| 近き彼方 |
彼女と付き合いだして、随分と年月が経った。 中学生当時から彼女は自分よりも抜きん出たものを多く持っていて、勉強に始まり枚挙すればきりがない。逆に勝てるもの、としてテニスや運動と言ってしまった方が早いと自分でも感じてしまうほどだ。 だからだと不二には言われる。恵まれすぎているのだとたしなめられもする。 しかし、そこまで秀でた部分をたくさん持つ人であれば、それは黙っていられなかった。 「ー」 「え、なに?」 「やっぱあれだよ、料理だけできないなんていうのはもったいないよ。……うん、だから、」 「……また?」 「いやでも! せめて味噌汁は上手く作れた方がいいと思うんだよね、絶対! 俺は!」 なぜ(あくまで英二から見て)完璧に近い彼女が、味噌汁だけは破滅的な腕前なのか。 一人暮らし3年目の冬。つまりの味噌汁を味わうようになって、3年目の冬。 日曜の朝にまた断言すれば、は聞き飽きたという表情でため息をつく。そんな表情は似合わないからだから味噌汁、と叫んだこともあったが、その時はさすがに怒りの制裁を別のものでくらってしまったので、経験値が作動して今日は黙る。 「死にはしないと思うのね、味噌汁ひとつで。というかそもそもインスタントっていう便利なものもあると思うのね、大体私の味噌汁が駄目だったら英二が作ればいいと思うのね、私間違ってるかな」 まるで中学時代の自分を見ているようで耳が痛くなる。苦手なものに対しては最初は反省するものの、徐々に責任転嫁が始まる。英二にとってはそれは英語だと相場が決まっていたが、がここまで頑なに反論するのは味噌汁以外では見たことがない。 なぜ、よりにもよって味噌汁なのか。用意された味噌汁を寂しく見つめたあと、キッチンに立つにそっと視線を向ける。 麗句を挙げだせば、こちらもきりがない。挙げ続けると「そこは好み」と不二に止められもするが、それでも自分の彼女は優れた部分が多くある。大学生になって幼さの向こうから大人びた部分が無理なく覗いてくれているせいか、ここ最近になって気づかされる魅力もひとつやふたつではない。 (褒めてるからなんだけどなあ、すごいと思ってるからなんだけどなあ。なんであえて味噌汁だけとか……) ため息はやがて空気の中に混じり、に届けられる。 昨夜はあれほど自分に甘えていたくせに、と反論したくなる冷めた表情を浮かべ、やがては少しだけ首を傾いで細く笑った。 「駄目だよ、英二。私多分一生料理だけはあんまり成長しないと思うよ」 「……なんで」 「決まってるじゃない。私より英二の方が上手いから」 拗ねた英二に、あっさりと宣言する。やがて満面の笑みは反論を待っている意味だと分かったが、事実の前にはぐうの音も出ない。 理想の押し付けだと、暗に宣言されている。 恨めしく見つめると、反論がないと知ったは上機嫌になってテーブル前の英二のもとにやってくる。横に腰をおろして瞳を覗き込んでくる姿は随分と自分の好みを知り尽くしていると思わずにはいられない。 「……また、そうやって俺を黙らせようとする」 「勝手に黙ってるのは英二。私はなにもしてません」 寝癖をそっと直す指先が優しすぎて、反論もそれで限界だった。 もったいないなあ、と呟く心を今日もまた身体の奥底へと沈めていく。 代わりに浮き上がってきたのは、ある日の夕方の出来事だった。 (そりゃ、みんなはああ言うけどさあ……) 人には得意不得意というものがあって、それは案外他人からは驚かれる内容の方が多いらしい。下手に相手を理想で押し固めてしまうと、必ずぼろが出るということらしい。 そんな一般論は、あてはまる人だけ利用すればいいと英二は思っていた。自分を天真爛漫という言葉だけで説明しようとしたら土台無理な話であることは、付き合っていれば誰にでも分かる。英二自身も分かってもらえるようにしているつもりだった。 だから、「意外」という言葉は何度聞いても好ましく思えない。勝手に作られたメッキの相手をしなくてはならないのは腑に落ちないからだ。 そう、昔までならそう信じて疑わなかった。 「立派なことを言っているのは分かるけど、でも実行していなかったら空論でしかないよ」 不二は呆れながら呟くことが常だった。彼こそ「意外」という言葉を誰からも用いられるべき性格をしていると英二はつくづく思うのだが、そう思わせる素振りを身内以外には決してとらない。出会った中学時代は軽くかわされていたことだが、大学生になってようやく「臆病だったからだと思うよ」と彼なりの理由を吐露してくれるようになった。 そんな不二すらも呆れるのが、ここ最近の自分だった。 「おかしいことに気づこうか、そろそろ。もう矛盾しまくっていて、話にまるで整合性がないんだけど」 「おかしくないって、だって仕方ないし。だってっぽくない」 「さんぽくないって……」 「だってもったいないじゃん! なんでよりによって味噌汁だけまずいのかな!」 あの後、不二は黙って話を聞いていた。聞いてはいたが、唖然としていたという方が正しい。呆れたような見放したような、いやむしろ笑いの域にまで踏み込んでしまったようなあの不二を思い出すと、理不尽極まりない。 その後、手塚が帰ってくるから、と不二から招集がかかったのはある日の夕方のことだった。 進路がばらばらになっても、テニスという共通項ひとつで当時のレギュラー仲間とはすぐ再会することができる。メールを受け取った専門学校から向かった集合場所には、既に板前となっている河村も無理をおして集まってくれていた。 「そういえばこの前全豪出てたよね、あいつ。ベスト8までだったっけ? 乾」 「そうだ。世界ランク1位相手に善戦したとみるべきかな、あれは」 「ふうん、じゃあ今日はお疲れ様会みたいなもん? そういう意味?」 「まあ、そんなところ。たまには手塚が飲みつぶれてもいいかな、って」 服装は変わっても、不思議なことにレギュラーメンバー間の身長差は変わらない。乾を見上げる角度や、不二を真っ直ぐ見つめられる関係は中学3年生の頃のままだ。唯一変わったとするならば2歳年下の後輩が不二ほどに身長が伸びてしまい、もう頭を撫でることができなくなったというぐらいか。 気心の知れた仲間たちとの会話は、いつになっても心安らぐものらしい。今日はとりあえず同級生だけ、ということで6人が集まり、そして久しぶりに出会った手塚も相変わらず表情こそあまり変わらないが、口調は随分と柔らかくなったように思えた。 「インタビューの時、もう少し笑って話せばいいのに。あのしかめ面はないって、手塚」 「しかめ面のつもりはない。いたって普通だ」 「……いや、俺たちはむちゃくちゃ見覚えあるよ。あれ、怒ってる時の顔だよ。なあ乾」 「だから言ったんだ、あれほど。顔の筋肉を柔らかくする練習をしろと」 「……」 アルコールも混じると、昔話に花が咲く。久々の邂逅が生み出す妙な緊張感もあっさりと失せ、くだけた話に身をひたす。 やがて話が恋愛へと傾いていった時、事件が起きた。 「ええっ、タカさん結婚するの! いつ!」 「うん、実は。来年の秋の予定でいるんだけど、もう今から色々忙しくてさ」 「うわー、もうそういう年かあ……この前彼女と別れた大石にはこれは心切ない話……」 「……英二、そこで俺の名前を出すことの方がよほど切ないと」 「もっと言ってやりなよ、大石。この人相変わらずだから」 会話の矛先が突然自分に向けられたのは、その一言からだった。 不二がアルコール片手に静かに呟く。普段英二が行き慣れているような騒がしい居酒屋ではなく、暗めの照明と静かに流れる音楽が生み出す落ち着いた空間の中、その声はやけに大きく聞こえて全員の視線が一斉に英二に向けられる。 「な、なに」 「いや、僕で止めておくにはあの話はもったいないなと思って」 「……あの話?」 河村が目を丸くする。同級生の中で一番濁りを知らない瞳で真正面から見つめられると、言葉につまるしかなくなる。不二に助けを求めようとも、彼の口が欲するのは言葉ではなくアルコールばかり。 最後は手塚の無言が後押しだった。深夜をまもなく迎えようというのに、プロテニスプレイヤーであるはずのこの男は一向に帰る気配を見せない。 手塚の沈黙は、いつだって強制力の証だった。こんなところまで昔どおりにならなくてもいいのに、と不二を恨めしく思いながら口にする。 「ただ、味噌汁を美味しく作ってほしいだけだって」 拗ねたように呟いた言葉は、今も胸の中でくすぶっている。というよりも、常に心の奥底で解放される日を今か今かと待ち続けている。 あの後、手塚と不二以外の全員が爆笑した。理解してくれたのかと思いきや、すべて自分に対する非難にすり替えられた。大石にいたっては「どこまで望む気だ」と本気で心配された。それを聞きながら不二が必死に笑いを堪えていたことは絶対に許さないと今でも思っている。 しかし、執着という言葉の持つ意味をもっと都合よく利用すべきだと英二は思う。 「俺にしか執着してないんだから、それぐらいいいと思うのに」 ぽつりと呟くだけでもは動揺する。真正面からの告白の類には相変わらず弱い。だが残念ながら、英二は直球勝負の表現には逆に長けている。 これは駆け引きだ、と一瞬で悟る。 英二は身体の向きを直し、を真正面から見つめる。逃げられないように両手首をそっと掴めば、一瞬肩が震えた。 「俺さ、勝手に理想を作るのは駄目なことだって分かってるんだけどさ、でもさ、に関しては理想も口にしたくなるんだよ、それは分かってほしい」 「……理想って言われても、いまさら」 「を一番自慢できるのは、俺でいたいんだ」 傍から聞けばすぐに耳を塞ぎたくなるような言葉でも、を前にすると自然と零れ落ちてくる。そしてはいつも言葉をなくし、けれど拒絶の色を滲ませることはない。 執着という意味を、不二たちは履き違えていると思う。テニスに関してはことあれほどまでに使いこなせるのに、恋愛に関してはまるで通じない。 いや、と英二は心の中で否定する。もしかしたら自分たちの彼女には無意識にしていることなのかもしれない、対象がであるからできないのかもしれない。 ならば、自分が一番執着していいいのは今この時をおいて他になにがあるというのか。 心の奥底から湧き上がってくる嬉しさに負けて、英二はそっと耳元で囁く。 「俺の方ができるからって理由じゃ嫌なんだよ、だって」 意外、という言葉を使うのは周りがすればいいことだ。 ただひとつの感情を抱いている身体には、それができないのだ。ただそれだけのことだった。 「料理なんて、ご飯ができれば十分じゃないすか。なに贅沢言ってるんすか、先輩」 2歳年下の後輩が呆れて呟いたのは、それから3日後。 空港傍のカフェに集まれたのは不二と英二、そして越前の3人だけだったが、そもそも見送り自体に驚いていた越前からすればこうして一時の時間を共有するだけでも珍しく、そして少しばかり嬉しかったらしい。 だがここ最近のレギュラーメンバーたちのブームである「英二と味噌汁」論に関しては、まるで嬉しそうに聞いてなどくれなかった。 「お前までそう言うか……なんだよ、じゃあ俺の味方桃だけじゃん」 「……桃先輩のそれも、多分色んな意味で違うと思いますけど」 越前がちらりと不二を見る。黙って紅茶を口にする不二が答えだった。 中学時代より、越前は妙に不二の言動を気にする節がある。昔ではそれは挑発的な体質のせいかと考えることもできたが、根底にあるのは不二のテニスに対する敬愛の念だ。本人は絶対に認めないが、年を重ねてここ最近では隠れることの方が難しくなってきているらしい。 だが味噌汁の話にまでその感情を持ってこなくとも、と英二はしかめ面をする。 「なんだよ、じゃあおチビだったらどうなんだよ」 「……俺もうチビじゃないんすけど……」 「彼女が味噌汁だけ作れないって、寂しくない? だっておチビ和食派じゃん」 が聞いていたら絶対に怒られるに違いない会話を振る。 一瞬目を丸くしたものの、越前はやがて首を横に振った。 「最初におにぎりで勝負をされちゃ、料理に関して高望みなんかできないっすよ」 ため息まじりに呟く。背が伸びただけで色々なものが大人びて見えるが、それでもまだ19歳だ。ふとした時に零れる面影は懐かしさばかりを引き起こす。 だが口をついて出てきた言葉は、昔からは想像できない。昔は必死に彼女ができたことを隠していた後輩が平然と現状を語る様は、妙にくすぐったいような生意気だと感じるような、複雑な心境になる。 「……おチビに言われるとむちゃくちゃ腹立たしいんだけど、なんでだろう」 「越前が正論だからだよ」 紅茶を飲みながら静かに不二が呟く。 「でも、あの子が髪の長さをあのままにしてるのは、お前がロングが好きだからじゃん!」 「なっ……!」 「それは英二が正論」 また不二が呟く。どちらの味方をしているのか分からない不二に、英二も越前も訝る視線だけをぶつける。いつのまにか会話の中心が自分に据えられていることにようやく気づいた不二は、小さく肩をすくめたあと外の景色を見つめた。 「まあ、気にするポイントが違うんだよね皆。でもその中でも英二が全範囲に渡って理想が高すぎると思うよ、僕は」 「そうかあ……? だってもともと色々できるからさ、むしろできないほうがおかしいって思っちゃうんだよ、もう」 「高望み」 「無理やり」 「それで別れない先輩の彼女がすごい」 「そう、英二がすごいんじゃなくてね」 しまった、と英二は思う。中学生時代の記憶が遅ればせながら鮮明に甦り、このふたりがどれほど悪友として成り立つシーンが多かったことを思い出す。 しかしふたりを自分の対極に据えられれば据えられるほど、英二は自分の考えが一般的ではないことを知らされると同時にあるひとつのことにも気づく。 結局、彼氏彼女のことなど当の本人たちにしか理解できないことなのだ。 そう、だからあの日。 「でも、怒ってないからね。改めて言っておくけど。きちんと理想が高い理由は伝えてあるから、納得してもらってあるからね」 口の端をあげてふたりに宣言する。不二の目が少しだけ、越前の目が大きく見開かれるのを確認しながら英二はあの日を思い出す。 所詮、こだわりすぎるのもひとつの感情があってこそなのだ。その感情に根ざした理想であることを前提とすれば、それが高望みという一言で片付けるにはもったいないものであることが見えてくる。 それが正論となるのは、自分との間だけなのだ。英二は確信し、あの時の自分が間違っていなかったことを知る。 「結婚したら、絶対にの味噌汁がいいもん。俺間違ってる?」 問いかけに返る言葉はない。不二は黙って紅茶を飲む。 結婚を考えられるほど真剣に付き合ってきた、最後の我がまま。それが許されるものかどうかは、すべてはの判断ひとつ。 ただし、あの後苦笑するばかりだったがなにを思っているのかを聞かなければならないほど情けなくはないし、そんな愛し方をした記憶はない。 だから、素直にお願いできたのだと。空に問いかければ、ただゆっくりと真っ白な雲をゆっくりと流し続けていた。 |
| 09/05/06 |