伯はふいをつかれたように沈黙したが、やがて苦笑が届けられた。
『』
「うん?」
『今夜、でかけるところがあるから。家に帰ったらそのまま待ってて』
学校では滅多に呼ぶことのない下の名前をそっと呟き、予定だけを告げる。
昨年同じクラスだった親友がの姿を見つけて駆け寄ってくる。手だけで返事をし、電話口の向こうにいる佐伯に了承の意を示して電話を切った。
「誰と電話してたの?」
カメラを取り出してふたりの写真を撮ろうとする親友に問いかけられる。
はレンズを見つめたまま、困ったように笑った。
「結婚する人」
え、と驚く親友の手が勢いに負けてシャッターを押す。写真写りを確認するよりも早く言葉の意味を追究しようとする彼女に苦笑しながら「違うよ」と否定の言葉をかければ、安心したようながっかりしたような、なんとも言えない表情でカメラを手渡された。
「やめてよ、心臓に悪い。そもそも彼氏がいるなんて話も聞いたことないのに」
「うん、そうだね。彼氏はいないよ」
結婚した相手ならいるけれど、と心の中で呟く。
カメラの中の自分は、自分でもできすぎだと思うほど綺麗に笑えていた。
卒業という高校生活最後の瞬間にまで惜別の念よりも感謝や喜びの感情に浸ることができたのは、自分の力だけではない。
どこにいくの、と助手席で問いかけたに佐伯はただ笑みを返すばかりだった。夕方を過ぎて帰宅した佐伯は、制服のままでいいのかという問いかけにも答えずに車に乗ることを促した。
助手席で、周囲を注視することなくぼんやりと見送る。途中から見慣れた景色が多くなり、思わず顔を上げた時に佐伯は笑ったように見えた。
そしてたどり着いたのは、16年間見慣れ続けたひとつの家。
「まあ、虎次郎くん? どうして……あら、も」
「お母さん、名前を呼ぶ順番が逆」
「だって!」
玄関を開けた母親の口から開口一番飛び出したのは、卒業を迎えた娘への祝福の言葉ではなくお気に入りの娘婿に対する大学生の頃からの呼び名だった。さすがに愛称の意味での「くん」という年ではなくなりつつある佐伯は、苦笑しつつも丁寧に頭を下げての卒業と日ごろの感謝の旨を伝える。
どこか柔らかいを通り越してふわりと浮いている雰囲気を持つ母親に、佐伯はいつも生徒に接するような温かみのある口調をする。妙な違和感に一度だけ理由を尋ねたことがあったが、それが緊張の裏返しであることに気づいたのはしばらく経ってからのことだった。
「ごめんなさいね、今日お父さん出張で大阪の方に行ってるの。お酒の相手ができればよかったんだけど……」
「いえ、今日は卒業式だったので、その姿を見てもらおうというのが目的だったので」
「そうなの? 先生」
「、あなたまだ『先生』って。ごめんなさいね、虎次郎くん」
「先生は先生。今日はまだいいじゃない。ね、先生」
母親と自分の両方から攻められて、佐伯は眉尻を下げて笑った。だがスーツの裾を掴んで上目遣いで尋ねれば、佐伯が自分の味方をしてくれることをは誰よりもよく知っている。
「今日までは、許してあげようかと」
綺麗な苦笑を漏らせば母親が黙って納得することも、佐伯が一番よく知っている。
中学の頃とは違う制服、大学生の頃とは違うスーツ姿。互いに出会った頃と変わってしまったものは多くあったが、教師と生徒という関係はまるでいつまでも続くかのような感覚だった。その立場で結婚してしまった以上、そして結婚が一生続くものである以上、その立場とは無縁でいられないと暗黙のうちに理解し、納得し、そうして高校3年の今日という日を迎えた。
それも、今日で終わりなのだと。暗に佐伯の言葉が語っている。
校舎では感じなかった物悲しさが一瞬心に宿り、家の中に入る佐伯の後姿を見つめる。
制服で迎えられるのは今日が最後だと、そう呟いているのか白のスカーフは少しだけ寂しそうに見えた。
食事をともにし、高校生生活の思い出話に花を咲かせた後、ふたりでゆっくりしなさいと紅茶とケーキ(このあたりはそつがないといつも思う)とともにの部屋へと促される。
久しぶりに入る自分の部屋は、普段から手入れをしてもらっているのか埃っぽさもなくただ懐かしさにため息ばかりが零れた。
「うわ、中学校の時の参考書もそのままになってる。捨てていいのに」
本棚に並べられた中学生の頃の記憶が、それらを手にするごとにまるで昨日の出来事のように蘇る。懐かしさにケーキもそのままに自分の部屋を見回しているを、佐伯はただ苦笑して見守るばかりだった。
その感覚に、ようやく手は本を取ることを止める。足はベッドに腰かけた佐伯を見つめるために歩みを止める。
「あの時、覚えてる? 先生。初めて先生がこの部屋に来てくれた時」
振り返って問いかける。記憶の中に眠っていたはずの大学生の佐伯が一瞬だけ重なって見えた。
「覚えてるよ。忘れることはできないだろうね、まさかあそこまで拒絶されるとは思ってもみなかったから」
「だってお母さんが勝手に頼んだ家庭教師だもん、反発もするよ」
「定期テストがあの点数じゃ、文句を言える立場じゃなかったと思うんだけどね」
「でも、そのおかげで先生に会えた」
大学生の佐伯が目の前にいるようだった。少しだけ目を丸くし、やがて困ったように笑う。今でもその笑い方はよくしてみせてくれるが、初めて出会ったあの時、中学3年のにとってはそんな笑い方をする人間がいるということ自体が既に衝撃的だった。大人とはこういう人のことを言うのだろうと素直に思ったのもつかの間、飛び出す言葉や考えは至極自分に近く、理解と憧れとを同時に投げつけられたあの日は、いつになっても忘れることなどできそうにない。
今の佐伯もそうだ。の言葉に一度口を閉じたあと、ふっと空気を揺らす笑い方をする。
「随分と大人びた言葉が使えるようになったね。気づかなかったな」
「私はこんなに背伸びしてるのに、いつも」
「それは知ってるけどね」
大学生と中学生で出会った場所で、あの瞬間の思い出話をしながらあの手の大きさを思い出しながら、懐古の情に埋まるほどに浸る。未来から語る当時の感情は、どれもこれも気恥ずかしさと仕方なさと、それらを包む温かさとをもっている。
頬にそっと佐伯の利き手が触れる。皆の前でチョークとラケットを握り続けた左手が、今はにだけ触れている。
「あの時は、触れることもしなかったのに。今となっては逃げもしないんだから、怖いね」
「……逃げることなんて先生が一番許さないのに」
「それも知ってるよ」
瞳を閉じるだけで、自分の望むものが訪れる。捨て置かれないように縋っているような、そんな感覚に陥るのも気に留めずに両手を佐伯の背中に回す癖は、中学を卒業して彼に教えてもらったことのひとつだ。
キスひとつに呼吸と思考とが溺れる感覚になる、それは正しいということだというのも教えてもらったひとつだった。
離れた唇が今日一番の名残惜しさを感じる。自分の居場所がなくなってしまう学校ではなく、自分の居場所を作ってくれる佐伯に対して感じる名残惜しさなどというものは、どれほど自分の欲求に負けているのかとおかしくもなる。が、
「ねえ、先生。どうしてわざわざここに?」
小さく尋ねれば、大きな手が頭を撫でる。その熱に浸り、甘えることがおかしなことだと思えない身体では、仕方のないことだとあっさりと負けを認めてしまう。
出会った頃より、そうだった。この人に勝てたものがあったためしがない。
そして負けることに敗北感よりも充実感を、満足感を与えてしまうこの人を相手に選んでしまっている以上、その関係に疑問がない。たとえ教師と生徒という主従に近い関係から始まった立場であっても、それに自分自身が疑問と不満を持っていなければ、それでかまわないのではないか。
最後の制服の夜、終わりのようで実は延々と続く関係を端的に表しているような今の自分たちの服装に思わず苦笑が零れる。
頭ひとつ分近く差がある相手に抱きつき、その胸に顔をうずめる。小さく肩をすくめれば、制服の襟がそっと頬に触れた。
「今日が最後の日だから連れてきたって、そう言うとはたぶん怒るだろうね」
抱き寄せる手の温かさとは裏腹に、一瞬心に冷水を浴びせる雰囲気をもった言葉が零れる。思わず顔をあげれば、その意味ではないと佐伯が苦笑して首を横に振った。
「ただ、俺がどれだけこの日を待ち望んでいたかをは知るべきだよ」
一度呼吸のできないキスを送られたあと、ベッドに押し倒される。唖然と佐伯の顔を見上げれば、額の髪をあの大好きな左手が優しくのけた後、もう一度唇を奪われた。階下に聞こえないように声を押し殺すことと、溺れることと。どちらに集中すればいいのか分からなくなってはきつく瞳を閉じる。
「……先生、」
「そう呼ばれるのは、嫌いじゃないんだけどね。でもそろそろ、俺も解放されたくなった」
佐伯が自分の欲求を、我がままとでも思っているのか申し訳なさそうに呟く姿は珍しかった。は目を丸くし、姿勢を変えることも忘れてただ真っ直ぐに佐伯を見つめる。
その視線に気づいた佐伯は苦笑し、ため息をついて触れるだけのキスをした。
「教師だから、生徒だから。その関係じゃなくて、もう素直にいさせてほしい」
「……え?」
「教師だから敬われるとか、従われるとか。そういう感覚から卒業、今日はそういう日だよ」
制服を見つめ、静かにスカーフを抜き去る。陽を浴びてこそ役割を果たすことができていた真っ白いそれは、制服から離れてしまえばただの白い布のようにしか見えなかった。まるで佐伯がそう見ろとでも言わんばかりだ。
しばらく黙ってスカーフを見つめたあと、はもう一度佐伯を見上げる。
出会った頃は教師だった。結婚してからも教師だった。だからこそ自分が生徒であるという認識は必要不可欠であり、その枠から飛び出してよいのはふたりきりの時だけだと暗に諭されていると思っていた。
だが、とはゆっくりと瞬きをする。冷静になって見つめてみれば、こんな佐伯の表情は滅多に見たことがない。その表情から生まれる言葉も、想像したことがない。
「先生が先生じゃないと嫌だなんて、私そんなこと一言も言ってない。私、先生が先生だったから好きになったんじゃないよ」
「それは分かってるよ」
「分かってないよ、分かってるんだったら」
願い出ているのに、どこか諦めたような色。佐伯の表情に見え隠れする見慣れないその色に、はそっと佐伯の唇に人差し指をあてて言葉を封じる。
「どうして私が先生の言うことに逆らうと思ってるのか、それが全然理解できない」
大人の賢い言葉は、時に煩わしい。小さな指に思いを込めて心の中で呟く。
教師と生徒という枠が嫌いだったわけではない。けれどそれだけで終わっていいと思っていたならば、自分はこの部屋を離れることはなかった。密室だと思っていたこの部屋で、自分以外の存在を無視することができる自由なこの部屋から出る理由などどこにもなかった。
佐伯だから、という今日の言葉を思い出す。呟くだけで繰り返してきたその言葉の意味を、自分自身もかみ締めながら。
やがて、いつものように大人の笑みが零れる。見上げればそこには、自分の好きな優しさばかりが溢れていた。
「に言い負かされる日が来るとは、思ってもみなかった」
小さく呟く。一度首を横に振って、佐伯はの身体を起こす。視線だけではなく首そのものの角度を変えなければ見つめられない、嫌が応にも従う色を連れ立つ視線しか持てない立場では、逆らうことなどできるはずがない。
にとってはそれが当たり前の感覚だったが、もし佐伯がそれを理解していないというのであれば、と。は上体を起こして佐伯のネクタイに手を伸ばす。
「ごめんね、先生。知らなかったら教えてあげる」
「え?」
「私虎次郎さんのネクタイなら、誰よりもうまくほどける自信があるよ。妻だから」
3月の夜は冷える。暖房をつけなければ肌はやがて震えてくる。
ネクタイをほどき、枷のなくなった胸に頬を寄せる。
教室では絶対に見せることのなかった姿にが満足げに笑みを向ければ、手のかかる子どもをあやすようなあの瞳と笑みが、にだけ向けられて、静かに瞳を閉じることを促された。
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