| 清瀬の中 |
花紙で作られた造花も、ここまで「我が晴れ舞台」という顔をされると立派に見えるのだから不思議なものだ。一昨日よりは昨日、昨日よりは今日、そして今日よりきっと明日はさらに豪勢で、さらにそれらしく風に吹かれるのだろうから、見応えは十分に違いなかった。 そんな下級生たちが廊下で花の取り付け作業をしている様子を横目に、は体育館へと急ぐ。 冬の陽光が、厳しい勾配を伴って渡り廊下に降り注ぐ。だがいよいよ春を迎える準備に取りかかったその温みは、既に春のものに近しいように思う。撫でるように足を温めるそれに思わず顔を上げれば、雲ひとつない青空が学校の頭上に堂々と横たわっている。春は本当に間近まで来ていた。 「ああ、さん。それ、6組の?」 「大石くん」 温もりに頬を緩めそうになった時、校舎との橋の役割を終える渡り廊下の向こう側に見慣れた姿が立つ。それがテニス部副部長だった大石の姿だと認識すると、首は素直に縦に動いた。 「英二と不二くんが張り切っちゃって。結構大事になっちゃった」 は抱え持っていた荷物を少しだけ持ち上げて笑う。 腕の中にあるのは、白い布で覆われた大きめの子犬ほどのなにか。細かい中身についてはあまり聞かされてはいないが、これが毎年の青春学園中等部、卒業式における卒業生の伝統行事だと言われれば張り切る男が約1名、のクラスには存在した。それを知っている大石もすべてを理解したうえで困ったように笑う。 「本当だね、俺のクラスなんかもっと小さいよ。これぐらい。俺の片手で渡せるぐらい」 「そんなに? ……英二、張り切りすぎじゃないのかな、これ」 首を傾いで腕の中のものを見つめてみると、「不二は巻き込まれたんだな」と心から同情する声が漏れたので、やはり6組は張り切りすぎの類に認定されてしまうのだろう。予想していたとはいえ、出会ってすぐあっさりと認められては否定することもできない。 卒業生が各クラス担任にクラス全員で手作りの贈り物をするという、それはさして珍しい企画でもなかったが、その「品」が種類問わずであることはこの先考え直した方がいいのかもしれない。眉尻を下げてもう一度笑えば、大石は今度は羨ましそうに目を細めた。 「それは6組が仲がいい証拠だから。いや、2組も仲いいけどね? でも6組には敵わないかなあ、さすがに」 「……そうかな?」 「そうだよ」 羨ましいよと言葉に出した後軽く右手を上げて、大石はの横を通り過ぎて校舎へと戻っていく。白いかたまりを抱きしめたままその後ろ姿を見送れば、昔コートに立っていた時に比べて随分と背が高くなったように見えた。 風が泳ぐ。髪が揺れ、頬を撫で、春を呼ぶ。 卒業式まであと少し。終わり行く2月の空気の中、去り行く冬の中に初めて寂しさを感じたように思えた。 「、こっちだ」 体育館の中に一歩足を踏み入れたと同時に、その凛とした声が館内に響く。 低音の心地よいその声は、この学園内にいる者であれば一度は耳にしたことがある。その威厳と風格の中にある、すべての者を分け隔てなく扱い接する彼の歪みのない性質にはいつだって背筋がぴんと伸びた。 は荷物の向こう、自分を見つめてくれているだろう手塚の姿を探すために一度立ち止まる。やがて舞台脇に彼の姿を見つけてやや小走りで近寄ろうとすれば、あの端整な顔立ちが珍しく驚きに負けている姿が目に映った。 「……6組はまたなにをした?」 唖然と、けれどすぐに眉を寄せてが持つ荷物を見据える。相変わらず6組という響きと彼の眉間の皺は切っても切れない関係のようで、卒業間近のこの時になってもそれは変わることのできないセオリーのようだった。は申し訳なさそうに肩をすくめる。 「英二が」 「……また菊丸か」 「と、不二くんが」 「……」 ふたりの名前を出せば、手塚は眉間の皺を増やすことを忘れない。ため息は相手に心情を悟られるという理由でここ半年近くで随分と減っていたが(その理由も英二たちが勝手につけただけだったが)、しかし美しくすら映るその眉根だけは簡単に癖を忘れることがない。 そして相変わらず、その皺を増やす役割を担っているのが自分の彼氏の名前だと思うと不憫さよりも申し訳なさが際立つ。は手にした6組の荷物を言われた場所に置くと、手塚に詫びの言葉を入れた。 「もう慣れた」 返されたのは手塚らしからぬ妥協の言葉。しかし棘がないことはさすがに3年にもなれば気づけるもので、は彼の妥協の中にある優しさに口元を緩める。感謝の意はそれだけで伝わった。 式の内容についてある程度手塚から話を聞かされた後、体育館を出る。まるでおかえりとでも言っているかのように、校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下をあの風が再び流れていく。 揺れる髪を押さえ、グラウンドの方角を見つめる。やはり春と言っても過言ではないだろう温かみのある陽光にあてられて、淡黄色のグラウンドがちかちかと光っている。春はもうすぐだ。 「あ、ども」 その時、ふいに届けられたのは低くも高くもない声。いや、低くなりきれない幼い声。 髪を押さえたまま視線を再び校舎の方へと戻せば、校舎からの渡り廊下の入り口に今年のテニス部のルーキーの姿があった。 「久しぶりだね、越前くん。元気?」 「あー、まあまあっす」 彼とはさして面識があるわけではない。いや、3年かつテニス部以外という自分の立場を思えば随分と会話を積み上げてきた関係ではあるが、このように突然の出会いに対して免疫があるほどの関係にはなっていない。しかし無視できるほどの軽い関係でもない。 そのため、リョーマは挨拶をしないわけにもいかず、けれど思いつく会話のあてもなく、という気まずそうな表情を垣間見せていた。は思わず笑みを零してから声をかける。 「今年も1年生は、アーチ作り?」 「あ、はい。そうっす」 「さっき、本館前に並べてあったの見ちゃった。すごく綺麗だったよ」 「あ、そうなんすか」 言葉だけを並べれば、なんて無愛想だという感想を用意しても誰も咎めない返答の仕方だった。しかしそれに他意も、ましてや悪意もないことなど彼としばらく話をしていけば分かること。これでも出会った当初に比べれば随分と柔らかい言葉の発し方をするようになったのだ、その歴史を知っていれば言葉を返してくれるこの関係はさして悪いものではない。 「もしかして、手塚くんに呼ばれた?」 「そうっす。あの人、相変わらず部長すぎるから困る」 「相変わらずだね、越前くんも」 「俺も? ……逆らうだけ無駄だからっすよ、手塚部長には」 そしてテニス部の話題になると、心情を簡単に吐露してくれる関係も悪いものではない。 悪態は好意の裏返しというセオリーを証明してくれている可愛らしい後輩の愚痴を苦笑とともに聞き入れて、そっと体育館へと送り出す。背中が嫌がっていないのが手塚の信望の厚さを物語っていた。そして規律正しい手塚がやはりテニス部の面々だけは愛情を込めて接しているということの生き証人のようだった。 思えば、と。は体育館とグラウンドを視界からはずし、再び校舎の中を教室へと向かいながら考える。 思えば、手塚にしろリョーマにしろ、深く考えれば大石にしろ、つきつめて考えれば不二にしろ。程度の差はあれ彼らと交友関係を持つことができているというのは、実は普通のことではなかった。1000名を超える大学校、その中でも男子硬式テニス部のメンバーとこれほどまでに会話が繰り広げられるのは、青学においてはある種特別な意味を持つ。特権にも近い。それを不要とする人も当然いるが、しかしこいねがうほど必要とする人もいる。 (少なくとも、私にとっては楽しいことの方が多かったなあ) さきほど大石とすれ違った、もうひとつの渡り廊下が見える。春の日差しはお節介で、感傷に浸りたくなる気持ちを助長させることしか知らない。は再び足を止め、青空の中に悠然とそびえたつ校舎を見上げる。 恵まれた環境だったのだと感じれば感じるほど、名残惜しさが滲んで仕方なかった。 「」 小さく響くその声が、校舎から飛んできたのはしばらくしてからのこと。 なにを見ていたわけでもない、ただ視界に校舎が映ることに安寧をもらっていた身体が一瞬震える。渡り廊下からややはずれ、そっと顔を上げれば、3階の開け放たれた窓のサッシに腕を預け、こちらを見つめる英二の姿があった。 「おつかい終わった? お疲れ」 すうっと風に空気に溶け込み、耳に届く声。低すぎず高すぎず、けれど淀むことのないその声は安寧をもたらすには程よい。は頬を緩めた。 「もう教室も片付いたよ、ホームルームが始まるまでは自由にしていいってさ」 「本当? よかった、ありがとう」 「不二が頑張った」 「なにそれ」 困ったように笑うと、英二も声を上げて笑う。青空に吸い込まれるような透き抜けてしまうような響きはやはり変わらなかった。 その姿は見慣れたもので、3年6組の窓際はいつしか彼の指定席となっていた。どれほど席替えをしても英二か親友の不二が必ず窓際の席を確保してしまうので、結局そのイメージは崩れることを知らぬまま今日まで来てしまった。 しかしそれも、3月までのこと。 笑いを隠すために口元に上りかけた手が、ふと止まる。ただ見上げればいいだけのこの状況を、縋る色で見つめてしまう。 「……?」 小さく呼ぶ声が、もう一度。今度は少しばかりの不安の色を混ぜてかけられる。 その反応を見て初めて、は自分が言葉をなくしていたことに気づく。慌てて体裁を取り繕おうとしたが、異変に気づいた英二が取る行動の方がずっと早かった。 いつしか窓際から姿が消え、呆然と佇むのもつかの間。底の減った上履きが音を立てながら階段を下りてくる音が響き、やがての前にその姿が現れた。 「手塚となんかあった? もしかして怒られた?」 心配そうに顔を覗き込んでくる癖は直っていない。原因をすべて手塚にしてしまう癖も直っていない。首を横に振っても、信じてくれない癖は直っていない。 ふと感じたその想いに、は息をつまらせた。 直らない、と感じるだけの時間が流れていた。それは今までなら蓄積という、喜ばしい言葉で表現できた。けれど今は砂時計の残りが確実に流れ落ちていく、その焦燥感の方が勝って仕方ない。 「……あー、そっちか。ごめんごめん、焦らせて。向こう行こう」 それは初めての体験ではなくて、が何も言わなくても表情を読むだけで英二は悟ることができるようになっていた。渡り廊下を行き来する他の生徒の視線に気づき、英二はの手首を優しく掴んで中庭へと誘い出す。 その温もりに甘えながら、卒業を温かく見守る春風に頬を撫でられながら、は下唇を小さくかみしめる。涙を止める方法はそれしか知らなかった。 卒業の意味を思う。 卒業を迎えるということはつまり、英二が青学を離れるという事実に向き合わなければならないということだった。青学高等部に英二の姿はなく、別の道を行くということだった。 「ごめん不二、先生来たら教えて。……え? ああうん、そうそう」 中庭にある水飲み場にたどりつく。英二は水道台に腰掛けて携帯電話で軽く不二と言葉を交わし、会話を終えると小さくため息をついた。 それが呆れの色をしているように感じて、いや感じろと自分自身も言っているようで、は「ごめん」と咄嗟に謝りの言葉を口にしたが、その続きを用意させてはもらえなかった。 「いや、これは俺がきちんと向き合わなきゃ駄目なこと……っていうか、今度は俺が聞く番だから」 言葉には色々なものが含まれており、その含んだ言い方をするまでの出来事がこの秋にあったことを思い出させる。その時に理解したこと、覚悟したこと、様々なものが一瞬で頭の中を駆け巡り、身体はそちらに主導権を奪われる。 沈黙するを見て、英二はそっと口を開いた。 「……前にも言ったけどさ、ていうか何回でも言うけどさ。俺、が彼女でよかったって本当に思ってる。本当だよ。テニスしたくてここに来たけどさ、と会えたのは青学のおかげだって思ってるよ」 優しく言葉を並べる。昔は決してできなかった、その包容力に自分ひとりが置いていかれているような錯覚を起こす。喜ぶではなく焦る。その不条理な感覚を英二に伝えることは憚られて、はただ言葉を受け止めることまでしかできない。 「でも、青学じゃなきゃ付き合えないなんて誰も決めてないし」 その時、英二は小さくそう呟いた。 だろ? と目を細める。いつのまにか大人びた角度を描くようになった口元の緩みが、に目を瞬かせる。 「……それは、」 「うん?」 「……うん、そうなんだけど、うん」 それは事実だが、しかし詭弁でもある。それが理想でありながら、理想には現実を突き破れるほどの絶対的な力が常にあるわけではないことも知っている。 縋りたくも縋りきれない言葉に、上手く反応することができない。その沈黙に英二は少し表情を曇らせたものの、やがて首を傾いだ。 「……どうしたらいいかなあ、俺本当にには感謝してるんだけどなあ」 そよぐ風に髪の毛を揺らしながら遠い目をして呟く。その後与えられた沈黙の中、自分の言葉の少なさと英二の鎮痛な表情が比例していることにようやく身体が動き、は五指をしっかりと組んで口を開く。 「ごめん、ごめんね英二。私が勝手に落ち込んでごめん」 「いや、謝られてもそれ解決になってないし」 それでも出てくる言葉はまるで生産性がない。それも英二に見破られてあっさりと否定にも似た言葉を返されては、次に用意すべき言葉を考えるための時間がまた必要になる。また沈黙になる。はそんな自分が情けなくなってこの場から逃げ出したくすらなった。 昔ならば、意見の相違はもっと荒々しいぶつかり合いをしていた。英二が怒るか自分が怒るか。やがて自分が我慢する道を取ることができるようになったことに成長を感じていれば、それは自分が傷つきたくないだけの行動だと言ったのは誰だったか。思い出せないほどの時間が流れ、思い返せないほどの思い出が積み重なっている。 「……英二を困らせたいわけじゃなくて、私も苦しみたいわけじゃなくて」 「そりゃそうだ」 「……なんていうのかな、でも考えちゃって」 形勢逆転、その言葉はもう珍しいものではなくなっていた。 昔であれば突っ走るのが専売特許であったはずの英二が、今はただ風を受けながらの言葉のひとつひとつを待っている。その対応に逆にの方が反応に困り、やがて言葉を続ける代わりにそっと視線を英二に向ければ、それが助け舟の合図。 英二は何度か首を傾ぎ、唸り、腕を組んだ後、やがて「ああ」と感嘆めいた声をあげた。 「うん、こうしよう。もっと単純にしようよ」 「……え?」 「難しく考えすぎ。というかマイナス方向に走りすぎ。俺、別に嫌味で使ってるわけじゃないもん、『ありがとう』って。おしまいだから最後に、っていう意味じゃ全然ない。だからさ」 そうだそうだ、とひとりで嬉しそうに言葉を繋げる。置いていかれる感覚、まさにその空気にがただ目を丸くしていると、英二は再び口元を緩める。綺麗で無駄のない唇が笑みをたたえたことに気づいた時、視線はもっと優しい色をしてこちらを向いていた。 「高校生になっても付き合ってくれて、『ありがとう』。だよ」 未来に触れる会話に、身体は一瞬で固まった。 は目を丸くしたまま、その行く先を受け止めるだけの準備をする。英二はまた笑った。 「すみません、俺部活一筋になるんで。多分デートできません。電話も減ります。メールも今みたいに返すことはできません」 「……うん」 「でも不二に返すメールはもっと減ります。手塚なんかもうメールしません」 「……なにそれ」 「え、手塚海外行っちゃうし。俺の携帯海外じゃ使えないし。ていうか手塚とメールしても俺怒られるだけだからへこむし」 ひとりで話を進めながら、ひとりで笑いながら英二は楽しそうに自分が駄目になっていく部分を羅列していく。やがて何の会話だったか、とが首を傾げそうになった時、再びあの視線がこちらに向けられた。 「でも、そんなふうになっても付き合ってくれて『ありがとう』。の、意味。そうしようよ」 笑う口元は大人びた。揺れる髪は繊細さを増した。手を求めるその利き手は大きくなり、掴まれる感覚はいよいよ男と女の違いを実感させる拘束感のあるものになった。 出会って3年、成長と引き換えに流れ去っていった時間は取り戻すことができないけれど、それでも握り締めてくれる体温は温かさを失ってはいなかった。 「……私の方こそ」 「うん」 「『ありがとう』にしたい」 目を鼻を、涙を流すためだけに熱くさせる感情はどのように扱えばいいのかは分からなかった。けれど涙をこらえながら呟き、その手の温もりを握り返せば、「俺の台詞取るな」と諌める声が飛ぶ。それが優しさにしか彩られていないことに気づくことはさして難しいことではない。 それもまだ詭弁。言われればそれまで。今自分の手を温めてくれる手は本来ラケットを握り締めるものであり、ましてや未来を自分の思うとおりに描く力は与えられていない。そこにの存在は、もしかしたら必要ないのかもしれない。 けれど、とは顔を上げる。今日何度も頬を撫でていく春風が今一度流れる。 視線を揺すらず、真っ直ぐに目の前の人へと向ければ。 「言いたくなるような男になるよう、頑張るよ」 春風は、涙を拭けと言うためにもう一度吹いてくれた。 |
| 07/11/28 |