| スタートライン |
はじかれたように顔を上げる。青い。雲ひとつない、だから汗が顎をつたってコートの上に落ちていく。 歓声はもはや遠き感覚だった。鼓膜の記憶として繰り返し再生されているだけではないのかと思えるほど遠く、自分とは違う世界のもののように機械的だ。高低入り乱れて、重なりすぎて、意味をなさないただの雑音にすら思えた。 ただそれでも、右手はラケットを手放さなかった。 「英二」 「分かってる」 背後からかけられた声に、軽く左手を上げる。それ以上の言葉はなかった。 目を細め、ネットの向こうに立つふたりを見つめる。 記憶に新しく、そして苦い色合いだった。テニスを始めてから様々な色をこの目に焼き付けてきたが、この色だけは忘れられそうにないらしい。たとえ着用している人間が異なっても、その鮮やかな辛子色はただそこにあるだけでなにかしらの力を持っている。下唇を噛ませたり、眉根を寄せさせたり、ため息をつかせたり視線をそらさせたり。 まるでこの色に出会うために今日までテニスをしてきた、そんな感覚にすらさせる。 だから右手は決してラケットを手放さなかった。ことさら強く握り締めた。 「最後の試合だっていうのに、こんな展開とはね。やっぱり世話がかかるよねー、1年って。ねえ大石」 「ああ、そうだな」 汗をぬぐう。発汗機能が悪いほうではないので、その程度ではまたしたたり落ちてくることなど知っている。それはまるでコートに落ちることが義務であるかのように、静かにこめかみから顎へと流れ落ちていく。 だがその汗は、太陽の手柄ではない。 ましてや目の前の辛子色のユニフォームの功績でもない。なにかに負けて流れる汗ではなく、内から自分のなにかがはじけて自然と浮き出てくる汗だ。そのような汗の場合は大抵、いいテニスができると相場が決まっている。 「ああ、でも俺おチビにはちょっと感謝してるんだ。内緒だけどね」 返事は返ってこなかった。ただ空気が揺れた気がした。風ではなく、人の力によって。 全国大会決勝、ダブルス1。既に青学は1勝2敗、ここで敗北するとこの夏は終わる。準優勝という、手塚にとっては不服極まりない結果とともに。 (全国大会ナンバーワン、か) サーブが相手コートへと突き刺さるように飛んでいく。乾ほどのスピードはなくとも、正確性には絶対の信頼がある。いや、信頼してもらえるよう練習したもののひとつだ。サービスエースとなる確率は高くなかったが、返される打球がイレギュラーな対応を迫るものではないことはこの身体が覚えている。 決して気を抜いてはならない相手であることは重々承知している。だが大石を知り尽くした身体が一瞬だけ他事を考えてもよいと許可を与えてくれているかのように、身体と頭は全く関係のない動きをしてみせる。 (ここで勝ったら、その夢が叶う。ここまでこさせてくれたのは大石に、みんなに、それに) まるで映像のように、冷静に丸井の動きを見つめる。大石が打ち返すよりも自分が打ち返した時にあの挑発的な目が一瞬鋭くなる。前衛の方がより得意、という重なりあう互いの性質が相手の打球に過剰な反応をしてしまう。 それは英二も同じだった。いつ妙技が出てくるか分からない、しかしそのタイミングを見極められるのは大石よりも絶対に自分だ、と口にはせずとも心に決めている。そして見極めたあと、反応できるのは自分であるべきだと身体に言い聞かせている。だから丸井の動きから目は離せない。 辛子色が揺れる。丸井の鮮やかな赤色の髪が、太陽に照らされているからではなく自らの意思で太陽をはねつけているかのように輝く。 全国大会決勝という最後の舞台。自分たちの勝敗で結果がすべて決まるという肝要な試合。相手は3連覇を謳うことを使命とする王者立海大附属、その中でもダブルスのスペシャリスト丸井・ジャッカル組。すべては整っている。 (おチビがいたから、今この試合がある) 強く一振り。軽く飛ぶようにして打ち込んだスマッシュが、真っ直ぐに相手コートに突き刺さる。依然ポイントは相手リードであったが、ふしぎなほどに動揺はしていなかった。 コートチェンジを告げる審判の声が響く。丸井の視線が真正面からぶつけられた。 「……そろそろ、調子に乗るのもやめといた方がいいんじゃねーの?」 動揺を見せない英二に対し、勝者に近づいている人間のものとは思えない言葉が届く。 だが冷ややかな笑みには冷静よりも激情という言葉が似合う。挑発的な視線には裏づけされた実力がある、一度向けられると怯みそうになることはあっても逆らう言葉は絶対に見つけられなくなる。 ただ、「そうになる」だけだ。それ以上でも以下でもない。逆らう言葉は見つけられないのではない、考えるよりも先に身体には別の使命がある。 ラケットをくるりと回し、英二は大きく息をつく。汗のために流れ落ちてくる前髪を腕で払いのけ、真っ直ぐに丸井を見つめる。 「調子になんか乗ってないよ。真面目にただ、勝とうとしてるだけ」 ジャッカルの目がすっと細められる。獲物を見つけた猛獣が、静かに標的に近づいていく静けさをともなった目だ。丸井も似たようなもので、黙ってガムを膨らませる。 「今の状況が分かってる台詞には聞こえねえな、それは。なあジャッカル」 「ああ。教えてやろうじゃねえか」 それでも、逃げるわけにはいかない。ポイントを落とし続けるわけにはいかない。 小さく下唇をかみ締め、コートから出る。 自分たち青学が全国中学生の頂点に立つためには、越前が勝たなければならない。越前が勝つためには、自分と大石は今ここで負けるわけにはいかないのだ。 「本当はさ、変だと思うんだよ俺。なんでおチビのために勝たなきゃいけないのかって」 ドリンクを差し出される代わりにタオルを渡す。頭にかけたタオルが太陽の角度を計算して若干視界を暗くした。 「おチビのために、じゃなくて自分たちのために、でも同じ1勝じゃん。なのになんで、こんなにもおチビおチビ言ってるんだろう、俺」 「そうだな、間違ってはいないな」 「だろ? あーもう、丸井たちに勝てばそれで大石との約束も果たせることになるって、分かってるんだけどなあ」 大石が笑う。駄々をこねる子どもをあやすより先に、その言い分に思わず吹き出してしまった大人のような笑い方だ。発散してしまった水分を取り戻すべくドリンクを口に運ぶ姿勢のまま、英二は大石を睨む。大石は首を横に振った。 「さっきまで越前を本気で心配していた人間の言う言葉とは思えないな、それは」 「心配はしてる」 「心配もして、可愛がってもいて、そして、チームの仲間として認める認めない以前に存在して当たり前の感覚になっている。違うか?」 「違わないけど、でもなんかさあ。なんかだよ」 大石はそれ以上なにも言わなかった。英二も言葉を繋げず、ただ真っ直ぐコートを見つめていた。 自分で言うよりも、人に言われた言葉の方が随分と重みと価値を持っているものだと痛感しながらコートに戻る。使い古したテニスシューズもラケットも、気にならないほど軽い。吸い込まれるようにここまで落ちてきた風がさらりと髪とユニフォームを揺らせば、あの青い空を見上げるように身体は仕組まれてしまっている。 見上げた青空に、やはり雲はひとつもなかった。 (仕方ないか。個人戦のダブルスよりも、団体戦のダブルスの方が好きなんだから) 濁りのない青が一番好きな色になった責任は、とってもらわなくてはならなかった。 視界片隅に不二が映る。入部当初は本当に同い年かと悪態をつきたくなるほど綺麗に差し障りのない笑みを浮かべる不二に、幾度となく嫌気がさした。だがそんな不二が、がむしゃらに青学の名を出して勝利をもぎとった。個人戦ではなく、団体戦で。 その横に手塚がいる。1年の頃はもっと感情をむき出しにすることが多い男だった。強いから当たり前かと思えたし、大きくなってからの冷静沈着ぶりにも強いから当たり前だと勝手に理由をつけた。手塚という男に強いという言葉以外は似合わない。その手塚に団体戦での全国優勝をと宣言されてしまっては、もはや従う以外の道は見つからない。 「おかしいんだよ、うちは。個人主義なくせに団体戦団体戦って。どっちなんだよっての」 「相変わらずだな、コートに立つと攻撃的になるのは」 「負けるよりはよくない?」 「それもそうだな」 ボールを放り投げ、にっと口の端をあげて笑う。汗は再び流れ落ちてきたが、もはやぬぐうのも面倒だ。流れたければ流れればいい、水分を連れ去ってしまえばいい。その代償として身体を酷使する権利は持ち主である自分が握る、ただそれだけだ。 「勝とうよ、大石。勝っておチビに繋ぐ」 「ああ」 「おチビに繋いで、おチビが勝って。青学が優勝したら、俺たち全国大会ナンバーワンのダブルスってことだよね。全国区なんていう言葉はもういいや、聞き飽きた。聞き続けるよりもさっさと一番になっちゃった方が早いよ。だからおチビに繋ぐ」 「……丸井とジャッカルに勝って、じゃなくて?」 そっと頬を緩めて大石が尋ねる。聡い親友が口にする言葉は優しくて困る。 涙の味を決して思い出さないようにして笑い、英二は力強く頷いた。 「越前リョーマが勝って、だよ。俺たち青学ダブルスだもん」 正々堂々と利き手でピースサインをする。もちろん丸井たちにも見えるように。 全国大会で頂点を極めるという目標は変わっていない。大石とダブルスを組んでからの今日まで、それは揺らぐことなどなかった。ただその過程で手塚が、不二が、乾が河村が、桃城が海堂が、そして越前が、3年生になるまでの3年間に増えていった仲間たちの存在が必要不可欠になっていった。 だから、勝たなくてはならない。 (勝たなきゃ意味がない。勝たなきゃ皆とここまできた意味がない) 手塚がシングルス3にかけた思いを、乾と海堂がダブルス2にぶつけた思いを、不二がシングルス2にこめた思いを、見守ってくれる河村の思いを、それらすべてを無駄にしないためには今ここで自分たちが勝たなくてはならない。勝って越前に繋げなくてはならない。 使命を見つけた身体は素直だ。ラケットを一度くるりと回せばそれだけで冷静になる。 「ゲーム立海、5-2!」 数字は無常にも響き渡る。それでも、心は落ち着いていた。酷使の手前に近づきつつある身体は反射的に涙腺を過剰反応させようとしたが、首を何度も横に振ってそれを逃れる。 だから最初、風は涙を流させないために吹いてくれたのかと、最初はそう思った。 「英二センパーイ、大石センパーイ!! 時間稼ぎ、ありがとうございましたぁ!!」 風に乗って桃城の言葉がコートに響き渡る。見上げた先、あの青い空を背負った桃城が青学のジャージを翻してこちらに手を振っていた。 青という色は卑怯だ。青空に負けぬほどに鮮やかに彩られた青学のジャージは卑怯だ。 「そろそろ行くっしょ、大石」 思わず口元に笑みが浮かんでしまう。数字の上では敗戦が濃厚だとしても、あくまで濃厚なだけ。まだ自分たちの未来が塗りつぶされたわけではない。 それを証明してくれるものを運んできてくれた桃城に、風に、笑みを向けないわけにはいかなかった。 「越前に繋ぐぞ……英二」 相棒もそれが分かっている。中学3年間をともに過ごしたダブルスのかけがえのないパートナーである、顔を見ずとも笑っているのが分かる。追い込まれての笑みではなく未来が見えての笑みだということが、風を感じていれば肌で分かる。 中学最後の試合。優勝を決める試合ではなく、主役になる試合ではなく、繋ぐ試合。 英二はラケットをもう一度握り締め、小さく飛んで息を整える。目を閉じる。 繋ぐ試合の本当の意味は、団体戦をともに乗り越えてきた仲間たちが一番理解してくれている。そう思うだけで、青学の校旗がひるがえる様を見るだけで心は晴れやかだった。 開けた視界に映る青学校旗の青色、ユニフォームを飾る青色、そして仰ぐ空の青色。自分の味方はこれほどまでに傍にいる。 真っ直ぐコートの向こう側に立つ相手を見つめる。一度くるりとラケットを回してしまえば、あとは身体の言うがままだった。 「……っていう、格好いい試合だったわけよ。ああ、今思い出してもなんか震えるなあ」 珍しく多弁になっている、と最初の5分で気づいた。だがその顔に浮かぶ表情があまりに晴れ晴れとしているものだから、自分の言葉は水をさすだけだと思って相槌に代えたら話が延々と今まで続く形になってしまった。 いつもであれば、宿題をしろとその手を促す頃合だった。全国大会が終わるということは2学期の始まりまで残り10日ほどということになり、その間に夏休みの宿題を片付けなくてはならないという危機感を本人以上に理解していなければならない生活もこれで2年目だ、そうやすやすと羽を伸ばさせるわけにはいかない。 だがは、口を挟むことができなかった。 「それでさ、俺たちが勝つじゃん。で、そこで手塚が俺たちに言うわけ。『よくやった』って。いやいや、お前それはないだろうって俺が突っ込んでもさ、大石が感極まって泣き出すもんだから俺の反論なんか誰も聞いてくんないのさ。はい、俺の反抗時間終了。みたいな」 「手塚くんから言葉がもらえたらそれでいいじゃない、どうして反抗するの?」 「えー? もっとこうさあ、感動があってもいいと思ったんだよ。『菊丸、素晴らしかった』とかさ!」 「……えー。手塚くんはそんなこと言わない、胸の内に秘めてる人だよ」 「なにそれ、なんでそこで手塚の肩もつの」 「いや、英二が手塚くんのこと好きすぎるのはよく分かったんだけど」 「うわっ、結論そこ? 俺あいつのこと一度もいいやつだなんて思ったことないんだけど! 強いとは思ってもさあ」 今日だけはいいのかもしれない。そのシャープペンシルがくるくると回っていたり、夏休みのワークが白いままだったりするのも、今の瞬間だけはいいことにしてしまいたい。 そう思わせてしまうほど、あの最後の試合は心に残るものだったと。呟くタイミングを今日も奪ってしまうほど英二がまだ心をあの試合に残してきているのならば、それはそのままにしておくべきだ。それが、感動させてもらった人間ができる唯一のお礼にも近い。 の言葉に少し機嫌を損ね、ふてくされると口が閉じる。すると手は勝手にワークの問題を埋め始める。そのあたりは少しだけ大人びたと、笑ってしまうと余計に機嫌が悪くなるのでそっと眺めるだけにした。 最後の夏だった。最後のレギュラージャージだった。 今シャープペンシルを動かす右手に、あのジャージが映える日はもうこない。冬、寒さに負けて制服の上にジャージを羽織る姿も見られない。それがいかに寂寞とした感情を導き出すものなのか、現実になってようやく理解する。 それほどまでに、あのコートの上の英二は大切な存在だった。 「英二」 「なに? ……あー、もう理科とか本気で忘れた。なんだっけこれ、仕事仕事……」 「手塚くんじゃないけど、私が言ったら駄目かな」 英二の大きな目がこちらを向く。自分なりの表現で埋めようとしていた記述問題をそのままに、はたと動きを止めての次の言葉を待つ。 その真っ直ぐな瞳であの日もコートに立っていた。その目が今、自分だけを見ている。 「テニスをしている時の英二は、本当に格好いいよ。絶対に。絶対、誰にも負けないぐらい格好いいよ。あの日、私試合見られて本当によかった。本当にいい試合だったよ」 大好きだと言える人に、心からの本音をぶつける。まるで告白にも似た緊張と高揚が遠慮なく襲ってきて、呟いたあとになって恥ずかしさのあまり視線をずらす。 グラスの中が空になっているのをいいことに立ち上がって、 「ありがと」 与えられた言葉にすぐに動けなくなるほど、身体は彼のことが愛しいという感情で溢れてしまっていた。 「レギュラーメンバー以外でそれを言ってほしいのは、だけだよ俺。何気に自慢なんだ、みんなの中で一番長く付き合ってるのが俺たちだから」 恥ずかしさからよりも、嬉しさに負けて笑う時の英二は常よりもっと柔らかい線で笑みを浮かべる。年相応、いやそれよりも幼く見える瞬間のひとつだと言ってしまっては失礼なのかもしれないが、その笑い方は絶対に見逃したくないものになっていた。 青春学園中等部で出会って3年、彼のテニスを見始めてからも3年。 出会った頃となんら変わらないテニスへの姿勢も、これで一度リセットの形になる。次の舞台は高校生になった英二を待っている、そしてその舞台も見ることを彼は許してくれている。 「ずるいなあ」 嬉しさに負けて英二の隣に戻る。そっと頬に唇を寄せることができる自由にも負けて瞳を閉じて肌に触れれば、褒美かのように頭に優しく手が触れる。 「そういうこと言われると、いつになっても英二を応援していたくなるのに」 「あれ、してくれるんじゃないの? そっちの方がずるいよ、ここまで付き合ってきて」 少しだけ大人びた部分が増えた笑い方。はそれにも負けることしか知らない。 それでも、出会った頃からまるで変わらないその気持ちを持ち続けてもよいと他の誰でもない目の前の人が一番認めてくれているのであれば、好きになってしまった最初の感情を大切にし続けることになんら抵抗感がない。 「英二」 「ん?」 「全国優勝、おめでとう」 終わったり始まったり、まだ始まったままだったり、色々なものに対する感情が溢れそうになると、もう笑みを向けることしかできなかった。 改めて呟いた言葉に飾り気はなにもない。言い古した感もある。それでも何度も口にしてしまう。 その気持ちを知ってくれているからこそ、英二は今日も出会った頃と同じようににだけ笑い返してくれた。 |
| 09/05/08 |