雪と君と

 天気予報は、数日前からあわただしく同じ言葉ばかりを連呼していた。春を前にして、春目前で、春の気分が、繰り返されるそれらの言葉を、不二はぼんやりと聞き流すことしかしなかった。天気がどうであれ、今日という一日は既に始まっている。制服を着ている自分は、このまま家を出て学校に向かうという一日しか用意されていないのだ。
 こんな日も悪くない、という程度の気分で出かけるのが一番だった。
 コーヒーをぐいと飲み干し、キッチンに立ったまま困ったように天気予報を見つめる母に声をかけ、リビングを出る。ひんやりとした廊下に思わず震えそうになった。

「周助、いいお天気ね」

 姉の由美子が、美しく頬を緩めながら言葉をかけてきた。不二はゆっくりと振り返り、その表情を見つめてわずかに首を傾いだ。

「姉さんの言葉の意味は、いろいろあるから困るんだよね」
「なに言ってるの、言葉通りの意味にとってもらって結構よ」
「そうすると、今から学校に向かおうとする弟に対して鞭を振るった言葉としか思えないな」
「鞭ぐらい振るうわよ。だって今日、2月29日だもの」

 ダイニングチェアの背もたれにおかれていた手が、ひらひらと自分を見送る。

「帰ってくるのは遅くて結構、っていう鞭ね」

 母親に聞こえない小声で、そっと呟く。振り返った母に愛想笑いを振りまいたと思ったら、また手のひらが揺れた。電車の発車時刻まで、あと少しだった。
 遅くて結構と言われても。マフラーの中に口元まで隠しながら、不二は駅までの道のりを歩く。昨夜遅くから降り続いていた雪は、わずかながら積もり始めている。シャーベット状になる雪に気をつけろ、と天気予報が言っていたな、とぼんやりと思い出した。
 交通機関の乱れが予想されていたが、駅についてみてもいつも通りの光景だった。各駅停車の普通電車しか止まらない最寄り駅は、住民が都心部へ出るための電車でもある。不二はいつも通り前から2両目に乗り込み、窓の向こうの景色を見つめた。
 川に降り注ぐ雪は、しんしんと。まるでなにもなかったかのように水に吸い込まれ、消えていく。どんよりと広がる雪雲が少しばかり気分を鬱屈させるが、車内の暖かさがそんな気分を和らげていた。
 いつもと変わらない、朝の始まり。そのはずだった。

『ふじー。おめでとー。』

 そんな単刀直入のメールが届くまでは。
 漢字ぐらい使ったらどうだとか、もう少し祝ってくれてもいいんじゃないかとか、画面を見つめながら思うことはいろいろあったが、数行下に書かれた言葉を見て不二は軽く苦笑した。

『祝、16歳〜!』

 中学に入学して初めて出会った頃、3歳3歳と馬鹿にしてきていた親友が、そのような配慮を見せるものだから。文句を言うわけにはいかなかった。

『まだ4歳なんで。
 英二は随分と年取っちゃったね。』

 だから、裏を返してそのように返事をすると、怒涛の勢いで返信メールが届いた。

『子どものくせに!』

 しっかりと熊が暴れている絵文字つきで返されたメールに、苦笑も限界に近かった。
 そういえば、と不二は顔を上げて、外の景色を見つめる。
 
『去年までは、学校で言ってもらってたね。
 メールだと変な感じがするね。』

 親友は今、なにをしながら携帯電話を見つめているのだろう。あちらの学校でも、雪が降り積もっているのだろうか。設備の整った全国区の強豪校だから、屋内で早朝練習に励んでいるのだろうか。だとすると、いつ携帯電話を触っているのだろうか。返信メールがなかなか返ってこないので、不二はいろいろなことを考えてしまう。

『寂しいのかー。仕方ないなー。
 大石に命令出しとく。』

 高校1年生の冬。学ランの自分と、ブレザーの親友。見上げる空は異なってしまったが、思っていることはあまり変わっていない。離れているようで、遠くない。当たり前のように共通の親友の名前を出してくる電話の向こうの親友に、不二はただ頬を緩めるばかりだった。

『大石、先週彼女できたから邪魔しちゃ駄目だよ。』
『うそだ!!!!!!!』

 青春台駅に到着した電車から降り、いつもであれば桃城あたりが自転車で駆け上っていく坂道を見上げると、随分と白く見えた。さすがに自宅よりも山に近い分、雪が心なしか多く降り積もっているように見える。今日ばかりは桃城の姿も見つけられない。不二は素直に、バスで通う道を選んだ。
 通いなれた青春学園までの道のりだった。中等部と高等部が隣り合っているおかげで、この道を通うことももうすぐ丸4年となる。さまざまな四季を見つめてきたが、たまに雪が降るとかなり幻想的な雰囲気に包まれる青春学園が、不二は決して嫌いではなかった。

「おっ、今日の主役発見!」

 だから彼の笑顔も、幾分か浮かれているように見えるのだろう。バスを降りた瞬間に背後から届いた声に振り返ると、額にうっすらと汗をかいた桃城が満面の笑みで手を振っていた。

「桃、自転車で来たの? 今日も?」
「なに言ってるんすか、年中チャリで飛ばして当然じゃないすか! 俺の足っすよ、これ」
「雪道走らされて可哀想に、この子も」
「不二先輩が言うと、なんかやらしいな。高校生って卑猥だ」
「……朝からそんなことを言う桃の方が卑猥だと思うよ、僕」
「えー、だって今日は2月29日じゃないっすか。先輩が主役の日っすよ」

 だから、不二先輩の言葉通りにしてみたんすけど。にっと笑って、桃城は真っ白のなにかを不二に放り投げた。慌てて手を差し出して受け取ると、それはかなり硬く丸められた雪玉だった。

「雪降ってよかったっすねえ。今日しかできない遊びができるじゃないすか」
「遊び?」
「俺たち今日、高等部見学なんすよ。マムシと一緒にお邪魔しますんで、体力残しといてくださいね」

 予鈴が鳴り響くまで、わずかだった。中等部の入り口は、高等部の真裏である。それに気づいて桃城は慌てて中等部へと自転車を向け、颯爽と走り去っていった。

「なにを持ってるんだ、不二。予鈴もう鳴ったぞ」
「うん、訳が分からないから持て余してる。……乾にあげるよ、これ」
「あいにくと両手がふさがっている」
「その背丈で背中丸めて両手をポケットにつっ込まれると、限りなく違和感があるからやめてくれないかな」
「俺は自然に崇敬の念を抱く主義なんだ」

 嘘を言え、とそそくさと昇降口へと向かおうとする乾の背中に軽く雪玉を投げると、呆気なく散らばって壊れた。
 予想以上に大きく背中に散らばった雪たちに、乾は無言で振り返っていた。



「それで乾が背中に雪をつけてきていたのか」
「木にでもぶつかったのかと思ったんだよね、俺。そうか、不二がぶつけたんだ」
「正確には、桃が僕に渡してきたから乾にあげたんだよ。それだけだよ」

 いやいや、と笑いながら大石と河村が首を横に振る。あまりに綺麗に散らばってしまったらしい背中の雪を、乾はあまり振り払わず教室に向かったようだった。真顔で教室に現れた乾に女子たちは笑い転げていたらしいが、大石と河村はその様子を廊下で偶然見かけ、乾はまたなにをしているんだと不安に思っていたらしい。
 生徒の活気で溢れる食堂は、中等部も高等部も同じだった。昔と違うのは、自分たちよりも体格が良かったり、大人びたりしている上級生が多いという点だ。あと、無言で横から箸を伸ばしてくる下級生もいない。賑やかだがどこか静かである、それが不二にとっての高等部の食堂だった。

「ああ、そういえば不二。誕生日、おめでとう」
「え? ああ、ありがとう」
「そうだね、今日29日だもんね。4年ぶりだねえ、おめでとう不二!」
「ありがとう、タカさん」

 深々と頭を下げる大石と、人懐こい笑みを浮かべてくる河村に、不二は箸をおいて軽く頭を下げた。なにを改まっているのかとおかしくなって、3人で笑った。
 河村は既にテニスから離れ、家業を手伝う日々を送っていたが、テニス部の仲間と昼食を取ることは珍しいことではなかった。今日はたまたま乾がいないが(それがこのふたりにいらぬ心配を抱かせていたらしいが)、手塚のいない学校生活にも随分慣れたように思う。テニス部はテニス部で、相変わらず楽しくやっていた。

「誰かから連絡あった? 不二」
「朝に、英二から。……あ、大石。英二に彼女できたこと、まだ言ってなかったの?」
「え? う、うん、まあな。なんというか、恥ずかしくて」
「えっ、まだだったの? 大石。英二、寂しいと思うよ」
「僕、ぽろっと言っちゃったんだよね。たぶんそのうちまたコートに乱入すると思うから、止めといてもらっていいかな」
「そんな、不二の責任だろう!」
「いや、親友に言っていない大石の責任だと思う。ねえタカさん」
「不二に同意」
「おまえら……!」

 慌てふためく大石をよそに、不二はお茶を口にしながら携帯電話を取り出す。朝から英二のメールは来ていなかった。返事を出していないから当然かもしれなかったが、ひとりだけのけ者にされたことに怒ってなにか作戦を立てているかもしれない。高校生になってもそのあたりは変わっていないだろうと、なんとなく予想できた。
 そのとき、携帯電話の画面がメールの着信を告げた。おや、と不二はメールを確認する。タッグを組んで大石を驚かそうとでも言ってきそうだな、と思っていたら、

「……あれ、どうしたの不二」
「……いや、別に」
「顔、笑ってるぞ」
「いや、だって。これ卑怯。絶対卑怯だよね」

 不二は必死に笑いを堪えながら、携帯電話をふたりに差し出す。画面を覗き込んだ大石と河村は、しばらく静寂とともにいたが、やがて大きな笑い声を上げた。

『4歳、おめでとう。』

 その文言だけを、わざわざドイツから送ってきた手塚に(しかも時間指定メールだった。それならば日付が変わると同時にしてもよいものを、と思うが、それが手塚でもある)、大石は笑いを通り越して呆れ、やがて羨ましそうに不二を見つめた。

「いや、羨ましがられても」
「俺の誕生日には、なにも送ってくれなかったんだぞ、手塚は」
「彼女がいるからいいじゃん、大石は」
「タカさん。大石にとっては、彼女より手塚なんだよ。手塚が大好きすぎて仕方ないんだよ」

 そうか、と至極当然のように不二の言葉に納得する河村に、怒声が飛ぶまで時間はかからなかった。
 2月29日。たかが、されど。どちらが相応しいのかは、分からない。
 結局のところ、閏年という特別な名前がついた特別な1日であったとしても、特別なことは起きるわけでもないし、起きてほしいとも思わない。当たり前のように学校に来て、当たり前のようにこうしてテニス部仲間と話し、当たり前のように、1日は終わっていくはずだ。それが嫌ではないのだから、流れ行く時間を止める術もない。

「誕生日だから、いろいろと考えていたんだがな。しかし、4年ぶりだろう。さすがにおいそれと俺たちの都合だけで振り回すのはどうかって、タカさんと話し合ったんだ」

 昼食のあと、教室へと向かう廊下を歩きながら大石がそっと呟いた。
 それが、今日という日を普通に過ごすという配慮であることに、不二は素直に感謝した。覚えてもらっているだけでも十分だと思った。なにせ、4年に1度の日である。ほかの人間にとっても同じように、特別ではないにしても特殊な日なのだ。自分だけの都合に合わせる理由はどこにもない。不二は笑って感謝の言葉を伝えるばかりだった。

「それに、4年に1度だからさ。俺たちが邪魔しちゃいけないよなって思うし」

 教室に入ろうとした不二に、河村が笑って言葉をかけた。振り返れば、河村の視線が廊下の向こうを向いている。不二がつられてそちらを見ると、大切な人が誰かと話している姿があった。
 ああ、と不二は苦笑する。まわりがそっけないのは、あの英二ですら朝のメールで止めているのは、この配慮があったからこそだった。

「不二、さんと今日の予定はなにかあるの?」
「いや、別に。日付が変わってちょうどにメールが来たぐらい」
「……それだけ?」
「それだけ。わざわざごめんね、ありがとう。あ、別にケンカしているわけじゃないからね」

 と、どう過ごすか。それは、考えていなければならないはずなのに、どこか考えられないことでもあった。普通であれば、デートのひとつでもするのだろう。たしかに去年は28日に出かけている。しかし、途中さまざまな出来事があったとはいえ、付き合って2年近く経つ関係である。今日だから特別になにかを、とするのは、どこか億劫な気もした。
 そんな不二の心境を見破ることなど簡単なのだろう。からも、どこかに行こうとかなにかをしようという誘いの言葉は出ない。当たり前のように、今日という日を迎えてしまっている。大石や河村の方が気を配っていたのではないかと思うほど、シンプルな1日を過ごそうとしていた。

(特別だけど、特別に装いたくない。それは、僕が今日生まれたせいなのかな)

 午後の授業の眠たさと戦いながら、窓の向こうの景色を見つめる。雪は止まない。校庭は誰も踏み入れないまま、真っ白に染められていく。
 教室の誰もにとって、雪が降り積もることは珍しくても、2月29日は珍しいものではない。それと同じだった。珍しくない日に、珍しいなにかをする必要は、きっとないのだ。だから、今の自分は落ち着いているのだ。
 配慮してくれていた大石たちに少しばかり申し訳なさを覚えながら、午後の授業を乗り切る。屋内で部活をすることになっていたから、授業が終わればそのままテニス部の部室に直行するだけだった。

「……なるほど、こういう意味。高校見学って」
「はーい、そうでーす。よろしくお願いしまーす、先輩」
「おい、桃城。はしゃぐんじゃねえ」
「うっせえマムシ、お前こそ挙動不審になってんじゃねえよ!」
「ふむ、来年はまた俺のアレが登場する機会が増えそうだな」
「絶対いいです!」

 中等部から進学予定の後輩を迎え入れての部活は、不二にますます日常くささを感じさせる。真新しさよりも懐かしさ、そして居心地のよさ。桃城と海堂がケンカをして、大石が叱り、河村がたしなめ、乾が鞄の中からなにかを取り出そうとすれば、慌ててふたりがケンカを止める。ランニングを命じるあの人がいないのが唯一の心残りだった。

「あ、不二先輩。これこれ。預かってたんすよ、俺」
「え? なに、それ」
「あいつからのメールっす」

 交流試合終了後、こっそりと桃城が携帯電話を差し出した。画面には、猫の絵文字が並ぶばかり。なんだこれは、と訝しげに桃城を見つめると、桃城はにっと笑った。

「おめでとうの一言も言えないんすよ、あいつは。まだまだっすよねえ」

 人差し指が、差出人を指差す。見覚えのある、生意気な2歳年下の後輩の名前がそこにはあった。

「よく覚えてたね、越前。そっちにびっくりするよ」
「そりゃ、手塚部長大好きな越前ですから。部長に命令されちゃあ逃げるわけにもいかないんすよ」
「……手塚、案外暇なのかな」
「いや、これは青学の結束を大事にしろ! っていう意味なんだと思いますよ! ねえ、大石副部長!」
「こら、桃城。俺はもう副部長じゃ……」
「結束固めに、ぱーっといきましょうよ!」

 それが合図だったということは、後になって知らされたことだった。
 着替えようとした手と足の自由は奪われ、不二は何がなんだか分からないまま外に連れ出される。夕方を迎え、暗くなり始めたグラウンドに連れて行かれたかと思うと、そこには既に先客がいた。

「今日の俺の目的はー、不二とー、大石に恨みをこめて思い切り雪をぶつけることでーす」
「えっ、英二!」
「なんで彼女できたこと黙ってんだよ、大石! からかえないじゃんか!」
「そういうことを言うから戸惑うんじゃないか、英二!」

 いつのまにやってきていたのか、淑徳学院のテニス部ジャージを着た菊丸が、既に手にしていた雪玉を思い切り大石と不二に投げつけた。その後ろで、懐かしいレギュラージャージに身を包んだ河村がせっせと雪玉作りに励んでいる。中等部のジャージである桃城と海堂は、さっさとふたりのそばに向かった。

「ベストオブワンセットマッチ、ぐらいです」
「なんだそれ、桃」
「いや、気分出るかなと思って。要は高等部レギュラー予定組対、イレギュラー組の雪合戦っす!」

 大石と不二がいる時点で、菊丸に狙われて終わりではないかと乾は至極不服そうに言った。しかしその手はせっせと雪玉を作り始める。大石が投げようとした玉を奪い、「硬さは計算してある」と自家製の雪玉を渡した。大石が投げた玉は、桃城に悲鳴を上げさせた。

「ちょっと待ってよ、今日僕誕生日なんだけど!」
「だからだよ、っと! たまには自分が主役の顔しろー、不二ー!」

 菊丸が笑いながら雪玉を投げる。どれだけ待っていたのだろう、気づけば後ろには「守護神」という名で雪だるまがあった。少し小さくなったレギュラージャージを着て、河村もヒートアップする。海堂は無言で投げ続ける。とても美しいカーブだ。

「なにもしないはずじゃなかったの、大石!」
「俺たちはそのつもりだったんだ、本当は。……うわっ、危ないぞ、桃!」
「不二が楽しそうにしないから、楽しいことをしてやると。全員に声をかけたんだ、英二が」

 4対3という劣勢の中で、強引な玉を投げてくる桃城や海堂から逃れながら大石と乾が教えてくれた。それを聞いて笑い出すまで、そう時間は必要としなかった。
 ありがとう、と呟きながら、友情に対する思いをこめて渾身の力を込めて投げた乾特製の雪玉は、菊丸の顔面に当たって周囲の爆笑を冬の夕方に響かせたのだった。



「楽しかった?」

 どこかで見ていたのなら、教えてくれればよいのに。そんな言葉が喉まで出かけたが、飲み込んだ。自分が言えた立場ではない。

「楽しかったよ。思い切り遊ばされた。こんな誕生日、もう当分いい」
「4年に一度だから、周助にとってはちょうどいいのかもね」

 は笑いながら、そっと昇降口から離れる。赤くなっている不二の手をさすり、「おかえり」と笑った。

「遠いなあ、家まで。こんなことになる予定なかったから、余計に遠く感じる」
「じゃあ、どこかで食べてく?」

 覗きこむに、不二はしばらく考えてから、笑って手を握り返した。

「そうする。今日、僕甘えていい日だよね」
「はい、もちろん。帰りが遅くなっていいって許可もらってますから」

 親友のネットワークと女同士のネットワークに囲まれた誕生日に、不二は苦笑する。
 こんな日も、悪くない。心からそう思った1日だった。



12/02/29