| 青色が繋ぐ |
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見上げた空に雲のひとつもないことが、爽快だった。 英二は頬を緩め、自然と浮かぶ笑みもそのままに空に視線を送る。昨日の雨の記憶はなかったことにしてもよいようだ。いや、雨があったからこそのこの色なのかもしれない。 誰もいないテニスコートを独占し、誰に邪魔されることもなくコート中央に腰を下ろす。なにもかもが緩む感覚。いつしか英二は、色鮮やかな緑色のコートの上に寝転がっていた。 「随分と大胆な寝方だね、英二。手塚に怒られるよ」 朝鳥の鳴き声の中、空の中に、見慣れた親友の声と顔が飛び込んでくる。さらりと伽羅色の髪が揺れたかと思えば、輝きを放っていたはずの太陽がその髪の向こうで白い光となって斜めに逃げていく。青と白のレギュラージャージを着た不二は笑っていた。 「でも、大石よりも早く着いたことは褒めておこうか」 「嬉しいのやら嬉しくないのやら」 「そんな姿勢じゃ、褒めるものも褒めきれないから仕方ないね」 もともと褒める予定はなかったくせに、と呟くのはやめておいた。代わりに小さなため息をひとつ零せば、不二に届くよりも早く風が運び去っていく。青空はため息を今この場にそぐわないものとして許すつもりがないらしい。そう思った時、自然と上半身が起きた。 「昨日、雨で部活早く終わっただろ。だから時間が余って、いつもより早く寝ちゃったんだよな。そうしたら」 「いつもより早く起きて、今度は朝の時間が余ってしまったと」 「そういうこと。不二は」 「僕? 僕も英二と同じ。身体の中の時計はなかなか融通がきかないらしい」 「ええ?」 「なに、その疑いの目は」 「別に」 隣に腰を下ろした不二を、訝る視線で見つめる。だが親友の横顔にはいつもどおりの「中を読ませない」表情があるだけだ。それが逆に深読みをさせることに気づいたのは不二と出会って1ヶ月経ったころ、やがて深読みをすることが馬鹿げていると思ったのは2ヶ月後。いつも隣にいるその感覚の居心地のよさが勝ってしまった。不二はそれ以来の親友だった。 人と接する時にはなにに配慮すべきなのか、と考えられるようになったのは、それからだった気がする。不二と並び、青空を見つめながら英二はふと思い出す。言葉にはしないが、おそらく不二も似た感覚を持っているはずだった。 「次に来るの、誰かな。賭けようぜ、不二」 「当てたら?」 「購買部のジュース」 「のった。ペットボトルの方ね」 予定調和のような会話に、不二はいつも付き合う。自分の会話が面白いとも思っていなければ、極論今この空間になにか言葉が必要なほど不二との関係が出来上がっていないなど欠片も思っていない。 しかし出てくる言葉に対し、不二は特になにを思うこともなく言葉を返す。その関係がますます爽快な気分にさせることだけは確かだった。 「順当に大石」 しばらく沈黙を見送った後、不二が答える。英二は青空に反発して盛大なため息をつく。 「バッカだなあ、不二。ここで真っ当な答えなんか用意してどうするんだよ、逃げる男は格好よくないぞ」 「別に英二の前で格好よくありたいなんて思っていないし、そもそも英二にそう思われるよりも僕はジュースがほしい」 「小さい男だな!」 「発案者にそれを言う権限はないよ」 さらりとかわされることも、予定調和のひとつだった。言葉の勝負では絶対に勝てたためしのない不二の端整な横顔に目を据えるが、そうするだけで気持ちは自然と落ち着くようにできている。冷静になれば、不二の言葉が間違っている確率は自分のそれよりも随分と低いという事実を思い出さないわけにはいかないのだ。 うん、と英二は納得の意味とは少々異なる相槌を打って首を傾げる。 太陽は既にテニスコートを照らすようになって久しい。フェンス中央付近にある時計の長針は、あと半周もすれば早朝練習の開始時刻を告げる場所までたどり着いてしまう。そろそろ大石が来なければ、逆に心配になるというものだった。 「よし、大石だとつまんないから、大石の次に来る人にしよう。ジュースとアイスで」 「朝からアイス? 消化不良起こしそう」 「アイスは昼にすればいいんじゃないの」 「なるほど」 急な方向転換もなんのその、不二は提示された条件にあっさりと快諾の意を示し、再び沈黙の中で考える。 伽羅色の髪が朝陽に照らされる様は、優美だ。線のひとつひとつが滑らかさとは無縁でいられないと訴えているかのような動きをする。その髪を揺らし、やや顎を上げて空を見つめるような角度で考え続ける不二の横顔は嫌いではない。 「越前」 「……は?」 「うん、越前。彼だよ、きっと」 そして時折、素っ頓狂なことを言い出すのももちろん嫌ったためしがない。 「うわあ、ありえない。あの遅刻魔が。レギュラーの中で一番の寝坊記録を持ってるあのおチビが。桃より寝坊する数が多いのに! 絶対無理、ありえない!」 「それはどうかな。ルーキーは気まぐれというのがセオリーだよ」 「そんなに都合よくいかないのが世の中だって」 頭の片隅には黄色いジャージを着たくせ毛の2年生が浮かんでは消えていたが、ここは青学だ。時を見計らったかのごとくコートに現れたのが大石であったように、ここが青学である以上あの神奈川の2年生よりも気まぐれな人間に出会うはずがない。そう、青学のルーキーが気まぐれであったら2年前の手塚はどうなるのだと思えば不二の言葉の信憑性など簡単に吹き飛ぶ。 なにをしているんだ、と大石が目を丸くしているのをよそに、英二は自分の勝利のために候補を絞る。 「よし、海堂だ。海堂にしよう」 「海堂?」 「ランニングし足りなくてそのまま来ると見た」 ふうん、と不二はつまらなさそうに相槌を打つ。 予知能力ではないかと思えるほど状況判断が早い親友のその中身のない反応に、一瞬嫌な予感がする。しかし一度言葉にしてしまった手前、かき消すことはできない。 「海堂みたいなタイプこそ、集団行動の輪を乱すものが大嫌いだからイレギュラーな行動を取らないと思うんだけどな」 不二の言葉が空気の中に消える。 初夏の風がさらりとコートの上を流れていったその時、あくびをかみ殺しながら1年生ルーキーが入ってきてしまえば、もはや英二に返す言葉はなかった。 「それで、ジュース買ってあげたの?」 太陽が南に輝く。校舎脇の非常階段は、この時期校舎の影を斜に受けて過ごしやすい場所になる。地面から数段上った部分までは太陽に活躍の場を譲ってくれているので、ただ薄暗いという場所でもない。風がすり抜けることで太陽の温みが程よいものとなる。 英二はこの場所が好きで、昼休みなど長めの休み時間になるとよくここを訪れた。ひとりの時もあれば、大石や不二と部活の話をすることもある。2年生の桃城と訪れた場合は、きまって週刊漫画の話題で盛り上がった。 「ふたり分」 「ふたり?」 「『僕だけの勝利じゃないし、越前にも買ってあげないとかわいそうだよね』」 「不二くんらしい」 下から3段目、浅く腰掛けて4段目に預けた両腕に体重を受ける。だらりと伸ばした両足は黒の学生服のために太陽の熱を余すことなく享受して、ただ熱い。渇きに負けて顎を上げれば、後ろからペットボトルが差し出された。 「お水でいい?」 「いい」 肘を動かさなくてもいい、その絶妙な位置にあるペットボトル。手のひらを見せるだけでそこに載せられる雫のついたそれ。受け取り、軽く喉の奥に流し込めばそれだけで心が落ち着く。 一度閉じた瞳をそっと開き、青空を見つめる。 変哲もない場所。変哲もない空。変哲もない時間。 けれどそこに、がいる。朝テニスコートに不二がいたようにがいる。自分より2段高い場所に腰かけ、生産性もなにもないだらだらと続くだけの変哲もない会話に付き合ってくれる彼女の存在がある。 「でも俺、そういう不二嫌いじゃないんだよなあ。というか、それが不二だって思う」 心の中になにかがじわりと滲み、広がり、しみこんでいく。わずかな熱を帯びているように感じるのは昼の太陽が元気なためか。答えは探さぬまま、英二は言葉を繋ぐ。 「好きとか嫌いとか、それだけで色んなこと決めちゃったら、それ以外のことがでてきた時に何も感じられなくなる。好きか嫌いしか知らない人間なんてつまらない」 「どうしたの、英二。いきなり」 「それに気づくと、不二ぐらい面白いやついないんだよな。俺の知らないものがたくさんある、俺にないものばっかり持ってる。なのに、俺を跳ね返さないの」 ペットボトルを返す。身体をわずかにひねるようにして階段の上を見上げれば、が少しだけ不思議そうに、けれど言葉を挟まず目だけで次の言葉を促す。 優しい沈黙。それが肌に、胸に染みこんで、英二は頬杖をついて笑う。 「そういう不二を見てるとさ、俺もなにかしたくなるじゃん」 「なにかって、英二が言うと悪戯みたいに聞こえる」 「違う、そうじゃなくて」 「あはは、知ってる知ってる。ごめん。不二くんに対して、友達としてだよね」 笑いかけられると頷きたくなる。ごめんね、ともう一度繰り返すにはため息をつきながらも苛立ちの言葉など生まれることがない。 首をやや傾ぐ。視界の中の色々なものが斜めになる。けれど、空は変わらず青い。 「俺が不二と一緒にいて、楽しいのなら。じゃあその分俺は不二にとって楽しいと思える存在になりたいし、そうであるべきだし、そう思っちゃうともう駄目だった」 「……だめ? どうして?」 「友達で当たり前になる。友達っていう言葉を用意するのも面倒になる、隣にいて当たり前っていう感覚にしかならなくなる。それを今日、改めて思った」 青さが胸をすくう。本当であれば気恥ずかしい、今でも不二本人を前にしてはそう宣言できるものではない思いを言葉にすると、青空があっさりとそれを拾い上げてくれる。風が吹いて髪が揺れれば、下を向いてうつむくよりも上を向いて綺麗なものを目にしていたくなる。 小さく一呼吸。今この時間なぜとこの場所に来たのか、ようやく分かった気がした。 「でも俺、には言えるよ」 急に話を振られたが、今度は目を丸くする。隠すことのない反応ひとつひとつが頬を緩ませる。今日の自分はどうやら随分と甘えたい衝動に身体を乗っ取られているらしい、そう思うには十分だった。 「一緒にいることが当たり前で、『なんでだろう』とか考える意味が分からなくて、というか考える理由がなくて、考える時間を別に用意しなくちゃならないぐらいなら、そんなの俺はいらない」 「……うん?」 「悩む暇とか考える暇があったら、こうしてと一緒にいたい。だから今俺、ここにと一緒にいるんだと思う」 誰もいない校舎脇。あるのはわずかな太陽の光と吹きぬける風と、自分たちの呼吸。 見慣れたものしかそこにはない。景色も空気も温度も、言ってしまえば目の前にいる彼女の顔ですら1年生の時から見ていればいまさら何に反応すべきなのかも分からない。 けれど、傍にいたいと思う。その気持ちは慣れれば慣れるほど、優しさ温もりを心の中に染みこませてくる。 「告白かと思った」 いくらか時間が流れたあと、ようやくが口を開く。頬は少しだけ赤かった。 「似たようなもんかな」 「初めての時よりずっと落ち着いてると思うけど」 「それだけ大人になったんだよ、多分」 仰ぎ見る場所にいる恋人に向かってただそれだけを投げかける。重みはない。息苦しさもない。息をするかのごとく口から零れた言葉に、自分自身が一番馴染んでいる。 「昔の方がいい?」 問いかければ、は優艶に笑みを浮かべた後首を横に振る。 「どっちがいいもない」 「はそう言うよな。じゃあ、今の俺は駄目かな」 また首を横に振る。今度は先ほどよりももっと確固たる意思を見せて。 英二は口元を緩め、両腕に体重を預ける形で天を仰ぐ。ゆったりと流れ行く雲の流れを見ていると、大きく息を吸いたくなった。 「うん、多分」 「……うん?」 「そうだろうね。だって俺、の傍にいたんだもんなあ」 幾度この空を見上げたことだろう。幾度、青色の空に浮かぶ雲を見送ったことだろう。青学に入学して以来日々が勉強と部活の繰り返しといえば確かにそうで、変哲のない毎日を繰り返しているようではあったが、そこにこの青空があったことは忘れていない。優しく包み込むというよりも、楽しさも苦しさもすべて見届けて成長を促してくれていた。 そして青空の下、自分がなにを得てきたのかも、英二は忘れるつもりはなかった。 「私が傍にいた、じゃなくて?」 「俺がいたの。好きな子の傍にいたければ、格好よくなりたいなんて思って当たり前だった」 感情ひとつがいかに人生を決めるか、悟るにはそれだけで十分だった。 不二と出会って大切にしたいと思える親友を得た。大石と出会って大切にしたいと思えるテニスを得た。越前と出会って、大切にしたいと思える後輩を得た。その中で自分が立ち止まっているわけにはいかなかった、立ち止まっていたくはなかった。その思いをこの青空は誰よりもよく見ていてくれたはずだ。 大切にしたいものの中に、彼女の存在があったことも見抜いていたはずだ。 「立ち止まって考えるぐらいなら、楽しんだ方がいい。でもそのためには自分だけが楽しんでいちゃ駄目だっていうことは勉強したつもりだよ、俺」 「……英二だけじゃないと思うよ? それは」 「うん。だから俺、以外と付き合うことなんてできなかったんだと思う」 青という色は不思議で、なぜここまで自分を解放してくれるのだろうと心から思う。けれどそれを不快に思いたくない環境が、青学にはあるようだ。 英二は一度大きく深呼吸をした後、振り返り右手を伸ばす。小さな手を掴む。細い指の感触に一度笑って見上げた先には、大切にしたいと思える彼女が当たり前のようにいる。 「青学入ってよかったなあ、ってテニス以外で思ったら、手塚に怒られるかな」 「怒らないって分かってるくせに」 「分かってるよ。あいつ青学好きすぎだから。あと、俺たちのことも」 「じゃあ、今度は手塚くんのためにテストで90点以上取らないとね」 「ええ?」 「なに、その目は」 「別に」 昼休み終了のチャイムが鳴り響く青空の下、握ったの手の温もりに心が落ち着く。 「でも俺、青学が好きなのは本当だよ。不二にも手塚にも、にも会えた。強くなったり格好よくなったりする努力が、楽しくて仕方ないと思えるのは、青学だからだと思うんだ」 「……そう?」 「うん。だからなんでもない、こういう時間も気持ちが落ち着くんだと思う」 すべてが愛しく大切なものであると、言葉にはしない代わりに優しく包み込むように手を握り返せば、またそれだけでは笑ってくれる。 青い空の上をゆったりと、濁りのない真っ白な雲が流れていった。 |
| 08/05/14 |