春の誘い

 母校に帰ってきた、と開口一番嬉しそうに語ったのは春のこと。それは短い春休みを終え、最上級生としての1年間の幕開けを飾る着任式での出来事だった。
 始業式明けから始まる課題テストの勉強を進めているはいいが、睡眠不足になることを考えていなかった無謀な時間の使い方のために、一方的に話を聞くというだけのこの時間は苦痛以外のなにものでもなかった。しかしその時、彼の幼く嬉しさに溢れた声にぼんやりと誰かの背中を見つめていた視線が壇上に向く。
 マイク越しの声が響き渡る中、はその声の持ち主を探す。

「切原赤也です、世界史担当します。よろしくお願いします」

 そして視界中央に映ったのは、どこか憎めない笑顔を見せて頭を下げたくせ毛の新任教師の姿だった。



 それからの1年は、まさに切原との1年だった。
 副担任になった彼は授業中に限らずいつもどこか、目の届くところにいるような人だった。古老の教師が多い立海大附属においてその姿は否応なしに目だって仕方なかったが、暇なのか生徒が好きなのかと考えていたの印象は1ヶ月もしないうちに真実に取って代わられた。切原が生徒の傍にいるのではなく、生徒が切原の周りに集まってしまうのだ。
 時折同級生よりも幼く見えるような、無邪気な笑みが印象的だった。

「俺先生より身長高いんだけど。先生何センチよ?」
「バッカ野郎、無駄に身長高くなって老けて見えるよりマシだろ」
「負け惜しみにしか聞こえないんだけど!」
「うるせえ、テストで100点取ってから言え!」

 同級生たちにからかわれても優しく受け止める、そしてさらに彼らが近寄りやすくなる空気を作るのが上手かった。
 確かに大柄ではなかったし、言葉遣いも丁寧ではなくむしろ生徒が日常使うものに近かった。どちらかと言えば教師の威厳よりも教育実習生のような親近感があって、事実他の教師の中にはそんな彼を煙たがる人もいたというのは後になって知った。
 しかし世界史の授業がつまらないと思ったことはなかったし、間違ったことをしているとも思ったことがなかった。1学期の中間テストで去年とは比べ物にならないいい点数を取ったことを、彼は「すげえな、めちゃくちゃ勉強したんだな」と手放しで喜んでくれていたが、その勝因は自分の努力だけではないことは自身が一番よく知っていた。

「先生の教え方が上手いからだと思います」

 笑って返せば、切原にもまた笑いで返された。
 男子たちが近寄りたくなるのは言葉遣いのせいだけではない、と実感したのは、その時の笑い方が妙に心の中に残るせいだと感じてならなかった。
 ただ、それでも。あくまで彼はクラスの副担任、学校の一世界史教師。

「切原先生、めちゃくちゃ可愛いよね。大学時代もてたんだろうなあ」
「先生って立海大なんだよね? 誰か知ってる人いるんじゃないの」
「聞き込みしてみる?」
「やだ、それだと切原先生が大好きみたいだし!」

 たわいない話題に花を咲かせるクラスメイトの会話の中で、

「あ、でもこの前私聞いたよ。2年の子が告白したって」
「ええ! 張り切りすぎ! 無理に決まってるじゃん、相手教師だよ?」
「告白までいっちゃ駄目だよね、付き合ってくれるはずないし……というか」
「というか?」
「切原先生って、付き合うとなると別じゃないかなあ。教師だから可愛いっていうか、鑑賞で止めておきたいっていうか」

 そのように返して彼女たちを納得させ、自分でも心の中で納得してしまうほど、あくまで彼は教師でしかなく「教師の中では」という前置きがなければこれほど気にすることもなかった。
 冷静に考えなくとも、それは間違っているはずはなかった。むしろ教師と生徒の関係に「教育」以外のなにを考えて接しろというのか、と、当時であればためらうことなく思っただろう。思う以前の問題だったために、実際には考えたこともなかったが。
 だから時間の流れは早かった。受験生という肩書きを背負っている以上、過去12年間の中でも最速だろうその流れについていくのがやっとだった。
 その日、東京は珍しく雪が降った。
 センター試験を終えて私立大学の入試が続き、結果を手に入れてようやく一息ついた2月。志望校である国立大学の最後の試験のためだけの時間の使い方だけを考えていればよかった、それは雪の日の出来事。

「……先生」

 銀世界の中で傘をさそうとしたその瞬間、は唖然と立ち止まる。その声に相手は素直に振り返ってくれたが、の姿を見つけた途端ぎょっと目を丸くした。
 そこは駅。予備校の自習室に飽きて帰宅を決め、ようやくたどりついた自宅最寄の駅の出口だった。

「なんでがここに……って、お前まさか」
「私、ここの人間です。地元です」

 の余分なものを一切含まない答えに、切原はしばらく居心地の悪さに顔を歪ませていたが、やがて諦めたかのように深いため息をついた。

「そうだった、俺クラス名簿見て『やべえ』って思ったんだよ。お前、もしかしなくとも第二小出身だろ」

 その言葉に、もようやく目の前に切原がいる理由を知る。今度はが唖然と目を丸くする番だった。

「まさか、先生ここの出身……!」
「バカ野郎、でかい声出すなよ!」

 慌てて切原が人差し指を立てる。
 雪の日とはいえ休日の午後、人の出入りの激しい駅。しかも互いに私服。
 さすがに教師として気になるものが多すぎたのか、珍しく制止を請う切原の姿には慌てて自分の口を塞いだ。幸いにも普通電車で帰ってきたため、周囲に人の気は少なかったが。
 しばらく雪の降る音を楽しんでしまったかのような、沈黙が流れる。出会ってしまったはいいがこの場をどのように閉じてよいものか分からず、はそっと切原を見つめるが、彼の横顔は相変わらず驚きと困惑の表情を混ぜ込んでいるだけだった。

(先生なんだからなんとかしてくれたっていいのに!)

 最初こそそのように思い、気づいてくれと言わんばかりに視線を動かした。しかし切原の顔は駅の外、降り積もる雪の景色にばかり向けられていて気づいてくれる気配すらない。不器用にもほどがある、と傘を差して帰ろうと思ったその時、はようやく彼の手元に気づいた。

「……先生、私の言うことが間違っていたら笑ってくださいね」
「……なんだよ」
「まさかこの天気の日に、傘、持ってこなかったんですか?」

 返されたのは、一段と強まった風に吹かれて飛び回る雪の中に埋まる、沈黙だった。
 ついに背中しか見せてくれなくなった切原に、はまたも唖然とさせられるもやがて笑い出す。さすがにその態度を沈黙でやり過ごすことはできなかったのだろう、その時になってようやく切原が振り返り、「不可抗力なんだからな!」と怒鳴った。

「だって雪降らねえって言われたんだよ。絶対寒そうに見えるだけでむしろ傘持ってくる方がありえんって。あーもう、相変わらず嘘ばっかり言いやがって、あの人は……!」

 こんなことなら行くんじゃなかった、と呟いて、昨日の夜の出来事を愚痴りだす。聞けば昨日は高校時代の部活の飲み会だったらしく、先輩の言葉を真に受けて朝帰りならぬ昼帰りをしてしまったらこの有様だった、ということらしい。言葉にすると怒りが甦ってくるらしく、愚痴は当分止まりそうになかった。
 はしばらくその話を聞いていたが、しかしそこは外。いくらコートを着ているからとはいえ、ブーツ越しに触れている地面からは冷たい空気ばかりが這い上がって足を攻める。白い息はもはや見たくもない。
 切原の愚痴を背景に、はそっと手にする傘を見つめ、やがて。

「先生、使う?」

 手袋もしていない切原に差し出すまで、そう時間はかからなかった。

「……は? なんで」
「私、家に電話すればお母さんがいるから。多分迎えにきてくれると思うし」
「いや、それ違うし。間違ってるし。なんでお前が傘なくさなきゃ駄目なんだよ」
「だって先生、傘がなくて帰れないんですよね? だからここに立ち止まったままだったんですよね?」

 否定するところがまったくもってない正解に、切原は一瞬だけ息を飲むもののしかしすぐに右手を向けた。開いた手のひらの大きさが分かる角度で。

「それとこれとは違う。なんで受験生をわざわざ風邪引かせる方向に走らせるんだ、俺怒られるだろ」
「大丈夫ですよ、そこのカフェで待ちますから。先生こそ風邪引かないでくださいよ、こんな時期に。はい」

 このままでは埒が明かない、と踏んで、は強引に切原に傘を押し付けて小走りでその前を去った。どう考えても自分の意見が一番互いの利にかなっている、立ち往生していた切原の抵抗は聞いても納得できそうにない。そう思えば道路を挟んだ先にあるカフェまで雪にあてられることなどなんの苦にもならなかった。
 店内に入れば、むしろ痛いと感じるほどの暖かさが頬にあたる。随分と冷やしてしまったものだ、と手先のかじかみに軽く息を当てながらレジへと向かう。使い慣れた店である、もはやメニューを確認することもない。いつものカフェラテを頼もう、そう思い口を開いた。

「ラテのトールと、あー、お前は何」

 けれど響いたのは、自分の声ではなかった。
 店員が慣れた手つきでレジを打つ。しかし視線はこちらに向いていない。目を丸くしてメニューが再読されるのを見つめていれば、後ろからまた声が飛んだ。

「なんだよ、決めてないのかよ。ああもういいよ、ラテなら飲めるだろ。すいません、同じのもうひとつ」

 それは、相変わらずのクラスの男子のような言葉遣い。大人の雰囲気の欠片も感じないようなその声は、しかしこのカフェの中で誰よりも傍で響いて、この場所での時間の使い方をあっさりと決めてしまった。
 こんな雪の日に車を走らせるな、と呟く切原の姿に何も言い返せなくなっていれば、やがて店員が湯気の立ち上るカマグカップをふたつ用意してくれた。

 私服は、予想の範囲内だった。そう呟けば切原に心底不快な顔をされた。

「お前、俺をなんだと思ってるんだ。ていうかクラスの男子たち全員」

 普段見慣れたスーツとは違う、大学生だと言っても誰も疑わないだろう雰囲気。元気のよさがそのまま厚着をしない印象に繋がっていたが、そこも期待を裏切らなかった。黒のコートはお世辞にも厚手とは言えず、寒くて当たり前だと呆れて言ったならば怒られた。

「お前たちの制服の着方の方がよっぽど寒い。うちの制服はマフラーで誤魔化してるだけでもともとそんなに暖かくないだろ。特に女子」
「……さすが、先生。本当に卒業生なんですね」
「褒められても」

 ぶっきらぼうな言い方が、嫌悪感を与えない。なぜか頬が緩んでしまうのは、切原の持つ近寄りやすさのためだと思っていた。
 何度見ても、改めて見ても、思い直して見てみても、やはり教師とは思えない幼さの垣間見える言動。退屈そうに頬杖をついて外の雪を見やる横顔など、教室の中で見ても異存ないほどに幼い。
 だが、沈黙に居心地の悪さを与えない同級生など、はいまだかつて出会ったことがない。

「ねえ、先生」
「なんだよ」
「先生って大人なのか子どもなのか分からないですよね」

 一瞬で切原の顔が曇る。むしろ曇るを通り越して不機嫌をあらわにして眉根を寄せる。
 その意味ではない、と一度手を横に振って、はマグカップを両手で包みながら呟いた。

「嫌いになる先生よりは、好きになれる先生の方がいいですもん。私はそっちの先生の方が好きだな、っていう、私の勝手な意見です」

 視線だけがちらりとこちらを向く。生来大きめなのだろう、その瞳が真っ直ぐにを見つめてきたが、やがて困ったような笑みに負けて細くなった。黒髪が揺れる様は女の立場から見ても羨ましいと思うほど綺麗で、がさつを売りにしている部分がある本人の意思とは裏腹な部分がありすぎる。
 それを見せつけられるのは、こちら側なのだ。理不尽だな、と簡単に思う。

「先生、自分の魅力にもっと気づいた方がいいですよ。先生の知らないところで女子がいろんな噂してる」
「噂? 好きだなー、お前ら。ていうか魅力ってなんだよ、俺なにもしてないぞ」
「うん、そういうところ。先生ってすごい人ですね、って今改めて思った」
「改めてって……お前、それじゃ普段俺をそう思ってないってことじゃねえか、おい」
「あ、すみません。つい」
「こら」
「あはは、嘘です。嘘、先生のことは本当に大好きですよ。親しみがあって」

 その時の自分の顔は覚えていない。思わず本音をついて出てしまった言葉だったが、言ってしまったあとで不適切に近いとも思うことができなかった。
 本心からそう思っていた。近寄りやすく、頼りやすく、こちらを拒絶する空気を絶対に持っていない切原という教師は、出会えてよかったと心から思える教師のひとりだった。彼が教師であってくれたことに、心は奥底から嬉しさに満ち溢れていると訴えている。
 ただその時の切原の顔が、普段学校では見ないほど神妙な面持ちになっていることに気づくことはできていなかった。

「言われ損だな」

 笑って呟く。見上げた顔に浮かぶ表情は、少しばかり外の空の色に似ていた。
 その意味は分からなかった。もしかしたら言われ慣れていて、そろそろ飽きていたのかもしれない。教師といえどひとりの人間だ、子どもを常に相手にすることに無尽蔵のエネルギーを費やせる意思はあっても保証はない。
 しまった、と思ったのはその時だった。軽はずみに口に出しすぎた、と感じたあとのカフェラテの味は覚えていない。沈黙が若干心苦しくなったことばかり記憶に残る。
 だが、それが。それがある意味真実を指し示していたことに気づくまで、そう時間は必要としなかった。

「卒業式でよかった」

 ベンチに腰掛け、春の空を見つめる切原に声をかける。在校生としてではなく教師として、本当の意味で「送り出す」側に立った卒業式は感じるものも異なるのだろうか。いつもより落胆して見える切原に、は一瞬足を止める。しかしすぐにいつもの笑みを向けてくれる彼に、すぐに足はその隣に立つことを選んだ。

「なんだ、その言葉。意味分かんねえし」

 ただ返す言葉は、どこか濡れていた。涙が見えるわけでもない、表情もいつものものに戻っている。だが、声に覇気がない。そうなってしまうほどの卒業式であったことに嬉しさと悲しさをない交ぜにしながら、は口元を緩めて空を見上げる。

「だって、卒業式にならないと駄目なことがいっぱいあったんですもん」
「だから、なんだそれ」

 視線を合わせないまま、ふたりは静かに沈黙と言葉とを空気の中に流す。座れば、とやがて小さく響いて視線を向ければ、いつのまにか人ひとりが腰掛けられるだけのスペースが作られていた。
 誰もいないテニスコート前で、は切原の隣を独占していた。
 1ヶ月前までなら感じることもなかった想いが、卒業式を迎えて心の奥底から生まれたがっている。隣に並ぶという事実に震えそうになっていると言ったならばどうだろう。いや、それよりも今この横顔を間近で見つめていられることに頬が熱くなるのを隠そうとすることに必死だと知られたらどうだろう。気にすべきことは山ほどあり、秘密にしていることも数え切れないほどあり、外はこれほどまでに春の陽気に触れて開放感に満ち溢れているというのに、自分の頭の中と喉の奥は閉塞感に苛まれている。
 だが、その想いを抱くことができる時を迎えられてよかった。そう思うだけで、心は晴れやかだった。笑みは自然と零れた。

「先生、聞いて。私ひとつ気づいたことがあるんです」
 
 空にそそのかされて言葉を繋ぐ。言ってしまえば最後、もう後にはひけないことは分かっていたが、しかし今日はこの空に敗北を喫してもいい。なぜならば今日は卒業式だ。
 最後を決める日が次の始まりであることは、18年の歳月しか刻んでいない子どもの身体であっても十分理解している。

「卒業して高校生じゃなくなったら、私もっと本音で言葉を言うことができるって」

 切原の目が丸くなる。驚くというよりは、言葉の意味が分からなくて反応に困った挙句の動きのようだった。素直に感情を表に出すあたりは、やはりいつ見ても大人とは思えない。
 しかし、大人でなければ今ここに、教師という立場で自分の隣には並んではいない。
 小さく肩をすくめ、は部活の後輩からもらった花束の中から小さなつぼみのチューリップを取り出し、切原に渡す。無言で受け取った切原の瞳が、怪訝な色に染まる。はただ笑った。

「ねえ、先生。私高校生じゃなくなるから、私先生のこと好きになっていてもいいですよね」
「……は?」
「うん、だから。卒業式が終わると、なんだかいろいろと枷がはずれちゃって。ああ、私先生のことが好きだったんだなーって。先生としての好きじゃなくて、切原赤也っていう人を好きだったんだなー、って」
「は?!」
「あ、別に付き合ってっていう意味じゃなくて。付き合えるか付き合えないかって言われたらそりゃ断然付き合えちゃいますけど、そういうのよりももっと……うん、本当に。私先生のこと好きだから今年1年楽しかったんだなあ、って改めて思って」

 そうでなければ、説明のつかない1年だった。
 教師だからという理由で説明できたすべての感情は、教師だからという理由で制限された感情の裏返しだった。しかしそれも卒業という日を迎えてしまえば意味がない。

「私、先生のこといっぱい見てきました。いい先生だなって。でもね、違いました。いい人だなって思ってたけどでも高校生だから、相手になんてしてもらえないから、だからいい先生の前でいい生徒でありたかったんだと思う。嫌われたくなくて」
「……」
「あの雪の日は、私のいい思い出のひとつ。本当ですよ」

 告白というのは、もっと感情に訴えてしかるべきものだと思っていた。吐きそうになるほどの熱さと息苦しさとを兼ね備えているものだとばかり思っていた。
 しかし、そんな常識を伴わなくてもよいほどに、彼が身近に感じられるいい教師だった。そう思えば、告白の言葉も簡単に口をついてでてきてしまう。
 不思議な人だった、と。笑いながらはもう一輪、花束の中から抜き出して切原に差し出す。むきだしの花を持つ姿はなんとも言えず可愛らしいもので、思わず笑い声まで口をついてでてしまった。

「ありがとう、先生。私先生のこと大好きだった」

 大きな瞳で自分を見上げる切原に、最後の笑みを向ける。今日が快晴でよかった、もしこれが雨なら想いを告げる胸はもっとしなびてしまっていたかもしれない。そう思いながらは踵を返し、正門へと向かう。

「バッカじゃねえの」

 その時、背後から声がかけられるのはある意味ひとつの答えになってしまっているということを、この人は知っているのか。
 足を止め、振り返る。いつかの時に見た光景のように、足の上で頬杖をついてつまらなさそうにこちらを見つめる切原がそこにいる。

「告白だけしておいて、返事も聞かないなんて。お前どれだけ損するつもりだよ、そんな大人になると絶対誰かに騙されるぞ。年上ってのは年下を騙すようにできてるんだ、絶対」

 自分に優しくないのであれば、風はもっと冷たくあってほしかった。自惚れるなと笑う準備ができているのであれば、花束はもっと切ない香りを漂わせてほしかった。
 自分と付き合う道がないのであれば、ベンチから立ち上がってほしくなかった。
 男子にはいくら小さいと笑われようとも、からすれば十分見上げる角度にその顔はある。近くに寄られてしまってはなおさらだ。
 誰もいないテニスコート前で、切原はため息をひとつついた後二輪の花を差し出す。

「なんで別れの挨拶なんだよ。付き合う付き合わないの返事をさせる余裕もないのか、お前。そんな優しくない女だとは思わなかった」
「……先生?」
「俺、こう見えても案外素直なんだけど。なんでそこで笑うかな、お前」

 差し出された二輪は拒絶の意味を示すことなく、もといた花束のなかにおさまっていく。切原の指を追うかのように視線を向ければ、「わざわざ離す必要ない」と呆れられた。
 どういう意味だ、と問いかけるよりも早く、あの大きな手が頭を撫でる。想像したよりもずっと温もりのある手のひらは、あっさりと涙腺を揺らす。
 緊張するなんて柄ではない。動揺してしまうなんて、そんな可愛らしい感情を持ちたくて想いを告げたのではない。そう心は叫んでいるが、身体は言うことを聞いてくれなかった。

「悪い、無理させた。お前が言うことじゃないんだ、本当は」

 反応の意味を理解した切原が、困惑した表情で謝る。首を振ることもできない。
 それほどまでに、今日ようやく外の日差しを浴びることができた感情は、自分が思っているよりももっとずっと繊細だった。

「……素直だったら、どうなるんですか?」

 花束に顔を隠してもらいたい。それでもここからは逃げたくない。
 相反する感情をもてあました末に小さく呟けば、切原はいつものように子どもっぽく笑う。

「付き合えって言われたら多分付き合う。付き合えって言われなかったら」
「……言われなかったら?」
「付き合わさせる。好きにさせれば俺の勝ちだろ」

 出会った時と同じ黒のくせ毛が風に揺れる。遠く壇上でしか見ることができなかった髪が、今の視界の中だけで揺れている。
 独り占めしたいと願った心が春風に笑われる。まるでこれでは卒業式という日を用意してくれた春に負けたようなものだ。
 それでも彼の手が心を撫でるようにもう一度頭をそっと撫でてくれれば、春風は優しさしか持ち合わせていないかのようにふわりと、髪を優しく揺らしていった。



09/05/01