キスに代えても


 学校でのアクセサリ禁止について、親友たちは口をそろえて文句を言う。

「いいじゃない、ピアスぐらい。指輪だって全然派手なものじゃないんだし」
「本当。体育の時だけはきちんとはずすようにするから、いいでしょ? 先生」

 その文句の行き先はクラス担任。彼は風紀に厳しい体育教師でも、ましてや生活指導担当の教師でもない。単なる新任2年目の数学教師だ。だからこそ、とも言えるが、しかしその言葉に親近感以外の感情が込められていることには気づいている。それは明らかに好意という名の感情だ。
 けれどピアスもブレスレットも、ましてや指輪のひとつも身につけていないはその会話に口を挟むことはできない。いや、挟みたくとも挟めない。
 それは単純に、普段からアクセサリを扱い慣れている彼女たちの言葉に任せた方が説得力があったのと同時に。

「いや、どう考えても普通に駄目だろ。高校生なら高校生らしくしろよ、そういうものは後になってからいくらでもつけられるようになるんだから」

 そう答える担任に、まさか自分も指輪をつけたいなどとは到底言えなかったからだ。
 その長くて形の綺麗な左薬指に、本当はあの日交換したシルバーリングをつけてほしいと思っているなどということは。口が裂けても言えなかったからだ。

「ねえ、からも言って、私たちだけじゃ先生絶対味方になってくれないもん」
「え?」

 その時突然会話の中に入れ込まれ、は担任の顔を見る。
 どうしたらクラスの男子たちの7年後の姿と例えることができようか、まるで想像もつかない端整な顔立ちがそこにある。自分を見つめる真っ直ぐの視線には一瞬息を飲んだが、慌てて仲間の援護をすべき言葉を口にしようとした、その時。

「おいおい、普段つけていないを巻き込んでも意味なんかないだろ」
「!」
「ま、普段つけないからこそ反論にも中身が伴うのかもしれないけどな。残念だったな、俺はそんなことには動じないよ」
「なによ、先生。そんなことしてると女子に嫌われるよ?」
「はは、心配してくれてどうも。でも残念、間に合ってます」

 会話はを置き去りに、そのままクラスメイトと担任のたわいない雑談へと変化する。雑談ひとつひとつを適当に聞いているように見せながら、けれどその実きちんと理解して聞いているという担任の姿に、女子だけではなく男子からもそれなりの人気を得ている理由を見つけることはできる。
 しかし、そんな担任の前では明らかに不機嫌顔だった。思うことはただひとつ。
 つけるなと言ったのは誰だったか、内緒にしようと約束したのは誰だったか。
 納得のいかない感情を胸に、はじっと担任を見つめる。
 今日の晩御飯は絶対に苦手なものにしてやる。クラス担任である夫の佐伯を見つめ、はひそかにそう決めた。





「先生、絶対私のことからかってた」
「からかってないよ、ちょっと遊んだだけ」
「先生は国語の勉強をしてきてください。それは同義語も同然です、もう数学なんてしなくていいから」
「なんだよ、俺の生徒のくせにテストで平均ぎりぎりしかとれない奴に言われたくないぞ?」
「そ、それは……!」
「はい、おしまい。俺に喧嘩を売る前にご飯を用意してください、お願いします」
 
 笑顔でスーツのジャケットを渡されては、にそれ以上の文句は言えない。
 彼の苦手な晩御飯を作ろう、そう決意して制服姿のままエプロンをつけてキッチンに立った、その瞬間に帰宅したこの夫にはどのような術をもっても抗えないのか。いつにもましての考えていることすべてをお見通しな佐伯に、結局は今日も従順の道を選ばざるをえなくなる。
 これでは、匂いですぐにばれてしまう晩御飯での反抗はできない。はYシャツ姿になった佐伯の背中を見つめて思わずため息が零れてしまうのを隠すことができなかった。
 自分よりも一回り大きな背中。昔テニスをしていたためにいまだに均整のとれている体躯、そしてしっかりとした左腕。改めてそれらを見つめると、反抗の気分は簡単に萎えてしまう。それすらも見抜かれていたら自分は本当に抵抗などというものはできないのではないか、そう思うには十分すぎた。


「え?」
「ごめん、腹減ってるんだ。夕飯頼むよ」

 結婚1年目。隠れたふたりきりの生活。
 しかしその生活に一番依存しているのが他ならぬ自分であることぐらい、も気づいている。その依存の先にいるのが常にこの担任教師であることにも気づいている。そもそも反抗すること自体が我がままの延長でしかないかもしれない。
 佐伯の言葉に単純に笑顔で頷いてしまう、その自分に呆れつつけれど幸せも感じつつ、はジャケットを片付けて夕飯に取り組もうと踵を返す。
 明日のご飯は奮発してうにでも用意してみようか、そんなことを思ったその時。

「……あれ。なにこれ?」

 は受け取ったスーツのポケットの形に違和感を覚え、そっとその中に手を入れる。
 するとその中にあったのは、まとめて四つ折にされたプリントの束。視線で佐伯に許可を求めてからそっと開いてみると、そこにはも見覚えのある数学Bの問題が印刷されていた。

「他のクラスの子がね、数学が分からないから教えてくれって持ってきたんだ」

 ネクタイを緩めながら佐伯はあっさりと答えたが、しかしその何事でもないというようなあっさり具合はの手元にあるプリントとまるで比例しない。
 1枚1枚に印刷された、それは過去のセンター試験問題だった。しかしそこに書き込まれたシャープペンシルと赤いボールペンの書き込み方の順番に、はひとつの法則を見つける。プリントの主要な文字は、ほとんどが達筆な赤のボールペンだった。シャープペンシルで書き込まれた文字は限りなく少ない。
 それらを見つめて、はようやく佐伯がこれを見ることを許可した理由を知る。

「……先生」
「なに?」
「これ、先生が解いてるようなものなんですけど」

 乾いた音を立てて、プリントを佐伯の前に差し出す。ソファに腰掛けて夕刊を開こうとしていた佐伯は、一瞬目を丸くしながらもあっさりと頷いてみせた。

「解き方を説明していたから。まずは手順を復習していたんだよ」

 佐伯の口から出るその言葉は、教師としては真っ当なものだった。しかし曲がりなりにも佐伯が生徒というひとくくりで見ている集団の、その中に紛れ込む形でも学生生活を送っているのである。佐伯が気づかない生徒の視点を、いくらでも知っている。その中に女子の異性に対する想いが入っていることに気づいてしまっている。
 今日も味わったその感情を、また少しずつ思い出す。は眉根が寄りそうになるのを佐伯に見られないようにしながら、ソファの背もたれに両腕を預けてそっと言葉を続けた。

「ねえ、職員室だよね?」
「うーん、職員室と言えば職員室だけど……でも俺の机のところじゃないよ」
「え?!」
「そんなに驚かなくても。そもそも職員室以外でどこで教えるんだよ、授業中じゃないのに」
「……どこ? って聞いてもいい?」
「なに、気になる?」
「そ、そういうわけじゃ……!」
「職員室の中の簡易応接室」

 の言い訳を聞くよりも先に、佐伯はそう答えた。
 一瞬の沈黙。佐伯は何事でもない素振りをそのまま持続させて、の様子を気にするでもなく夕刊に目を通す。しかしはその言葉が指し示すものを頭の中で再現するのに時間を費やした後、絶句した。
 
「……ちょっと待って、先生。あの場所って、曇りガラスのせいでほとんど周りから見えないんですけど……」
「うん、そうだね。だから簡易応接室なんだしね」
「確かにあそこはよく他の先生もそういうことに使ってるけど、でも」
「なに?」
「それは、ちょっと……! もしかして、先生が呼んだの?」

 あの場所は生徒たちからも噂のある、職員室の中の隠れた場所だった。ひとりがけのソファが向かい合ってひとつずつ、小さな長方形の机を挟んでおいてあるだけのちょっとした空間である。
 男子風の定義をすれば、体育教師や生活指導の教師とは絶対に入りたくない場所。
 けれど、女子風の定義ではお気に入りの教師とであればむしろ喜んで招かれたい場所。
 しかしそんなの動揺とは裏腹に、の考えていることに気づいたのか佐伯は小さくため息をついて新聞に再び視線を落とした。

「向こうが尋ねてきたから、俺がそこに招いた。問題ないだろう、それぐらい。あ、生徒の名前を聞くのは駄目だよ。それは聞かない、教えない約束だろ?」
「!」
「なにか問題でも?」
「なにかっていうか!」

 佐伯の淡々とした口調とは正反対に、はなにかを抑えた回りくどい言葉しか用意することができない。
 原因は分かっていた。この年になっても、この関係になっても起こる一種の感情を持て余しているだけのことだ。そして今、夫婦という関係以前に教師と生徒という関係の前ではその感情を出すことは的外れで意味のない話だからだ。
 それは分かっている、しかし。

(好きになってる生徒とふたりきりにならないでよ、そんなところで)

 嫉妬の感情はやがて重いため息となっての口をつく。手にしていたプリントを丁寧に元通りにたたんで佐伯の手の中へ。そして無言のまま立ち去ったを佐伯が見つめてくれたかどうかは分からない、それを確認することもなくの足はその場を離れ、ダイニングへルームと向かった。
 その時ふと、視界片隅にダイニングテーブルの椅子の背にかけたままのスーツのジャケットが視界に入る。
 それはブラックのシングルスーツ。色やデザインにはおかしなほどに無頓着だった佐伯に、が結婚前にアドバイスという名の趣味で一緒に出かけた店で選んだものだった。その薄いホワイトのラインが入っているスーツのジャケットにの足が止まる。

(でも、結婚してまで私がそんなことで怒るのは……先生、不愉快だろうな)

 そっと手を伸ばし、もう一度。先ほど当然のように受け取ったそれを手に取り直し、今日もこのスーツ姿をべた褒めしていたクラスメイトを思い出す。あの瞬間自分の胸の中にあったのは、型どおりの片想いの域を出ないその子の言葉に感じてしまった、隠し切れない嬉しさ。も佐伯のことがお気に入りだと周りに簡単にひやかされてしまったほどに顔に出てしまった、あの瞬間の嬉しさ。
 それが、自分の恋愛感情はもちろんのこと、さらに佐伯によって自分のためだけに与えられた結婚相手というポジションから生まれる感情であることぐらい。佐伯がたとえ口にして教えなくとも、は十分分かっているつもりだった。

(私が子どもっぽいのか。子どもすぎるんだな、きっと。駄目だなあ)

 そろそろ嫉妬の感情をもっと柔らかく抱きたい。刺々しい言葉や表情にしたくない。は改めてそんなことを思い、ジャケットをもって寝室へと向かう。佐伯の妻であることに嫉妬よりも誇りを抱くべきだ、そう自分に言い聞かせてドアノブを握った。けれど。

「そろそろ、俺の仕事を認めてもらいたいんだけどな」

 その瞬間、ドアが閉じた。暗闇の代わりに視界に突然現れたもの、それは今日も黒板に空間ベクトルの図形を描いていたあの大きな、けれどとても綺麗な五指をもつ左手がドアを押さえる様。
 自分がドアノブを握ったぐらいではびくともしないその力に、は一瞬息を飲む。しかし振り返り、その顔を見ることも。無論甘えることなどもまだこの心境ではできるはずがない。

「認めています。いい先生です、それは私が一番よく知っています」
「そういう生徒としての話じゃなくて、奥さんとして」
「……」

 それ以上は口にしてほしくない。その言葉を飲み込む代わりに、は押し黙る。後ろ姿だけを見れば単純に怒っている姿にしか見えないだろう、そんなことは重々承知していたが、しかし自分の心の感情を落ち着かせようとしていたにはそれが限界だった。
 そして、佐伯ならば。その思いがあったことも否定できない。
 佐伯ならば、こんな自分の沈黙の意味もきちんと理解してくれるはずだと。単なる恋人関係ではない、夫婦関係から生み出される信頼関係に、はその展開を予想することにまるで抵抗がなかったのだけれど。

「!」
「あんまり拗ねると、俺にも考えがあるよ?」

 身体は簡単に後ろを向かされ、ドアと佐伯の身体との間に挟まれる。
 できあがってしまった成人男性の身体に敵うはずもない。目の横にある彼の利き腕はドアを押さえ、その結果の逃げ場は自分の左側にしかない。しかし逃げるという行為をまるで許さないとでも言うように、残った右手がの頬にかけられる。頬をなぞる親指の感覚に下唇を噛み締めそうになりながら、は小さく反抗した。

「……キスでもすれば機嫌が直るなんて思ったら、大間違いだから」
「あ、そう」
「そうです。そうなんです。だから」

 結婚して、ふたりの時間を多くもつことによって耐性ができたといえど、しかし。

「手、離して」

 動揺するかしないかと問われれば、もちろんいまだ答えは前者な関係。
 けれどそれをあらわにすることほど、この場において癪なものはない。いや、恥ずかしいものはない。
 表情を変えないまま、は静かに佐伯を見上げながら呟く。しかし。

「離してみれば?」

 それは7年という年月の重みを実感する一瞬。自分には到底考えられない絶妙のタイミングでこちらの自由を奪いつくす佐伯の態度に、そして不機嫌を慰める効果があることを知っているキスの仕方に、は言葉をなくす。
 テレビから聞こえる明日の天気予報がまるで自分たちとは無縁なものに聞こえてくる。いつも瞳を閉じてしまうこの瞬間、抵抗の術はなくなりあとは依存が残るだけ。大きくて温かい手が自分の身体を支えてくれるこの関係に甘えるだけ。
 時間が分からなくなるキスの後、そっと瞳を開ける。
 自分はなにをしているんだろう、ぼんやりとそんなことを思ったその時、佐伯が呟いた。

「自分から努力をしない子に指導したつもりはないんだけどな、俺は。残念だなあ」
「! 先生、卑怯! そんな教師の方が卑怯だよ!」
「あ、そう。じゃあそんな教師と結婚することを選んだのはどこの誰なんだろうね、教えてくれる? 佐伯さん」
「……!」

 繰り出された挑発的な言葉に、キスの余韻を残す理由などどこにもなくなってしまう。
 は自分を言いくるめることの上手すぎる佐伯と、そして言い返せない自分にも悔しくなって、結局。

「先生のバカ! もう知らない!」

 そう叫んで、喧嘩の火蓋を自ら切ってしまったのだった。





 当分は口をきかない。子どもじみた喧嘩の仕方だと分かっていながら、はそう心に決めていた。
 けれどそんなことが理由で家事を放棄することはできない。経済面を佐伯に頼ることができてこそ今の生活は成り立っている、その事実は忘れてはいない。だからこそその分自分は家事をすると、この時世妻にだけ家事を担当させることに佐伯は幾分か複雑そうな表情を浮かべたけれど、それだけは自分の仕事として全うしたいと改めて宣言したのは、結婚の日だった。
 その約束は、自分の責任においても破ることはできない。したくない。その思いひとつで、今朝もきちんと朝御飯は作った、Yシャツにアイロンをかけた。昨日とは違うダークグレーのスーツに似合うネクタイも用意した。洗濯も全部した、いつもであれば学校から下校後の仕事にしている洗い物ですら片付けてきた。朝の時間における家事は、文句を言わせる隙もないほど完璧にこなしてきた。
 そして今日は数学の授業はない。佐伯はクラス担任でもあったが、授業さえなければたとえ担任といえど話す機会も見る機会もぐんと少なくなる。今日はそれで乗り切ることができる、そんな爽やかな気分で登校したのもつかの間。
 は、自分がこの学校の生徒であり、そして佐伯が教師であるという関係に従属しているもうひとつの責任を忘れていた。

「日直は……か」
「!」
「はい。放課後きちんと記入して持ってくるように」

 朝のホームルームは、そのような言葉で締めくくられた。
 それは佐伯が仕組んだものではない。佐伯は私情を教室に持ち運ぶようなことは滅多にしない。するとしてももっと狡猾にやってのける、それが自分の夫であることはが一番よく知っている。
 しかし、黒板の右隅に日直として自分の旧姓が書き込まれているこの現実には逆らえない。は不覚ながらも、佐伯のもとに近寄って日誌を受け取る役目を担わなければならなかった。

「いいなあ、。私、佐伯先生なら毎日日直でもいいのに」
「……そう? いや、考え直した方がいいと思うよ、それ」
「どうして! は佐伯先生のこと全然分かってないよね、あんなに格好いいのに」
「……」

 事情を知らないクラスメイトがぽつりと呟く中で、はため息まじりに受け取った日誌を見つめる。
 それは、所詮教室内だけで避けても意味がないとあざ笑う悪魔の日誌のように見えた。

 1日を無事に終えても、結局は放課後に担任のもとに日誌を運ばなければならない。その任務に今日1日の最大の不運という名前を与えることに決めて、は放課後職員室に乗り込む。
 壮年か、もしくは定年間際の教師が多い職員室の中でその姿を見つけることは簡単だ。は、それは自分の感情によるものではないと悔しいぐらいに言い聞かせながら佐伯のもとへと足を運ぶ。

「先生、日誌です」
「ああ、ありがとう。ご苦労様」

 しかし平静を装うことに関しては、よりも佐伯の方が何枚も上手だ。
 明らかに不機嫌顔をしていると、鏡で確認せずとも自分でも分かるに対して佐伯の顔は教室内で見るものとまったく同じだ。あの日、クラスメイトたちの前でをからかってみせた時とまるで同じだ。
 どうしてこうもこの人は冷静でいられるのか、7つの年の差をそこに認めながらも、しかし今は昨日からの雰囲気を継続中。あまりに平然としている佐伯に今抱く感情は、尊敬ではなくむしろ不愉快だった。
 しかし、事は予想外の方向に転がった。

「そうだ、
「はい?」
「家でもきちんと勉強するんだよ。この前のテストよりいい点数を取ってもらわないと」

 どさくさにまぎれながら佐伯がそう話しかける。いつものようにナチュラルに、まるで企み事などないような綺麗な角度で作られた笑みとともに。その言葉に、日誌を渡したばかりのは一瞬硬直する。
 そして、女子はいつもこの笑みが好きでたまらないんだろうと冷静に思うのと同時に。
 かつての自分も、思えばこの笑みに弱すぎたのだということを。そしてそれはどれほど喧嘩をしても、現在進行形の感情に変わりないのだということを。顔には出さずとも、過剰反応している自分の心臓が痛いほど教えてくれていた。
 騒がしい職員室内の中、いっそその騒々しさに飲み込まれてこんな感情に気づかなければよかったと。そんなことを思いながら、しかしは。

「ごめんなさい、先生。でも」
「ん?」
「家だと、家の人に邪魔されて勉強できないんです」

 出会って4年目の忍耐力をフル活動させて、ありったけの笑みを浮かべてそう答えたのだった。
 目の前の佐伯が一瞬硬直する。ただしそれは周りが見てその動揺がすぐに分かってしまうような、そんなあからさまなものではない。佐伯はそんな失態は絶対におかさない。それは自身が一番よく分かっていた。

「そうか。それは、大変だね」
「ええ、それはもう」
「……、俺が言えることじゃないと思うんだけど、あんまり困ってないように見えるのは気のせいかな?」
「え、そんな顔してます? 本当に困ってるんですけどね、本当ですよ?」

 予想通り、佐伯はすぐに生徒用の態度と表情での苦労を労わる言葉をかける。しかしあまりにも優しい佐伯先生のその態度に、は動揺の欠片こそ残すことはあれど、今となっては露骨に喜ぶようなことはもうしない、むしろ。

(そんなことで折れるもんですか)

 対策を練る余裕すら生まれる。佐伯の用意したレールに乗るのは結婚前までの話だ。そう宣言するかのような言葉を口にしつづけた。

「じゃあ、集中した勉強場所を確保できるよう、家の人にお願いしてみたらどうかな」
「さあ……どうでしょう、それは。私、家の中では権限がないに等しいんで」
「なんだよ、その権限って。本当に苦労しているような言い方だね」
「残念なことに本当なんです。……って、さっきも言ったじゃなですか。先生、私の言うことは信じられない?」
「誰もそんなことは言ってないのに」
「だって先生がそんなこと言うから」

 家に帰った後、なにを言われるかは分からない。いや、言葉での反論の機会すら与えられないような気がしてならない。それを予感させるだけの完璧に作られた笑みは、今の目の前にある。
 けれど、だからといってここで負けるわけにはいかない。せめて今、この瞬間だけは自分の反撃の時間なのだ。そう思ったからこそ、わざと他人がいる前で挑発するような言葉を言ったのだ。それが子どもの喧嘩の領域を出ていないと言われようが、今だけは子どもに成り下がる妥協の心ならばいくらでもあった。
 この、目の前の余裕を崩さない夫を動揺させることができるのであれば。

「なんだ、。弟でもいるのか?」
「え?」
「勉強の邪魔をされるんだろう? 相当わんぱくなんだなあ」

 その時突然、佐伯の隣にいた化学の教師が話に割り込んできた。
 はその予想外の言葉に一瞬目を丸くする。しかしちらりと佐伯を盗み見れば、上司の突拍子な質問に少しばかり驚いている。ぱっと見はまるで表情を変えていなかったが、しかしは自分の感覚に絶対の自信を持っていた。そして思う。
 単なる恋人同士ではない。結婚相手なのだからと。
 そして化学教師を味方につけようとする咄嗟の判断は、その夫に教わったのだと。

「弟じゃないんですけど、私がかまってあげないと拗ねる家族がひとり」
「妹か? そうかそうか、いい姉さんでいるのも大変だな。偉いなあ」
「いや、妹でもないというか……」

 その時、思案の色を浮かべるようにしては視線をはずす。化学教師にはまるで言葉を選んでいる最中として思えないその視線の動かし方でが見つめたのは、もちろん佐伯。
 佐伯の視線はこちらに向かなくとも、だがの沈黙と視線の行き先に気づいていることは明らかだ。なぜならその沈黙の操り方を常日頃実践しているのは、他でもない佐伯なのだから。
 こんなところで役に立つとは思わなかった。日頃その視線の意味を考えることに慣れてしまったは、改めてそんなことを思いながら、ようやくぽつりと答えた。

「あれです、手のかかる大人です」

 その一言に、一瞬佐伯と化学教師が目を丸くする沈黙の時間が流れた後。
 周囲にはその化学教師の豪快な笑い声が響き渡る。
 そんな空気の中、唖然とする(それでもけして他の人間に分かってしまうようなことはまったくない)佐伯の沈黙も仲間になった会話は再び始められた。

「ははは! なんだそれは。弟や妹よりもある意味厄介じゃないか、大人なら」
「そうなんです。あしらおうにも向こうの方がやっぱり強くて、私はなすがままというか、されるがまま? みたいな感じで」
「そりゃ確かに大変だな、頑張れよ」
「はい、ありがとうございます」
「佐伯先生、頼みますよ」
「……はあ」

 してやった。は嬉しさのあまり頬が緩むのを必死に堪えながら、ふたりの教師に深々と頭を下げる。
 最後の最後、まさかこの日誌のおかげで爽快な気分になろうと予想できなかった。今日は自分の好きな晩御飯にしよう、そんなことを考えながらが職員室を出ようとした、その時。

「じゃあ」

 佐伯の澄んだ声が響く。焦りもなにもないその声にが反射的に振り返ると。

「家で勉強してみて、分からなかったら俺のところにもっておいで。分かるまでちゃんと教えてあげるから」

 笑顔で向けられた言葉に、は絶句することしか許されなかった。
 その一言に敗北を宣言しなければならないのは自分であることぐらい、他の教師陣よりもの方がよく知っている。それを計算してやってのける男が自分の夫であることも、痛いほどによく知っている。
 しかし、いつも負けを味わうのは嫌だと断固拒否した心は。

「明日、絶対指輪つけてくるから。みんなの前でしてみせるから」

 化学教師が席を立ったのをいいことに、佐伯の前でそう断言したのだった。

 しかし、いつでもどこでも佐伯の方が上手であることは変わるはずもなく。
 そしてその上手に甘え、また惚れてしまったのが自分であることも変わることはなく。

「ちょっと待って! 先生、ごめんなさい! 私が悪かったから!」
「なんだよ、指輪をつけるって言ってたくせに。お揃いだなー、俺と一緒につけていったら絶対にばれるなー」
「どうして先生が生徒を脅すのよ! 信じられない!」
「仕方ないな、俺もお前には学校でそういうことをしてもらいたくないし。じゃあ妥協案」
「……え?」
「おいで」

 翌日、学校に向かう直前の朝の玄関では佐伯の左手に招かれる。
 そして互いにあと数秒後には外す約束をした結婚指輪をしたままで抱きしめられ、与えられたのは、いつまでも甘えたくなる優しいキスだった。



05/09/28