忍足侑士くんの氷帝学園日記 高校生編 01

 今年の残暑は、あまり厳しくないように思う。特に去年の暑さと比べたら、涼しいと感じる機会の多さに気付いて驚いたほどだ。去年の夏は中学最後の全国大会ということで、特別な思い入れがあったからかもしれない。もちろん今年もテニスと大会という目標に変わりはないが、如何せん後輩という立場では自分たちの思うとおりのテニスができる部分は限られてくる。俺は跡部ではないから、ここは穏便に上級生に高校生としての晴れ舞台を譲る側に立ってみたら、予想以上に夏は早く終わってしまった。

「言い訳するぐらいなら最初からコートに立てよ」

 跡部はひどく不機嫌そうにそう言ったが、俺の横ではその台詞に違う角度からイラついていた親友がいた。

「なんだよ、跡部のやつ。自分だけレギュラー入れたからっていい気になりやがって。つーかさ、先輩っつってもさ。どうせ中等部の時とほぼメンバー変わんねえんだから、中1の時にレギュラー取ってたやつは簡単に入れるんだぜ、絶対」
「岳人。それ、なんて言うか知ってるか」
「な、なんだよ」
「言い訳通り越して、負け惜しみっちゅうねん。いや、負け犬の……」
「うるせー、無表情で言うんじゃねえよ、バカ侑士!」

 そんなふうに、俺の隣でキャンキャンと鳴く子犬(見た目は絶対猫だと俺は思っている)のような親友は、今年も相も変わらず通常運転である。
 出会って4年目になる、腐れ縁のような親友について。まるで性格の違う向日岳人について。俺は今年もまた、いろいろと思うところを日々募らせながら氷帝学園高等部の毎日を過ごしていた。



 そして事件は、9月12日におきた。
 9月12日という日付について、一般の人はさほど気にしなくてもよいと思う。単なる平日だ。しいて言うなら大安だ。学校はいつもどおりで、早朝練習も何も変わらなかった。しいて言うなら、滝と宍戸が練習に熱が入り過ぎてなにやら去年を見ているような気分になったぐらいだ。跡部はそんな二人を見て、相槌を求める樺地が傍にいないことがやはり寂しそうではあった(と本人に言ったら絶対に何かが飛んでくるので口にしたことはないが)(ただし表情には出ていたらしく、タオルは飛んできた)。

「しいて言うなら……やなあ」
「どうしたの、忍足」
「いや、考え事」
「何の。……ああ」

 同じクラスになった滝は、俺の視線の先に気付いてあっさりと思考回路を読んできた。
 教室の窓の向こうには、休憩時間を思うように過ごす同級生たちの姿であふれている。中等部時代からの知り合いはごく一部であり、同じ繰り上がり組でも名前と顔が一致しない者、高等部から入学してきて名前すら知らない者が入り交ざっている。滝と同じクラスになったのは幸運で、正直なところ今のクラスでも全員の顔と名前が一致しているという自信は俺にはない。基本的に俺は、淡泊なのだ。

「忍足が執着するって言ったら、ああいうことだもんね。いや、いいんじゃない? 忍足らしくて」
「何が俺らしいんや」
「姑だよ、まるで。岳人のことに関すると、忍足は」

 くすくすとひどく上品に笑う滝を鼻で笑い、俺は今一度廊下へと目を向ける。知らない顔も混ざる中で、岳人がなぜそこに立っているのか俺には見当もつかなかった。俺に用事があれば、とっくの昔に教室の中に入ってきているだろう。しかし岳人の目は俺でも滝でもなく、窓に隠れた廊下側を見ている。  誰と話している。そんなことは、聞かずとも岳人の表情を見ているだけで簡単に知れた。

「俺には素朴な疑問があんねん。とりあえずやな、よくもまああのが岳人に愛想もつかさんとここまで付き合うてこれたなあと、まあ、常日頃心の底から思ってんねん」

 岳人には決して聞こえない声で呟く。たとえ大きな声で話しても、あいつはこちらの声になど耳を貸さないだろうが。格好つけて話している姿は、親友としてはやや滑稽でもある。

「何を今さら。あの子じゃないと岳人の彼女は無理だって、忍足が言ってたんじゃなかったかな」

 国語の教科書の準備をしながら、滝も淡々と呟く。ぱらぱらと教科書をめくる様は当然のように文学少年だ。俺のものより数倍艶のある髪を風になびかせる様は、親友としては少し羨ましくもある。

「俺ちゃうで。鳳や、鳳。俺はずっと見抜いてました! ってえらそうに言うとったで」

 鳳が出会った瞬間一度で見抜いたその彼女とは、岳人にとってはじめは女友達だった。本人ですら気づかなかった感情に俺の方が先に気付いたんですよ、と自慢げに宍戸に言っていた時、まさか宍戸が恋心で悩んでいた時期だとは敬愛する後輩でも見抜けなかった。その時は一緒に腹を抱えて笑っていた親友は、今、自分の彼女に夢中である。

「まあ、でも。岳人が彼女っていうことを隠さずに当たり前のようにしていられるのは、大きいと思うけど。岳人、照れ隠しが多いタイプだし。……ああして話せるのは、実はとてもいいことなんじゃないの」

 岳人の表情が少しほぐれる。楽しそうに笑う様は、あいつの専売特許だ。無邪気に表情と感情をつなげることができるのは、俺としては羨ましくもあり、

「でもそれが、姑としては不安材料にもなりますよ、と」

 不安でもある。と、いうことを、目の前の男は簡単に見抜いてしまっているらしい。
 俺は頬杖をついた姿勢のまま、視線だけを滝に向けて少し鼻で笑った。

「なんやねん、不安て。俺は別に何も思ってへんで」
「常日頃岳人とさんについて思っていると言ったのは、どこの誰ですかね」
「それは、お付き合いっちゅうもんや。岳人とお友達の証拠や。……って、なんやねんこれ」

 すべてを見透かしたように笑う滝の表情は、岳人のそれとは異なり、幾分か層が分厚い。そして複雑だ。本心では何を思っているか分からないこともあると呟いた時、宍戸には冷たい目でお前もだよと呟かれたが、淡泊な俺とは異なり優雅さを持ち合わせている男の二面性は厄介だと思う。しかし。

「いや、ごめん。実は俺が気にしてることがあるんだよね。聞いてもらってもいいかな」

 その男に困惑の表情を浮かべさせた俺の親友は、実はもっと厄介なのかもしれない。
 目を丸くした俺に、滝がちらりと廊下の岳人を見つめる。実はね、と口を開いた言葉に、俺は頭を抱えそうになった。懐かしい感覚だと、誰が言おうとも認めたくなかった。
 事件は9月12日より数日さかのぼるらしい。それはテニスコートで起きていた。氷帝学園自慢の硬式テニス部専用テニスコートは、全国の強豪である男子テニス、女子テニスともに練習を行うことができる。もちろんどちらかが譲り合って満足のいく練習を我慢する、などという狭隘なことはない。人間性は授業で学べ、部活ではただ強くなれという信念が当たり前のように存在している学園では、練習に困ったことはない。つまり部活をするということは、毎日女子テニス部の姿を見ることに繋がっている。

「滝、お前そういえば誰かに告白されとったやろ。なんや、事件てそれのことか」
「いや、俺のことはいいから。ついでに言うと、ジローのことを好きなあの子の話もいいから」
「なんやそれ、初耳やで! そっちから話せ」
「えー、嫌だ。だってあれ、ジローもどう見たって気に入ってるじゃん。どうせそのうち付き合うからいいんだよ、ああいうのは」

 滝の予言どおり、数日後ジローが女子テニス部の一人と付き合いだすことになるのだが、滝にとってはそのような見え透いた展開は面白くないらしい。記憶に残ったのはもう一つの風景だった。

「忍足、気づかなかった? 岳人のこと狙ってる子の姿」
「は?!」
「もう、あからさま。見え見え。岳人が気づかないのがおかしいぐらい」

 滝の言葉に、俺は絶句して慌てて廊下を見つめる。岳人は相変わらず、自分の彼女と話している。少し移動したのか、無理せずとも二人ともの姿が視界に飛び込んでくる。岳人の隣にいるのは、確かにだった。去年よりも若干髪の毛が伸びたような気もするが、岳人との身長差にあまり変化はない。去年一時岳人が背が伸びたと喜んでいたのだが、呆気なく同じだけに伸びられて、二人して落ち込んでいた姿は一時話のネタだった。
 しかし、二人を見ている限り不穏な様子はまるでない。むしろ、そのようなものを寄せ付けないような雰囲気すらある。もともと岳人が一般的とは異なる経緯でと付き合い始めた過去を、岳人が目立っていた分かなり多くの同級生が知ることになっている。それでも平穏に関係を保つことができている二人に、周囲は茶茶を入れることはあまりしなかった。テニス部以外は。

「岳人の昔の話知っとったら、普通の女子はあんまり手出せへんのとちゃうかと思っとったんやけど。そうでもないのか」

 恐るべし、氷帝の女子。俺の頭の中には、4年間を過ごしたこの学園の女子のしたたかさがいくつでもよみがえってくる。
 しかし、滝は困ったように肩を竦め、ため息をついた。

「そりゃ、同級生ならね。お互い付き合っていた人と別れて、それで付き合い始めたあの二人にちょっかい出す人間なんて、俺たちぐらいだよ。同級生なら、ね」
「……つまり」

 そちらからきたか、と俺は滝よりも重いため息をつく。

「ああ……。なんであいつはこう、面倒なことに自分で気づくことができひんのや」

 いや、俺が気づくべきだった。中等部時代も、岳人は同級生よりも年下に好かれるタイプだった。同級生から見たら、いつでも言われる言葉は「子どもっぽい」だった岳人も、後輩からすれば快活な先輩である。テニス部のコートに後輩の女子が差し入れまがいのものを持ってきていた姿を、俺も何度も見ている。
 つまり、中等部と高等部と離れたことで、逆にちょっかいがかけやすくなってしまったということか。俺が気づかない間に話が進んでいたという事実は、少なからず俺に衝撃を与えた。しかし、

「……落ち込んでるところ悪いけど、たぶん忍足誤解してると思うから言っておくね」
「は?」

 本当の衝撃は、9月12日という日付を特別なものとするに相応しい勢いを持って、そのあと俺を襲った。

「悪いけど、岳人のこと好きなの、後輩じゃないから。隣のコートだって言ってるだろ、上だよ。上。しかも、3年生」
「はあ?!」
「年上に好かれる岳人も、事実みたいなので。俺たちが気づかない魅力が出てるんだろうよ、あいつからは」

 滝の言葉は、最後まで聞き取ることができたか自信はない。
 予想外の年上攻撃に、俺は思わず奇声を発し、岳人との視線をこちらに向けることに成功してしまったのだった。



「俺、知ってるよー。結構美人。ていうか、美人。文系クラスの先輩だって。えーっとね、髪は長いよ。肌白いよ。日焼けしてるけどそこまで黒くないよね、白いよねあれは。脚細いんだよね。でもね、柔らかそうなんだよね。声、高すぎず低すぎず。うん、ちょっと高め? 笑うと高いよ。ていうか、可愛いよ。うん、可愛いね。たぶんテニス部3年の中で5本の指に入るんじゃないかな」

 おごるから、という理由で昼休みに食堂に連れ出したジローから、噂の3年生の情報を聞いて俺は思わず頭を抱えそうになった。隣で滝が「ほらね」と、「言わんこっちゃない」という表情をする。相手の情報を知らないことにはなにもできない、と覚悟をして聞きにきたら、予想以上の相手すぎた。

「なーんであんな先輩が岳人のこと好きになるんだろうね? 分かんないよねー、ほんと」
「なんでもできる優等生タイプなら、岳人みたいな世話焼きたくなるタイプが可愛く見えるんじゃないのかな。ほら、放っておけないというか」
「あ、確かにー。岳人、子供みたいだもんね」

 うんうん、と納得するジローに、滝も同意するしかないといった表情を浮かべている。どうする、と暗にその表情がこちらに訴えかけてきていたが、忍足の方がその答えを誰かに教えてもらいたかった。

「いや、待て。ちょっと待て。別に、その先輩がやな、岳人に告白とかせんかったらなんも問題ないんとちゃうか」

 名案だ、と箸を握りしめて呟く。岳人が気づいていないのだから、3年の女子が想いを胸に秘めていれば誰も真実を知らずに、も何も知らないで時間だけが流れていくかもしれない。半年もすれば相手は卒業の身である。ジローの話を聞く分には賢いという印象だから、あえて渦中に自分から足を突っ込むようなことはしないのではないかと、彼女の良心に期待する。

「岳人を振り向かせる自信があったら、躊躇なく奪いに行くよね。絶対。俺ならそうするし」
「俺もそうするー」

 しかし、恋愛の経験は(不本意ながら)俺よりも積んでいる二人はあっさりと俺の願いを粉々に砕いてしまう。静かにお茶を飲む滝と、アイスを食べるジローがこれほど腹立たしく見えたことはない。

「……そ、そんなん、今から急に突撃したって無理やろ。岳人かていきなり言われても意味分からんのとちゃうか」

 しかし、俺もすごすごと引き下がるわけにはいかない。
 少なくとも、岳人は相変わらず一筋な状況だ。同時に複数のことをこなしたり考えたりすることが得意ではない岳人にとって、突然の接触は混乱を招くだけだろう。親友として、岳人の性格については目の前の二人よりも理解している自信がある。口にした時は勢いも手伝ったが、言葉にしてみればなかなか、どうして。説得力のある自分の言葉に、俺は思わず箸を揺らして二人を納得させようとする。

「甘い。甘いよ、忍足」
「うん、甘いね」

 しかし、女子テニス部の情報に強い二人は、困ったように首を横に振ってため息までついてみせた。

「なんでや。お前ら、岳人が浮気でもすると思てんのか」

 俺は思わず怒りにも似た感情で呟く。滝は表情一つ変えず、ただ首を横に振った。

「布石っていうのはね。敵に悟られる前にやるから布石って言うんだよ。効果が出るんだよ」
「そうそう。跡部も得意じゃん、気づいたらあいつの術中にはまってました……ってやつ! あれだよ、忍足! 3年生なめちゃだめだって」
「突撃したって効果がないのは敵だって気づいてるよ。だから絶対先に手を打ってる。少なくとも俺たちより2年も多く生きてるわけだし。しかも、結構な美人な先輩が。ねえ、ジロー」
「そうそう。自分から告白しに行くなら、絶対に振られないよう外堀埋めてから攻撃するに決まってるっしょ」

 眩暈がしそうになるのは、気のせいか。いや眩暈が起きているのに気づかないのは誰のせいか。
 今度の今度こそ、俺は本気で頭を抱え、食べ途中の昼食も放り出す。だから気になるって言ったじゃないか、と滝が小声で呟いていた意味をようやく理解し、俺は頬杖をつく姿勢でようやく重みを増した頭や体を支えようとする。

「つまり……なんや。もう受けてしもたんか、あいつは。色仕掛けかなんかを」
「そりゃ……ねえ。3年生だしねえ」
「先輩、可愛いしねえ」

 滝とジローは、お互いの言葉に納得したあと俺を見つめる。さあどうする、と一歩ひいたところから俺を見つめてくる。どうするもなにも、と既に緻密な計算に基づいているであろう先制攻撃を受けてしまっている以上、カウンターなどという高度なテクニックが通用するとは思えない。そもそもカウンターという相手の力を利用した技を岳人がこなせるとも思えない。
 相手は岳人の性格をすべて熟知したうえで攻撃をしかけてきているのか、と事態の深刻さに、俺は苦々しい思いをなんとか胸の奥に押しとどめることに必死だった。
 それでも、親友思いな俺のことを、神か誰かは見放さなかったらしく。

「忍足くん」
「なんやねん、今考え事……」
「こんにちは、さん」
?」

 爽やかな滝の言葉に、慌てて振り返ったそこにはの姿があり。

「ちょっと、話聞いてくれる?」

 食後のジュースを飲んでいたジローは目を丸くし、滝は愛想よく席を一つ譲り、そして、

「……どうしたん。まさか」
「まさかって。だって、もう気づいてるんでしょ? 岳人のこと。そこで、お願いがあって」

 声を上げようとした自分を、必死に押しとどめる俺がいた。
 滝と、ジローと、俺と、

「ズルいことしてでも、私岳人とまだ別れたくないんだ。お願いします、どんな人か教えてください」

 言葉だけを聞けば、切羽詰っているようにも感じるだろう。しかし一度頭を下げたあと、にっと笑ったその表情には、まるで本妻の余裕のようなものが垣間見えて、姑と言われる俺は内心妙に心強く感じてしまっていたことを、滝以外誰も気づいていないのが幸いだった。
 とにもかくにも、9月12日のその日、俺たちは食堂で作戦会議を開いた。
 妙な組み合わせに気づいた宍戸が加わり、跡部にも気づかれたうえになぜか参加されてしまったことを、当の本人だけはまだ知らない。 



12/09/12