| 目覚めの雨 |
初めは遠く、やがて耳元。しんしんと降り注ぐその音に気づいた時には、心なしか身体が埋まるシーツにいつものような滑らかさがなかった。 岳人はゆるゆると瞼を開き、一度閉じる。音は消えない。一度自覚してしまうと、目を閉じた暗闇の世界ではその音だけが生きている。まるで起きろと促されているかのようだ。 一度左手で力ない拳を作った後、ようやく岳人は瞳を開ける。瞼はまだ重みを訴えていたが、カーテンの向こうから漏れる弱い朝の光を見つめることで意識を繋げようとした。 雨だった。 いつのまにかうつ伏せになってしまっていた身体を肘で支えて起こし、乱暴にカーテンを開ける。いまさら確認するまでもない、朝だというのに外は薄暗い雲に覆われていて灰褐色のつまらない世界だった。いつもは朝を騒がしくさせる電線に宿る鳥の姿もない。ただ黙々と、雨だけが雲からの指令を忠実に守っている。 時折ガラスにぶつかり、呆気なく伝い落ちていくそれをどれほど見たことだろう。岳人はようやく上体を起こし、寝癖のついた頭を乱雑に手で乱してから携帯電話に手を伸ばした。 「起きろ、バカ侑士」 最新の着信履歴に残っていた親友の番号に電話をかけ、呟く。寝起きは機嫌も悪いが声も悪い。相変わらずの枯れた声に自分は一体どういう寝方をしているのだろうと不思議に思う。 やがて呼び出し音が鳴り止む。お、と岳人は少し目を開けるが、しかしすぐに 「……あんのバカ!」 ぷつりと途切れ、返されるのはただの通話終了の機械音。苛立たしげに舌打ちをしてもそれが親友の声に取って代わることはなかった。 考えるまでもない、おそらく昨夜夜更かしをしたのだ。その証拠に彼は昨日、部室で何のDVDを借りるかを真剣に考え込んでいた。それこそ跡部が失笑を通り越して哀れみの目を向けるまでに。 「明日は雨やからな。部活中止やで、絶対」 昨日部室を出る瞬間、自信たっぷりに宣言して去っていた忍足の背中を今でもはっきりと覚えている。それは天気予報でもある程度言われていたことで、跡部もいちいち目くじらを立てるようなことはせず黙って見逃していた。もともと今日の練習予定も雨天中止を前提に組まれていたし、昨日コートに立った時点で岳人もぼんやりと雨の気配を感じ取っていたのでそれに反論する気はなかった。 しかし、それとこれとは無関係である。明らかに故意的に電話を切った忍足に、岳人はひとりで苛立ちのため息を零す。目はすっかり覚めてしまった。 「……あ、もしもし。滝? うん、俺」 こんな時、年がら年中睡眠を生きがいだと宣言するような男は頼りにならない。確実な情報源とはいえ、極端に朝に弱く不機嫌むき出しで対応するような部長も避けたい。電話が嫌いだと宣言する(なら携帯電話を持つな、と言えば「用事がある時困るだろうが」と正論をはいてきて扱いにくいことこの上ない)ガサツなくせに几帳面なあの男など言語道断。 『おはよう、どうしたの』 「あーうん、今日の部活のこと。確認したくて」 『ああ、はいはい』 電話の向こうで、滝はいつも学校にいる時となんら変わりのない声の調子で返事をする。冷静さでこの男に敵う同級生はいないのではないか、と改めてぼんやりと思いながら、岳人は壁にもたれかかって窓越しに外の景色を見つめた。 「この時間で雨が降ってたら中止って、跡部言ってたよな? 室内練習場も使わないって」 『うん、そうだよ。準レギュラーに回すって。正レギュラーは各自自主練』 「自主練ねえ……滝、なにすんの」 『今からコートの予約をしようとしていたところ』 ふうん、と軽い相槌を打った後、壁掛け時計を見つめる。午前7時。部活内において岳人は予約という仕事を担当することが少なく、それが一般的にどの時期に行われるかは分からなかったが、しかしこの時間帯では無理がある行為であることは理解できる。 なんで氷帝はコート持ちが多いんだ、と心の中でため息をひとつ。 それを毛嫌いするのではなく慣れることこそ常識だ。この感覚を植えさせるのが氷帝の校風だということに気づくまで時間はかかったが、慣れてしまえばこれ以上力強いものはない。岳人はしばらく曖昧に会話を過ごしていたが、やがて頭をもう一度かいた。 「何時、それ。俺も行ってもいい?」 『いいよ』 滝が断るはずもない。予想したとおりの返事を聞き、ようやくベッドから離れる。 『9時には使えるようにしてもらう予定なんだけど』 「おう、十分。他は?」 『鳳』 「ん? なんだ、もしかして日吉も来んの?」 『岳人がいいと言うのなら』 「……なんだよそれ、それだと俺があいつと仲悪いみたいじゃん」 そう、ごめんね。そう返された言葉の中に苦笑が十分含まれていたことを聞き逃さなかった。しゃがんだ姿勢でクローゼットの中にしまわれていたジャージを取り出しながら岳人はため息をつく。仲が悪いというよりは相性が悪い、の言葉の方が似合っているような気がしたが、ジャージとラケットとを手に持った頭はそのような返事を用意するタイミングを見失っていた。 「9時前には行けるな、俺。いつものところだろ? 滝が『予約』する時の」 『そう。じゃあ現地集合でいいね、また後で』 電話を切った手をそっと下ろした時、ようやく雨音が戻ってくる。 撫でるような滑るような、決して強くはないけれど確実に伝い落ちていく音を窓ガラス越しに聞く。薄い灰色の空はびくともしないような厚さの雲に覆われてしまっている。ただ流れが速いところを見ると、雨はもしかしたら簡単に止むのかもしれなかった。あくまで予想に過ぎず、身体が一瞬やる気を見失ってしまうあたり、気分が晴れない原因なのかもしれなかったが。 フローリングの床の上、ジャージを取り出した姿のまま岳人は空を見つめる。 日曜という響きの中にある幸福感を、一瞬で寂寞の色に染め上げてしまうかのような雨の音だった。 仲間と一度落ち合ってしまえば、あとはテニスをするだけ。他になにもいらない。 自分がシングルス向きだとはあまり思っていなかったが、少人数の集まりであれば当然個人同士の打ち合いになる。しかし滝にしろ鳳にしろ日吉にしろ(なぜ参加の誘いを断っていないのか岳人にはよく分からなかったが)、タイプが異なる人間とのラリーは面白みが増して岳人は嫌いではなかった。そもそも氷帝学園テニス部に在籍するのであれば、誰かの類似品である必要がない。むしろそうであってはいけない。 よくもここまで違う人間が集まったものだ。ベンチで小休憩を取り、まだコート上で練習する鳳と日吉を見ながら改めて思った。 「今日はいいの? 彼女」 すると滝が、まるで岳人の心の独り言を聞き終えたかのようなタイミングで隣に腰掛けた。笑顔で渡されたタオルを岳人は無言で受け取る。 「ごめん、突っ込む話じゃないとは思うんだけど、でもね」 「……なんだよ」 「岳人の場合、一度立ち止まるとなかなか動けなくなってしまうところがあるから」 自分のことになると途端にね、と繋げて滝はコートを見つめる。鳳の速球サーブに日吉が沈黙の中で苛立ちを募らせている。総合的な実力では日吉に分があるだけに、鳳の飛び道具にもなっているサーブがどうも気に入らないらしい。 「お前の演武テニスも同じだ! ……って?」 ため息とともに呟こうと思ったその言葉は、滝の苦笑とともに漏れた。 一字一句異ならない台詞に岳人が目を丸くすると、滝は必死に笑いを堪えながら右手で謝罪の動きを見せる。からかわれたと気づいたのはその時。岳人はむっとして眉間に皺を寄せた。 「仕方ないよ、他人のことなら素直に反応できるのが岳人だから」 「仕方ないっていうのは悪い意味の時に使うだろ」 滝の苦笑がそれを証明している。コート上の当の本人たちはこちらの会話などつゆ知らず、いつのまにかサーブも日吉に移っていたのだが。 「そんなことないよ、少なくとも俺にとっては。下手に冷静なことよりも、その方が人に受け入れられやすい」 「俺からすればお前の落ち着きの方が羨ましいと思うけどな」 「隣の花は赤く見えるものなんだよ」 ベンチに浅く腰掛け、腹の上で緩く五指を組む。日吉の攻撃的なテニスに鳳がわずかに顔をしかめている。互いに自分にないものに対する感情が、コートの上では苛立ちになって表れている。滝の言葉の意味がなんとなく重なった。 「だから、言ってみたんだよ。彼女はどうするのって」 ボールが心地よくコートにぶつかって跳ねる。キュ、とテニスシューズに力が込められる。 「……だから、なにが」 「たまの休みぐらい、素直にデートをしたらいいのにっていうこと」 日吉が力強く右手を振り落とした時、鮮やかな黄色のテニスボールは真っ直ぐに鳳のコートに落ちた。白いジャージを一瞬浮かせるような動きで鳳が動き、大きな肢体から繰り出される力によってボールは再び日吉のもとへ。 「むしろ彼女がいるのにデートをしないことの方が嫌味なんだよ、この世界は」 そのボールが、どうなったかは音でしか分からなかった。ただ跳ねる音、それだけ。 岳人は滝を見つめ、視線を斜めにしてコート脇に落とす。混じりけのない人工的な緑が痛い。歪みやよどみのないものが目に痛い。 それが息苦しさからきていることに気づいた時、岳人は深くため息をついた。持っていたタオルを顔に乗せ、閉じられた視界の中で天を仰ぐ。 「……付き合うことで満足だったからなあ。付き合えるだけですごいことだと思ってたからなあ。一緒にいたいって、ただそれだけ。だから、それ以上に出てくる欲求みたいなもんは、なんか」 滝はただ黙っていた。テニスをする音しかしないこの世界はまるで今朝の雨のようだ。 「我がままで自分勝手。結局それがしたかったのかよ、みたいな。自分で自分がおかしくなってくるんだよな」 「そう」 「そんな俺を、あいつがどう思うのかっていうのも正直怖いところがあるし」 「ふうん」 「こうなったことは絶対後悔はしていない。でも、その先を考えてなかった」 呟き終わると、沈黙が待っていた。言葉のない世界には音ばかりが響く。テニスボールが打ちつけられる音の向こう、屋外の雨の音は依然として続いている。場所を変えても結局物憂いの感情を抱かせてくる。なにもいいことがない。 それは自分も同じなのかもしれない、と岳人は苦笑いした。そうすることで落ち着くようになっていた自分が嫌だった。 「残念だけど、岳人の気持ちを理解することはできないかな」 沈黙の中、やがて小さく滝が呟く。滝にも見放されたか、と岳人はタオルの下で自分を蔑む。それも仕方のないことなのかもしれない、という考えには慣れている。 「彼女となってくれた子が、彼氏からのデートの誘いを断るのを理解することの方がよっぽど難しいと思うんだよね、俺としては」 けれどそれを覆す意見があることには、まったく慣れていなかった。 岳人は結局また目を丸くしてタオルで閉じられた世界から戻ってくる。久しぶりに視界中央に迎えた滝は、いつものとおりの笑みを浮かべていた。 「一番理解できるのは、多分……そうだな、今のさんの気持ちかな」 「……は? なんで」 「『デートしたい』に決まってるし」 「……そんなの、あいつに聞いてみないと」 「聞くよりは素直に想像して、動いてみたほうが早いと思うよ。それが彼女がいる人の特権なんだろうし」 日吉たちを見つめる滝の目は、いつも優しい。しかしその目が後輩だけを見ているわけではないことを、岳人は言葉の奥底から感じ取る。しばらく黙って自分よりも背の高い忌々しい後輩を見つめてみたが、落ち着くことはできなかった。 やがて立ち上がる。ばつが悪そうに頭を一度かき、わずかに頬を膨らませる。深呼吸に似たため息をひとつ零して天井を仰げば、視界の片隅に雨を抱く空が見えた。 「映画はあんまり行きたくないんだよなー、色々と」 雨の日。じっとしていることがお世辞にも得意とは言えない自分ができるものはなにか、想像できることはなにかと首を傾げてみるが、経験の少ない頭では否定的な考えしか浮かばない。 「水族館だよ、そういう時は」 「……なんでお前はそう、いつもネタをきちんと用意してるんだよ」 「基本中の基本。王道だよ」 「そんな、真似みたいな」 振り返るようにして滝を見据えれば、なんの罪悪感もない笑みが返ってくる。 「一般的なデートをクリアしていない岳人の言えた台詞じゃないね、それは。まずデートに誘えるようになってから言ってもらえるかな」 その笑みは、時に辛らつすぎるほど。こちらの意見をまったく肯定しようとしない頑固さだけはテニス部員の共通するところか、と滝の笑みを見つめて岳人は痛感する。 だが、自然と心は晴れやかだ。 雨の音が心地よく聞こえる自分はおかしいのかもしれない。けれど、晴れやかなのだ。 手を振るよりも先に振られる、その感覚に苦笑を零して岳人は室外へと出る。湿気を含む外気が頬を包む。しかしそれでも不機嫌にならないのは、滝のおかげかそれとも雨のおかげか。降り止まない雨をもう一度見上げ、絹糸のような細さで連綿と続いていくそれに頬を緩める。 今日ばかりは、この采配に感謝しようか。空に言葉を投げかけて、携帯電話を握った。 『あれ、部活は?』 「雨だし。休み」 『どうして』 「正レギュラーが試合に出るのはまだ先だからさ、自主練なんだよな」 『……で、その自主練中にどうして電話?』 「んー、まあ」 『まあ?』 「……これも練習。午後からしか無理だけど、どっか行かこうぜ」 しばらくの沈黙の後、電話の向こうでが笑う。それだけで会話の意味を理解してくれる感覚の中には、自分を受け入れてもらえているという震えてしまうような喜びの感覚がひっそりと潜り込んでいる。 それはまだ言葉にはできないけれど。そう心で呟いて天を仰ぐ。 「俺、お前とデートしたい」 降り注ぐ雨がアスファルトに溶け込む匂いが、優しく鼻をついて岳人は笑った。 |
| 08/04/10 |