| 発火の太陽 |
その姿が視界に映った時、身体が呼吸の仕方を一瞬忘れた。 岳人はボールを右手に握り締めたまま唖然として口を開け、そしてすぐに眉根を寄せる。その分かりやすい表情の変化に目の前にいた忍足が視線の方向を同じくし、しばらくしないうちに「ああ」とこちらも分かりやすい相槌を打った。 「行ってきてええで? 跡部もおらんし」 「え? あ……うん、悪い」 「あとでジュース1本やけどな」 「分かった」 その素直な言葉に、忍足が唖然としたことには気づかなかった。 岳人は気恥ずかしさに負けて頭をかいて一瞬うつむいたものの、すぐに足を動かした。そして榊や跡部の姿を確認することもないままに駆け出す。普段より強い夏の風が勢いよく自慢の髪を揺らし、絡ませようとしていたが、それにすら注意は向かなかった。 気持ちが先走るという言葉の意味を知らないわけではなかったが、身体が気持ちに自由を奪われるということを、まさかテニス以外で実感する日がこようとは。 しかし最初は駆け足程度だったはずなのに、3面のハードコートを通り過ぎる頃には練習前に行うグラウンドの走りこみほどの速さに変わっていたことに気づいてしまえば、それはもう否定することはできない。やはり制御がきかない、そう改めて思った頃には手は既にフェンスへとかかっていた。 かしゃん、と金属の揺れる音。その音とともにひし形の向こうに自分を真っ直ぐに見つめる視線を受け止める。高さは等しくとも、そこにすがるような色があることを見つけて、岳人は息を飲んで慌ててフェンスの取っ手に手をかけた。 「どうかした? なんかあった?」 後ろ手でフェンスを閉めて、開口一番。雰囲気の欠片もない自分の言葉に悲しくなりながらもそう問いかければ、岳人を見つめる瞳は一瞬で柔らかさを取り戻し、ゆるゆると首を横に振った。 「ううん、ちょっと。……やっぱり見にくるのは駄目だった?」 「え! いや、それは全然……!」 「よかった? なら、よかった」 ゆるりと頬を緩める相手に、岳人もつられて口角を上げた。 それは、忍足に会心の一球を打つことができた時。ダブルスの後輩鳳を打ち負かした時、跡部からシングルスでより多くのゲームをもぎ取った時。そのどれとも違う笑い方であることを、笑うことで心の中に宿る感情の違いで悟る。 そのような思いはどこまで気づかれているか分からなかったが、相手はふふ、と軽く笑って岳人の後方を見つめる。 目の丸みがいつもの柔らかさを取り戻している。それに心なしかほっとしながら、岳人はその視線の先を追う。なんと言うこともない、そこには深い藍色のフェンスの向こうにテニスコートが整然と並んでいた。まるで夏の空の突き抜けるような青さが反射したかのように、氷帝学園のカラーである水色が燦然と輝く。岳人の一番好きな場所だった。 途中、目があった樺地がまるで模範例かのように礼をした。岳人はその日常を感じさせる樺地の態度に、苦笑しながら軽く右手を上げて応える。今ばかりは樺地の見下ろす視線を素直に受け止められた。 「男子ってさ」 「え?」 「今体育の授業もテニスだったよね? 好きだね、岳人。というか元気だね」 横から小さな声がもれる。会話が再開したことに気づき、岳人は慌てて視線を戻す。 再び目の前に迎えたその表情には、小さな笑みがあった。 「なんだそれ。けなしてんのか?」 「褒め……てる?」 「なんだそれ。俺に聞くな」 「じゃあ、褒めてる」 「じゃあってなんだ、じゃあって。お前可愛くないよ」 ラケットを左脇に抱えたまま鼻で笑ってフェンスにもたれかかると、かしゃんと音が響いた。金網独特のその音は、聞く人によってはけして素晴らしい音ではなかったけれど、絡み、まとわりつくような印象を与えない。テニス好きという贔屓目を除いたとしても、岳人はやはり好きだと思った。 目の前にいる人もそれは同じらしく、岳人の飾り気のない言葉にさしたる反応を示すことなく穏やかな笑みを浮かべたまま、青空に響くテニス部員たちの掛け声に耳を向けた。 しかしいくらかの沈黙のあとで、ふと首を傾いで岳人に言葉をかけた。 「汗」 「え?」 「すごい汗」 問われた言葉の真意が分からず、岳人は思わず目を丸くして返す言葉を見失う。 ありきたりな言葉だった。なにを今更、と岳人は心の中で思う。だがすぐに、「あ」と喉奥で小さな声を漏らした。 それは、自分の生活がテニスに密着しすぎているという至極個人的な経験に基づく感想でしかないのだ。それが分かったのは、目の前の真っ直ぐな視線に気づいてから。 相手、とこの場所で話すのは初めてだということに、気づいてからだった。 「ああ、まあ。夏だし。汗ぐらいかく」 それに気づいてしまえば、当然のことをいまさら話さなければならない倦怠感はすぐに姿を消す。 そうだ、と岳人は自分に言い聞かせる。だから最初、の姿を見つけた自分は口を開けて唖然とし、忍足に簡単にジュースをおごる約束をしてしまい、そして慌ててこの場にやってきたのだと。 改めてその事実を思い出しながら、岳人はユニフォームの前身ごろをつかんで前後に揺らして素っ気なく答える。その何気ない態度にが笑う。汗に気づいたおかげか、素肌に触れる夏の空気が少し冷たく、心地よかった。 「そういう問題?」 「なんだよ、他になにがあるんだよ。運動部だぜ、俺ら。しかもテニス部」 「まあ、そうだけど。そっか、そうだよね。汗かくよね。タオルは?」 「ああ、ある。まあでも、部員共通のやつだから自分のじゃないけどな」 「え? そうなの?」 「あー、まあ。自分で持ってきてるやつもいるけどな、跡部みたいに。でも俺はどうでもいいし、そういうの」 「……ふうん?」 「……あ、別に綺麗だぜ? ぼろくないし。ぼろくなったらすぐに新品に取り替えていいんだよ、ぼろいやつはぞうきんにすりゃいいんだから」 会話の内容にはこだわらなかった。目の前にがいて、ふたりで話すことができる。その事実に触れられる今は、ほんの少しだけ夏の暑さも忘れられるような気がする。 しかしは、岳人の言葉を聞いて視線を落とした。落としたとはいえ、身長差がさほどない今の関係ではその表情をうかがい知ることは簡単。岳人が心なしか覗き込むようにその顔を見つめれば、わずかに寄せられた眉根が辺りに考え込む空気を作り出す。 なに、と質そうとしたその時、ふいにが顔を上げた。 「タオルなら、おかしくない?」 しかし言葉となって表れたのは、そんな突然の問いかけ。岳人は意味が分からず、一瞬で顔をしかめた。 「は? なにが」 「タオル。差し入れ。……無難? だめ?」 「なんだそれ」 「なにがいいのか、分からないんだよね。……なにが、無難なのか。大丈夫なのか」 の言葉の意味するものが分からず、岳人はただ沈黙を返す。 じっと自分を見つめてくる視線に、答えを返せという催促を感じる。いつかこれが真正面ではなく見上げる視線になればいい、とそんな場違いなことを思わせるほどに真っ直ぐな視線だった。その視線に、冗談やからかいの色はない。 ああ、と岳人は一度瞬きをしたあと、小さくため息をひとつ。そして風が吹き、跡部の声が響いた時、岳人はフェンスから離れて再び鼻で笑った。 「なに気にしてんだよ、お前。らしくねえ」 「……」 「そういうもんは、俺に聞く……」 そこまで言いかけて、岳人は咄嗟に口をつぐんだ。 笑い飛ばしてもよいぐらいな勢いで答えた素っ気ない内容に、の表情が一瞬強張った。すぐに取り繕われたそれは、しかし変化の事実を否定することだけはできない。 苦笑いでこの場を誤魔化そうとしている。そんなの態度に、岳人は自分の言葉が予想以上に場違いであったことに気づいた。 「違う、ごめん、あの……!」 慌てて両拳を握り締め、を真っ直ぐに見つめて言葉を探す。 そして、悟る。自分は今の関係に満足する立場であってはならないことを。 「違う、そういう意味じゃ……あー、もうごめん。だから、笑ったのはそういう意味じゃなくて」 「……岳人?」 「お前がいいと思ったものでいいんだよ。俺は、それがいい」 自分が口にする言葉は、もっと相手の心を落ち着かせる力を宿すものでならなければならないことを。 自分が安堵するのではない、自分がに安心を与えられる関係にならなければならないことを。 柄にもない。自分らしくない、嘘っぽいそんなものは。そのような否定の言葉はいくらでも用意できたし、自分という生き物はそのように育ってきた、その中に今の生活があることを岳人は忘れていない。 しかし。の頬が小さく、嬉しさを隠しきれない緩みを帯びた時。視線が恥ずかしそうに下を向いた時、自分は成長しなければならないと岳人はやはり思う。 (俺が嬉しがってどうする。そんなんじゃだめだ) 心の中で呟いた言葉は、気づかれていたのだろうか。 は一度落とした視線をおずおずと岳人に向けなおしたあと、やはりはにかみを隠しきれないように自分の髪の毛を撫でた。 「……岳人、大きくなったんだねえ。私、気づいてなかったのかも」 「去……去年より5cmは伸びた」 「……小さかったんだねえ、去年は」 「うるせえ、そういう問題じゃねえだろ」 「なによ、自分で答えておいて」 「バーカ、俺にだってプライドはあるんだよ。俺と同じ身長のお前が小さいとか言うな!」 「だって去年は私よりも小さい……」 「バーカ!」 「……バーカとしか言えないあたり、身長は伸びてもねえ……」 恋人同士の雰囲気というルールがあるのなら、今の自分たちは間違いなく失格だろう。変な自信をもってそう思いながらに考えなしの言葉ばかりぶつけていると、しかしは嘆くこともなく小さく声をあげて笑った。 風がそよぐ。夏の太陽に熱せられた空気が、笑うの頬を優しく撫でるかのように髪の毛を揺らす。途中口に入りそうになった髪を、が気づくよりも早く岳人が慌てて使い慣れない右手でのければ、指に温かい温もりを与えてくるの頬が柔らかく緩み、岳人を見つめた。 「タオルにする。やっぱり」 「え? あ、ああ……まあ、いいけど」 「だって、私にだってプライドがあるから。ごめんね、私嫉妬深いんだよ、結構」 それは、弱さと柔らかさを混ぜあいにした表情。その表情に岳人は戻しかけた手を止め、息を飲んだ。 言葉のどこに重点をおいたのか、すぐに分かるような表情。喜びや嬉しさの色よりも、悲しみに近い色を見つけることができる複雑な笑い方。その表情に岳人は言葉を繋ぐことができなかった。 しかし、融通が利かない聡さをもつは、岳人が言葉をなくした意味に気づいて慌てて首を横に振る。 「違うよ、そういう意味じゃないからね」 「……ああ、うん」 「ごめん、……あー、ごめん。私も同じだね。ごめんね、岳人」 そのような言葉を言わせてしまうこの瞬間が、岳人にラケットを強く握り締めさせた。 現実は甘くない。いくら自分が成長しようと意気込んだところで、すぐには状況が改善されるわけではないのだ。自分を慮る言葉と表情を見せるに、岳人は一度目を伏せる。 だが、すぐに顔を上げた。 (いや、でも。だからこそなのか?) 跡部の自分を呼ぶ声が響く。樺地がこちらを向いているのが分かる。 しかし岳人は、それらに気を向けるよりも先に、真っ直ぐを見つめた。 「」 「え?」 「部活、あと1時間で終わるから。教室で待ってろ」 「……岳人?」 「迎えに行く……から、一緒に帰ろ」 小さな本音は、一体どこまで本気ととらえてもらえただろうか。優しく見下ろすこともできない対等な視線からの本音は、一体どこまで力強いものに聞こえただろうか。跡部に怒られる声が響くこの空間では、そのどれもがはかない夢でしかないようにも思えたけれど。 けれど、は一瞬目を丸くした後、うつむいてわずかに肩を震わせた。笑っていた。 「なに、その亭主関白」 「……なんだよ、けなしてんのかよ、それ」 「ううん、褒めてる」 そして上げられた顔には、ひとつの感情しか見つからなかった。 度がすぎるのも問題だけどね、と条件をひとつ言葉に、スカートを揺らす風に乗せて。 「でも、岳人の命令を受けることはね。今の私には特権なんだよ」 待ってるね、という言葉に笑顔を加えて、髪の毛を揺らす風に乗せて届ける。 それらを受け止め、岳人が言葉をなくした時には既に背中がこちらを向いていた。 跡部の怒声が響き、慌ててフェンスを開けてコートの中に戻ることができるほどには理性は残っていた。 けれど、その嫌味に反抗すること、効果は疑わしいが時間稼ぎをしてくれていた忍足に礼を言うこと。そのような言葉を伴わなければならない動作はとてもじゃないが無理だった。 (無理、本当無理! なんだ、あいつ……!) 言葉を考えることが苦痛になるほど、ひとつの感情に支配されること。これは異常だ。 岳人は落ち着かない心臓の痛みと、持て余すしかない頬の熱さに支配されながら、ふと顔を上げて青空を見つめる。 それはいつ見ても変わらない、何の変哲もないただの空だ。しかしそれを見上げる自分に異常があれば、胸にやどる思いはいつもと同じものになどならない。 眩しく痛いほどに輝く太陽が、真っ直ぐすぎる明るさを注いでくる。 それを臆することなく全身で受け止めながら、の笑顔と、最後の言葉。それらを思い出して、岳人はラケットをもつ手にぐっと力を込めた。 (……決めたんだ。俺はもっとできるやつになるんだって。そうじゃなきゃ) 駄目だ、と。誰にも聞こえない、いや聞かせない決意を小さく言葉にして、岳人は視線をコートに戻す。 なぜかコートはいつもと違って見える。心なしか今日は誰にも負けない気がする。 そんな気分に思わず口の端を緩めながら、コート脇に転がっているボールを器用にラケットですくった時、視界の片隅に忍足が近づいてくるのが映った。 ボールをラケットの上で遊ばせながら顔を上げれば、そこには何もかもを見透かしたようなしたり顔。相変わらず自分はこの相手にすべて見通されている気がしてならない、そんなことを思いながら、岳人は無言のまま(若干しかめ面で)右手を上げる。それが礼の意味だとすぐに気づいた忍足は、ただ小さく笑った。 「初めてやな、岳人」 「は? なにが」 一度宙に浮かせたボールを右手で受け止めて、左手で軽く2、3回。夏の太陽にさらされる空気をラケットで切って、小さく一息。そしてベースラインに立ち、前衛になる忍足に早く行けと軽く蹴りをいれた、まさにその時。 「とここで話したの。成長したんやなあ」 ポケットに片手、空いた利き手でラケットを脇に挟む。そして長くて鬱陶しいから結べという岳人の言葉に「お前が言うてもなんの説得力もあらへん」といつも一蹴する、(本人自慢の)髪を風になびかせる。 そんな、いつもとなんら変わらない雰囲気で、忍足は静かにそう言った。 日常。そこにあるもの、それを表すことができる二文字がふと岳人の頭の中に浮かぶ。 いつもであれば、自分はここで忍足に軽く蹴りを入れるだろう。さきほどそうしたように。いつもであれば、その何もかもを見透かしたような顔に「胡散臭い」と暴言を吐いただろう。今、そうしようと思ったように。 けれど、岳人はそれらの道を選ばなかった。 「うるせえ、さっさと前に行け。また跡部に怒られるだろーが」 「岳人のせいで怒られたんやないか、俺まで巻き添えにしよって」 「はいはい、すみませんでした。だから前行けって、早く!」 自分の表情を確かめようとする忍足の背中に岳人はラケットをつきつけ、意地でも前を向かせようとした。長身で憎たらしいほどしっかりした身体つきの忍足を、ラケットひとつでコントロールするのは至難の業だ。 しかし岳人は無理を承知でラケットに力を込める。こちらの反応などすべてお見通しのくせに、わざと確認しようとする忍足の態度に感じる苛立ちと、もうひとつ。 見透かされた気恥ずかしさから生まれる、妙な嬉しさを必死に隠そうとして。 「岳人も大人になったんやなあ……」 「あーもう、うるせー! さっさと前に行け!」 「……なにしてんだ、お前ら。練習するぞ、なに遊んでやがる」 「知らねえ! そういうことは侑士に言え!」 「なんでやねん」 相手コートに立って眉根を寄せる宍戸に、怒鳴ることしかできない段階で既に自分は敗北の身。その事実にまたも気づかされ、どうすればこの男に勝てるのだと悶々と思いながらベースラインに戻ろうとした、その時。 「そうやなあ、まあ、合格点か。頑張りや、岳人」 こちらに背中を向けたまま忍足が小さく呟く。岳人は思わず足を止め、振り返る。 なにが、と怪訝な表情を浮かべて問いかけると、顔だけ振り返った相手はまたいつものように当たり障りのない笑みを浮かべた。 「がここまで来たっちゅうんなら、お前も相応の態度を示さんとな。駆け寄ったんは正解やで」 「……だから、なにが」 「男やったら彼女を大切にせえってことや。向日くん、彼女はしっかり守らなあかんで」 「!!」 自分は本当に、いつになったらこの男に勝てるのだろうか。いや、いつになったら自分はこの男の手のひらから脱出することができるのだろうか。 忍足の言葉に思わず絶句し、間髪おかずに顔を赤くしてしまった自分。そんな彼の予想通りの反応をしてしまうことにほとほと呆れながら、岳人は声を荒げてラケットを振る。 「そうやって呼ぶな! なんかお前に言われるとすげー嫌だ! 大体、お前はなあ」 「彼女やないんか?」 けれど。怒鳴り声をさえぎって投げかけられたその静かな問いかけに、岳人は文句の続きを忘れた。穏やかな問いかけの視線を受け、振り上げかけたラケットを、下ろした。 「……彼女、だよ。俺の」 「そうか」 真っ直ぐに忍足を見つめて答えた言葉、その言葉が忍足の表情に笑みをもたらす。 岳人は目を見張る。そして数度瞬きをし、自分の言葉を頭の中で反芻させた。改めて言葉にして言わせた、その忍足の本意に気づくことはそう難しいことではない。 悪かったな、とネットの向こうに立つ宍戸に軽く手を上げる相棒の背中を見つめ、岳人は小さく五文字の感謝の言葉を呟いた。 |
| 06/01/23 |