| 冬雫 |
朝陽が瞼を撫でたからではなく、頭痛が目を覚まさせた。 しばらくしかめ面をしたまま、岳人は真っ白なシーツを見つめる。柔らかいとか温かいとかそのような感覚よりも、ただ頭痛ばかりが感覚のすべてを支配する。しばらくベッドの中で丸まっていれば、やがてそれが身体の気だるさ――内部の重さであることに気づいた。 「……気持ち悪い」 呟き、シーツに顔をうずめる。ぐっと強く目を閉じると一瞬だけ吐き気は遠のいたが、すぐに頭痛が戻ってくる。飲みすぎた、とため息をついてゆっくりと頭を上げれば、空は昨夜の冬風の異常さなど知らぬ顔で青く澄み渡っていた。 テスト終わったなあ、寒いなあ、こんな日は飲むに限るなあ。そんなメールを忍足が送ってきたのは、大学での講義が終わって学園内のカフェで時間を潰していた時だった。 見計らっていただろう、と冷めた目で彼のもとに行けば、そこには既に宍戸と鳳の姿があった。数日前に20歳の誕生日を迎えたばかりの鳳は、若干目を輝かせているようにも見える。相変わらず身体ばかり大きくなって、と不機嫌ながらも仰ぐようにして見つめれば、「忍足さんに呼んでもらえたの初めてですよ、俺も大人になったんですねー」としみじみと語るのでからかうこともできなかった。 「あとでジローたちも来るて。ああ、ちなみに跡部も」 「えっ、跡部も?!」 「なに言うとんねん、あいつがおらんかったら楽しみ半減やないか」 財布もありがたがっとるわーと軽く言い放ちながら鳳を連れて旅立つ親友の背中を、宍戸と並んでしみじみと見つめる。 「……あいつ、黙っていれば絶対にいいのにな、絶対に」 「それを俺らが言っちゃ駄目なんだと思うぜ、多分」 学部校舎から出てきた日吉に偶然を装って出くわし、明らかに困惑しているのを気にも留めずに引っ張り出していく。こんな時の忍足がどれほど飲み続けるのか、知らないわけではない岳人は思わずため息をついてしまった。 それが、夕方の出来事。日付をまたいだのは店の中。店を出た時には東の空が既に宵闇を追い返す力を持っている頃だった。 (あいつに付き合った俺が馬鹿だった。跡部に任せておけばよかった……) 酒の飲み方はまだ分からない。ただ楽しく飲むためにはある程度の自制が必要な身体であることはこの1年で学んだ。鳳と日吉、樺地はまだ20歳になって日が浅いため参考対象にならないが、少なくとも同級生の中で一番アルコールに「弱い」のは確実に岳人だった。無尽蔵に飲み続ける跡部や忍足、宍戸、芥川(これには少々納得がいっていない)たちに付き合っていては自分が破滅するのだ。 しかし昨夜は、妙に忍足が上機嫌で逃げることを許されなかった。その結果がこれだ。軽く舌打ちをして、岳人はもう一度シーツに顔をうずめる。身体が動きたくないと悲鳴を上げているようだった。 「二日酔い?」 背中から声が届く。しばらく沈黙したあと、岳人は小さく頷く。声を出すのも億劫だ。 「忍足くんにつかまったら、そうなるよねえ。まだ自分で帰ってこれただけよかったのかな」 忍足の名前がなんとなく癪で、意味もなく首を横に振る。少し笑われた気がした。 「拗ねるぐらいなら、上手く逃げられるよう練習すればいいのに」 「拗ねてねえ」 「そういうところだけ反応するのが、拗ねてるっていうこと」 空気を揺らす笑い方をする、といつも思う。声を出さなくても笑っているのが分かるのだ。目に見えていなくとも、笑みを浮かべてくれているのが分かってしまうのだ。 しかめ面とは離れられないまま、岳人は上体を起こして顔だけ振り返る。 恋人のは、困ったような仕方ないような笑みを浮かべてこちらを見つめていた。 「まあ、跡部くんまで揃っちゃったら簡単には帰してもらえないこと分かってたけど。でも二日酔いになるまで飲んだら、次の日つぶれちゃうじゃない。もったいない」 「説教なんか聞きたくねえし……大体、俺のせいじゃねえだろ」 「はいはい、そうですね」 「あーもう、無理。気持ち悪い。、あれ。頼む、作って」 「……あれ?」 「味噌汁。辛いもの飲みたい」 ベッドに仰向けに転がり、呟く。返事の代わりに足音がキッチンへと向かっていった。 大学進学と同時に、家賃を払うという条件つきで認めてもらった一人暮らしの部屋。なにもない天井ももしかしたら入居した時より色褪せているのかもしれなかったが、馴染んだ感覚にはまるで分からない。 がこの部屋にいることが当たり前なことも、もはや馴染んだ感覚のひとつだった。 まな板の上でなにかを刻む音が心地よいことを知ったのはこの部屋だった。何気ない冷蔵庫の開け閉めにも安心してしまうのはこの部屋だけだった。もはや自分の管轄ではないと言っても過言ではない、そのキッチンという領域にが立つことが当たり前だと思えるのが、この部屋だった。 (……ああ、そうか。今日土曜か。だからいるんだ) テレビもつけていない無音の部屋で、気分の悪さと戦いながら岳人はぼんやりと天井を見つめる。曖昧な記憶が徐々に繋がりつつあった。 (帰ってきたところまでは覚えてるけど、そのあとは覚えてないなあ……しまった) 耳を、鼻を優しい音や匂いがつつけばつつくほど、申し訳なさが際立ってくる。いつしか違う意味で眉間は皺を寄せていた。 は彼女となって久しい人だった。互いのことを知り尽くしてきた感はあるが、だからといって礼儀の一線は壊してはいけないことを岳人は知っている。金曜夜にが泊まりにくるのは習慣化していたため確かに約束はしていなかったが、それでも飲みつぶれて帰ってきた自分に非はあるだろう。 しまった、ともう一度心の中で呟いて上体を起こす。随分と考え込んでいたようで、テーブルの上には既に朝食の用意ができていた。 「ご飯はおにぎりで許してね、まだ炊いてなかったの」 「いや、いい。十分」 胃をきゅっと引き締めてくれるような、そんな匂いが部屋に漂う。なにを言わずとも赤味噌で用意してくれるに感謝しながら、ベッドから下りる。はお茶を取りにキッチンへと戻った。 これで少しはまともになってくれるように、そんなことを祈りながら箸を取って一口。椀を温める味噌汁を口に含む。 瞬間、岳人は思わず箸を持った左手で口を押さえてしまった。 (……なんだこれ?!) 驚愕で思わずを見つめる。冷蔵庫の中を覗くは普段となんら変わりない。 しかし、口の中に一瞬で広がった味噌汁の破滅的な味だけは、まるで今ここが現実の世界ではないとでも言うかのようだった。 一瞬の衝撃に身体の動かし方を忘れていたが、が戻ってくるのを視界に捉えて慌てて居住まいを正す。右手にしていた椀は既にテーブルの上だった。 「今日、どうする? 二日酔いがひどいなら、もう休んでる?」 「お、おう」 「……なに、どうしたの岳人。顔色悪いよ。味噌汁も飲めないぐらいひどい?」 「え、いや! そんなことはない!」 「……ふうん?」 急に慌てだした岳人を最初は不思議そうな目で見つめていたものの、やがては思い出したかのように脱衣所の方に向かった。 洗濯機を動かす音が響くまで、岳人は味噌汁を見つめたままなにも考えられなかった。 見た目は普通だ。いつも作ってもらうものとなんら変わりない。具材も岳人が幼少の頃より好んでいるものばかりで、目だって異色なものはない。そもそも初見で気づくような異質な点があったら、口にしていないはずだ。二日酔いとはいえそこまで判断力が鈍っているとは思わない。 それとも、味覚が狂うほど自分の舌が弱っているのか。導き出したひとつの結論を証拠づけるためお茶を口にしてみるが、舌とて二日酔いに負けるほど弱くなかった。岳人は思わずうなだれる。 (……やばい、まずい。本気で飲めない) こんなことは初めてだった。お世辞にもは料理が上手いとは言えないが、それは本人も岳人もこだわっていないからであって、食べられるものであれば十分という考えが根底にあるからだ。その考えで今まで損をしたことはないし、ましてや食べられないものに出くわしたことなど一度もなかった。 しかし、今目の前にある味噌汁は歴史に真っ向勝負をしてきている。なぜだ、と疑問こそ浮かべど作ってもらった手前質問をすることも憚られ、洗濯機の音をBGMに(二日酔いと戦いながら)岳人は考えるしかない。 (……でも、絶対こんなこと今までなかった。だってあいつきちんと味見してくれるし、俺の好み知ってるし。ありえねえ、なんだこれ) 見つめれば見つめるほど、まるで異世界の食べ物のように見えてくる。気だるさに負けて頬杖をつき、行儀悪く箸の先を揺らしながら考え込むうち、岳人は自分の心臓が一瞬飛び跳ねそうになったことに気づく。 (……わざとしかありえない) 箸が止まる。心臓ではないなにかが痛くなる。やがて、血の気が失せそうになる。 わざと、まずいものを作るほどがなにかに怒りを感じている。その結論に身体のどこもかしこも反論もせずに勝手に納得し、勝手に萎縮し始める。 (やばい、これはやばい。怒ってるんだ、俺が朝まで帰ってこなかったから。メールしたって言っても5時に帰ってくるのは駄目だ、しかも俺どうやって寝たか覚えてねえ……!) 自分で帰ってきたと言っても忍足の付き添いがあってのことだ。そして鍵を開け、電気を消し、寝かせてくれたのはの力がなくては無理だ。怒る要因しか見当たらない。 (で、しかも俺今日二日酔いだし……! うわあ、まじで待てって。今日、今日……あー! 映画じゃねえかよ、しまった! 今日休むって言っちゃったじゃねえか俺! 馬鹿だ!) 壁掛けのカレンダーは優しくない、そこに記されたマークをなぜ自分に気づかせてくれないのだ。そんな怒りをぶつけようにも、二日酔いの上に味噌汁の衝撃と小さな恐怖にも似た感覚に一斉に襲い掛かられている身には、睨むことしかできない。 (待て、もしかしたら今日なんかの日じゃなかったのか……? 2月、2月……いや、ない、ないはず。いやでも、俺が忘れてるだけかも。あいつ俺より絶対記憶力いいし……!) 頭を抱え込んでみても、天井もカレンダーも助けてくれるはずがない。 次々と浮かんではそのまま消えてくれず、そのまま積み重なっていくばかりの不安要素についに岳人は負けた。 情けない自分への反抗の証。無言の攻撃。それが今目の前にある味噌汁なのだと、その結論以外にはもはやなにも考えられなくなっていた。 「……、」 「呼んだ? まだなにか食べる?」 喉と見えない勇気を振り絞って名前を呼ぶ。アルコールのせいで随分と掠れてしまっているが幾度か呼ぶと脱衣所からが顔を覗かせる。オレンジ色の脱衣所の照明のためか少しばかり赤くも見えるの顔はまるで怒っているようで、岳人は言葉につまる。 だが、味噌汁の攻撃から逃れられるほど自分は正しくない。眉間の皺もそのままに手招きをし、を目の前に座らせる。訝る視線が痛かった。 「……どうしたの、岳人。二日酔いひどいなら寝てて、私全然構わないから」 「……いや、それは」 「……本当にどうしたの、変だよ。私なにかした?」 落ち着いて聞いていれば、その言葉のすべてが暗に自分を攻撃している。 丸まった瞳すら、その奥では慌てふためく自分を見て悠然と笑っているのではないかと見えるほど。自分を見つめるに、岳人は言葉がでなかった。 なにが最善の解決策か、二日酔いの頭で必死に考える。胸の不快感はなくなってはいない。けれど今は負けていられないと頭が決める、それだけで考えは先に進む。 しかし、どれほど考えあぐねても所詮この二日酔いが端を発しているようなものだった。 「……、ちょっと、俺本気で言うから」 「なにを」 「いいから、黙って聞いて。結構これでも俺真剣だから」 二日酔いに耐えながら、眉間に皺を寄せたままで呟く。の顔は心底不思議そうな表情を浮かべているが、もはやそれは表の顔にしか見えない。そうさせてしまったのは自分の不甲斐なさであることが、余計に気分を悪化させる。 早く脱出したい。早く楽になりたい。 「ごめん、俺が悪かった。本当に悪かった。体調戻ったらなんでもするから、お願いだから許して」 欲求に素直な身体は、あっさりと(途方もなく情けない)謝罪の言葉を口にした。 「が怒るのは当然だから、俺が悪いから。でもこういうの嫌じゃん……いくら俺が悪くても、お前がこういうことするのってなんか、嫌だ。だから、頼むから」 「……」 「いつものやつをください」 丁寧なのか、そうではないのか。いやそもそも自分に行儀の良さなどきっと誰も求めていない、など分かりきっているに違いない。 そんな過信もあって、語尾だけ気をつけながらも味噌汁の入った椀を差し出す手つきはふてぶてしいに違いなかった。は黙って岳人とその椀とを見つめていたが、やがて沈黙の中で両手で椀を受け取る。 格好悪くともいい。情けなくともいい。自分がおかした非の中で苦痛とともに時間を過ごすぐらいであれば、矜持をかなぐり捨ててでも謝るべきだと思った。 (中学の頃の俺を知ってるなら、絶対にここまでだ) 自惚れがあることは前提だ。がこの言葉を拒絶することはないという、勝手に近い思い込みはむしろ当然だ。周りの誰に呆れられようとも、誰に笑われようとも、この関係を成り立たせているのは自分自身で、自分に愛情を向けてくれるである以上、絶対にこれ以上は怒りの矛は尖らない。 は黙って椀を見つめていた。表情が少し曇る。瞳が揺れ、ちらりと怪訝そうな表情でこちらを見つめる。 「……な、なに。まだ怒ってんの……?」 小さく呟くが、否定の言葉はおろか肯定の言葉も落ちない。ただ静かに岳人を見つめた後、は少しだけ首を傾いで、そして、そっと椀に口をつける。 「うわ、ひどい。岳人よくこんなの飲めたね、ごめんね」 開口一番飛んできたのは、予想の世界を軽く飛び越えていた。 「……は?」 「あー、ごめん。そうだ、私今味見できないから。なにか間違えたのかな、気づかないでごめんね」 「……ちょ、ちょっとストップ。まさかその顔……」 「わ、ちょっと! なに!」 左手を強引にの額に当てる。作り話のように誰がうまく騙されるか、と半分動揺を隠して強がりながら手のひらの熱を測れば、誤魔化すにも誤魔化しきれない熱さしか伝わってこなかった。 「……、おまえ」 「……ごめん、今私風邪ひいてるから。だから味見はやめておいたの、ごめんね」 外は清々しいほどの快晴だ。洗濯機はその青空の下に洗濯物を干さんと精力的に活動してくれている。 しかし、その空の下。洗濯機の見えないところで、病人に近い人間がふたり。 「バッカじゃねえの?! 風邪ひいてるなら風邪ひいてるって言えよ、なんで料理とか洗濯とかするんだよ、さっさと休めよ!」 「わ、ちょっと! やめてよ、せっかく洗濯物干せるのに! ためこんでたのは誰よ!」 「洗濯なんていつでもできるだろうが! お前は侑士か!」 「なによそれ!」 「洗剤とか干し方とかアイロンのかけ方とかうるさいんだよ、あいつ!」 強引にベッドに寝かせようとすれば、本当に病人かと思える勢いで反抗してくる。しかし負けるわけにはいかない、自分も病人状態であることを十分承知の上で今出せる精一杯の力でを押し倒す。 外は清々しいほどの快晴だ。洗濯機はその青空の下に洗濯物を干さんと精力的に活動してくれている。 そんな空も洗濯機も無視して。額だけではなく細い手首も常ならぬ熱さを宿しているを押し倒してしまった姿勢に思わず息を飲めば、はやがてため息をついた。 「……昨日キスのひとつもしなかったくせに、どうして偉そうにできるのか分からない」 その後病人ふたりがどうなったかは、どれほどまわりが追及してこようとも決して語ることができない。 ただ月曜日、風邪をひいて大学に現れた岳人に忍足だけが首を横に振ってため息をついていた。 |
| 09/05/06 |