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手の温もりがこれほど温かなものだと気づいたのは、自分の心がなせる業だったかもしれない。想いひとつで物事の意味はこれほどまでに変わるのかと、気づいてしまったのは自分の心が彼に陶酔しきってしまっているからかもしれない。
もはや中毒だ。そっと開いた視界の中でくらりと頭が揺れる。横になっているのに頭が重く感じるのは、自分のものとは異なる香りがそこかしこに漂っているからだ。
「……長いまつげ」
手を伸ばし、そっと前髪に触れる。女子から見れば羨ましいことこの上ない長さを誇るまつげを持った瞳が、一瞬煩わしそうにきつく閉じられた。
主はまだ、夢の中から帰ってこない。前髪に触れようと肌に触れようと他人の勝手をすべて許してしまう。許してしまうだけの距離と、疲労が今の現実だった。
「ごめんね、先生。疲れてるのに会ってくれて」
呟いてそっと頬に唇を寄せる。物語のように都合よく起きてくれる精神など持ち合わせていないし持ち合わせていてほしいと望みもしない、今願うのは平穏な睡眠が彼に訪れていてくれということばかりだ。
ベッドの中からそろりと抜け出し、冷えたフローリングの床の上を素足で歩く。
この部屋に来て身にまとうことが常になってしまった白いシャツは、初めて着た1年前よりも随分と自分に馴染んでくれたように思う。大きさに勝つことはできないままだったが、初めての時のようなかさつく感覚はまるでない。手の甲を簡単に隠してしまう袖口に軽くキスをして、キッチンへと向かう。
高校3年、2月。卒業式まであと3日。
寝覚めを心地よいものにするために準備するものはカフェオレであると決まっている。その準備をする手にぬかりはない。この役割を適当にこなすということはすなわち、自分のこの部屋での意味も否定してしまう。そんなことは絶対にしたくないと心に決めている。
「……なに、なんでもう起きてんの」
掠れた声がベッドの方から飛んでくる。人前では決して聞かせないその弱った声は、お湯を沸かそうとする動きを簡単に止めてしまう。は頬を緩め、ベッドの方角を見つめた。
「今日は部活だもん、先生の。だから私が起こす係。違いました?」
「あー、そうだ! しまった、今日俺引率じゃん!」
勢いよく上体を起こし、部屋の主は慌てて壁掛け時計に目を遣る。短針はちょうど垂直に垂れ下がったところで、真反対に位置する長針が秒針の動きにそそのかされて一歩だけ丘を下り始めたところだった。
「……早すぎるんだけど、」
恨めしそうな瞳がくるりとこちらを向く。大人になっても大きさは変わらないと彼の親友たちが呆れながらも褒め称えていた瞳は、怒りを含んだ時には妙に鋭さを増して見える。
それでも、大人の体躯の中に同居する幼さという一見相反するような雰囲気は、それを誰よりも傍で独り占めをして感じられるこの場所は、にとっては触れ、浸り、埋まる場所でこそあれ逃げ出す場所になど一生ならない。
「そう、まだ早いかなと思って。とりあえずゆっくり飲み物でも飲めるようにしておこうかな、なんて」
だから菊丸の好む言葉、仕草をすることがなんら苦にならない。菊丸に近づくため、つりあうために必要な条件のひとつが「大人になること」であるというのならば、これほどまでに時間が経つのを待ちわびる生活はこの先二度とやってこない自信がある。それほどまでに、この1年は自分にとっては努力の1年だった。
教師と生徒という、隠された関係。高校生の身には一般的ではない年の差。
それでも、それらすべてを当然のものだと思えるまでに昇華させてくれたのが菊丸の存在そのものであるというならば、自分の努力は費やして当然のものであると。そう考えることに、違和感など抱きようがなかった。
「もう用意してもいい? 先生」
「え? あ、うん」
「あれ、まだ駄目? もう少し寝る? 大丈夫ですよ、あと1時間なら」
「ううん、そういう意味じゃない」
少し寝癖の残る髪を横に振る。柔らかく癖のつきやすい髪は、女からすれば嫉妬の対象にしてよいほどさわり心地がよい。見惚れることなど簡単だ、あの瞳に射抜かれたように真っ直ぐに彼だけを視界に収めていれば勝手に身体は反応するようにできている。
今日は、随分と高揚している気がする。緩む頬が止められず、は牛乳を一度冷蔵庫にしまったあと、思わず菊丸のもとに寄った。
ベッドの上に腰を下ろしたままの菊丸の横に腰かけ、視線が投げかけてきた問いかけの瞬間を飲み込むようにそっともたれかかる。肩から伝わるかすかな温もりに、瞳は勝手に閉じるようになって久しかった。
「……どうしたの、なんか今日大人しいね。大人しいっていうか、なんていうか」
しばらくの沈黙ののち、菊丸が髪の毛に指をからませながら呟く。
「なんとなく。本当になんとなく」
「そうか? なんかいつもより、誰かの言うことを全部聞きそう。素直すぎるぐらいに」
その質問の意図は分からなかった。ただ漠然と、沈黙を埋めていく大好きな声という認識しかなかった。
「先生の言うことなら、いつも全部素直に聞いてきたつもりですけど」
麻痺していたと言えば、話は早かった。
疑わない、習性になっていると、そう言えば聞こえはよかった。考える必要もなく勝手に口をついて出てくる言葉はこの1年の自分の行動の指針であり、それを一番傍で見守ってきてもらったのが菊丸ある以上、素直になることが当たり前だった。
「……、あのさ」
「はい?」
「それは俺のせいなんだから、本当は嬉しそうに言うことじゃないんだよ」
静かに沈黙の中に溶けていく言葉の意味を、最初は理解できなかった。
否定の言葉がついた。なにかを否定された。その感覚にまず目が瞬きを止め、丸くなる。そっと見上げれば、苦々しいというよりは心苦しさに完全に負けた表情を浮かべた菊丸が、目を合わせることなくただじっと窓の向こうを向いている。
時折幼さを残していることを教えてくれる横顔が、まったくこちらを向いていなかった。
「……先生、どういう意味」
「そういう意味。泊まらせた俺に言える台詞じゃないことは重々承知しているけど、そもそも今の関係である以上俺に発言権なんか本当はないって分かってるけど、でも」
するりと自分の隣から温かい体温が離れ去っていく。目を丸くしたまま動くことすらできなくなっていると気づいたのはその時だった。
幼さの欠片などどこにもない、教室でいつも見つめるだけになる背中がそこにある。その背中には手を伸ばすことができない、それを菊丸は知っているのか。
「そんなに当たり前のように言われると、辛くなる時もあるってことは知っておいて」
いや、知らないのだろう。そう思うには十分な言葉だった。
菊丸が自分の内面を吐露する瞬間は、決まって菊丸ととの考えの相違の瞬間だった。過去何度もその場面に遭遇しているし、そもそもこの関係の始まりの瞬間とて穏やかな分かち合いという言葉とは無縁の世界だった。普段明るさが全面に出てくる菊丸が本音を呟く瞬間は、絶対に荒々しい葛藤が表に出てくるぎりぎりの時しかない。
そんなことを冷静に考える自分と、そして菊丸の言葉とに呆然とは時を過ごす。
「……ごめん、朝言うことじゃなかったね。起こしてくれてありがとう、いつも助かるよ」
その反応がさらに菊丸の葛藤を煽ったかのように、振り返った彼の顔は寝覚めには不釣合いなほど悲しそうな色をしていた。頭に触れた手の温もりは、冷えていた。
卒業式2日前。快晴だった。
久々の制服に腕を通し、は学校へと向かう。既に授業自体は1ヶ月前に終了しており、私立入試も国立入試もすべて終わってあとは結果と卒業を待つばかりという時期には、着る理由を探すことの方が難しい。
そんな親友たちと同じ立場でありたかった、と心の中でため息をつきながら手にもったのは、卒業式に行わなければならない委員会としての最後の仕事が記載された書類だった。
知らぬ間にコートがいらなくなっていた春の日差しの中、いつものように電車を乗り継いで学校へと向かう。途中にある大きな一級河川にかかる橋の上から見渡す景色は、春の陽光をちかちかと反射させて眩しいほどだった。
『そんなに当たり前のように言われると、辛くなる時もあるってことは知っておいて』
眩しさに負けて目を細めながら、ふと昨日の菊丸の言葉を思い出す。
本音はどこにあるのか、自分は真意をどこまで汲み取るべきだったのか。大人相手に善処してきたと言ってもいいだろうこの1年でも、心の中まで完璧に見通すことはできない。それを知っているはずなのに、それでも菊丸が呟いたという現実の意味はどう考えても重く、苦しかった。
(……私、間違ってたのかな)
揺れる電車の中、川面を見つめながらふと思う。
車内では、同級生だろうか私服の男女が仲良さそうに笑顔で会話をしていた。ちらりと視線を向けるが、ふたりはの視線に気づくことなく楽しそうに話している。昼間の各駅停車の電車だ、大きな声でなくともその楽しげな声はかすかに聞こえるし、なによりその笑顔を遮るものはなにもなかった。
(羨ましいなあ。ああやって、人前で話せるのは。分かってたことだけど、でも先生って時々近寄りやすく見える時があるから、錯覚を起こしそうになる)
彼の残す幼さは卑怯だと、最近になって知った。時折大学生に見える時もあるし、実際大学生だと誤魔化すことのできる瞬間はあるだろうとからかいまじりに親友たちに言われると拗ねることも間々だった。その時こそ笑っていたが、実はその感覚にすがりそうになった瞬間でもあったことを、はまだ菊丸に伝えていない。
秘密の恋であったことは分かっている。隠し通す約束で付き合ってもらっていることも分かっている。だから大人に、菊丸に近づく努力をすることになんらためらいはない。
(それが当たり前だと思ってた。私が子どもなんだから、そこは私の努力するところだって)
私服で当たり前のように隣に並んで座っている、そんなふたりをよそ目には電車を降りて学校へと向かう。ちょうど昼食が終わったばかりの校舎は春の暖かさや昼の温もりの中にまどろんでいるようであり、しんと静まり返った空気がなんとも言えず優しかった。
来客用のスリッパで校舎に入り、授業のない3年の担任だった委員会担当の教師のもとへと足を向ける。事前に打ち合わせが済んでいたというよりは確認作業だけでよかったため、そう多くの時間も取られず仕事は終了だった。
授業終了までまだ余裕があった。はふと思い立ち、社会科準備室へと足を向ける。
3年の担任だった菊丸は、予想を裏切らずに部屋の中にいた。
ひとつだけ予定外だとすれば、それは菊丸の瞳が閉じていたこと。机に突っ伏して春の日差しに敗北宣言をするその寝顔に、はしばらく見惚れる。
「……ねえ、先生。私、間違ってたかな。私、これが当たり前だと思ってたんだけど、でも」
先生にとっては重荷でしたか。
問いかける言葉は空気に触れさせることはできなかった。触れさせてしまえば最後、涙腺が我慢をできなくなるのが目に見えていた。
春の暖かさはそれを知っているかのように、菊丸を最後まで起こすことがなかった。
頬に唇を寄せることは、できなかった。
卒業式前日、雨。
電話もメールも、一切の接触をせずに1日を終えた。
気にかける言葉は、電話でもメールでも返ってくることはなかった。
卒業式当日、晴れ。それでも、と。
式典終了後、足がこの部屋に向かってしまうほどに自分の高校生活は彼なしでは語れないのだ。
笑われるだろうか。呆れられるだろうか、嫌われるだろうか。大人の考えは今でも分からない。年齢という重ね続けた歳月が持つ力には絶対に敵わない。
それでも、自分にはこの部屋を訪れる理由がある。敵わない相手に逆らうことをしない生活であれば、そもそも1年前、この部屋を訪れたりなどしなかったのだ。彼と付き合うという道を、選ぶことなどなかったはずなのだ。
「待ちくたびれた」
だから今日も、その声は自分を迎え入れる響きを持ってくれているのだ。
社会科準備室の机に腰かける姿は、あっさりと錯覚を見せる。生まれつきとはいえ黒というよりは限りなく赤茶色に近い髪は、春の日差しを浴びると随分と菊丸の雰囲気を幼くさせる。浮かぶ表情が柔らかい笑みを作ろうものなら、身体は一瞬ここが社会科準備室ではなく教室なのではないかと思ってしまうほど。
緩く組まれていた五指が、そっとほどかれて自分を手招きする。
近づき、その顔を見上げれば、優しく頭を撫でるいつもの手があった。
「まずは、卒業おめでとう……って、言うべきかな。ね」
「……はい、って、言うべき?」
「うん、そこはね」
煙草は吸わない。代わりにカフェオレが出てくる。空になってしまった缶をふらりと揺らして呟き、菊丸は窓の向こうを見つめる。
相手は大人だとばかり思い、事実大人なのだから自分は人一倍の努力をすべきだと思い続けることを止めなかった横顔は、時折幼さを隠さなくなる。だから手を伸ばしたくなると呟いた時、菊丸は一度だけ困ったように笑っていた。
それ以来、これは願望だと思っていた。縋りたくなる本音は隠すようになった。
誰にも言えないけれど、誰でもない菊丸だけが認めてくれること。隣に並ぶこと、手を繋ぐこと、抱きしめてもらうことキスをしてもらうこと。すべて菊丸だけが認めてくれる自分の特権で、その特権の代わりに与えられた義務が彼に近づくために努力をすることだと、そう信じて疑わなかった。
だから、彼が幼く見える理由は、一瞬だけだとしてもその枷を感じずにいてもいいのだという、願望なのだと。菊丸が伝えたかったのはこのことかもしれない、と気づくと、言葉は簡単に出てはくれなかった。
「そういうところを、俺が見抜けないと思う? 何度口に出そうとしたか。俺、そんなに馬鹿じゃないよ」
「……先生」
「ああ、別に怒りたいんじゃないよ。ただもう、隠すことがないよね。今日は卒業式だから」
そっと見上げた視線に、返されるのはいつもの温かい手。頭をゆっくりと撫でるそれには心は従順になる道しか用意していない。
それが間違っていたかもしれない、というこの2日間の想いが口を閉ざさせる。菊丸は小さくため息をついた。
「どうして、俺の彼女は考えすぎるんだろうね。知ってる? 」
やがて困ったように笑う。教室の中では絶対に見せてくれない、ひとりの人間だけを見つめる時に向ける笑みだけを浮かべて。
「付き合った時も、初めてデートした時も。本当に高校生かって言いたくなるぐらい考え込んでさ。おかしいなあ、俺別に自分の彼女にそんな大人になってほしいなんてこと、一度も伝えたことなかったんだけど」
「……先生、」
「だってそうじゃない? 俺、年下の賢い子が好きなんじゃないよ。……が高校生だから好きになったんじゃないよ、分かってる?」
言葉は想いによって封じ込められる。それで思いつめるなと教えてくれているのか、菊丸はわざと人差し指での唇を封じる。
大好きな人が、無理をするなとその指と瞳で教えてくれている。
「なのになんで、は俺に教師と生徒であることを認識させることばっかりするのかって。そう口には出さなくっても、俺が大学生とかだったら自由なのにって感じてる顔を見たら、嫌でも分かるよ。ああ、今は俺が教師であることに困ってるんだって」
否定できるだけの力も、言葉も出てこなかった。すべてを見透かす力は絶対にこの人には勝てない、そう悟っている心はあっさりと負けを認める。
反論せずにただ黙って話を聞く姿を、もしかしたら怒られるかもしれないと思った。だが菊丸は申し訳なさそうに首を横に振り、手のひらを差し出す。
そっと触れれば、大好きな温もりがふわりと手を包んだ。
「でも、そんなこと言えないんだよね。俺との約束があったから。ここでの」
「……」
「だからそんな気持ちを隠すために、知らないふりをするために、自分が大人になろうとしたんだよね。俺の言うことを素直に聞ける、聞き分けのいい子に」
「……そんな、上手くできませんでしたけど」
「残念、俺の心に傷をつけるぐらいには上手くできてたんだ」
手を繋いだままの不思議な姿勢。抱きしめるでも口づけを送るでもなく、春の日差しに包まれるだけにしておくこの距離。
表情もすべて見られてしまう近さと遠さの中、菊丸は言葉を止めることがなかった。
「最初、どうしようかと思った。しまった、って思った。お前が素直なことは知ってたつもりなのに、必死に俺に合わせようとする姿見たらもうなにも言えなかった。俺のためにしてることを俺が怒ったら、絶対は俺が思ってる以上に傷つく……のに、それをまた隠そうとするって。……でも、ごめんな」
あいていた手が頬に触れる。それに寄せるかのようにわずかに首を傾いで菊丸を見つめれば、柔らかくも切なさに負けそうになっている笑みがふっと浮かぶ。
「この部屋での約束、覚えてたのだけじゃないんだ」
手を包んでいた温もりが離れたかと思うと、やがて目の前になにかを差し出された。一瞬なにか全く理解できなかったが、頬に触れていた手がもう一度頭を撫でた瞬間に、それがスーツのボタンであることに気づく。
「……これ」
「約束だっただろ? 卒業式の日、スーツのだけどって」
手のひらに落ちてきたボタンの小ささに、そして菊丸の思いもしない言葉に、は本当の意味で言葉をなくす。
忘れることなどない、それはあの秋の日。唐突で乱暴で、情緒の欠片もない一方通行ばかりの想いを告げたあの日、菊丸が約束してくれた1年後の約束だった。ふたりで枷を受ける代わりに、その枷が外れる日として結んでくれた、卒業式の日の約束だった。
「これを渡すっていうことは、教師と生徒じゃなくなるっていうこと。この1年、が大事にしてきた生活の基盤を取っちゃうっていうこと。その時、はどうなるのかな……って考えたら、正直、俺、怖くなった」
「どうして」
「教師と生徒っていう関係に縛られたのは、本当は俺だったから」
ふいに手が頭の後ろに回る。ボタンから視線を離し、菊丸の表情を見つめてから瞳を閉じる。にすべての行動の余裕をもたせた上で、そして触れるだけのキスがくる。
「強気になれないぐらい、本気になったのに。なのに俺の生徒じゃなくなったら、はもう今の生活が息苦しいだけなんじゃないかなって」
何度か繰り返すうち、その言葉が本心であることに気づく。
すべて、の意向を確認する。拒絶することを認める瞬間が必ずある。1年前のように唐突に抱きしめられ、呼吸を奪われることなど決してない、キスをされているのではなくしているような感覚に陥る時間の使い方だった。
優しい、と言えば聞こえはいい。
しかし、は両手で軽く菊丸の胸をおさえて隙間を作る。後追いすることのない口づけはその一瞬で終わり、意味を尋ねる沈黙が与えられる。
「……先生、私、ちょっと怒っていいですか?」
ようやく口をついて出たまともな言葉は、やはり情緒の欠片もなかった。
「私、先生が先生だから好きになったんじゃないんですけど。ちょっとこれ、理不尽。どうして私が先生を諦めなきゃいけないのか、本当に全然分からない。……というか」
「……」
「そんなの、やだ」
言った後で後悔する。子どもじみた言葉遣い、子どもじみた反論。それは大人になることとは逆行した行動だ。
慌てて口を押さえて菊丸を見つめる。いつもであれば笑って見逃してくれる瞬間だったが、今目の前にいる菊丸はそんな日常すら忘れてしまっていた。
丸い目がますます大きくなる。やがて笑い声が零れ、頭を撫でられる。いつもとは異なる、明らかに子どもに接するような撫で方に頬を膨らませそうになった時、強引にその腕の中に閉じ込められた。
「そんなことされると、ますます抜け出せなくなるんだけど。どうすんの、知らないよ」
耳元で笑う菊丸に、は頬を緩めてきつくきつく抱きつく。
「そんなこと、私は1年前から分かってる。……だから先生もつきあって」
卒業式が春でよかったと思う。外の景色は明るく、日差しは心地よい。秋という暮れ行く季節から始まった恋には、春の温もりは少し気恥ずかしいところもある。
それでも、自分を抱きしめてくれる腕の強さが、温もりが、いつもよりも強く温かいのであれば、それは春のおかげなのだろう。
見上げて、笑って、キスをせがむ。困った笑みを浮かべながらも教師は恋人の顔をして、生徒であった自分に恋人の触れ方をしてくれる。
ボタンだけじゃ足りないと、今夜素直に伝えようと思った時、笑う頬に涙が零れていった。
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