諾うはどちら 20歳-2

 そこで踏み止まることができた理性だけは、自分を褒めて良い唯一の点だったかもしれない。
 どのようにしてそこまで移動したのかも覚えていなかった。ただ宵闇の中でもベッドに広がる黒髪は異様なまでに映えて、それを視界の限界まで埋め尽くした瞬間手のひらに温もりが伝わる。両手は、あの細い手首を握りしめて、押し付けている。逃げ場はない。
 気づけば、涙をためたまま嘘の恋人は自分を見上げるばかりだった。

「……ごめん」

 そっと手首を離し、に背を向けるようにしてベッドの端に座り込む。手が熱い。唇に異様な感覚が残る。がしがしと前髪を乱せば、つい数秒前までの出来事が鮮明に頭の中に蘇ってくる。自分がいかに手前勝手な理屈で動いていたか、それを理解させるには十分な沈黙がそこには漂っていた。

「ごめん、本当にごめん。帰ろう、送るから」

 どこまで自分は堕ちれば気が済むのだろう。関係を終わらせなければならないと思った人間がとる行動としては、虫唾の走る類だと今更ながらに気づく。がこちらを受け入れることなど誰の目に見ても明らかだった。それは昔からの記憶を辿れば問わずとも分かる。その記憶を最も有している自分の頭で冷静に考えれば、痛いほどに分かる。それに付け込んで暴挙に出てしまおうとした、可能ならばそこで幻滅してもらって、無駄と呼ばれるかもしれない5年間に終わりを告げてもらおうとした自分の身勝手さに軽く頭痛がした。恥ずかしさからか正義感からか、その痛みの原因は分からなかったが、自分は最低の人間であるとあざ笑うかのようだった。
 暗闇だけが味方だった。煌々とした明かりの下では、今を見ることなどできない。
 それでもその温もりは、そっと背中に触れてきた。

「ごめんね、英二」

 その言葉に、結局泣いてしまったのは自分だった。

「ごめん、ごめん。私の我がままなの。ごめん」

 違うと言えばよかったのに言葉が出てこない。嗚咽を隠すのに必死で、涙を拭うのに必死で、そしてそんな姿は見られたくないという見栄を守るのに必死で。どうしてもの前では弱い自分を見せたくないと思ってしまう。涙を流した後ではそのような小さなプライドなど、何の意味もないというのに。

「ごめんね。彼女のふりだけでも、私はすごい幸せだった。ありがとう」

 そこまで他人の言葉に反応したのは、ひどく久しぶりだった。言葉が過去形だなんてことに意識を奪われるほど人の声に聞き入るなんて、一体いつ以来だろう。英二は自分の顔がどのようになっているかも気にしないで慌てて振り返り、を見つめる。優しい宵闇は、泣く時間を提供してくれただけではなかった。相手の表情を読み取ろうとする冷静さを少しずつ与えてくれている。

「……だった、って何。だった、って」
「幸せだったよ。少なくとも5年は、英二が他の人の彼氏になるところを見なくて済んだから。私が一番じゃなくても、最下位でもなかったから。嫌われてないって分かるだけで十分だった」

 自分が振り返ることで背中から離れていった指先が、そっとベッドの上に落ちる。視線もそれに合わせて落ちていき、髪の毛がさらりとその表情を隠してしまった。
 中学の頃、高校の頃も髪の毛を整えるのが得意な親友がよくまとめてくれていた。それがアップヘアでもダウンヘアでも、横顔からでも表情が読み取れるそれらの結び方が嫌いではなかったことを思い出す。菊丸くんはどっちが好き、とセットしている途中の親友に尋ねられたこともあった。どちらも似合うよと答えるだけで精一杯だった、あの時の自分は好きという言葉をうまく使えなかった。

「卒業してから、メッセージが来る度びくびくしてた。彼女ができたって言われるのかって。既読がつくの遅かったでしょう、結構。勇気がるんだよね、英二から来ると。嬉しいんだけど怖かった」

 表情が読み取れる髪型の頃は、思えばいつも笑っていなかったか。突然の呼び出しに怒ることこそあれど、困った顔は絶対にしなかった。お礼なのか賄賂なのか分からない食堂のデザートは、一度たりとて断られたことなどなかった。いつも相手は、自分の言動に合わせてくれていた。しかし今は、先が読めない。

「大学入って、告白されたことだってあったよ。全部振ったけど、彼氏いるのって聞かれて、答えるのに悩んで。彼氏って言いたいけど、言ったらきっと英二は迷惑するって」

 終わらせるつもりなのだろうと、その話を聞いているだけでも分かった。ここまで饒舌に自分の内面の感情を言葉に変換してくれるは珍しいと英二でも思う。今まで堪えてきたのか、見ないふりをしてきたのかそれは分からなかったが、とにかく全てが5年間の中で初めて聞く言葉ばかりで、動揺するよりも先に小さな嬉しさを感じている自分はおかしいのではないかと思う。
 分かっていたのは、誠意を装って恋しく思ってくれていた感情。それを隠そうとする心までは透けて見えたから、いつしか自分もそれに合わせて相手の心の中の心には触れないようにしていただけだ。けれどそれは透けていたのか、勝手にそう見ようとしていたのか。今となっては分からない。分かるのは、恐らく本心であろう言葉を必死に紡いでくれるの姿に、初めて触れることを許された喜悦の感情が大きくなりかけていることだけ。

「もう分かった。分かったから」

 そこで手を伸ばしてしまう自分を、卑怯だと相手は責めるだろうか。触れた手首をそっと握って、開きかけた口を左手で塞いで。そこからしばらく沈黙が生まれて上目遣いの視線を向けられたことを彼女の許諾と解釈してもよいのであれば、抱き寄せる以外の方法はもはや思いつかなかった。
 関係を終わらせようとしている相手の心を尊重すべだった。涙ながらに語るこの時間を生み出してしまったのは他ならぬ自分で、貴重な10代後半の時期をこちらに合わせて使わせていたのも自分で、本来であればここで自分は叱責を受けて惨めに去り行くべきなのだろうと分かっている。

「それでも、私は英二が好きだったの」
「……分かったから」
「嘘でも彼女でいたかった。キスしてもらって喜んでるなんて馬鹿みたいでしょ?」

 の涙が腕に落ちてくる。抱きしめても止まらない嗚咽にすら、偽りでありながら完璧である関係をいかに彼女に強いてきたかを教えられる。
 けれど本音を聞かせてもらえて喜んでいる自分は、身勝手なほどにこの疑似的な恋人関係を大切にしていて、間違っていると分かりながら自分から壊せなかった。それが答え以外の何なのだと、英二は自分に問いかける。それ以外の答えを用意できない自分は、清々しくすらあった。

「……俺も馬鹿みたいな話をするとさ」

 髪の毛を撫で、背中をさする。余りにも小さく感じる体に5年も無理強いをした自分に腹が立つ。すると言葉は面白いほどするすると出だした。

「俺はのこと、聞かれたら彼女って答えてたよ。告白されても彼女がいるって伝えてたんだよ」
「それは」

 演技でしょう、と言いかけた口を苛立ちに任せて塞いでしまった。拒めばいいのに、と思う心と絶対に拒まれないと分かっている心が同居している自分の内面はとても面倒だと思う。そしてそんな自分によくも5年も付き合ってくれたとつくづく思う。2回目のキスはお互いに余裕が生まれたのか、別れ話にも似た会話の流れの中でなぜか名残を惜しむような口づけの仕方を選択する。
 唇が離れた瞬間、声を殺して泣いているの心情は分からなかった。分からなかったけれど、涙を拭って額を近づけ時に、泣きながらが両手を背中に回してきたことが答えではあった。
 それを喜んでしまっている自分も、答えだった。英二は思わず苦笑し、小さなため息を一つ零す。

「俺って本当駄目なやつだったね。普通ならとっくの昔に振られてるよ」
「……知ってるくせに。私がずっと英二のこと好きだったって」
「うん、気づいてた。ごめん。あ、でも高校入ってからだよ。ごめん、中学の頃は分かってなかった」

 珍しくが心底嫌そうな顔をした。若干軽蔑の色も混ざるその表情を向けられて喜んでいる自分がいる。他人が忌み嫌うものを決して見せようとしてこなかったのこの5年の努力をまざまざと見せつけられているようで、自分の不甲斐なさを思い知ると同時にそれが特別なものであると自惚れる要素に、この人は気づいてくれているだろうか。

「でも、本当は最初から分かってたのかもね。知ってて、手離したくなくて、でも格好よくしていたかったのかも」
「教科書をあんなに忘れる人は格好よくなんかないよ」
「それもそうだ」

 笑いあう瞬間が重なったのは、いつ以来だったか。思い出せないほどここ数年の自分たちは、肩書だけ立派に取り繕いながらもよそよそしくて他人行儀だった。けれど、と英二は笑いながらの肩に顔を埋める。

「一緒にいたくて話したくて、何度も呼びだしたのはだけだったよ。自分が何を考えてるのかもきちんと言えたのも。不二にだってあの時のこと何も言ってないのに」
「うそ」
「本当。言わなくてもいいかなって。……ああ、ごめん。、俺今分かったかも」

 美しく見えたものに対して目を引かれたあの時、その話をしていたのは今目の前にいるこの人だけだった。だから不二と彼女にあのような展開が待っているとは英二はもちろん不二も予定していなかっただろうし、なにより一人の人間に執着することは弱みのように思えて他の誰かには言いたくなかった。
 いや、違うと英二はきちんと考え直す。怪訝な顔をして見上げるの頭を撫で、頬に口づけ、自分の我がままに付き合ってきてくれたこの腕の中の大切な人を閉じ込めるように強く抱きしめ直す。

「多分ね、隠したかったんだよ。友達なのにいつのまにか好きになってたことを。嘘でも彼女のふりをしてもらいたかったんだ、そっちが先だったんだよきっと」

 なんてお粗末な話だろう。そして今更気づく自分は、どれほどこの人の優しさに甘えて気ままに生きてきたのだろう。
 きっとそれが、5年も前から示されていた答えだった。気づくまでに5年もかかった自分の情けない性格に、英二は思わず笑ってしまう。相手がでなければこの関係はここまで続かなかった事実を、どれほどの誠意で出迎えればいいのか分からない。

「気づくのが遅くてごめん」

 そっと呟く。それだけでには全てが伝わる、この無駄のない時間の流れ方はとても心地よかった。唇を近づければ長いまつ毛は伏せられ背中にまわされていた手は少し力を帯びる。素直にそれに従えば強情な自分はあっという間に気配を消してしまう。

「好きって言ってなくてごめん。付き合ってほしいのは俺だったのに、ごめん。ってばっかり呼んでごめん」

 小さな笑い声が聞こえる。気づけば目の前には、再びベッドに広がる黒髪が映し出されていた。けれどさきほどのような焦燥感も嫌悪感もない。ごめんという軽い言葉ながら、その中に込められた感情を自分以上に理解してくれるのだろうこの人は、おかしなほどに居心地の良さを与えてくれるのだ。

「あと」
「……まだあるの? どれだけ英二私にひどいことしてきたの」
「タカさんと乾に、いい加減解放しろって怒られるぐらい」
「どうしてその二人に」
「それぐらい俺はに好き勝手して、甘えててごめんっていうことだよ」

 泣きながら笑うに口づけを送れば、か細い腕でこれでもかというほどに抱きしめるられる。鼻に漂う自分とは違う香り、唇が辿る滑らかな肌、時折零れる小さな嬌声は学校でも聞いたことのない種類のもので、首筋に顔を埋めると軽い眩暈を覚えた。

「そんなことするなら、……ちゃんと言って」
「え、なにを?」
「いつまで待たせたと思ってるの、本気でそう思ってるならちゃんと言ってよ」
「好きって言ったじゃん」
「英二のそれは嘘っぽい」
「あれ、優しくない。もうに嘘は言わないよ」

 珍しく抵抗を見せていたの手が止まる。こちらもだてに恋愛感情を抱いていたわけではない、どのような言葉選びをすればが窮するか、いや喜ぶか知っている。唐突に下の名前で呼ばれたことには目を丸くし、英二を見上げる。扇情的だなと思うと同時に、いくら想いを伝えたとはいえ唐突にこのような展開になるのもいささか気がひけるほどの冷静さが徐々に大きくなった。

「もう言わないよ。その代わり、俺もう格好よくなくなるけどいい?」
「……どういうこと?」
「だって本当の彼女の前だったら、違う意味で甘えてもよくない? 幻滅されたら嫌だから先に言っとく。俺めちゃくちゃ甘え倒すよ、絶対」

 声を出せばいいのにと思う。必死に下唇をかみしめて、幾筋も目じりからベッドへと流れ落ちていく涙を堪えていないで、大声で泣いてくれたらいいのにと思う。不思議なことに、いくらでも謝る準備はできていたのだ。自分でも気づかないようにしていた心の奥の本音をたった一度口にしただけで、胸元で渦巻いていた不快感はあっさりと消えてご立派な独占欲が湧いてくる。そうさせる相手の言葉なら、今は全て受け入れられる自信があった。泣き言でも怒声でも聞いていたいとすら思えたのだ。
 感情をむき出しにしてもらえるのは、特権だと理解できた瞬間はこんなにも晴れ晴れとする。そこまで相手に我慢を強いていた5年間の自分が嫌になる。

「昔は取り戻せないから、その代わり今からきちんとするから」
「……え?」

 ゆっくりとの身体を起こし、ベッドに腰かけさせる。英二が床に座って見上げると、まるでそれは祈りを捧げてこい願うような姿だった。今の自分に一番相応しい。願いを捧げられる相手が目の前にいてくれることの奇跡を改めて実感して、英二は手を握りしめてそっと切望した。

「だから、。俺の彼女のままでいて。ずっと俺の隣にいて」

 気取られまいと、嫌われまいと必死に気を使ってくれてきたたった一人の大切な人は、その言葉に綺麗な涙を流してくれた。
 そして勢い任せに抱きつかれ、フローリングの床に二人で倒れこむ。どちらからともなく笑い声が零れ、痛みに負けていいのか温もりに縋っていいのか分からなくなるほど笑っていると、急な通り雨はいつしか終わりを告げていた。



「大石にお願いがあるんだけど」

 後日、呼び出されたファミリーレストランで唐突に話を切り出された親友はただ絶句するばかりだった。青春大学前にある学生御用達の通い慣れた店である。同じ大学に通う二人はよくこうして一緒に昼食を取りに訪れることがある場所で、今日も大石は携帯電話のメッセージに素直に従って4限目の授業のあとにやってきた。そして英二の後ろ姿を見つけて当たり前のように向かいの席に腰を下ろした瞬間、入り口からは見えなかった英二の隣に腰かける人物に目を丸くしたのだった。
 しばらくの沈黙のあと、その丸い瞳のまま親友の隣に腰かける人にそっと視線を移す。も若干気まずそうに、卒業以来の再会となった大石に頭を下げる。大石も慌てて挨拶を口にするものの、次の言葉には見当がつかないといった顔をしてただ驚きと困惑の表情を交互に浮かべていた。
 しかし親友のそのような反応は十分予想の範囲内だったので、英二は慌てることなくメニューを差し出して、遠慮なく会話を始める。

「しばらく大石にしか伝えないつもりだからさ、ちょっと協力してほしくて」
「……いや、いやいや。英二。その前に俺に何か言うことはないのか」
「え?」
「え? って」

 その、と大石は気まずそうに英二の隣を見る。店員の呼び出しボタンを押しながら英二もちらりとそちらに視線を向ければ、いたたまれないといった風にも英二を見つめ返していた。

「え、でも大石何も知らないよね? 俺たちが本当はどうだったかなんて」
「いや、待て。待ってくれ英二。実は俺はな、」
「ああ。不二に偵察を頼まれてた?」
「!」

 この親友の裏表のなさは、この年になると貴重である。出会った12歳の頃こそ育ちのいい男なんだろうという認識で済まされたが、20歳を超えた今となっても変わらぬ反応をされるともはや貴重を通り越して愛玩の対象にすらなりうる。医学部生としてやっていけるだろうかと少々不安になるものの、これが仲間を大切に思う大石の良さだと認識しているからこそ英二はこの場に彼を呼んだし、またここにはいない誰かもそれを頼りにしているからこそ大石に偵察係を依頼しているはずだった。

「おかしいと思ったんだよね、最近やたらとの名前出すから。大石、偵察するならもうちょっとゆっくり探らないと」
「いや、それだけ不二も心配して」
「不二のは心配って言わない。お節介なだけだから。どうせタカさんの店に入り浸って会議とか言って俺の話してたんだろうね、ねえ大石」
「お、俺はまだ1回しか参加したことないからな」
「……もうちょっと隠せばいいのに。鎌かけただけなのに。ていうか本当に会議してたの? 俺寿司食べ損ねまくってるじゃん」

 吹き出しそうになるのを堪えるに笑えば、大石にはそれだけで通じてしまった。素直で裏表がなくて隠し事が不得意な親友は、大切に思う人間の表情を読み取る力はとても長けている。だからこそあの手塚をサポートできる唯一の人間だったのだろうし、なにより英二が人を慮る技術について学ぶところの多かった大切な人だった。それは不二とは異なる種類の親友で、どちらも大切だったが今この場に相応しいのは間違いなく大石の方だった。

「つまり、きちんと付き合うことにしたって認識でいいのか?」
「そういうこと」
「……さんも?」
「うん」

 店員にメニューを伝え、一息つく。頷いたの表情は見なかったが、テーブルの向かいに座る大石が安堵のため息をついたことは話の流れが決して間違っていないと確信する一つの指針となった。
 そうか、と嬉しそうな呟きが漏れた。もしこれが不二であれば、もちろん喜んではくれるだろうが話が誘導されていくのは目に見えている。あの男は自分の思い通りに話が進むことが楽しくて仕方ない性格だ、高校時代も何度もとの関係を誘導されかけていたことを思い出してしまう。それほど心配をかけさせていたのだと向こうは言い張るかもしれないが、基本的に他人と距離を置く男はその反動か身内と認定した相手に対してはおかしなほどにかまってくる。それは耐性のある自分相手であればまだよかったが、相手にやられると話がややこしい。まだこれまでの失態を完全に克服できているわけではないのだから、そこで根掘り葉掘り聞かれてしまってはたまらない。

「不二には伝えていないのか? とりあえず、俺は黙っていればいいんだな?」
「うん、そう。とりあえずね」
「まあ、不二なりに心配していたこともたくさんあるから、いつかきちんと伝えてやるといいかもな」

 鉄板に焼かれる音を響かせながら届けられたハンバーグに舌鼓を打ちながら、大石はさりげなく不二を慮る。強制しないところがこの親友の見習わなければならない点だった。確かに不二のお世話にならなかったわけではない、不二を通して手に入った3年5組の情報は数えきれないほどだ。も小さく頷くので、いつまでも秘密にしておくのも悪いというのはよく分かる。
 今度のテニス部の大会の応援に行った時にでも伝えてみようか。そんなことを考えながらを交えての初めての昼食を楽しんでいる時、

「それにしても、さんが教育実習に行っているのは本当に奇跡だったな。よかったな、英二」

 上機嫌で昼食を取り終えた大石が何気なく発した一言に、英二とは揃って箸を止める。

「……奇跡って、なんで?」
「いやあ、さんが青学に戻ってるって話を知ったから、不二が竜崎先生に伝えに言ったんだろ? 部活を英二に任せたらって。さんが実習で1ヶ月も青学にいるなら、一度ぐらい鉢合わせるだろうって。よかったな、ちゃんと会えたんだろう?」
「え? なにそれ」
「不二も心配症だからな、さんとのことを知ってとにかく色々動いてたんだよ。知らなかったのか? 学校で会った日、駅で不二にもあったんだろう?」

 が言葉をなくす。次の言葉が見つからず、そっとうかがうようにこちらに視線を向けてくる。しかし英二の頭に浮かぶのは、あの日駅でさも偶然であるかのように駅で挨拶をかわしてきたあの男の姿で、品行方正を謳う佇まいの中にこれでもかと誘導の罠をしかけていた悪友の笑顔で、

「……やっぱ不二に言うのやめとく。ていうか最後まで言わない」
「最後?」

 両手でコップを持ちながら目を丸くすると、フォークとナイフを片付けやすいよう整えている最中の大石が同じタイミングで同じ疑問を口にする。

「結婚する時まで黙ってやる。絶対に言うもんか」

 初夏の静かな誓いは、大切な親友を唖然とさせる。しかし恋人が頬を赤く染めるならば、それは決して間違っていない。不二も一役買うことができて本望だろうと、窓越しの夏の空を見つめればまるでそれはテニスコートから見上げた時のように清々しく鮮やかな色をしていた。



21/06/18