| 手を伸ばして、背伸びして |
大きな声が上がって、振り返ったら彼がそこにいた。 箸を口にしたまま、は目を丸くしてその姿を見つめる。決して地味ではない彼の姿は、個人的な感情もあって見つけることはそう難しくはない。そもそも見つけようと思うよりも探そうとする目を自分は持ってしまっているので、視界に映ることに驚く必要もない。 その声を聞いて驚いたのは声の大きさにではない、彼がそこにいたことだった。 「バカにすんな、本当だって!」 「いや、ありえへん。冗談も大概にせえ」 「そういうお前の態度こそ大概にしろ、ふざけんな!」 「岳人。悪いな、俺お前より頭ええねん」 「言い訳にもなってねえ!」 自分が目立つということを、彼はどれほど自覚しているのだろうか。どれほどとも言えない、まったくしていないのだろうという答えに至るのが簡単なほどその声は食堂に響き、は自分の昼食を取るのも忘れてその姿に見入ってしまう。 岳人は、そんなの視線に気づくこともなく親友相手に怒声を上げ続けていた。 「だから、本当なんだってば。嘘だと思うなら日吉に聞いてみろ、あいつ証人だから」 「日吉……? ますます嘘くさいやないか、岳人と日吉のコンビやなんて」 「お前は人を信用するっていうことを知らねえのか!」 「アホ言うな、信じる心なくしたらあのテニス部で生きてけへんやないか」 「……」 「なんや、その目。俺の言うことが信じられへんのか」 会話から耳をそらすことができなかったのは、その言い合いを聞くのが久しぶりだったからかもしれない。 長いようでいつも短い感覚しか与えてもらえない夏休みが終わり、制服に身を包むようになってからまだ1週間も経っていない。制服姿としては久しぶりに見る岳人と親友の忍足の姿は、自然と目を奪う力を持っている。まるで恋偲んでいたかのような自分の反応に苦笑すると、また岳人が苛立ち任せに荒々しい声を上げた。 いつもそうだった。岳人はいつも、忍足を前にすると怒鳴っているか笑っているか、とにかく感情を隠すということを一切しないむき出しの言動になっている。 それが相手が忍足ゆえの態度なのではなく、そもそも向日岳人という人の言動の基盤がそこに根付いているからなのだということはは他の人よりは理解している。基本的に隠すという言葉や行動が嫌いなのだ。忍足も十分その点は理解しているはずで、むしろ知っていて逆撫でするような行動を取っては岳人の反応を楽しんでいるような観もある。 9月になっても、それは変わっていない。その事実にはまた頬を緩める。 全国大会3回戦を戦い抜き、中等部でのテニス部の活動に終止符を打ってから3週間。ユニフォーム姿を見られなくなっても、忍足との関係は相変わらずだった。 「そもそもやな、なんで今更それを調べに行く? お前が頑固っちゅーことはよう知っとるけどな、なんや男の悲しい性を見とるようで……」 「遠い目をするな」 「俺には分からん悩みや」 「さらりと嫌味を言うな」 制服姿を見て、どこかもったいないという感覚に陥るのはおかしなことだろうか。目の前で共に昼食を取っている親友に問いかけてもよかったが、からかわれる結末しか見えてこずはそっと自分の胸の中に疑問をしまう。だが自分だけの疑問にしてしまうことで、誰にも遠慮することなくその考えを肯定することができた。 岳人はもう、あのユニフォームを着ることはなくなっていた。それが暑い夏と別れる代償だった。その事実を寂しいと思う感情に嘘はつけない。 「相変わらず。向日くん、もう少し大人になったと思ったんだけどな」 親友は呆れてため息をつく。だがその顔の中に優しい苦笑が隠れていることをは見逃さない。まるで自分の意見に賛同してもらっているかのような錯覚が起きた。 「忍足くんと一対一になると、それは無理。絶対勝てないな、多分。それこそ忍足くんを言い負かすことができるのなんて一部の人しかいないけど。桃子とか」 親友の桃子は一度目を丸くした後、綺麗な笑い声を上げた。 「言い負かすほどのことはしてないけど、私。そんなに仲良くないし」 「岳人の苦労も知ってよ、ふたりが一緒にいるところを見られて女子テニス部から追及されてたんだからね」 「私が忍足くんと? そんな昔のこと。そもそもその原因、向日くんとじゃない」 「……それを言われると返す言葉もないですけど」 「じゃ、そういうことで」 あっさりと会話を終了させる桃子に、は本当に返す言葉がない。その言葉はすべて真実で大胆すぎる苦労をかけてきたのは他ならぬと岳人であり、真正面からそのことを出されるといまだに言葉につまってしまう。だがそこで覚えるのは反感ではなく、感謝なのだから会話も続かない。 相変わらず自分の扱い方に慣れている親友だ、とがため息を零せば、再び岳人が忍足に怒りあらわな言葉をぶつける瞬間が訪れた。 「引退したら引退したで、もう少し静かな生活を送ればいいものを」 その時、静かな声が右横から飛んできた。 昼休みを迎えて生徒の緩みが頂点に達する、そんな時間。混みあった食堂の中で一番存在感を示しているのは全員の声が作り上げるざわめきであり、岳人の怒声もその一部でしかないほどだというのに、その声は正反対の静かさをもって響いた。 「そうかなあ、俺はあれでいいと思うけど。逆に寂しいだろ、急に大人しくなられても」 「お前の懐古の情に付き合うつもりはない」 食堂の空気を真正面から否定する言葉のあとには、やんわりとした口調が続く。しかし生存権は認めないとでも言うように鋭く切り込む言葉がすぐ後ろを追い、最後はため息しか聞こえなかった。 どこか聞き覚えのある、そしてどこか自分と同じものを見ていたかのような声と言葉にはそっと視線を送る。 眼鏡姿の男子が食事を終えてなにかを書き取っている様子が視界に入ってくる。それがあの日吉だということに気づいたのは、彼が再び機嫌が悪そうに口を開いた瞬間だった。 「大体、そんなに自慢することでもない」 「ああ、あれ。日吉が証人って、なんだよあれ。向日さんとなにかしたのか?」 「保健室で一緒になっただけだ。本当に偶然だ、間の悪い偶然だ」 「保健室?」 「春より身長が5センチ伸びたことを証明したくて俺に測らせた。本当にどうでもいい」 思わず吹き出しそうになったのを最初は堪えようとした。だがしかし、の苦労など関係ないとでも言うかのように桃子があっさりと白旗を揚げてしまった。 桃子も自分の声の綺麗さを自覚すべきだ、と心から叫びたくなるその笑い声に、さすがの日吉もちらりとこちらに視線を向ける。だが日吉と桃子に直接の接点はない、その黒縁眼鏡の奥の瞳がつまらなさそうに視線を戻す様を見届けて、は安堵のため息をつく。 「あれ。あ、どうも」 だがは、自分の顔が予想以上に広まっている自覚がまるでなかった。 突然投げかけられた挨拶に、今度は桃子が目を丸くする。それは挨拶をされたことにではなく、自分が硬直していることに驚いているのだと気づいた時、はようやくその声の持ち主が鳳であることを知る。 「……どうも、こんにちは」 「こんにちは。すみません、うるさくて」 「おい、うるさいってなんだ。俺は別に」 「しーっ。違うって、日吉。向日さんの彼女」 妙なところで気を回す鳳は、言葉をなくすをよそ目に日吉に状況説明をする。その時の日吉の表情がどれほどおかしかったかは、後日この状況を伝えた時の岳人の盛大な笑い声で認識することができたのだが、もちろんこの時のは初対面の日吉の表情の意味など考え抜くことができない。 そもそも鳳とも、直接の面識はない。ただその髪が岳人と同じように目を奪ってしかたない色で、岳人を視界に収める生活をしていれば必然的にこの長身の体躯も目に映ってしまうのだ。その意味では日吉も同じレベルだが、如何せん鳳は日吉よりも他人と話す場面において言葉が滑らかに出てきてしまう。挨拶が挨拶程度では済まなくなる、そんな丁寧さに今ばかりはためらいを覚える。 目の前では桃子が思い出し笑いをしていたが、からすればこの微妙な空気(それこそ盗み聞きをしていたかのようなこの状況)からどうすれば抜け出せるか、それを考えるしかない。 ただ素直に立ち去るべきなのか、桃子を連れ去るだけでいいのか、そう考えながらちらりと鳳と日吉に視線を向ける。 「内緒にしておいてくださいね。多分向日さん、自分で言いたいと思うんで」 鳳がそっとささやいた後、先に立ち上がったのはでも桃子でもなく、ため息まじりに岳人と忍足を見つめる日吉とそれを苦笑で見守る鳳だった。 岳人はまだ、忍足に言いくるめられる会話から抜け出すことができていない。 岳人が身長を気にするのは昨日今日のことではない。付き合う前からそれはずっと本人が口にしていることで、その響きにはなんの新鮮さもない。 鳳の言葉の意味が分からず、身長ひとつでなにをそんなにもめているのだろうとが首を傾げれば、また忍足に言い負かされた岳人が怒声を上げていた。 背が高くなったことは確かに感じていた。それは隣に並ぶ時間が増えた今の時期ならば必然的に分かる。鳳よりも日吉よりも、テニス以外のことなら岳人について詳しい自信がにはある。だから学校帰り、その横顔を見上げる角度がほんの少しだけ斜度を上げていることには既に気づいていた。 ただ、それは時間という自然の流れに身を置いていれば至極当然のことで、取り立てて話題にすることの方が難しい。昔こそ数ミリの世界にこだわって話していた当の本人でさえ、ここ最近は忍足にからかわれてもさしたる反応を示さなくなっていた。 だからもあえてその話題に触れず、この9月を迎えていた。その心持ちの意味はなかったのだろうか、とふと隣を歩く岳人に視線を向けるが、返されるのは遠慮のないあくびだけだった。 「俺だって、これでもいろいろ考えてるんだ」 会話が流れ始めたのは、岳人のそんな一言からだったように思う。 すべての会話に意味をもたせる必要など、どこにもないとは思っている。話せる状況そのものが嬉しいという背景があったからだ。岳人も当然そのことには気づいていて、野放図な性格のように見せかけて実は普段のありのままの姿をとりわけ大事にしている。 そんな岳人が真っ直ぐに前を見て呟いた一言を、夏の名残のような風がふわりと運んだ。9月とはいえ夕方前の舗道の上を歩くのは、まだ暑い。 「でもなに考えても、結局最後に身長のこと考えるんだよな。俺嫌なんだよなー、彼女とあんまり身長変わらないのって」 「なに、突然」 「食堂にいたの、気づかなかったとでも思ってるのかよ。しかも日吉と鳳まで。なのに侑士のやつ、俺をからかいまくる。聞こえてるの覚悟に決まってるだろ、そんなの」 ちらりと岳人がこちらをうかがう。表情を読もうとするその視線は、夏を迎える前より少しだけ鋭く、少しだけ冷静さを持ち合わせるようになっていた。 気づかれていたのか、と思いはするものの、やましいことはしていないためにはただ黙って首を傾げる。食堂での出来事と岳人の意図するものがうまく繋げられなかった。 5センチ伸びたというのなら、自分はここで祝福の言葉を述べるべきなのだろうか。それを求められているのだろうか。しかし鳳には黙っていろと言われている、本能的にもそちらが正しいと思える。岳人は主導権を握られること、奪われることには並々ならぬ嫌悪感を持っている。 「お前、どうせ冬になったらブーツ履くんだろ」 ただし難点は、主導権を岳人に渡すと直球勝負のみにさせられることだった。そしてその直球は、岳人本人こそ理解できても他人には意味不明なことが多い。 唐突に投げかけられた言葉に、今日もは言葉をなくすしかなかった。 「あれ痛いだけだろ、絶対。なんで靴のくせにあんな細いんだよ、ヒールって」 「……はあ」 「踏まれるほうの身にもなれって。鳳なんかこの前泣いてたぞ、あれ痛すぎるじゃねえか」 「そうだね」 「お前のことだから、絶対無理してでも履くんだろうって。そう考えただけで俺は正直げんなりした。痛いし、俺も痛いし、なにより」 「……なにより?」 「身長抜かされて喜ぶ男がいるかっての」 ふてぶてしく呟く横顔には、一瞬だけ幼さが戻ってくる。勝手に拗ねて愚痴だけを呟く姿には、相変わらずの素直さが溢れている。 その瞬間、あっさりと先日の食堂での記憶に接続してしまうのは、本当は岳人にとっては喜ばしくないことだったのかもしれない。しかし隠すという言動を最も嫌っているのが本人である以上、としては記憶の接続を止めてしまうことがもうできない。 履くんだろ、とひどくこだわった表情で問いかけられて、は笑いを堪えながら考えた。 「……履く、かな?」 「なんだ、その疑問系。俺に聞くな」 「履いていいの?」 「駄目だって言う方がみっともないことに気づけよ!」 なぜ怒られながら帰らなければならないんだろう、と不毛なことを思うことはしなかった。怒ることも岳人の感情表現のひとつだからだ。怒ることで伝えたいのは不機嫌さではなく隠しがたい自分の本音だと、そう言えば忍足たちは買いかぶりすぎだと笑ったが、しかし自分の前での岳人はそうに違いないと今でもは思っている。 「いろんなことがあって、あんまり楽しいことしてあげられてないんだよな、俺。部活もあったし。……本当にいろいろあったし」 9月になってからそのことを聞かされるのは初めてだった。一瞬は息を飲む。 時間が解決する、という言葉の意味を疑ってはいない。だがそのとおりだとは思っていない。時間は癒すということよりも薄める効能に秀でていて、記憶の忘却システムをうまく利用して過去の辛い記憶を弱めてくれる。 にとって決して忘れ去ることのできない今年の春の出来事は、まだ小さくも確実な痛みと疼きをもって胸の奥底に沈んでおり、岳人もそれが分かっていて触れようとはしない。その岳人が話題に出すということは、他の意図がある時だった。そう思えるほど、時間は記憶を薄めてくれていた。 「でも、部活を言い訳にするのっておかしいんだよな。俺がそうしたいと思ったらそうするのが一番いいはずなんだ。じゃなきゃ多分、今お前とこうしてることもなかったはずだし」 視線が同意を求めてくる。同じ高さではなく、やや見上げる形になって受け止めたその視線には悩まず首を縦に振る。岳人はほっとした表情を浮かべた。 「だから、部活引退してちょっと一区切りついたと思ったんだ。時間がもっと上手く使えるようになったって。でも秋だし。冬だし。なんか違うし。それ俺の予定にないし」 「違うって、なに?」 「……お前、ブーツ履くって侑士が言うから」 忍足にそのようなことを告げた記憶はまるでない、と口にするよりも早く、岳人が秋に近づく空を見上げる。ネクタイが緩く結ばれているのも、鞄が軽そうなのもなにも変わっていないが、見上げる横顔だけは少しだけ幼さの影を潜めつつある。 「身長、伸びた方がいいじゃん。お前よりちょっと高いだけじゃ、もう駄目なんだよな」 その横顔に息を飲んだとは言わない。代わりに素直なその言葉に苦笑をする。 自分のためになにかをしようとする姿は、これが初めてではない。申し訳なさが先行するばかりなのでそのようなことを言わないでほしいと何度も願っているのだが、付き合ってしまうとそのような感情とは無縁でいられないのは自分も同じだった。そう自分の身体が叫んでいては我がままは言えない。 道の小石を軽く蹴り、通り過ぎる風に横髪を遊ばせる。やがて沈黙に気づいたその視線がこちらを向いた時、ようやくはうつむきがちに首を傾いだ。 「……岳人の身長が伸びることも嬉しいんだけど、でも」 「なんだよ」 「デートに連れていってくれることがもっと嬉しいんだけど、その場合はどうすればいい?」 顔が紅潮に負けるまで、そう時間は必要としなかった。 岳人は一瞬言葉をなくし、やがて動揺を隠す暇もなく「バッカじゃねえの!」と相槌代わりの言葉を口にする。 「俺に聞くな! 勝手に喜んでればいいじゃねえかよ!」 「あ、喜んでいいんだ。そっか、ふーん……じゃあ思いっきり可愛くして行こう」 「え」 「……なに動揺してるの」 そんな動揺すら愛しいと本人に言うと、恐らく今日はひとりで帰ってしまうだろう。自分は置いていかれるだろう、今日のメールは1通もこないだろうと安易に想像ができて、それは嫌だと思うとは素直に言葉を胸の中にしまう。 自分の好きなものに対しては貪欲に、計算高くなってしまうものだと改めて思う。岳人には気づかれていなかったが、しかしそうさせるのは岳人本人だ。 「俺、大人になりたい。なんかもうやだ、いろいろ大人になりたい」 小さく呟いた本音の一言を聞けるのは、限られた人間だけだなのだ。その前では、いくらでも貪欲にならざるをえない。 小さく、小さくけれどにだけは聞こえる大きさで呟いた岳人に、は思わず手を差し出す。驚いてこちらを見つめる岳人に、ただ無言で手のひらを見せる。 しばらく躊躇したあと、岳人は周りを一瞥してから拗ねた顔のまま手を重ねる。 こういうことが嫌だ、と主導権を握られないことに愚痴を零しながらも、残暑の厳しさに文句を言いながらも、それでも繋いだ手を離すことはなかった。 |
| 08/08/16 |