| 七彩 |
それは人が過去に優しく浸ることができる、最高の空間だったのかもしれない。 同じ春だった。夏だった。秋も冬も、季節は今までと同じように訪れて、同じような暖かさも寒さも届けて、当然のように時間の流れも一糸乱れぬ過去の踏襲をしてみせていた。それが本来のあるべき姿であり、太陽も風も雲も、時間も、なにも裏切っていなかった。 同じであるのに、飽きなかった。気づいた時には満足が最後に用意されていた。 写真がそれらを物語っている。ひとつひとつの中に時間がある、同じ量だけ流れてきた。それほど蓄積されてきたからこそ、繰り返される季節を3度も心行くまで感じることができている。 「3年分を集めてこれば、これぐらいにもなるよね。時間は侮れないよね」 写真を陽にかざす、目を細める不二の口元には笑みがあった。真似することのできない滑らかさで亜麻色の髪がさらりと揺れる。その髪が一時陽にあたりすぎて潤いをなくしてしまった時期があったが、その時期を彼はとても気に入っているようだった。 「でも、思い立ったらすぐ決行。……っていうところは、相変わらずだよね、英二は」 不二の手から写真が離れる。写真が残念がっていそうに思えるほど不二の指に優しさが見えた。 机の上には、この3年間の彼らを余すことなく伝える記憶を映した写真が広がる。 「前からの約束だったって英二は言ってたけど、やっぱり違ったんだね」 「どの口が言うのやら。僕でよかったね、同じクラスなのが。これが乾だったら絶対全部メモを取られているよ、後々の駆け引きのために。僕も今日ばかりは覚えておくことにする」 「随分手厳しいね、今日は」 3年6組に、珍しく不二の笑い声が響いた。 「過去に縋る自分を見せたい人間に見える? 写真は好きだけど、自分の過去のためじゃないからね。僕、写す側だから。目の前にこうも自分の写真を広げられると、反抗したくもなるよ」 口元が微笑みの曲線を描いている。再び線のきれいな指先が写真を拾う。感傷的な言葉を出したくないのだと、その笑みがそっと主人に代わって教えてくれていた。 開け放たれた窓から夏の日差しが舞い込む。気づけば随分とあっさりとした熱さだ。空が少し高くなったかもしれないと思えるのは、白い雲が嫌だ嫌だと駄々をこねているかのように大きく上へと伸びているのは、夏の終わりが近づいているからか。 不二の制服の袖が揺れる。半袖姿を見られるのも残りわずかだ。そう思うとなぜか写真だけでなく目の前の不二ですら大切な思い出のひとつになってしまう。思い出話が嫌だと豪語する彼には絶対に口に出せない感想ではあったが。 机の上で組んでいた腕をそっとほどき、は小さく首を傾いで写真を見つめる。 (私もこの中にいたら、離れるのは嫌かな。思い出ってしたくないだろうな) 不二はなにをどこまで感じ、それをどうしようとしているのだろう。ふと気になって視線を向けたが、感傷的な感情を隠す微笑の中に答えがあるはずもなかった。 「あーもう暑い、暑すぎる。なんで9月なのにこんなに暑いんだよ。陸上大会もうすぐだっていうのに」 下敷きが揺れる。うちわ代わりのそれが何度も右へ左へ、強引に揺られて生温い風を生み出す。 不二とともに顔を上げれば、英二は予想どおり不機嫌そうな表情を浮かべてビニール袋を突き出してきた。 「ありがとう、おつかい」 「暑すぎた。間違えたー、近道なんか通るんじゃなかった」 「近道? そんなのあった?」 「桃が言ってたんだよ、おチビと開通したルートがあるって。それで行ってみたら、単に校舎を突っ切るだけのコースだった。……あいつら、天気のことまるで考えてないよ」 「3年間もこの学校に通っておきながら後輩の意見に従った英二の負けだね、それは。はいさん。英二は……これ? なにこれ」 「え? なに。なにって、なに」 「……いや、なぜあえてコーヒー? しかも微糖? 英二今まで飲んだことないよね」 「うん、ちょっと部活終わったし、このあたりで一歩大人になろう作戦」 「……」 「……」 「おつかいに行ってあげた人間に、なんだよその目は!」 椅子を引っ張り、ひとつの机を囲うようにして3人で固まる。購買部で購入してきた飲み物を手際よく振り分ける不二の横で、英二は我慢できないというように下敷きを揺らす手を止めなかった。写真がわずかに動く。下の方から顔を覗かせた写真には、1年生当時の英二と不二の姿があった。 「これ、何の時の写真? 1年生の時のふたりが一緒にいるって珍しくない?」 幼さが残る、などという言葉にまるで違和感がない。カメラを向けられて盛大にVサインをする英二の横で、不二が少しばかり戸惑いを隠し切れないような顔で映っている。今のふたりからすれば、どちらの反応も幼さのかたまりだ。 「最初のレギュラー戦の前かな?」 「多分そう。乾が撮ったやつだよな、これ。だって後ろにこっそり手塚が写ってる。あいつどんだけ手塚の追っかけやってんだ、もうベテランだな」 「カメラは基本的には大石か乾だったよね、昔から」 目の前のふたりは、随分と落ち着いた笑みを零せるようになったと感じる。 それが時間の蓄積のおかげというならば、今季節が3度目の秋を迎えようとしている意味もなんとなく分かる。感じ方と楽しみ方を、ふたりの笑顔が教えてくれているようだった。 (昔もいいんだけど、今のふたりの方がもっといいなあ) 思い出話が嫌だといいながら、写真ひとつひとつの記憶をまるで今見てきたかのような流暢な口調で説明できる不二に、思わず苦笑が零れる。 『不二っていう、すっげーうまいんだけどなんかむずかしいやつがいる』 うまく表現できない気持ちを抱えきることができず、ついに言葉にしてしまったものの、そのしっくりこない表現内容にすぐに顔をしかめた英二は、まだ記憶の中に生きている。 付き合ってもいない頃だったけれど、いや付き合っていない片想いの頃だったからこそか、記憶はとても鮮明だった。楽しさと不満の両面が混ざった感情を持て余していたあの頃の英二は、今はその不二の隣で昔は絶対に飲まなかったコーヒーを口にしている。 『菊丸くんは、不二くんより強いの?』 『うん? 分かんないな。だってあいつ、元々うまいからって手塚っていうのとあと乾? っていう分厚い眼鏡したやつと一緒によくいるから、俺ちゃんとしゃべったことないんだよね』 『ふうん。菊丸くんが強いといいね』 『……なんだよ、なんでそこで笑うんだよ』 『えっ、意味ないよ、意味ない!』 『嘘つけ!』 あの頃はもっと、言葉遣いが幼さをむき出しにしたような、感情を乗せることこそ正しいとしたような口調だった記憶がある。の記憶の中の英二は、この3年間で随分と変化という言葉を好んでしまっていた。ただそれを疎ましく思わない、思えない自分がいる。 缶コーヒーを持つ手が、あの頃より大きくなっている。不二に向けられる視線が、笑みが、柔らかくなっている。 「あー、これ。大石に持っていかなきゃ」 「大石に? なにかあった? この写真」 「これ、ここ。この後ろに小さく写ってるの……」 「……ああ、なるほど。そういうこと。さすが乾撮影、ぬかりないね」 「え、なに? 誰か写ってるの?」 「駄目だよ、大石の青春の1枚をそんな興味本位で見たら。2年の時に好きになった子に結局告白できなかった大石の、そんな大切な一瞬を写した写真を」 「……英二って優しいのか優しくないのか分からなくなるね、時々。ねえ不二くん」 「なにをいまさら」 それが優しさの範疇にあることを、不二の笑みが物語っていた。 この3年間の間に撮られ続けたテニス部での写真を前に、ふたりは言葉が途切れることはない。話の方向が逸れながらも勝手に生まれながらもそれでも、どちらかどころかふたりともが覚えている記憶がひとつひとつ組み合わさっていくことで写真はただの写真ではなくなっていく。まるで物語を見ているかのようだ。豪華な解説つきで。 『ああ、さん! ちょっと、ごめん! 英二見張ってて!』 『な、なにしたの英二』 『なにもしてないって! ただ抜け出して、ちょっとコンビニにアイスを……』 『……手塚くんじゃなくて大石くんに見つかってよかったね』 『なに言ってんの、ちゃんと予防線は張ってあったんだよ。不幸なのこれは』 『え?』 『ほら、共犯』 『共犯とは不本意な言葉だな、英二。お前が俺の身長を利用して目立たないようにしていただけだろう』 『なんだよ、乾だってアイス食べたいって言ったくせに!』 の記憶の中にも、簡単に2年の時の大石や乾がよみがえる。 撮影者は乾か大石だったという言葉どおり、ふたりが揃って写真に写っていることは少ない。だが英二と不二は、写真ひとつひとつの中に彼らの名前を含むことができる。カメラは見ていなくともふたりの目が知っている。 思い出話が嫌だと言った口もどこへやら、英二と話し込んで笑い声と無縁でいられなくなっている不二と、そんな不二の反応を当然のように笑って受け入れる英二に、もつられて笑みを零す。 「お菓子かなにか買ってくるね。写真選び終わるの、もう少し時間かけたいよね?」 「あ、うん。ごめん、」 「ありがとう、さん」 全国大会を優勝、テニス部を引退してまだ1ヶ月。 記憶という名前をつけてしまうには少し早すぎる、だが思い出に分類しなければ身体が頭が心が先に進まない、そんな時期なのかもしれない。 (まだ部活をしたいってよく顔に書いてあるからなあ。当たり前か、3年間ずっと続けてきたことだから) 珍しく話し込んでいるふたりの姿を思い出すだけで、心のどこかが少しだけ切なさに煽られた。 高等部に進級すれば次の3年間が待っているとはいえ、区切りは区切りとして受け止めなければならない。3年生の教室が並ぶ廊下も、授業が終わってしまえば夏休み前と比べて随分と静けさに包まれるようになった。 振り返り、長い廊下をたったひとりで見つめる。 この廊下でよく名前を呼ばれてきたものだと、過去に浸るふたりにつられてもそっと過去を思い出してみる。 『さん、さん』 『河村くん? どうしたの? なにかあった? ……あ、まさか英二』 『その、まさか。これ渡しておいてもらっていい?』 『書道用具忘れたとは言ってたけど……もしかして、墨だけ忘れてた?』 『そうみたい。書道が始まったの俺と手塚のクラスだけみたいでさ、真っ先に俺のところに来たから何事かと思ったよ。……あ、英二。今さんに渡したよ、墨』 『ありがとう、タカさん! ……なに、。その目』 『……いっそのこと手塚くんに借りに行って、怒られてみればいいのに』 『なに言ってんの、タカさんにはこの前理科の教科書貸したからおあいこなんだよ』 『9対1ぐらいの割合で英二の方が忘れ物多いけどね』 自分の記憶の中によく登場するのは、親友や同じ小学校出身の同級生、それ以外はほぼ青と白のユニフォームを身にまとう彼らに占められている。 購買部にたどり着くと、その色が目に入って足を止めた。 今は思い出の中ではなく現実だと、ユニフォームが風に吹かれて揺れてみせている。 9月のこの段階でレギュラージャージを着ることができるということは、2年生だろうか。遠目にその顔を確認するが、面識のある人ではなかった。その後ろ姿が、黒髪が、誰かを思い出させて足を進めさせてくれない。 もしその頭に白いキャップがあれば、自分はどのように声をかけられただろう。 財布を少しだけ強く握り締め、一歩踏み出す。後ろに並ぶ。 振り返ったテニス部員は記憶の中とは違う炭酸飲料を手にして、に意識を向けることなく横を通り過ぎていった。 なににする、という店員の声をぼんやりと聞きながら、後ろ姿を見送りながら、は記憶の中の彼を探していた。 「あ、ども」 「越前くん。久しぶり」 7月の暑い日、それは放課後の購買部だった。 テニスコートに立つ姿だったり、もしくは英二や不二の会話の中だったりとその様子を目や耳にしない日はあまりないのだが、こうして面と向かって言葉を交わすのは随分と久しぶりだった。 そう感じたのはだけなのだろう、越前はさも当然という顔で軽く頭を下げたあと、自分の買い物を続ける。ユニフォーム姿で炭酸飲料を買い求める姿は懐かしさと微笑ましさを同時に引き起こさせた。 「休憩中?」 「そうっす。今日、3年って進路説明会でしたっけ。副部長も誰もいないんすけど」 「うん、そう。でも6時間目には終わってるから、2組は他になにかしてるのかも」 「ふうん。じゃあ、英二先輩は?」 「不二くんとふたりで、手塚くんへの差し入れ考えてる。九州に行くの、もうすぐなんだよね」 身長が少し伸びただろうか。それとも身体に筋力がついてきたのだろうか。半袖のユニフォームからのぞくしなやかな腕が、帽子の唾を軽く持ち上げる。 「3年の先輩って、本当好きですよね。そういうこと。まあでも、そうしてもらってないと逆に変な感じはするかな。本当、桃先輩たちとはすごい違い」 気だるさと淡々とした口調の中に、どこか嬉しさが見え隠れしている。淡白という言葉で片付けるのは趣がない、その奥にある感情を視線や言葉遣いに乗せているのがこの1年生の特徴だと、この夏まで付き合うことで分かっていた。 安かさに包まれた喜びを隠している、今日はそんな雰囲気だった。は頬を緩める。 越前はの表情に気づいて、少しだけ不服そうに眉間に皺を寄せた。 「手塚くんに似てきたね、越前くん」 「え」 「今年の青学は強いね、頑張ってね。来年の青学も越前くんがいるから安心だね」 あの時、言葉を返さずただ曖昧に頷くだけだった彼の心には、既に大会後の予定が刻まれていたのかもしれない。 今となってはテニスコートに行っても1年2組に向かってもその姿を見ることはできなくなってしまったこの夏のルーキーは、8月までの記憶の中に鮮明に存在を焼き付けて去っていった。写真の中では視線を逸らす代わりに、写真に勝つことができる圧倒的な存在感を見せつけて。 そうして、時間は流れていく。 流れていくけれど、必ずなにかを残していく。 「うっわ、これこれ! スキー教室の時! なんだよこれー、こういう時ぐらい手塚笑えばいいのに」 「それは英二が乾に爆笑しすぎてかすんでるんだよ」 「だって乾、芸術的な雪だるまつくるんだもん」 「あの小ささは尋常じゃなかったね」 「スキーしにきてなにしてるんだよって、あれは笑わない方がおかしい。……うん、そういう目で見れば手塚も少しは笑って……るかな、うん、笑ってることにしよう」 写真を見る表情は休まるどころか高揚に負けている気がする。口を挟むのはルール違反かと黙って席に戻る。菓子も無粋だ。一枚一枚、笑い声とともに、笑顔とともに彩られる空間に、ほかのなにかは必要ではない。 3年間の終わりが、もうすぐそこにまできている。 けれどそれを、喜色をたたえて受け入れられる時間の使い方をしてきたのだ。だから、 「これだけあれば手塚も寂しくないな、嫌がらせになるぐらい入れてやる。ドイツに行く飛行機の中で涙でも流さないかな、あいつ」 生意気を謳われる後輩が一瞬だけ羨ましさに似た嬉しさを垣間見せたりする。 口ではいつも勝てないことを悔しがりながらも、仲間を思う心を失わずに生きていける。 「……なに? どうしたの、。なんで笑ってんの?」 「え? あ、ごめん。英二と不二くんにつられた」 笑顔の使い方を正しく覚えられた3年間であれば、その傍にいられた3年間であったのであれば、それこそ不二の信念こそ正解に違いないとは思う。 感傷に浸る過去よりも、笑いあえる過去であることをもっと認めるべきに違いない。 不二がなにかを察したように、言葉はなくただ頬を緩める。英二は何のことかよく分からないというように小さく首を傾げたが、その素直さすらなんらかの効果をもってしまっている事実にこの人は早く気づいてほしい。 「でも、ドイツに行くって言っても現地観察っていうだけで、1週間で戻ってくるんだよね? 今度の陸上大会にも1組のリレー走者で手塚が入ってたよ」 すべてに気づいている不二は、今日も丁寧に沈黙の隙間を縫うように言葉を繋ぐ。 「なに言ってんの、不二。あいつ結構な寂しがり屋だって絶対。青学一番大好きなのあいつじゃん、少しでも離れたくないって駄々こねたらまだ可愛げがあるのに」 「……想像できないね、それ」 「……うん、俺も今想像できなかった。でもまあ、これを断りはしないでしょ」 言葉の真意を掴めなくとも、今日も英二は仲間を思う心を隠すことなく偽ることなく、表情に動きにすべてに加えて自信満々に笑う。 1冊のアルバムの中に、英二と不二が選んだ3年間の写真が収められている。 まずは1週間だけ、見学のためにドイツにに行く自分に当然のように餞別を渡してきた彼らを、手塚は一瞬目を丸くして受け入れた。その光景を誰もが至極当然に受け入れ、そして帰国後に控える陸上大会の話題を口にした時、手塚も当たり前のように勝利宣言をする。 絶対勝ってやる、と。英二が手塚に対して不機嫌を隠すことなく呟く姿を見るのは久しぶりで、微笑ましいと思ったとは秘密の話だった。 |
| テニミュ1st終了記念 10/05/18 |