太陽の刻印

 9月というものは、もっと人に優しくあるべきだと思う瞬間がいくつかある。
 刺し殺されるかのような強い日差しを持つ夏と距離を置いてくれているあたりは嬉しいものの、しかしこのように青空広がる昼下がりにグラウンドに立つと、その感謝を抱くのも時期尚早であったのではないかと簡単に思ってしまうほどだ。
 半袖の体操服を恨めしく見つめながらため息をこぼす。桃子は今日も隣で笑っていた。

「日焼けを気にするのに、その対策をしてこない人にはため息をつく権利もないよ」

 出会って2年に満たない付き合いながら、この親友には随分と世話になっている。自分の性格も知られてしまっている。そしてこの親友は、聡い。すべてを見透かした上で助言となる言葉を口にするのが常だったが、しかしここ最近の時間よりも密度を優先した付き合い方が彼女の口から遠慮という性質をなくしてしまっていた。
 遠慮がなくなるほど、自分という人間の生き方は進歩がないらしい。桃子の苦笑にまた教えられ、は自分の腕を見つめる。
 今日も長袖のジャージは、見事に家で留守番をしていた。

「私がジャージを忘れるからいけないんだけどさ、でもさ、私この時間には文句を言ってもいいと思うんだけど。だめ?」

 ちゃっかり長袖を着ている桃子を恨めしそうに見つめながら問いかける。サイドにひとつに結われた長い髪をさらりと揺らして、桃子は首を傾げた。

「文句は言ってもいいけど、それを自分のイライラと結び付けても説得力はないかな」
「……いや、結び付けさせてよ。こんな会がなければ今頃普通に古文の授業だったのに」
「古文には古文で文句を言うのに?」
「……桃子、最近優しくないよね。全部否定するよね」
「事実を言ってるだけなんだけど。否定とは心外だなあ」
「その顔が楽しそうだし」

 そんなことないよ、と笑顔で返される。しかしその笑顔が既になにか自分とは異なる種類のもののように思えて、そして聡い桃子にとって自分の言葉など、なにひとつ説得力をもたないものでしかないのだろうと思うにはそれで十分だった。
 グラウンドにジャージ姿の3年生が集まりだす。ただでさえ規模の大きい学校だ、選ばれたのが3年生だけとはいえそのジャージの色があっさりと地面の色を消していく。
 卒業半年前の恒例行事、3年生のグラウンド清掃の時間だった。
 グラウンドは日々の清掃の中で全学年が関わっている。整備であったり除草作業であったりその役割は学年によって異なるが、3年生はこの時期、学校行事の一環として全員で校内清掃をすることになっていた。
 と桃子のクラスは除草作業担当だった。本来ならば日々の清掃を行う中では取り除くべき雑草はあってはならないのだが、そこに違和感はない。快適な学園生活の基盤となっていたのがこの学園の広大さであることを思えば、その快適さを一番享受してきた3年生が動いてしかるべきだと、そう考えられる精神はこの3年間で身につけさせてもらっている。

「でも、真昼間にするのは反対だなあ……授業後とかでいいと思う」
「授業後は授業後で暑いよ、今の時期。それはそれで早く帰りたいっていう人も出るし」
「桃子はいつも愚痴を言わないから偉いよね」
「代わりにが言ってくれるからね」
「……私、言い損?」
「さあ」

 クラスごとにグラウンドに整列する。スピーカーからは整然さを求める生徒会役員の声が響く。女子の声はどこか弱々しく、かき消されて当たり前のような声量だ。それでは誰も聞く耳を持たないだろう、とはぼんやりと考える。

『一列に並べ、クラス男女ごとだ。3分で終わらろ』

 そこできちんと響いてこそこの声だ、と思った頃にはあくびをすることも憚られる雰囲気が漂う。

「相変わらず。本人にどこまで自覚があるかは別として、統制力のある声だこと」

 もはや感心しか抱けないといった眼差しで桃子が前方を見つめる。ため息の意味は呆れではなく感服であると知った時には、跡部が朝礼台の上に姿を見せていた。

「まあ、でも。3年生全員をここに呼んでくれることには、は感謝をした方がいいかもね」

 跡部の声が響く。桃子の言葉の意味を知っている身体は、視線を彼女に向けることができなかった。



「あ、岳人だ」

 秋の日差しは、見かけよりも強い。それはテニスコートで四季を感じる身である以上、覚えようという意識を働かせなくとも身体が勝手に記憶してしまう。今日の日差しも過去の経験に従うような強さをもっていて、岳人は空を見上げて眉根を寄せていた。

「ねえねえ、この草むしりって跡部主催って知ってた? 俺昨日跡部に聞かされてさー、もうすっげえびっくりした!」
「……あいつ主催じゃなくて生徒会主催だよ、いい加減騙されるのやめろよジロー」

 しかし同じ体験をしていても、同じ記憶を持つとは限らないらしい。隣のC組の列からひょいと顔を出してきた慈郎は、秋空に目を向けることもなくただ楽しそうに笑っていた。

「あれ、そうなの。ふーん、跡部がすっげえいいやつに見えたのは気のせいだったのか」
「絶対気のせい、間違いなく気のせい」

 ふうん、と慈郎は悩むでも困るでもなく、ただ軽く相槌を打つ。
 D組の岳人とC組の慈郎は、このような学年集会の場合近くに並ぶことが常だった。それは一律に、集会での集合形態がクラスごとであることに加え身長順に並ばされることによる。4月段階での身長差などとうに狂っているはずで、岳人はそれが不本意で仕方がない。この秋、身長は既に160センチを越えることができていた。4月段階で160センチだった慈郎の傍近くというのは、いまだ自分が成長していないと言われているようなものである。

「うーん、じゃあ俺の目も気のせいかも。ていうか、岳人が気のせいかも」
「は? なんだよ、それ」

 腕を組んで首を傾げる慈郎に、岳人は目を丸くして尋ねる。慈郎の視線はしばらく岳人に向けられていたが、それが下から上まで移動したかと思った瞬間、慈郎は大きく頷いてひとりで納得していた。

「5センチ身長が伸びたって、多分嘘だ。大きくなったように見えないよ」
「なっ……! バッカ、ちげえよ! 本当に伸びたんだって!」
「えー。じゃあなんで今そこなんだよ、俺より前だしー」
「春から変わってねえからだろ!」
「あ、そっか。分かった」
「なにが」
「俺が伸びたんだ。よかったー、俺まだテニス部で下から2番目だ」

 しし、と笑って慈郎は自分の列に戻る。整列を求めるC組学級委員の声よりも、整列を命令する跡部の声が響いたのはその後だった。明らかにこちらを睨みつけている生徒会長だが、岳人からすればその視線に萎縮することよりも慈郎に対するやり場のない怒りを抑えるのが先だ。
 ここに忍足がおらず、神経を逆撫でされることがないだけよかったのかもしれない。だが元を辿ればここに彼がいないのはその長身のためである。H組の後方などはるか彼方だ。どちらにしても身長ひとつでいまだに自分は簡単に感情を左右させられるらしいと、そんな事実にため息を零す。

(身長だけじゃなくて、全部が大きくなりたいんだけどなあ。できるだけ早く、すぐにでも)

 ぼんやりと秋空を見つめながら思う。
 過ぎ行く時間にすべてを任せるのには、少々飽きた。そして少々、歯痒い。
 自分の成長を待ちきれなくなる感覚にさせる誰かが、少々恐ろしい。

(でも、そうならないと俺も嫌だからな。もう同じ身長だなんて言わせねえ、絶対)

 しかし恐ろしさに身を浸からすことは、まるで怖くない。その感覚を疑ってもいない、浸かり、はまり、溺れて抜け出せなくなってしまってもいいと思っている自分がいることを隠す気もない。

(だから、だからなんだ。……あいつは気づいてるのかな。色々、全部、俺が大きくなっていってること)

 隠す気もない分、その責任は取ってもらうことにしている。空を見上げて彼女のことを考えるが、いまだ言葉では確認をしたことのない自分の勝手な妄想は、清々しい秋空の前ではどこか抱くことが情けない。ため息をつき、岳人は朝礼台に目を向ける。
 マイク越しの跡部の声が、清掃区域の説明をする。既にD組はグラウンド整備であることが決まっていて、あえて注目するとすれば彼の姿を久しぶりに見たということぐらいだ。
 部活を引退して、1ヶ月弱。秋はすぐさま冬を連れてくる。
 その頃には、このジャージも必要不可欠なものになってくれているだろうか。腰にまいた長袖のジャージを締めなおし、跡部を見つめる。
 彼の口からは、D組以外のグラウンド担当クラスが発表されていた。



「こういう時に一緒の場所だと、ちょっと嬉しくなったりするのは私だけかな」

 最近の桃子は口数が多い。しかも言葉に出される内容のほとんどが自分の感情を読み当てたものだ。自分の心には文章が書いてあって、桃子はそれを透かして読むことができるのではないと疑ってしまう。

「よかったね、D組と一緒で。跡部くんにありがとうって言わなきゃ」
「これを決めたのは跡部くんじゃないんじゃ……」
「『ありがとう』って言った時の跡部くんの反応が見たい」
「それ、単に桃子が見たいだけでしょ。絶対そうでしょ」

 たわいない会話ながらも、実はこの会話がどれほど貴重なものなのかはは重々理解しているつもりだった。
 9月になり、春からは随分と時間が経った。9月を秋の一員とすれば、春のことなど半年も前のことになる。秋が年度の折り返し地点であることは学生であれば知らないわけがなく、区切りがついたという響きをもっている今この時間は、まるでなにかがリセットされたような感覚になる。
 リセットしていいものと、してはいけないものがあることは分かっている。
 ただ、時間が作り出す「慣れ」は恐ろしい。いつしか学校で、廊下で教室で、テニスコートで彼の姿を見つけることに、痛みを伴うことが随分と減っていることには気づいていた。

「でも、向日くんはきっと私以上にのことを考えているんだよね」

 その時、初めて桃子が岳人の名前を口にする。しゃがんだ姿勢で草を取っていたは、そっと顔を上げて桃子を見つめる。同じようにグラウンドに腰を下ろしていた桃子はじっと中央を見つめていた。

「最近、他人の私でも分かるよ。向日くんがなにを努力しているか」
「……桃子は他人じゃないよ、巻き込んじゃったから」
「それを差し引いたとしても、でも感じる。あんな向日くん、私去年見たことないもの」

 桃子の視線の先には、地面整備やトラック整備をするD組がいる。その中央に、ブラシ片手にクラスメイトに指示を出している岳人の姿があった。
 このような時、去年までなら岳人は今頃指示を受ける側だった。運動部ゆえに蓄えた知識がありながら、それを披露することや伝授することを率先して行うようなことは滅多にない。それは面倒だからという否定的な考えからではなく、自分よりも上手い人間がいるという、むしろ消極的な考え(それもあくまでたちから見た考えだが)によることが多かった。だからダブルスの試合は相方の忍足の指示に従うことがほとんどで、そんな岳人をは見続けてきたし、それが常であることに違和感はなかった。
 今年、最後の全国大会。パートナーは忍足ではなく、後輩の日吉だった。
 それが決まった時のたとえようのない岳人の表情を、はまだ覚えている。短期決戦という作戦がいかに理に適っているかを理解しながらも、1年年長という自分の立場をどのように使っていいのか持て余す顔をしていた(言葉には出さなかったが)。
 だがそのダブルスを、岳人はきちんとやり終えた。結果はどうであれ、戦いきった。

「大きくなったって言うと、最初怒るけど絶対最後に喜ぶよ。偉そうになるっていうか。まあ、岳人の場合はまず怒るのが普通なんだけど」

 戦い終えた後の申し訳なさと達成感、それらがごちゃまぜになった顔も忘れられない。草を抜きながら言葉にすると、ひとつひとつがまるで昨日のことのように思い出される。
 あの顔を、あの表情をあの気持ちを、きちんと傍で感じられる距離にいられたことが素直に嬉しかった。

「どうもね、最近はそう見られたいみたい。鳳くんとかが寄ってきても嫌そうな顔しないもん」
「嫌そうな顔? なにそれ」
「昔はね、身長差がありすぎるから『近くに寄るな』って言ってたの。余計小さく見られるからすごく嫌だったみたい」
「鳳くんもとんだ災難だね、それは」
「岳人のそういうところ、全部知っててくれる人だからよかったんだよね。まあ、最近は多分普通にからかう材料になってるんだけど」

 追いつめられると向日さん、勝手に暴露し始めるんですよ。よほど先輩との身長のことを気にしているみたいですね。
 苦笑しながら鳳がこっそり教えてくれたのは記憶に新しい。岳人のプライドに申し訳ないと思いながらも、日常生活に自分の存在がきちんと組み込まれていることが嬉しい。
 顔を上げ、岳人を見つめる。長袖を着ずに腰に巻いているだけなのを見てもったいないと思いながら、けれどテニス部のユニフォームではなく自分と同じ学年のジャージを着ている姿に頬を綻ばせてしまうことは、もはや逆らうことのできない日常だ。

「でもね、最近は違うよ。鳳くんがダブルスのことで質問したら、いつもきちんと返せるの。質問しなくても、今日はいいのかって聞けるの。鳳くん、驚いてたなあ。まだ本人には言えないんだけどね」

 こうして見守る視線も、本当は岳人にとっては好ましくないものであることをは知っている。
 なにかに追われるように、自分との差を作りたいと思っていることなど見ていれば分かる。今までとは違う、至近距離で見ていてもよいという許可を他の誰でもない当の本人が出してしまったのだから、そして自分は他の誰にも負けない岳人を愛しく思う感情を持ってしまっているのだから、見抜けないことの方がおかしい。最近の岳人は、必死になにかに手を伸ばしている。
 それを愛しく思う感情しか認められていないのに、まざまざと見せつけられる毎日では身体がもたないと、本人に言ってやりたい。それが本音でもある。

「まあ、でも」

 見つめる沈黙の中で、そっと桃子が呟く。

「確かに、と付き合い始めてから雰囲気変わったね。気づく人しか気づけない、本当にささいなことなんだろうけど、でも分かる」
「絶対本人は嫌がるけどね、人に左右されるなんて真っ平なはずだから」
「言ってることとやってることがあそこまで矛盾すると、逆に清々しいよ」

 桃子は笑って草を引き抜く。白く細長い指にその仕草は少々不釣合いだ。長袖のジャージに肌を隠して木陰で休む姿の方が、よほどしっくりくる。
 不釣合いといえば、岳人の今の服装も不思議だった。適度に手を動かしながらは視線を再びグラウンド中央に向ける。クラスメイトたちと笑い声をあげながらブラシをひきずる(整えているつもりなのだろう)岳人を遠目に見つめ、そっと首を傾げた。

「……なんであんな格好してるんだろう、岳人」
「え?」
「長袖。おかしいな、半袖で済むなら半袖だけしかもってこないのに」

 ハーフパンツから覗く足は、テニスコートに立つ時と同じように健康的な肌の色を見せつけている。袖口から伸びた両手は左手にすべての指令を任せながらも、両方が堂々と太陽の日差しを浴びている。
 冬より夏の方がよく似合うとは忍足の言葉だが、それを否定することのできる材料は今のにはない。それほどまでに、夏に溶け込むことの上手い人間なのだ。
 だからこそ、気になる。なぜ不必要とも思えるものを身につけているのか。

と一緒なんじゃないの? それかの口癖がうつったか」
「テニス部でそれはない」
「まあ、確かに。……気まぐれ? そういうところあるじゃない、向日くん」
「どうかなあ……あ、気づいた」

 学園への感謝を込めた作業の理念もどこへやら、岳人の視線がこちらを向いただけで手は地面から離れる。相変わらず目が合うと岳人は一瞬動揺してしまうのを隠せないでいるのだが、ここ最近は落ち着きを取り戻すまでの時間が随分と短くなっていた。
 一度目が合った後、ちらりと横を向いてそして再びちらりと視線を戻す。その時にまだ視線がぶつかることができて初めて、岳人は小さな笑みを浮かべることができる。

「跡部くんがいなくてよかったね。見られてたら、向日くんただじゃ済まないだろうなあ」

 小さく手を振ると、横で桃子が呆れながら呟く。しかし跡部がそのような性格でないことは、も桃子も、岳人も知っている。彼は本来色々なものに本質的に優しい。優しさが甘いだけではないことを教えてくれる典型的な人間だった。
 そんな跡部とともに、3年。テニスコートという場所に生きた岳人は、ある意味誇りだ。本人は身長の低さをいつまでも愚痴のカードとして持っているが、そんなものを吹き飛ばすほどに彼のもつテニスへの愛情がまばゆく思う。手を振り終えた後、視線をはずせなかったのもそのせいだ。

「じゃあ、私も一緒に怒られようかな。岳人を止めちゃった責任」
「それをのろけって言うんだよ、。知ってた?」
「あはは、知ってた。ごめん」

 目が合うだけで心の奥底がほんのりと温かくなる感情は捨てられない。共の空気の中に生きられることを肌が喜んで心も嬉しがる。その感覚に身を任せることが嫌ではない。
 そしてその時、岳人が寄ってきて、ジャージを渡してきたことにも嫌がる理由など見つけることができない。

「……なに、これ」

 突然差し出されたそれに、は目を丸くして岳人を見上げる。視界の中に映る彼はさきほどの笑顔もどこへやら、の拍子抜けした顔に幾分か不機嫌そうだった。
 何の意味だ、と問いかけるよりも早く強く、目の前のジャージが激しく自己主張をする。そして持ち主の顔が、もっと不機嫌になっていく。

「焼けるの嫌だ、焼けたくないって言うの、俺もう聞き飽きた」
「……え?」
「え、じゃねえよ。日焼けしたくないのになんで半袖なんだよ、もうお前の愚痴聞くの付き合ってやんねえからな」

 差し出されるのに飽きたのか、ジャージは岳人の手を離れてふわりと宙を泳いだ後の手の中に落ちてきた。目を丸くしたまま受けとると、岳人はむっとした表情のまま納得の頷きをする。

「バカだよな、お前。いつもいつも。なんでジャージ持ってこないんだよ、芦屋みたいに」
「……普通に忘れるだけだよ」
「普通? ふざけんな、それで愚痴を聞かされる身にもなってみろっての。帰り道全部その話じゃねえかよ、いつも」
「全部じゃないよ、それはひどい!」
「ひどくねえ! 文句言うならジャージ返せ!」

 突き出た手のひらに、しかしは泣くでも怒るでもなく、ただじっと岳人を見つめる。

「……なんだよ」
「ううん、今分かったから」
「なにが」
「半袖で十分な岳人が、わざわざ今日長袖を持って『きてくれた』理由」

 唐突な返しに、啖呵を切った岳人の方が目を丸くする。抱きしめたまま離そうとしないに言葉をなくし、やがて離さない意味を日焼け防止という目的以外にも悟ったのか気恥ずかしさを怒りに隠させながら踵を返し、グラウンド中央へと戻っていく。
 半袖の体操服が揺れる。身長が伸びたと豪語する背中は、確かに大きく見える。
 だが外見だけではなく、目には見えない部分もきちんと大きくなっていることを、本人は一体どこまで気づいているのだろうか。
 残されたのは、秋の太陽に照らされるグラウンドに腰を下ろしたままのと桃子と、そしてジャージ。

「言い負かされることも計算しておかないと、せっかくのジャージもかわいそうだね」

 帰る背中に敗北の色を見て取った桃子が呟く。桃子の言葉の意味は本当は正解ではないことをは知っていたが、渡されたジャージが色こそ等しくとも自分のものではないことに心はすべてを奪われている。
 女子用のものよりも一回り大きいジャージを広げ、は笑った。

「着ちゃっていいかなあ、これ」

 まだ岳人の背中を見送っていた桃子に問いかける。悪戯っぽく聞こえたのだろうか、桃子は子どもをあやすような雰囲気で笑ってただ右手で促すだけだった。
 いつもとは違う感触の向こう、首を通して半袖の体操服の上に着込めば、広がる青空が秋の風を吹かせる。

「小柄に見えても、やっぱり男子だよね」
「え?」
「袖。丈。全然合ってないもの、大きすぎ」

 既に体躯は並ぶことなどできない。遠目に同じように見えても、このジャージに嘘はつけない。伸ばしても指先しか出てこない袖の長さに、は頬を緩める。
 こうして、ひとり置いていかれるのも悪いことではない。ひとり先に進む背中を見つめるのも、悪いことではない。なぜならその背中は、必ず振り返ってくれる。先に進んだ分、大きくなった分、距離が離れたことを決して忘れない。

「やることはもう十分大きいから安心すればいいのにね、向日くん」

 桃子が笑って指差した左胸には、いつもとは違う光景がある。

「『俺の彼女だから手出すな』って言ってるも同然なんだけどな、それ」

 本人は気づいていないよ、と訂正するよりも先に嬉しさに負ける。は肩をすくめてジャージに埋もれる。
 まるで彼との関係を証明するかのように、そこにはジャージの持ち主の名字がはっきりと縫いこまれていた。



08/09/23