| 従属恋愛の正しい用法 |
見つめることでその真実が分かるものがあるとしたら、願わくはそれは今目の前にあるプリントであってほしかった。 (現象を無理やり式に置き換えるなんてこと、別にしなくてもいいのに) 頬杖をつきながら1回、2回。カシャリカシャリとシャープペンシルを回す音を気晴らしに、はじっとプリントを見つめる。 開かれた真っ白なB5のノートの上にある1枚のプリント。A4サイズのその紙の上に書かれている英数字はまるで躍っているようにしか見えない。そこには漢字で書かれてはあっても言っている意味が皆目理解不能な化学変化現象が並び、その下には見覚えはあれど、それがな何のことであったかはまるで思い出せない化学式と反応式が続いている。 「以下の熱化学方程式で起こる反応熱の種類を答えよ」。 たったそれだけの文字で成り立つ問題が解けないことが、これほど苦痛になろうとは思いもしなかった。 「今日はプレートテクトニクスについて」 しかし耳には無関係の言葉ばかりが入ってくる。必死に謎の暗号を解明しようとしていた矢先のその邪魔者に、は眉根を寄せて教壇に視線を向けた。 濃緑色の黒板には、簡略化された世界地図の中に黄色のチョークで海溝と深発地震帯が描き込まれている。そしてその図の上には「プレートテクトニクス」の文字。 明らかに自分が今見つめているプリントとは無縁の、それは地学の用語だった。 (……今は地学なんて聞いてる場合じゃないのに……!) だがの机の上にあるのは地学1Bの教科書と、そして2年に進級するのと同時に用意した地学のノート。苛立ちは不当なものでしかないと知りながらも、しかし5時間目に迫った化学の時間を前にして、そしてできない者に対しては容赦ないあの化学教師を思い返せば思い返すほど、は地学の授業を熱心に聞き入る気持ちには到底なれなかった。 そしてなにより、が地学の授業に集中できない理由はほかにあった。 「だからこの太平洋プレートが……だなあ。なあ、渋谷。忙しそうな渋谷くん」 「うわっ!」 「俺の前で内職なんてするんじゃねえよ。よし、お前ここに来てプレートを全部説明しろ」 「ひでえ、向日! それ横暴!」 「なにが横暴だよ、生徒思いのめちゃくちゃいい教師だろ」 「生徒思いの教師がどうして名指しするんだよ!」 「教師を呼び捨てにするお前に言われたくねえよ。ほら、さっさとこい」 教壇に立っていた教師が手招きをする。同級生たちよりもわずかに大きい程度の身の丈のその教師は、随分と冷めた顔で他事をしていたクラスメイトを見つめていた。 その様子には小さくひとつ、嫌悪と苛立ちの混じったため息をつく。 (嫌だ、本当に苦手。なんなの、あの態度) 威厳とは無縁の単なるいじめ。そんな嫌味な言葉がとことん似合う、それがのクラスの地学教師、向日岳人だった。 新任間もない向日は、一般的な生徒の人気はある。飾らない態度と自分たちに近い言葉遣いが妙な人気を得ていて、今名指し攻撃をされた渋谷もその信者のひとりだ。少なくともにはそう見える。 しかし、はその軽さがどうしても生理的に受け付けなかった。厳格な教師が好きなわけではない、けれど教師として、少なくとも年上の人間として敬意を抱くに値する人間でなければ教えを請う気になどなれるはずもない。 それは友人たちには古めかしいと笑われた考え方であっても、しかし今この状況で向日を冷めた目でしか見ることができない事実は、自身だからこそ否定しようがなかった。 「よし、これがアフリカプレート。どうだ、正解だろ?」 「うわあ……渋谷、悪いことは言わねえから。お前1年に混じって地理からやり直してこい」 「え? なんで?」 「なんでもなにも、それはユーラシアプレートだ。勝手にアフリカを北半球に持ってくるな」 授業とも思えない和やかな空気の中で、彼らのやりとりには笑いが起きる。渋谷も間違えたことに対してなんら屈辱を味わった様子もなく、むしろ笑いを得ることができて満悦の笑みだ。その渋谷と二流の漫才をするかのように向日は淡々と正しいプレート名を黒板に書き込み、渋谷にもう一度説明をさせる。既に見せ物のようにしか見えない空間で、は自分だけが正しい感覚を持っていると信じてもう一度視線をプリントに落とした。 けれど、その時。 「」 「!」 突然自分の名前が呼ばれる。慌てて顔を上げれば、そこにはつい数秒前まで教壇にいたはずの向日の姿。 視線が机の上に落とされる。相変わらず人を小ばかにしたような視線のその先を辿れば、そこにはいまだ真っ白なままの化学のプリントがあった。が慌ててノートの間に挟もうとしても、時既に遅し。 「……お前もいい度胸してんなあ、渋谷のあとで。これは没収」 「あ……!」 「授業が終わったら地学準備室に取りにこいよ」 呆れているのか怒っているのか、真意の分からない向日の表情とともに化学のプリントはの手元を去る。 どうするの、と前の席に座る親友が振り返って尋ねてくる。しかし化学の宿題をこなすこと以前に、この時間においては席に座って地学の授業を聞くことを第一の義務としなければならない生徒のにとって、ただ向日の背中を見つめること以外にできることなどなにもなかった。 特別教室棟の2階。そこに地学室と地学準備室はある。 2年生での地学単位取得が必須となっている学校の生徒の中で、この地学室を訪れることがあるのはセンター試験のため地学を選択した3年生の文系生徒のみと言っていい。 今まで教室でしか縁のなかった地学という文字を目の前に、は重くため息をつく。 (ついてない、向日先生に見つかるなんて) 昼休みともなれば特別教室棟に生徒の姿はなくなる。周りにざわめきがないことに初めてわびしさを覚えながら、はそっと地学準備室のドアを叩いた。 はい、と。少し低めの、けれどすっと耳に届く声が部屋の中から響く。それがけして定年間近のもうひとりの地学教師ではないことはすぐに分かる。一呼吸おき、は失礼しますという決まり文句を口にしてからドアを開けた。 「先生。です」 南向きに設けられた窓から零れ落ちてくる秋の陽光に、深いワインレッド色の髪が映える。地毛という言葉を納得せざるをえない透明感のあるその髪にが初めて気づいたその時、窓際に接せられたデスクにいた向日が振り返った。 「あ? ああ、プリントか」 「はい。……すみませんでした」 「ほら、そこにあるから。もう内職なんてするなよ」 それ以上の言葉を用意できないに、しかし向日はあっさりと部屋中央にある長方形のテーブルを指差す。様々な地学関係の本や参考書、問題集の山の上に咲季の真っ白な化学のプリントはあった。 咎めの言葉はもうないのか。それに少し驚きつつ、は一礼をしたあとそっとテーブルに近寄る。5時間目まで30分をきってもいまだ名前以外を書き込むことのできないそのプリントを前に、ここが地学準備室であることも忘れて思わずため息をついてしまった。 「、お前もしかしなくても化学嫌い?」 その時、向日の視線が再びに戻る。突然の言葉にが目を丸くすると、向日は納得の声をあげた。 「……図星、と」 「……」 は素直に頷く。頷いてしまった後で、自分はなぜ向日に本音を出しているのか分からず困惑するも、次になにをすればいいのかということも分からない。 そんなの心中など知ってか知らずか、しばらくの沈黙の後。 向日はが持つプリントを見つめ、静かに呟いた。 「ヘス」 「え?」 「だから、それ。その最後の問題、ヘスの法則使えば一発だぞ。習っただろ?」 「……ヘス?」 「総熱量不変の法則」 その声は淡々としていて、まるで親切で教えているという優しさは微塵も感じさせない。 しかしその言葉に聞き覚えのあるは、抵抗するよりも嫌悪感を覚えるよりもなによりも先に、向日を見つめて思わず呟いた。 「……先生、どうして化学が分かるんですか?」 「俺、化学の免許ももってるからな。これぐらい分からなかったら逆にまずいんだよ」 あっさりと零されたその事実に、はただ目を丸くする。そして次の向日の行動には、もはや言葉をなくすしかなかった。 こっちに来い、の一言で向日が用意したのは不要なプリントとボールペン。部屋の中央に申し訳程度に設置された長方形のテーブルの前にあるソファに腰掛け、向日はそのままなにかを書き始めた。は黙ってその前のソファに腰掛けた。 描かれだしたのは、わずかながら記憶の中に残っていた化学反応式。 は最初こそ困惑ぎみにそれを見つめていたが、やがてその困惑は姿を消していることに気づく。視線は目の前の反応式に釘付けになっていた。耳は一から全てを惜しむことなく説明する向日の言葉に捕らわれてしまっていた。 そして、その文字が、声が。それらが全て、自分が分からない部分を完璧に網羅してしまっていることに気づいた時。 は咄嗟に、向日の手に指を伸ばし。その手の動きを止めていた。 「……待って! 先生、ちょっと待って!」 「は?」 「先生、今私がこのプリントのことを教えてくださいって……言ったら駄目ですか?」 そして口にしたのは、自分でも驚きの一言。それがどれほど突拍子のないものであるかは、目の前の向日の唖然とした表情を見れば一目瞭然だった。 そしてそれを裏付けるかのように、の言葉に向日はその表情のまま数度目を瞬かせ、あからさまに眉根を寄せた。 「お前のクラスの化学って、魚崎先生だろ? 魚崎先生に直接聞けばいいじゃねえか」 「無理! 本当無理です、だって魚崎先生って怖くて……!」 「だからって俺にこられてもなあ!」 「先生、お願い!」 なるべくならばかかわりたくない相手。数十分前までは、その感覚が全てであったはずの向日に対し、は迷うことなく目を瞑って頭を下げる。 しばらくの沈黙が流れる。それはまるで教室の中にいる時のあの冷めた向日を想像させて、自分の取った行動は場違いすぎたのかと。そう思い、は下唇を噛み締めながら顔を上げる。 しかしそこには、頭をかきながらため息をつくだけの向日の姿があった。 「……まあ、問題を見ることぐらいならできるけど……」 「……本当?」 「ったく、ほら。早くやれよ、昼休み終わるぞ」 「は、はい!」 きっかけはたったそれだけのことだった。 相変わらずどこかつまらなさそうな目をしている向日がそれ以降、にとっても接触を試みやすい教師のひとりとなったのは。 嫌悪感が苦手な化学によって一蹴されたというのはなんとも皮肉な話ではあったが、しかしその事実が気に病むものではなくなってしまうことに、そう時間は必要としなかった。 「先生が化学が好きだなんて、意外だった」 いつのまにか地学準備室が親しみのある部屋となっていたある日、は思わず呟いてしまった。 向日は幾分か驚いた表情を浮かべて顔を上げる。いや、その驚きに焦りや憤りの色はなくただの唐突な言葉に拍子抜けしているという表現の方が正しかったが、それでも不要なプリントの裏に化学反応式を書いていた左手は止まっていた。 ガラス天板の長方形の机を挟んで、ふたりきり。今日もなんの因果かもうひとりの地学教師のいない地学準備室で、は真正面から向日の顔を見つめる。その時ふと向日が頬を緩めた。 「化学か。好きだったんだよな、中学の頃から」 「中学?」 「そう。英語と化学と体育だけが得意科目だった。面白かったんだよ、単純に」 話すようになって気づいたことがある。その口調は荒くとも、けしてけなす言葉は生まれないということ。瞳は冷めているように見えても、そこに見下す色は存在しないこと。 向日の特徴すべてをマイナスの定義としてしか見られていなかった事実に気づいた時、は既に向日を嫌がる理由をなくしてしまっていたのだった。 向日の手が再び動き出す。数時間前までは日本の活断層を教室の黒板に書いていたその手によって、少し癖のある字で化学式が生み出されていく。 「好きな人の『面白い』は、説得力があるようで実は分かりにくい言葉だと思う」 ボールペンをもつ五指の綺麗さを見つめながらは呟く。いつのまにか綺麗や繊細、そのような言葉を用意することができるようになった自分の変化に少し戸惑うものの、しかしそれすらも向日本人を前にしていれば悩む理由が分からないと思った。 ソファに腰掛け、大腿の上に両肘をのせて頬杖をついて見つめる。そんな中での静かな呟きに、向日は今度は顔を上げないまままた笑った。紙の上を通るボールペンの音が心地よい。 「お前、案外考えてるんだな。俺はその方にびっくりした」 「……先生、絶対私のことバカにしてる」 「してない、してない。驚いただけ」 「それがバカにしてるっていうのに」 が唇を尖らせて呟いたその瞬間、向日は手を止めて顔を上げた。まさかそのタイミングで顔を上げられるなどとは思ってもみなかったは、慌てて右手で口を押さえる。しかし既にその一連の動作すら見守られていたということは、向日が苦笑をしたせいで認めざるをえなかった。 なにを気にしているのか。肩を揺らして笑う向日に怒りながら、けれど赤くなる頬の存在に気づきながら。は自分の心の中に問う。しかし明確な答えが用意されているわけではなく、疑問はいつも宙に浮いたまま答えへの変化の仕方が分からずにいる。 ただ分かるのは、向日を嫌う気持ちよりも会いたい気持ちが強いこと。 「まあでも、好きな人間が言う『面白い』だからこそ中身が伴っているとは思うけどな」 その声が、瞳が。自分にだけ向けられるこの地学準備室は、とても幸せな場所であるということ。 パラリと乾いた音を立てて向日がプリントを差し出す。裏に地学の入試問題が印刷されたそのプリントには、向日の手でいつもの化学式が作られている。これはヘキサン、それはエチレン。言葉を支えるかのように口元で右手を握り締めながら呟くと、向日の口から「正解」という言葉と笑みが零れた。 「大分覚えてきたな、やるじゃねえか。もう授業にもついていけるだろ」 そして、その紙とともに今日の化学の宿題プリントがの手に戻される。全ての解答を用意し、そしてそれらの正解を認めてもらったこの状況下でのその言葉に、は顔を上げて向日を見つめた。 それは正しい言葉だった。向日には何の落ち度もない。むしろそれが化学教師ではない向日の、ふたりきりのこの地学準備室での真っ当な言葉であることをは理解している。 しかし、口はその理解を無視した。 「化学って、どこが面白いんですか? 嫌味じゃなくて、素直に疑問なんですけど」 プリントを手にしたまま会話を繋げる。そうしてこの部屋におけるふたりきりの時間の終了を無理やり延長させた。 なにをしているのか、と思った時には既に向日の目が丸くなっている。しかし立ち上がれ、と命じる心の言葉に足は従わない。そして向日も、強制的にをこの部屋から追い出すような真似はしない。 その意図はなんであるのか、期待してしまう自分に呆れながらもは懐かしそうに笑う向日の言葉を待った。 「俺、小さい頃から電気関係が好きだったんだ。家の関係でな。きっかけはそれの延長。だから物理とかも普通に好きだぜ? まあ高校生レベルだけどな」 「……へえ」 「それで、自分ではまったく分からなかったことが単純にひとつの式で示すことができることにめちゃくちゃ驚いてさ。あー、化学ってすげえって思ったのがはじまり」 「ふうん」 「まあ確かに、公式なんて別に化学に限った話じゃないけどさ。仕方がないよな。俺が化学が一番好きだったんだから」 「……文系の人間からすれば、日本史の年号を覚えるよりも化学の公式を覚えることの方が辛いんですけど」 好きな化学の話だからか、流暢に話し続ける向日にはそっと呟く。それは話に水を差す一言だと、そう気づいた時には既に言い終えた後であり、しまったと顔を上げた。 しかし見上げた先にあったのは、まるで駄々をこねる子どもをあやすような柔らかい笑み。 「化学でも日本史でも、好きなものだったら面倒だなんて思うこともないだろ。好きになっちゃえばなんでもクリアできるんだよ」 その瞬間、自分がどのような表情を浮かべたかはには分からなかった。 息を飲む。目を見張る。プリントを握り締める手は熱い、しかし視線をずらすことだけはできない。それらの動作がどのような表情で表されるのかなど、考えることもできない。 ただただ頭の中で繰り返される向日の言葉に、思考の軌道を操られるがままに。 「……そっかあ。そうなのかな」 一度うつむき、はプリントの端を握り締めて呟く。ぽつりと口にしたその一言に、他のプリントに結合エネルギーの問題を書いていた向日の手が止まった。は顔を上げる。 そこにあるのは、自分を濁りのない瞳で真っ直ぐに見つめてくれる向日の双眸。 は向日の言葉にようやく真実を理解する。向日本人にたとえ他意はないとしても、それは心の中にすくう曖昧で定義不能な感情を持て余すにとっては、まるで活路を見出す指針のようにすら感じられた。 好きになってしまえば、どのようなマイナスでも改善する気になれるということに。 (……化学なんて、一、二を争うぐらい嫌いな教科のはずだったのになあ) その呟きは向日本人に伝えることはない。いや、今までのできの悪さからむしろ今更言わなくとも筒抜けだ。そしてその化学の理解力が急に人並みに戻ることができたのは、なにを隠そうこの目の前の人のおかげだ。 それがどのような意味を成しているのかを、はようやく理解する。 「分かった、先生」 「は?」 「好きになったら怖いものはないんですね」 そして、向日の目を見て静かに呟いた。 予鈴が鳴る。ふわりと窓から流れ込んできた風がカーテンを揺らし、窓から見えていた外の景色を半分遮った。わずかな薄闇の中でも生まれるこの空間の温もりに、は隠れてそっと笑む。そして。 「待ってて、先生。私卒業までに絶対先生を驚かせてみせるから」 はそう宣言し、向日の表情を確認することもなく地学準備室をあとにした。 手には理解が簡単になった化学のプリントと、裏に向日の字が書き込まれた地学の入試問題。胸には自分だけに与えられた向日の言葉。それらを抱きながら、そして何度も何度も向日の声でその言葉を反芻させながら、は小走りで教室へと戻る。 『好きになっちゃえばなんでもクリアできるんだよ』 その言葉は本当かと、向日に尋ねる必要はなかった。 その想いを、向日岳人という人を対象として実践する自信と勇気は、今確かにの心の中に宿っていた。 「……ということを、今思い出した」 目の前の顔が途端に曇る。いや、曇るなどというレベルではない。綺麗に整った眉毛が瞬時にゆがみ、眉根が寄せられる。不機嫌の表れであることは誰の目にも明らかだった。 けれどは、嫌悪の感情を抱くことはおろかその表情に動揺するようなことはなくなっていた。ただ黙って地学準備室のソファに腰掛け、自分の大腿を支えに頬杖をついて目の前の相手を見つめる。 彼の手元には、相変わらずこの部屋に相応しくない化学の宿題プリント。その横にはいらない紙、その紙の上には化学反応式。本当にこの部屋に相応しくない、は静かにそう思う。 「お前なあ、そんなことを思い出す暇があったらもっと考えろよ、これ。誰のために解答を用意してやってると思ってるんだ」 「先生の彼女のため」 けれど、その目は優しくなった。そう思うことは自惚れか。 の一言に目の前の教師 あ、失敗だったか。見かけによらず直球勝負に弱い自分の彼氏の強張った表情をそこに見つけ、はそっと頬杖を解いて真っ直ぐに向日の顔を見つめる。 時計の秒針の音ばかりが響くふたりきりの地学準備室の中で、けれどその時。 「……あのなあ」 「なに?」 「そんなことを言う暇があったら、もっと真面目に化学も勉強しろよ!」 返ってきたのは、思いやりや労りはおろか、恋人同士の雰囲気には程遠い怒声だった。 その目が優しくなったというのは、やはり自惚れでしかないのか。勝手な感情ながらまるで裏切られたようなその感覚に、は遠慮なく眉をつりあげた。 「どうして、地学はあんなにいい点数取ったじゃない。文系の私に化学を求めることが間違ってる!」 「俺は化学が好きなんだよ、化学を適当にするやつなんか絶対許さないからな!」 「そんなの先生の趣味じゃない!」 「ああそうだよ、趣味だよ。悪いか」 「! ひどい、開き直った……!」 「だってお前、俺のこと好きなんだろ?」 が精一杯の抗議を表情と言葉に露にしたその瞬間、しかし想い人の口をついて出てきたのはそのような直球の言葉。今度言葉につまるのは、まがうことなくの方だった。 沈黙の中、そっと利き手が手招きをする。けして大きくはないその手も、のものと比べてしまえば確実に大きい。無言で自分を呼び寄せるその愛しい手に、は頬を膨らませていたことも忘れてそっとうつむく。 数秒後、やってきたのは頭の上を優しく撫でる、あの手。 プリーツスカートの襞が崩れることも厭わずに、はぎゅっと裾を握り締める。自分にだけ与えられるようになったこの温もりを前にすると、いつもなにも言えなくなる。 たとえそれが見透かされていようとも、この手を拒めない段階で自分に勝ち目などないのだ。 その事実を知らしめるかのように、向日はさらに言葉を繋ぐ。 「好きならなんでもクリアできる。それを実証したがっていたのはお前だろ?」 「……それは」 「ほら、やるぞ。今度のテストで化学でもいい点数を取れよ」 しかし、その手が躊躇することなくさらさらと訳の分からない化学式を増やしていく様を見て。聞いてもいない用語や現象が次々と口をついて出てくるのを見て。 挙句の果てには2年生で習うはずのない化学2の内容まで登場するのを見つけて、ついには向日の左手に触れ、その手を止めさせた。 「……待って。先生、待って」 「なんだよ」 「それって、結局自分が化学を教えたいだけじゃない!」 の一言に向日は舌打ちをする。どうやら図星だったらしい。 彼氏が彼女に自分の理想を求める、それ自体は珍しい話でもない。それに苦労する友人を知っているからすれば、そのような部分がない向日は自分が思うよりもいい彼氏なのかもしれない。 しかし好きな科目を押し付けられたのでは、それは前言撤回をすべきか。 は呆れ、昼休みが終わるのをいいことにソファから立ち上がる。次は向日が苦手で自分は大好きな古文の授業だ、いつも以上に張り切ってやろうと心の中で呟く。 けれど、その時。立ち上がり、高くなったはずの視界はいとも簡単に元の場所へと引き戻される。 「化学のテストで80点以上取ったらご褒美やるから。な?」 右手首を掴みながら呟く向日の一言に、は抗う術を持たなかった。 結局、好きという感情ひとつの前に、その温かく優しい言葉の前に。 苦手な化学すら頑張ろうという気になってしまう自分の現金さに呆れながらも、は一言呟く。今、と。 向日はの言葉に一瞬目を丸くしながらも、けれど笑って優しくひとつ。伸びてきた影にが瞳を閉じたその瞬間、触れるばかりのキスを送った。 「……先生、私に甘いよね。すごく」 「さあ、どうだか」 数ミリ離れた唇で呟いた言葉に、向日はただ笑っての頭を撫でた。 |
| 05/09/28 |