夏の華 01

 言葉以外のなにかで表現される想いと関係があったとしたら。
 それは今の自分たちにとって、とても有益で、効率的で。そしてなにより居心地の良いものだった。言葉は時に無力で、無意味で。けれど時に暴力的で。
 だから、それを使わないでいられる世界は、本当に。本当に心地よかった。
 そして、それは共有された世界だと信じてやまなかった。



「仁王はさ、いつから付き合ってんの?」

 ふいに飛んできたその問いかけに、身体はなぜ反応したのだろう。
 その声の持ち主がテニス部仲間の丸井ブン太であったからだろうか。今が部活中で、ブン太の遠慮のない大きな声が真田に聞かれてはいないかとひやりとしたからだろうか。
 それとも。
 そもそも、質問の意図が分からなかったからだろうか。
 それは初夏の午後、蒸し暑さが肌を侵食し始める頃だった。
 その時、仁王はテニスコート内のベンチに腰を下ろしてシューズの靴紐を結び直していた。その姿勢のまま仁王はそっと顔だけを上方へと向ける。そこには今日も変わらず真っ白な入道雲が映える青空があって、それを背景にブン太が着色料の効果甚だしいチューインガムを膨らませながら仁王を見つめていた。
 その顔には、まるで勝ち誇ったかのような憎たらしい笑顔。仁王は思わず眉根を寄せた。

「俺、ずっと気になってたんだよね」
「なにが」
「そんなふくれっ面すんなよー、別に捕って食おうって言うんじゃないんだから。真田じゃあるまいし!」
「(……真田に丸聞こえぜよ、丸井……)」

 ケラケラと悩みのひとつも寄り付かなさそうな、そんな湿り気のない笑いを飛ばすブン太に仁王は言葉を返さなかった。ただ気になることと言えば真田の(烈火のごとき)視線がこちらに向けられていたことと、柳のシャープペンシルが走り出したことと。
 強いて言うなれば、ブン太の言葉の意味ぐらいか。
 太陽は仁王とブン太の真上から、今日も容赦なく地面を照らす。他に例えにくいほどの白色に視界を侵されて仁王はますますしかめ面をするが、ブン太はそんな仁王の反応をまったく気にとめることもなかった。コートではダブルスの相方であるジャッカルがブン太の名前を呼んでいたが、しかしブン太はそれすらも無視して結局ラケットを持ったまましゃがみこみ、今度は仁王を仰ぎ見るように見つめたのだった。

(やばい、嫌な予感がする)

 直感に、仁王は思わず顎をひく。小さな防御体勢だった。
 たった2年はいつからされど2年になってしまったのか。仁王の一瞬の反応にブン太はにやりと口の端をあげて笑みを浮かべる。その笑顔によからぬものを感じるしかなかった仁王は反射的に立ち上がり、この場を去ろうとした、まさにその時。

「E組の。彼女なんだろ? いつから付き合ってんの?」

 まるで狙っていた獲物を完全に仕留めたとでも言うような隙のない笑顔を向けた、そんなテニス部一自分の武器が何であるのかを知っている男に仁王はそう尋ねられたのだった。



 言葉の意味というものは、たとえ一般的な定義をされてはいてもその解釈は人それぞれだと、仁王はそう思っていた。いや、正確にはこの立海大附属中学校に進学した時にそう思い込まされたという感が拭えなくもない。
 たとえば冷笑でも失笑でも、ましてや嘲笑でもない単純な意味での笑顔とは微笑ましいものである、などというのは、もはや一般論を通り越して真っ赤な嘘だと思った。
 それはジャッカルが浮かべれば嘘くさく、ブン太が浮かべればなにか物をねだられそうである。あえて許すとなればそれは幸村ぐらいで(しかし真意はいまだつかみきれていない)、ダブルスの相方である柳生が浮かべる笑顔などというものは100%戦略であるとしか考えられない。
 一番微笑ましいという言葉とかけ離れているのはおそらく副部長の真田で、彼が笑顔を浮かべようものならば鳥肌が立つとしか思えなかった。自分はなにかをしでかしたのかという動揺こそ生まれど、そこに心の暖かみを感じ取るなどということは、(少なくとも仁王には)皆目不可能だった。
 そう、たしかに笑顔が微笑ましいなどというのは一般論ではなかったのだ、少なくとも仁王から見たテニス部の仲間の中においては。
 しかしその笑顔も、見る人間によっては微笑ましいものにもなるのだろうということは、仁王も知っている。例えばそれは、自分はごめんだと思う真田の笑顔も一部の女子には異様なほどにもてはやされているという事実が端的に示している。一般論には一般論になるゆえの理由が確かに存在するのだ。
 ただ、仁王自身がそうは思わないだけで。
 そして、他人の思考に自分を合わせ、染め上げる必要はないと思うだけで。

「そんな堅苦しいことを考えるのも、ある意味面白いと言えば面白いんだけどね」

 からかうようなその声は、思考回路に容赦なく侵入してきた。
 仁王はそっと顔をあげる。目の前には竹ぼうき片手に曖昧な笑みを浮かべるE組の女子がいて、言葉をかけられて上を向くという昨日とまったく同じ動作に、仁王は否応なしに昨日のブン太を思い出してしまった。

「面白いって、なんじゃいそれは」
「表では飄々としてるくせに、それが自分だと思ってるのに。なのにふとした時に考えこむのをやめられないあたりが、面白いといえば面白い。かな」

 眉根を寄せてしまっていたのだろうか、仁王の顔を見て相手は笑った。
 校舎前に植えられた大樹が生み出す陰には甘えず、太陽の光を直接受ける場所に立って女子は真面目に掃除に取り組む。大樹を囲うように並べられていた赤褐色のレンガブロックに腰を下ろしていた仁王は、しかし笑い声に不満の声を上げながらもそんな相手の言葉を静かに受け止めていた。

「面白いなんて言うのはお前ぐらいだ、この罰当たりが」
「罰当たり? それを言うなら仁王の方でしょ、掃除をまったくやろうとしない不真面目生徒だから」
「秋なら分かる。今が秋ならこの掃除の意味は分かるぜよ。でも夏場に落ち葉なんてそうそうないじゃろう、それをわざわざ2クラス合同でやらせる意味が俺には分からん」

 そんな文句を零し、仁王は一応手にしていた竹ぼうきの先を、地面に寝かせたまま無造作に左右に揺らした。既に粗方の掃除は終わってしまっていたそこは、今となってはわずかな砂埃を舞い上がらせるだけである。
 そんな仁王の態度に、女子はため息をひとつ。

「目に見えるものだけしか相手にしないのは減点」
「は?」
「目に見えないけど大切なものだっていろいろあるんだから。それをないがしろにするのはどうかと思うけどなあ、私は」

 そしてそれ以上なにも言わずに、静かに。女子は遠くのスピーカーから流れ響いてくる掃除の音楽に合わせるかのように、丁寧に砂埃を掃き取った。
 仁王は黙ってその様を見つめる。投げやりに両脚を伸ばしながら、竹ぼうきを握り締めるはずの左手を弛緩させながら、ただなにも言わずにそっと見つめていた。
 スカートの重なり合った部分が、ひらひらと。まるで規則正しい動きを知り尽くしてるかのように連なって揺れ動き、竹ぼうきが地面を擦る固めの音に合わせて漆黒の髪も揺れる。空気同士がじゃれあうかのように微かな風が吹けば、大樹の葉が擦れあうのと同時に仁王の視界の一部が自分の髪に遮られた。
 それは、いつもと変わらない光景だった。

「……前から思っとったけど、スカート短いのう」
「どこ見てるの、バカ」
「バカとはなんじゃ、自然と目に入ってくるものを見てバカとは」
「それをわざわざ口にするあたりがいやらしいって言ってるの。バカ」

 仁王の言葉に、女子はあからさまに冷めた顔をした。いつもなら丸みを帯びているはずの瞳が、まるで仁王を見下すかのように細められる。普段はなにが目立つというわけでもないが、時々こうして浮かべる冷めた表情は、やけに大人びていると仁王は思った。
 ただ、それが嫌いではない。むしろ好ましい。
 思い返せば、その感情は随分と長生きをしているような気がする。
 そんなことを思いながら、仁王は竹ぼうきの柄を握り締めたまま、そっと。小さく呟いた。


「ん?」

 それは、いつの間に用意していたものだったのか。既に言葉として口から零れ落ちてしまった今となっては、仁王には確認する術はなかったけれど。
 しかし名前を呼べば静かに視線を寄越し、その言葉の先を待つ女子の姿に、仁王はふしぎなほどになにも言えなかった。
 沈黙の中を、初夏の温もりを含んだ空気ばかりが流れる。
 ただその空間に、言葉を見つけられない気まずさよりも他のものに気づかされる自分がいることを、仁王は否定できない。そう、そこにあるのは、気まずさよりも居心地の良さ。

(気づいたらそういう風だったって、そういうのもアリだろう?)

 心の中の呟きは、誰に届けたいわけでも聞かせたいわけでもなく、ただ仁王に確認を促すような響きを持っていた。
 呼びかけたまま、仁王は言葉を繋げることをしなかった。女子は肩を竦め、苦笑する。

「変な仁王」

 分かっていたけれど。
 だからこそ相手はそう付け加え、微かに笑う。それは今となっては馴染みのあるもので、過剰に反応するものでもなかった。その証拠に今の仁王の心拍は大して変化していない。元々感情がすぐ表に出る性質でもなかったが、なにより自分はこの状況のなにかに特別な反応をするわけでもないと、仁王自身がそれを一番よく知っていた。
 そう、だから。

「!」

 手を伸ばし、細い手首を掴み。小さな反応の声すら与えることを許さずに、わずかな力を込めてその温もりをもつ身体を引き寄せて、膝を崩させて。そして自分の視線の高さに顔を引き寄せてしまえば。
 触れるか、触れないか。
 呼吸だけがただ互いの肌の上を滑り落ちていくぎりぎりの距離にまで、たとえ顔を近づけたとしても。瞳の自然な潤みが分かるほどまでに、互いの視界を重ね合わせたとしても。
 拒絶の声も態度も零れ落ちない、この空間の居心地のよさにだって、心はもはや特別な反応を示すようなことはしなかった。

(だって、なあ。これは)

 チャイムが鳴る。もはや眠気しか誘わない馴染んだ掃除の音楽は放送を終了しており、ただ教室へ戻れと言うような、そんな色気のない機械的な鐘の音ばかりがあたりに響く。
 鼓膜が鐘の音に震わされる、その中で。仁王は一瞬だけ唇を触れ合わせてからそっと相手の手首を解放した。不自然な体勢は好まれるものではない、分かっていたはずのその理論に素直に従うかのように、相手の顔は無音で仁王から離れていく。
 まるで自分から遠ざかっていくようだ、そう思わさせるように、名残を惜しませるかのようにゆっくりと身体が離れる。そして焦点の合う距離をお互いが保てた時。

「膝が痛い」
「悪い」
「もう少し場所を考えてよ。いくら誰もいないからって」

 慌てる様子もなく、そう静かに。は笑って言った。

(別に驚くようなことじゃないんだから)

 それは、互いがなんの緊張も要しない、むしろ日常の中に溶け込んだと言っても過言ではない一瞬の出来事だった。
 仁王の真意をどこまで理解しているのか、そんなことは分からない。ただは無言のまま軽く手を振り、あっさりと背中を向けた。出逢った頃よりも小さくなった、そのようにすら思える背中は別れの言葉を必要としないままに仁王の視界から遠ざかり、やがて消えた。

「そういうことをしておきながら、付き合っていないだなんて。たとえそんな言葉を言ったとしても、真実味がなければ丸井君が理解できるはずがないでしょう」

 残された仁王はただひとり、腰を下ろしたまま空を仰ぐ。
 背後から飛んできた呆れ気味の声にも反応を示さずに、見上げ続ける空には淀みというものを知らない真っ白な雲が浮かんでいた。視界が晴れやかだった。
 振り返らないまま、仁王はしばしの沈黙をもらった後に言葉を返す。

「丸井は単細胞だからか?」
「仁王君の言葉には信用に足るなにかが欠如しているからですよ。少なくとも彼にとっては」
「いらんよ、そんなもの。俺は丸井にそう思われたくてあいつとつるんでるわけじゃない。大体、丸井とあいつは無関係じゃろ?」
「それは、ごもっとも」

 そう言うと、突然話を振ってきた相手――柳生は、わざとらしく肩を竦めた。
 右手には仁王と同じ竹ぼうき。と同じクラスの柳生も、この中庭の掃除当番だった。
 今はいなくなってしまったをそこで思い出し、仁王は今一度天を見上げる。

『E組の。彼女なんだろ? いつから付き合ってんの?』

 悪意はないだろう昨日のブン太の言葉が、鼓膜の内側で延々と響く。
 その時、自分がどういう返事をしたのか。思い出してみようとしたが、仁王は結局欠片のひとつも思い出すことができなかった。ただうまく言い逃れをすることだけには成功していたらしく、ブン太は今朝会った時にもそれ以上の追及をしてくることはなかった。
 深く考える必要もないだろう、仁王はそう思い立ち上がる。
 元々自分は自分以外のなにかに流されることが苦手なタチである、ましてやブン太とは無関係である。悩むというのは合理性を欠いている、そう考えることは意外と簡単だった。簡単だったのだが。

「ただ、一般論では」
「あ?」
「男というものは、得てして独りよがりな思想に染まりやすいと言いますがね」

 振り返ったその先、柳生が眼鏡のブリッジを中指で緩く押し上げながら呟く。ネクタイを揺らしていく風が仁王の前髪も揺らし、夏の若草の香りを届けながら過ぎ去っていった。
 仁王は黙る。風と時間とを見送りながら、そして柳生の様子を窺いながら。けれど結局はため息をついて、それを前置きにして言葉を切り出した。
 
「付き合うとか、そういうもんは」
「はい」
「そういうもんは、絶対に確認しなきゃ駄目だってもんでもないじゃろ。契約じゃあるまいし」

 こういう時のこいつは苦手だ、と。同じコートに立って同じ試合をしなければならない立場だからこそ感じる本音を今日も抱きながら、仁王は言葉を繋げる。

「あいつと俺は、そういう堅苦しいもんは嫌いなんだよ」

 答えは返ってこなかった。それは柳生が仁王の言葉に納得したからなのか、それとも返事を聞くよりも前に仁王が踵を返したからか。原因は分からない。
 ただ、自分がとの間に築いてきた関係は、薄っぺらなものじゃない。言葉ひとつで説明できるほど単純なものでもない。
 そう思う仁王にとって、柳生の言葉はひどく滑稽で、同時に無神経にも思えた。



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04/11/30