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学校では当たり障りのない顔をしておきながら、その実心は独占欲に支配されているなどというのはひどく滑稽だ。
そして家では、壊してしまいそうな感覚に襲われながら、それでもその行為を止めようとしない、止めることができない自分の衝動はもはやみっともなさの極地。
それは悪化することしか知らない、制御機能を奪いつくす行為。
幾度目と知れぬ口づけを交わしながら、今日も全てが眩む感覚に身を委ねていた。
触れるだけのキスをひとつ、そっと。潤いの残る唇に落として、佐伯はベッドから出る。
床に無造作に脱ぎ捨てられていた白のTシャツと黒のジャージを適当に着込み、西日の到来を横目で眺めて部屋を出る。干からびた喉に潤いを与えたかった。
誰もいない静まった家の中を、裸足で歩く音だけを立ててキッチンへと向かう。500mlペットボトルのミネラルウォーターにそのまま口をつけて飲み、そして冷蔵庫に貼られた置手紙を見れば、母の文字で所用で夜9時に帰宅するという内容が書き込まれていた。
「息子に甘すぎるよ、母さんは」
苦笑した後ペットボトル片手にリビングに移動し、ソファの上に放りっぱなしだった鞄の中をあさって携帯電話を取り出す。西日に彩られた静かなリビングの中で新着メールを確認すると、黒羽から明日の選択体育について1通、天根からテニス部の近況について1通。
そして、姉から外泊を告げる内容の1通があった。
(仲が良すぎるのも問題か)
「今日は友達の家に泊まるから、どうぞご自由に。」。そんな文字を見ながら、佐伯は壁にもたれて頭をかく。
姉からのメールの到着時刻を確認すると、16時08分。夏の全国大会が終わり事実上引退の身となった佐伯が、学校が終わった後すぐこの家に帰ってきて母親に会った、まさにその時から数分と経たない時間だった。
(「ご自由に」って……。気立てがいいのか単にお節介なだけなのか)
今年大学に入学した姉とは、年の差があるせいかふしぎなほどに仲がいい。そんな姉の「優しさ」に、佐伯は母親に対してと同様苦笑し、そして感謝を抱きながら部屋へと戻った。
秋の肌寒さがそろそろ身に染み入る。Tシャツ1枚では無謀だったか、と思いつつドアを開ける。するとそこには、佐伯のジャージを羽織った人の後ろ姿があった。
「どこ行ってたの? 下?」
カーテンをまだ閉めていない窓越しに、赤くも見える夕陽が零れ落ちてくる。それを横顔に受けながら、上半身だけを起こしていた相手は気だるそうな視線を佐伯に向けた。
そっと投げかけられたその声はかすれている。尋ねられたその言葉に、佐伯は言葉ではなく左手にもっていたペットボトルを軽く振って答えた。
「急にいなくなったから、びっくりしちゃった……」
「あ、ごめん」
「ううん」
スローテンポな会話は、あまり多くの言葉を必要としない。佐伯が持つペットボトルと一言の謝りの言葉ですべてを理解したらしい相手は、視線を窓の向こうへと向けた。
ナイキの黒のトレーニングウェアは、佐伯の自主練習用のジャージだった。部活を引退してからはほとんど室内着にその役割を転身させていたが、だからといってその上着が自分以外の人間に着用されているこの光景はどこかおかしい。そんなことを思いながら、佐伯はそっとその背後に近寄ってペットボトルを相手の頬にくっつけた。
「わっ! ちょ、ちょっと! いきなりそういうことしないで……!」
「いい目覚まし方法だろ?」
「目ならとっくに覚めてる!」
「あれ、そうなの。じゃあさっきキスした時に気づかないふりをしていたのはどこの誰だろうね、ねえ?」
「……知らない」
「へーえ。あ、そう。ふうん」
「知らないったら!」
そう言って、佐伯のジャージを羽織っていた相手 は、かすかに頬を赤くしながら佐伯の手を叩いた。もちろんその手に勢いはあっても力が込められているはずはなく、佐伯はそれを笑って受け止め、に背を向ける形でベッドに腰を下ろした。
わずかにきしむベッドのスプリングの音は、つい数十分前を思い起こさせる。それはどうやらも同じだったらしく、気づけばTシャツ越しにそっと温もりが寄せられた。の頬と、小さな手のひらだった。
「なに?」
「ううん、別に」
佐伯の問いかけには首を横に振る。心地よいの体温が、黒髪がさらさらと綿素材に触れる音に彩られて伝わってきた。
今となっては平然としていられるものの。佐伯は内心そんなことを思いながら、に見えないのをいいことにそっと苦笑する。
思い起こせば、昔は名前を呼ばれるだけでも緊張したものだ。けれど今はそんな懐かしさだけではない、昔を謳歌するだけでは満足できないなにかが、心の奥底にどっかとその存在を誇示してきている。
「ねえ、佐伯くん」
「ん?」
それは、その声が自分の名前を呼ぶ回数が増えたからか。
「おばさん、そろそろ帰ってくるよね……?」
甘い懇願の響きをもった声を、自分にだけ聞かせるようになったからか。
「あー、いや。9時まで帰ってこないよ。市民会館に行ったらしいから」
「市民会館? 今なにか催し物やってたっけ……?」
「明後日から着物展があるんだって。母さん、市民教室で着物やってるからさ。それの準備の……手伝い?」
「なに、その疑問系」
「それ以外に思いつかないんだよね、帰りが9時をすぎるなんて。しかもその後父さんと一緒に外食してくるとかさ。あ、あと姉さんは外泊するから帰ってこないよ」
それとも、その言葉に含められた意味を相手が理解できるようになったからか。
会話が途切れて、ようやく佐伯は後ろを振り返る。ジャージを羽織っているだけだったは、突然の視線に慌ててブランケットの中に身を隠す。その反応に笑えば、枕元のクッションで軽く背中を叩かれた。
違うな、と佐伯は細い手首を掴んで思う。たとえ緩くともその突然の拘束に、はわずかに目を丸くした。ただし驚くのはそれまで。受け止めるような触れ方にただ黙って、見上げる視線とともに佐伯の言葉を待つ。
その姿を見て、佐伯は自分の答えが正しいことを確信する。
(俺が執着するようになったからだ。誰よりも)
がなにをするか、なにを思うかではない。それよりも前に自分がこの恋人相手に執着しすぎていることだ。
懲りない自分に内心嘲笑いながら、の手首を掴んだまま今日何度目と知れぬ口づけを交わす。触れる唇の柔らかさを初めて知ったのは相手ではないが、けれど回数をカウントすることができるのであれば、そのトップに立つのは間違いなくであることを佐伯は自覚している。
「……!」
「だめ。少しは学びなよ」
ままならない呼吸の苦しさに、が佐伯のTシャツを握り締める。それが訴えの方法であることはもちろん理解していたが、佐伯はあっさりとその抵抗を鎮圧する。より深みのあるキスを仕掛ければ勝利は簡単に手に入った。
羽織っただけだったジャージが頼りなくベッドへと落ちる。は肩を震わせた。
それは、ジャージが背中をなぞるように落ちていった感覚にか、結果急に外界の空気に触れた感覚にか、それとも佐伯が自分の腕の中に押し込めるようにその背中に左手を這わせた感覚にか。
第三択目であれ、と自信過剰に思いながらの下唇をなぞるように舐めて唇を離す。艶の残る唇と上気した頬を見ればもう一度呼吸を奪ってしまいたくなるが、しかしその目は明らかに不満を宿していた。
「あのね、私が佐伯くんと同じレベルだと思ったら大間違いだって、一体何度言ったら分かってくれるの?!」
「いや、別に俺も経験が豊富ってわけじゃないんだけどね」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃないし。バネさんの方が先輩だし」
「そんなこと聞いてないし」
「うんまあ関係ないよね。そうだね、俺とのことだし」
「そう、だから……」
「そう、だから。だから慣れさせるまで」
「っ!」
けれど、その手の抵抗が弱くなっていることを見透かしてしまえば、後はもう言葉の抵抗などに用はない。
何度も離れるように見せかけては角度を変えて口付ける。ひとつひとつの触れ合いは繰り返すごとに深度を求め、自分の境界線が狂うことを目指す。は唇が離れるたび呼吸を求めたり唇同士の距離を取りたがるが、それも髪の毛に左手を這わせればそれまで。
左手で絡むことを知らない髪に指を通し、右手で細く小さい左手を掴む。その間にも幾度となく熱のこもった呼吸を拾い、それを押し返すかのようなキスを繰り返す。
それは執着のなによりの表れだと、それを言ったらこの恋人はどんな顔をするだろうか。佐伯には見当もつかなかったけれど。
(でも、もうどう思われようともきっと変わらない)
時間経過が分からなくなる、気にしてなどいられなくなるキスを終えて唇を離す。1回目の後よりも明らかに乱れた呼吸を聞きながら、佐伯はそんなことを思った。
しんと静まり返った部屋の中、が佐伯の腕の中で呼吸を整える。唇を離した瞬間ぱっとうつむいたのは、きっと自分の頬がいかに紅潮しているかに気づいたからだろう。
ただし、ここは事後の空間である。ベッドに押し倒し、白いシーツに映える黒髪のたゆたう様、上気する頬の赤らむ様を独占し終えた今となっては、今さら隠すことでもないのに、と佐伯は思うが、はけしてそれを許さなかった。
だがそれはいつものことで、さして珍しいものではない。そして佐伯もそんなの意思をないがしろにする利点を探す気すらなく、むしろ無言のうちに頬を摺り寄せているを慈しむ感情の隆起に我が身を任せる。それが、いつものこと。
だが、今日は少し事情が違った。
「……だめ、私帰る」
細い両腕で佐伯の身体との距離を取り、はうつむいたままそう呟いた。Tシャツ越しに手のひらの温もりを受け止めながら、佐伯はその突然の変わり方にまず目を丸くする。
「?」
「帰る。ごめんね、長居して」
そっと手のひらが離れる。はそれだけを答えると、背後に落ちていた佐伯のジャージを羽織ってベッドから下りる。夕陽の色に染まったフローリングの床には、佐伯が解いた赤いスカーフが紺地のセーラー服の上で波打っていた。
いつ見ても寒暑を考慮しているとは到底思えない六角中のありきたりな制服に、次々との手足が通る。しゅるりと高音の衣擦れの音を立ててスカーフが胸元で形作られれば、目の前に立つのはいつも学校で見るの姿だった。
佐伯は口を挟まず、その様をただ見つめていた。
(……怒らせた?)
心に思いつくのはその一抹の不安。しかし、佐伯の顔を見ようとせずそのまま帰り支度を始めるの背中にかけられる言葉など、持ち合わせていない。
はもともと口数が多い方ではなかったが、それは無駄におしゃべりをすることはないという意味であって、ここまで沈黙を意識させるようなことはあまりしない。だからこそこの空間の異変に佐伯も気づかざるをえない。
ただし、今日の異変には続きがあった。
「……?」
佐伯は無言のまま目を丸くする。ベッドに腰掛けたまま、ただ黙っての行動を見つめるしかなかった。
その時が手にしていたのは、鞄の中から取り出した小さな桃色の瓶。キュ、と軽い音を立ててしばらくすれば、自分の部屋にはあまり馴染みのない甘い匂いがゆっくりと漂い始めた。
空は薄紫色。西日の残り火すらもその姿を消し、部屋の中は薄暗い。そんなぼんやりとした世界の中で、の手から零れ落ちた匂いはその存在を一層強く訴えてかけていた。
「……あ、ごめん。部屋に残っちゃうかな。ごめんね」
沈黙に気づいたが、振り返ってそう言葉をかける。その様子におかしさはなく、むしろいつもどおりという言葉の方が相応しい。
ただ、問題はが手にもっていた小瓶の方だった。
「なにそれ。……もしかして、香水?」
慣れない感覚に、佐伯は慣れない言葉を口にする。そして答えはの反応で一目瞭然だった。
「あ、うん。ごめんね、すぐ終わるから……というか帰るから」
「別にそんなことは言ってないけど」
「……ううん、帰る。帰らないと」
慌てては香水の蓋を閉じ、手のひらにつけられたわずかな量のそれをそっと手首、首筋につける。その慣れた手つきの意外さに、佐伯は単純に驚いての言葉に反応するよりも前にベッドから立ち上がった。そして床にぺたりと座って背中を向けたままのの背後から、覗き込むようにしてそっと手首を掴み、鼻を近づけた。
「いつ買ったの? 知らなかった。学校にはつけてきてなかったよね」
「……それは」
「あ、でもいい香りかも。へえ、案外普通なんだね。俺もっときついものかと思ってた。今度一緒に出かける時もにつけてきてよ」
「え!」
「え、って……なに」
「あ。……ううん、なんにも。うん」
歯切れの悪い言葉だった。しかし佐伯がその言葉の真意を確かめるよりも早く、は振り返って掴まれた手首を引いて自分の胸元に寄せる。そしてその小さな動きにすら甘い香りが漂うことを知ってか知らずか、手首を握り締めたままそっと上目遣いで佐伯を見つめた。
なにかを推し量るかのようなその視線に、佐伯は直感的に眉根を寄せる。
だからなのか、気づけば思わず問いかけていた。
「質問」
「なに?」
「今香水をつける理由は、なに?」
静かなその質しの声に、は逡巡する。目を逸らし、自分の手首を見つめてはもう一度佐伯に視線を戻す。その沈黙が意味のあるものだということに気づき、佐伯は腰を下ろしてと視線の高さを等しくした。
夕闇を吸い込んだ瞳の中にあるのは、どこか不安の色。こちらの様子をうかがう色。
嫌な予感に佐伯は頭をかく。折り曲げた右膝の上に右肘をおき、前腕に頭を預けて、そしてそっとに視線を向けた。
「……香水ってさ、匂いを消すためにも使うんだよね? 付けるためだけじゃなくて」
「え? うん」
「そういう意味? 抱かれるの、嫌だった?」
慌てては首を横に振った。だが黙る。その沈黙は笑って流せる雰囲気でも、ましてや先ほどのようにキスで言葉がいらない世界を作れる雰囲気でもない。
佐伯は冷静な表情を浮かべてはいたが、内心はマイナス思考に侵されかけていた。
自分の独占欲は、洒落にならないほど悪化していたのかもしれない。そう痛感するには十分なほどに。
「……あのね。佐伯くんは気づかないだろうけど、佐伯くんの匂いがあるでしょ?」
けれどその時、うつむいたままのがそっと言葉を紡いだ。用を成していない佐伯の左手に触れて。
「制服とか、髪とか、ベッドとか。ジャージとかの」
「……」
「シャンプーとか、ボディソープとか、整髪料とか。あとは、服の洗剤?」
「え? うん……多分」
一本一本、指の節すらも丁寧に触れられる感覚に酔いかける。その時そっと見上げる視線を向けられ、佐伯は一瞬戸惑いながら促されるように頷いた。
それを言うならの方こそそれらの匂いが常にあり、自分とはひとつもかみ合わないその匂いに何度異性を意識させられ、惑わされそうになったか分からない。だが佐伯はその思いは口にせず、静かにの言葉を待った。
ただ、に触れられる左手の感覚に、いつのまにか心は落ち着いていたけれど。
「その匂いにね、私すごく弱いから」
いつのまにか、香水よりもその言葉の続きが気になってしまっていたけれど。
「この部屋にいる時は、抱きしめてもらったりジャージを着させてもらったり、その……ベッドにいたりして、すごく嬉しいんだけど、だけどね」
「……なに?」
「家に帰ると、お母さんにばれちゃうし。お母さんすごく目ざといの、佐伯くんのことは信頼してるし、すごくお気に入りなんだけど……その、なんていうか」
「……根掘り葉掘り聞かれる?」
「……ものすごく楽しそうに。あと、佐伯くんすごいギリギリのところにキスマーク残すし。次の日の体育大変だし。普通に黒羽くんにばれてるし」
「……それは、すみません」
次々と出てくる責めの言葉に、いつのまにか居たたまれなくなってしまったけれど。
「でも、なによりね。家に帰った時に寂しくなるから。だからだめなんだ、私。香水でもつけてその匂いを消さないと」
けれど、それらのなによりも先に。最後の言葉を聞き届けるよりも前に、恥ずかしそうに笑ったに手を伸ばすことにこそ身体は反応した。
ただ沈黙のみが見守る空間の中、そっと頬に触れる。頬にかかった髪をのけ、耳にかけ。じっと自分を見つめるの視線を受け止めながら、佐伯はそのままの身体を抱き寄せた。
抱きしめる瞬間に揺れ動いた空気の中に、甘い香りが漂う。顔をうずめたくなる柔らかい髪の中にあるシャンプーの匂いよりもなによりも、ひとつの思いをもって付け加えられた香水の匂いが鼻よりも心をくすぐる。
「さ、佐伯くん……!」
「が悪い」
「どうして!」
「あのね、それは一般的には誘い文句って言うんだよ」
「誘ってないし! ちょっと、佐伯くん! 香水付けた意味が……!」
「もう一度付け直せばいいよ。ただし、付け直すならその前に」
その続きは、言葉ではなくキスで代替した。
そのキスひとつで抵抗がなくなることを佐伯は知っている。の手の意味が排除から依存になることを知っている。ましてや自分の制御機能が麻痺してしまうことなど、嫌というほど知っている。
そして冷えたフローリングの床などお構いなしに交わしたキスのあと、妙な敗北感にが瞳を潤ませながら幾分か不機嫌に、けれど上目遣いに。
「……抱きたくなったの?」
そんなことを言うものだから。
「それも、誘い文句なんだけどな」
「!」
あとは考えることなど邪魔なだけ。無粋なだけ。
香水に今日の記憶を譲るつもりなど毛頭ない。佐伯はTシャツを握り締めるの手に指を絡めて、舐めるようで噛み付くようなキスを首筋に送る。
ひとつひとつ、甘い匂いの上に自分の跡を今一度つけながら。どれだけ自分を陥落させれば気が済むのだと心の中で尋ねた時、目は床の上に波打つ黒髪を見つけていた。
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