Special week! 01 月曜日

 月曜日、晴れ。午前7時45分、同じ制服に身を包む学園の生徒でごった返す青春台駅に到着したところで、そのメッセージは突然やってきた。

『限界、お腹すいた』

 朝鳥がさえずり、薄い涙色の空をかすめる程度の薄さしか持ち合わせられなかった雲がゆっくりとした速さで風に押し流されていく。初夏を迎えたこの時期の空は、いつ見ても清々しい。
 しかし、その清々しさの欠片もない端的で配慮の欠片もない、何なら独り言の一言で済ませて見なかったことにしてもいいのではないかと思えるほどの言葉に、は駅の出口で足を止めたまま、首を傾げて眉根を寄せる。

(……どうして今届くわけ?)

 文面に辟易することにはもう慣れた。そこを気にしていては、今の生活は続けられない。頭の中に簡単に思い浮かべることができる送り主の満面の笑みこそ、今のを悩ませる。
 時間帯から言えば、そのメッセージの送り主はいまだ携帯電話に触れるを許されない場所にいるはずだった。たとえ規律に厳しい部長の目を盗んでコートに持ち込んでいたとしても、操作をする時間など確実にないことだけは揺るぎない事実のはずだった。しかし、メッセージは届いてしまった。今現在の彼の状況をリアルタイムで報告されていることに変わりはない。

(だとしても、今言わなきゃいけないことがこれ……?)

 友人たちが挨拶とともに通り過ぎていく中で、立ち尽くしたままだったはようやく足を進める。
 携帯電話の画面はあの無機質で遠慮のない言葉を表示したままだったが、もはやその意図を深く考える時間よりも立ち尽くす自分の時間の方がもったいない。そう思えるほどの相手であることを、喜んでいいのか悲しんでいいのかは分かりかねた。
 もちろん、彼がそのメッセージで求めていたものに偽りも含みも何もないことは分かっていた。
 それでも素直に従うことはどこか癪で、は返事をしないまま学校へと向かう。登校する生徒でにぎわう校門を通り抜け、ますます強くなっていく太陽の日差しを避けるようにして校舎の西側から目的地へと足を進める。そこは、朝の太陽に照りつけられた鮮やかな緑の世界だった。
 悠然と広がる青学のテニスコートに、は誰に言われずとも目を細めてしまう。

「2、3年はランニング、1年はコート整備だ。レギュラーは俺と大石のところに集合」

 威厳ある部長の声が響き、はそっと校舎の陰からテニスコートを見つめる。
 探し回るまでもない、目的の人物はコート中央に腰を下ろして天を仰いでいた。

(一体いつ携帯を触ったの、あの人たちの目の前で)

 眼鏡の奥の眼光鋭い部長の支配下、そして友情には厚くとも風紀には厳しいダブルスの相方の監視下。そこに油断などまるでない。彼らが生徒会や委員会で不在とならない限り、テニスコートの上ではテニスという競技以外の自由はそう簡単には許されない。言い訳は許されない、なぜなら今まさににとって目印となった青と白のジャージはその象徴だ。
 選ばれた8人の証、そのレギュラージャージに身を包む以上、模範でなくてはならない立場であるはずだというのに。は軽く眩暈を覚える。ため息も二つ目が出始める。けれどそのような心労に、どこかの誰かはまるで気づかない。

「あー、何か食べたい! もう限界!」
「英二、また朝ご飯適当に食べてきたの? 体がもたないよ」
「仕方ないよ、食欲より睡眠の方が勝ったんだからさ」
「人はそれを怠慢と呼ぶ。いや、惰眠か」
「うるさいよ乾。お前の料理の腕こそ怠慢以外の何だって言うんだよ」

 模範であるべき口からは、幼さをむき出しにした言葉しか届けられない。ああ、と視線を下に落とした瞬間にテニスコートには模範的レギュラーである部長の一喝が響き渡る。
 相変わらず怒るよりも怒られる図が似合う恋人である菊丸英二を見つめて、は深いため息をついた。

(だから朝ご飯を買ってこいと、そういうこと)

 携帯電話は既に鞄の中に戻していたが、今朝のメッセージは思い出すほどに困る長さでは全くない。それほど印象が強い内容だったからではない、むしろ見慣れてしまったからだというのが物悲しい。
 けれど身体は、そのメッセージに従う習慣を嫌がらないようになってしまった。
 河村に掴まれて強引に立ち上がらされた英二が渋々と手塚のもとに行き、やがて小さな後ろ姿しか見つめられなくなった後、は自分の手元を見つめた。
 ペットボトルの水滴がビニール袋に張り付いている。その隣には総菜パン。自分の昼食用だと言うには大きすぎるそれをじっと見つめれば、また諦めの一息が口をつくばかり。

「……都合がいいだけかなあ」

 は校舎の壁に預けていた背中をそっと離し、コートを見つめながらしゃがみこむ。
 このような悩みを抱いたと告げれば、糾弾されるべきは英二だと恐らく不二は味方してくれるだろう。いや、常に言っている。自分に都合よくにこのようなメッセージを送ってくる英二に、「甘えてるだけだよ」と笑顔でさらりと言ってのける。
 しかし、その言葉が正しいと分かりながらも、いつも素直に頷けない自分がいることもは確かに知っている。
 小さく唇を尖らせて、もう一度ため息。癖になるからやめようと心の底から思うものの、気づけば頬杖をついて渡すタイミングを考えている自分はさながら主の帰りを待つ忠犬だろう。

「……何やってんすか?」
「わっ!」

 するとその時、掠れた低音の声が背後から飛んだ。は思わず校舎の壁により縋る。
 思わず落としそうになったビニール袋を懸命に持ち直して、そして慌てて姿勢を正しながら振り返ったその時、目に飛び込んできたのは自分よりも小柄な後輩の姿だった。

「越前くん」
「ものすごい目立ってますよ、先輩。他校の偵察の人みたいっすね」

 しゃがんだ自分と同じ高さの視線を無表情で彩る越前は、の慌てた様子にまるで動じず、腰を下ろし、曲げた膝を支えにして器用に頬杖をしながらの秘密裡な行動を観察していた。

「……越前くんはランニングじゃないの?」
「俺は1年だからコート整備です」
「あ、そっか。大変だね、レギュラーなのに1年生の仕事もきちんとしなくちゃいけないから」
「はあ、まあ。もう慣れましたけど」
「そうだよね、うん、……うん」
「はあ」

 しゃがんだ姿勢のまま、下級生と視線の高さを等しくしたまま。気まずい空気をなんとかしようと咄嗟に思いついた言葉を並べてみるものの、長続きなどするはずもない。悲しい予想どおり、と越前はお互い不思議な姿勢のまま沈黙を流す。
 物珍しく見るでもない、それ以上の追及をするでもない、ただ沈黙だけを無表情で見つめる。その手離しの姿勢の方がどれほど厳しいものかを、この後輩は知っているに違いない。情けなさに後押しされる形で、は気まずい空気の中立ち上がる。ようやくいつもの見上げる視線をもって、越前は呆れたため息を零した。

「菊丸先輩に会いにきたんすか?」
「え、どうして?」
「だって、それ」
「……あ」

 リョーマの視線の先を追えば、自分の手にはビニール袋がある。認識することでようやく思い出すことができたそれを、は改めて強く握りしめる。なぜか気恥ずかしくなるのは、この後輩の目が濁りをまったく持っていないからか。何もかもを見抜いてしまうような透き通った色をしているからか。

「早く持っていった方がよくないすか? 菊丸先輩飢え死にしそうだって叫んでたっすよ」

 そのようなの心中を知ってか知らでか、越前はそれ以上何を言うでもなくちらりとグラウンドを見やった後でようやく立ち上がる。コート整備用のブラシの柄をつまらなそうに握り直すが、の前からいなくなるということはしなかった。冷静な態度の後輩に、はようやく落ち着いて自分の手元のビニール袋を見つめる。

「素直に持っていっていいのかなあ、どうしよう」
「なんで?」
「なんで、って。……なんとなく」

 ふうん、と越前はつまらなさそうに相槌を打つ。しかし足はコートへと向かわず、その姿がの視界から消えることもない。どこか突き放したような、けれど決して見捨てない雰囲気を持っている彼の態度は居心地のよいものだということに気づいた時、はぼんやりとコートを見つめて思わず話し始めていた。

「お腹減ったって言われたから私がすぐに買いに行くって、どうなのかなって」
「でも買ってきてるじゃないすか。それ」
「だからここで立ち止まってるの」
「いや、それ説得力ないっすよ。ここまで来ておいて」
「……そうですね」

 越前の歯に衣着せぬ物言いは、的確に真実を示していて自身反論ができない。納得して従う以外の方法が見つからず、再び沈黙だけを見送ることになる。
 確かに、駅と学校の間にあるコンビニに立ち寄って彼の好みのものを買って、そしてここまでもってきているという事実を変えることはもはや不可能だ。その行動が意味する事実も、おそらくこの後輩は気づいている。呆れたような横顔が全てを物語っていた。
 結局自分は、言うこととすることが全く整っていないのだ。従うことしか理解していない身体の中で、無理に正論を吐きたがる口だけを持って、情けなくも抱く妙なプライドを持て余しているに過ぎないのだ。
 はそっとため息をつき、自分を見上げてくる越前に謝った。

「ごめんね、時間使わせちゃって。教室で渡すね、これ」
「ここまで来たのに?」
「私、部外者だし。今持っていっても英二も喜ばないかもしれないし。教室でちょうだいって意味だったら、誰も得しないから」

 それも言い訳と言えばそれまでだったが、越前の視線がひとつの揺らぎもなく自分を見つめてくる状況が肯定の意味を持っていることだけは分かる。その瞳の濁りのなさは、真似できないほど強烈な力がある。
 男子テニス部内において自分は部外者であるという前提は、事実だ。彼女という肩書きひとつで許されるものは決して多くはないことを忘れてはいけない。

「英二がほしいのは朝ご飯で、これを買えば私の仕事はもう終わってると思うから」

 自分に言い聞かせるように呟く。正論を口にすれば自然と心は落ち着きを取り戻す。正論の前では自分の感情を隠すことができる。
 ただ、越前は相変わらず冷めた目をしていた。そんなもんすか、とつまらなさそうに呟いてトレードマークの白い帽子の下、大きな瞳がそっと細められてコートに向けられる。その声と視線につられてもコートを見つめれば、そこには笑い声をあげる英二たちの姿がある。手塚に怒られていたはずなのに、いつの間にか不二や乾たちと笑いながら話しているのだから器用なものだった。
 素直にその姿に見とれそうになったとは、本人にも目の前の後輩にも言えた真実ではない。たったひとつの願いでも、受け入れてしまいたくなる感情が何よりも勝るという事実は心の中にそっと封じ込める。目を離せない事実、それがあれば自分の身勝手な悩みなど瑣末なものだろうと思う。

「まあ、でも」
「え?」
「彼女がさし入れもってきてくれたら、それはそれで嬉しいと思うんすけどね。色々なこと考えずに、ただ単純に。そういうもんっすよ、多分」

 帽子の鍔に手をかけ、ブラシを握りしめ、越前はに軽く頭をさげてコートへと帰っていく。1年の中でコートに戻ってくるのが一番遅かった彼は手塚に声をかけられているようだったが、この距離ではそんな些細なやり取りまでは聞き及ぶことができなかった。
 はビニール袋を手にしたまま、教室に戻ることもなくただコートを見つめる。英二はいまだこちらに気づかない。自分がコート手前で躊躇した姿は、見つかっていない。
 そこまで思って、そして越前の言葉を何度も反芻して。はひとつ大きな息を吐いてからくるりと踵を返した。





 朝の会が始まる前、本鈴が鳴り響く教室の中でそっとかけられた声には顔をあげる。
 昨日やり残してしまっていた英語の予習をしていたせいで、それまで周囲のざわめきすら全く耳に入ってきていなかった。それでもその声は障害のひとつも知らぬ気づかぬという勢いで、閉じられていたはずのの耳をあっさりと外界へと傾けさせた。
 見上げた先にあったのは、期待していた通りの笑みを浮かべる英二の姿。

「ありがとな、めちゃくちゃ助かった。はい、これ」

 テニスバッグは部室にでも置いてきたのか、学校指定のショルダーバッグだけで教室に現れた英二の右手には紙パックがある。
 それが自分の好きなミルクティーだと気づいた時には、英二の手によって水滴のついた紙パックが英語の教科書の前に置かれていた。

「お礼」
「……ああ、うん。ありがと」

 は突然の贈り物に少し驚きつつも、英二が笑顔を浮かべていることに自分の行動が間違っていなかったことを知る。どうやら部室前に置いたあれは無事本人の手元に届いていたらしい。
 頭の中に、ふと越前の姿がよぎる。彼がいなければ今目の前にこの紙パックと、そして英二の笑顔はなかったのだろう。

(……これでいいのか。私、この英二が好きなんだから)

 彼がどこまでこの本音を見抜いていたのかは分からないが、あえて触れぬまま気づかぬまま最後のあの言葉を用意してくれた越前に、感謝にも似たような感情が生まれる。今度会えたらきちんとお礼を言おうと、紙パックを見つめて思わず笑みを零した。

「こっちこそ。ごめんな、コートまで来てくれてたんだろ?」
「え?」

 その時、突然英二が口にした言葉に紙パックに伸ばしかけたの手が止まる。
 担任がやってくるまではもう少し時間があると見て取ったのか、英二はの前の席に腰掛ける。本鈴は鳴り終わっていることも無視して紙パックを手にとり、ストローを挿してに差し出した。

「おチビに聞いた。俺、まさかコートまで来てくれるとは思ってなかったからさ、全然周り見てなかったんだ。ごめんな」

 さすが、と笑いながら英二は鞄の中からペットボトルを取り出す。シャープペンシルを持ったまま見つめれば、それは確かに今朝がコンビニで買ったもの。数あるお茶の中でも以前より英二が好んで飲んでいたもので、何の指定もなしにそれを選んだに英二はただただ目を細めて笑っていた。

「おチビさがさー、『先輩来てたっすよ』とか言うんだよ。一瞬びっくりした」
「越前くん、話したの?」
「うん。あいつ、変なところで気遣えるよな。後輩らしいのからしくないのか」

 眉尻を下げて笑う英二からは、後輩に向ける愛情が零れ落ちている。そうさせる後輩だからか、それとも英二がそうしてくれている後輩だからか。今思えば、コート脇で出会ったのが越前であったことが、どれほど大きな意味を持っていたか。
 目に見えない優しさに胸が温かくなって、は机の上で腕を組んで笑う。

「ご飯、どうしたの? もう食べたの?」
「大丈夫。部室で食べるのは戦争だったけど……朝練後なんて全員飢えてるからさ、もう桃とか横取りしようとするんだよ。先輩を敬えっていうの」
「あの中で食べたの?」
「なに、そういう意味じゃなかったの? 部室前に置いていったのは」
「……あー、うん。そういう意味かな」
「なんだそれ」

 早朝練習の疲れも知らないような笑顔で英二が笑った時、教室の前のドアが開いて担任が入ってきた。より後方の席に座る英二は、慌てて立ち上がって自分の席へと戻っていく。
 残されたものは、一瞬前の英二の笑顔と水滴のしたたる紙パック。

(お礼のつもりかな。……購買部に行く暇があったら、ゆっくりご飯食べてくれればいいのに)

 指先でその水滴に触れた後、担任に見つからないように鞄の中にそっとしまう。
 一般的には、今朝のメッセージは我がままで通用するものかもしれない。それに安易に従う自分は、考えなしなのかもしれない。それでも自分たちの間では、そのようなことを気にするのは意味がないということを、あのミルクティーが証明している。少なくともがコートにまで持っていこうとしたあの一瞬の気持ちは英二にとっては予想以上の行為であり、単なる感謝の言葉で表すのが嫌で購買部にまで足を伸ばした行為は、にとっては予想以上のことであった。それで喜んでしまう自分がいるのだから、悩むものはなにもない気がする。

(早く越前くんにお礼言いに行こう。差し入れは……あ、やめとこ。彼女っぽい子たしか同級生にいたはず)

 後ろの方から聞こえる英二と不二との会話に、そして鞄の中で出番を待つ紙パックにどことなく頬が緩みそうになりながら、はありがとうという言葉がもつ大切さを改めて思い知る。

「菊丸、うるさい! 黙って人の話を聞かんか!」
「ええ、なんで俺だけ! 不二はなんで無視なんだよ先生!」
「先生、僕は菊丸くんに今日の宿題箇所がどこだったかを聞かれていただけです」
「なっ! ちょ、不二!」
「お前この前のワークも提出してないだろう、菊丸。テスト楽しみにしているからな」
「えー、今それ言わなくても……!」

 週の初め、月曜。空は薄雲が去って青一色。
 テニスに明け暮れる恋人の生活を支えられ、頼りにされ、そして誰よりも感謝の気持ちを抱いてもらえる今の関係にこそ、感謝の気持ちを抱きたくなる。
 爽やかな笑顔で事態を切り抜ける不二とは対照的に、怒りを通り越して拗ね始める英二を見て、今日だけはノートを差し出してあげてもいいかもしれない、と思えば、見計らったかのように彼と目が合ってお願いをされた。



>>02 火曜日


03/09/01*21/07/21加筆修正