| 夕陽の茨 |
くらりと何かが揺れたその感覚は、最初もっと単純な理由からだと思った。 茜空に揺らめく夕陽が窓の向こうで輝いている。なだらかな角度で部屋の中に差し込んでくるそれに頬を温められていたのは随分と前からのこと。ややもすれば視界の明度すらそれに依存してしまうもので、は顔を上げた瞬間凹凸のないぼんやりとした視界に小さく眉根を寄せる。 それだけであれば、くらりと揺れたものはまさしく自分の視界だっただろう。照明もつけず、暖かさを優先させて夕陽の日差しのみを頼りに宿題をしていた自分の招いた結果でしかなかっただろう。 その時、背後から突然。 「おかしなこと言われたんだけど」 そんな言葉とともに、抱きしめられてしまうまでは。 ソファの背には預けられなかった部分、肩から首にかけて突然夕陽以外の温もりが訪れる。書きかけの数字もそのままに、は筆記用具を手にしたままそっと振り返り、仰ぎ見て声の主を見つめる。その瞬間を狙っていたかのように、視界に誰かが映ろうとしたまさにその時、頬に相手の硬質な髪が触れた。 「なに……どうしたの、英二」 テニス部を引退してしばらく経った。かつてほどの運動量ではなくなったとはいえ、その腕は3年間の努力が今でもしっかりと名残を見せている。緩く、息苦しさをけして与えない抱きしめられ方ではあっても、その腕にはひとりの力でどうにかなるほどの甘さはない。ソファと腕とに動きを制限された姿勢のまま、は先ほどとはがらりと変わった場の空気に思わず視線を逸らす。 睫毛が動いたのか、それとも頬がひきつったのか。その瞬間、背後で英二はつまらなさそうにため息をついた。 「俺たち、付き合ってるのか付き合ってないのか分からないって」 「……え?」 「時々そう見えるって」 整髪料で整えられた髪が、頬に触れる。いや刺さる。やがて胸元にあった両腕がわずかに拘束を強め、の手からシャープペンシルを落とさせる。 言葉の真意も、そしてそれを伝える英二の真意も分からない。は後ろから抱きすくめられ、広げられた教科書もノートも、落ちたシャープペンシルもそのままに返す言葉を探す。 付き合い始めてから、随分の月日が経った。今日目の前にあるこの秋と冬の合間にある、まどろみのような季節とて初めての経験ではない。もしかしたらその中で惰性のようなものが生まれて、周囲にそのような目で見られていたのかもしれない。 「そっか……そういうふうに見られちゃうこともあるんだね」 思い当たらないわけでもなく、は五指をそっと組んで視線を落とす。 思えば、今日の恋人は随分と静かだった。親兄弟の不在はいつものことだが祖父母すらいない今日の彼の家はもっと静かで、最近の日常になっていた宿題を解くこの時間になっても、頬杖をつきながら長い睫毛を伏せて外を見つめる時間が長かった。 理由はそれか、とひとりで合点がいっては少しだけ首を傾いで、英二の腕に身体を預ける。 「でも、学校ではそう見せようって思うこともあるしね。周りの皆の前ではあんまり、ね」 「……」 「私は英二の彼女だけど、学校にいる時はそれだけじゃないしね。そこで英二のことだけを考えてるわけにもいかないと思うし」 でも、その分こうしてふたりきりでいられる時間が嬉しいと。 そのように伝えようとした唇は、唐突に自由を奪われる。顎にかけられた指先が促すままに仰がされ、続きを言葉にしようとした意思を無視される。 どれほどの時が経っただろう、始まる瞬間を意識していなかったこの突然の流れの中に自分だけが取り残されている感覚ばかりが与えられる中、ようやく離れた唇はしかし反抗の言葉を用意できない。 その反応に、英二は無言のまま指先で頬を撫でる。やがて。 「え? ちょ、ちょっと英二!」 「気に入らない、その言い方」 返事など聞く気も、ましてや用意させるだけの時間を与える気もないのだろう。突然の手首を掴んだかと思えば、テーブルの上に広げた教科書たちもカーペットの上に落ちた筆記用具もそのままに、英二はリビングを出る。見慣れた家でも、自分の意識を無視して連れ去られる中での光景はなにひとつ自分に優しくない。混乱に付きまとわれたまま階段を上り、行きなれた英二の部屋に簡単に閉じ込められた。 投げ出されるかのように部屋の中に先に入れられた後、ばたん、という扉を閉める音を背後に聞かされる。ただ呆然と振り返れば、扉にもたれかかった英二が無表情に近い顔つきでこちらを見つめていた。 「……英二、」 「そうだね、俺が子どもだね。他の男と話すのだけでも、結構むかついてたりするのは」 「え?」 「知ってるよね、俺そんなに我慢とかできるタイプじゃない。分かっていたって、どんなに自分が勝手なこと言ってるのかって分かっていたって、でも嫌な時は嫌だ」 高圧的な話し方をするのは珍しくはない。情感が表に出やすい体質で、自分でもそれを認めていて、周りがそれを許容できるだけの魅力を持っているこの恋人は、自分の感情を隠すということがまるで得意ではない。 だが、だからこそだ。は目の前で言葉を紡ぐこの恋人の話し方に、足をすくませる。 ただ高圧的で、感情の方向を探さなければならないような話し方をする英二は、まるで自分の手に負えない。 「まして『付き合ってるように見えない』なんて言うのが、そいつだったりしたら」 その一言がすべてだった。 一瞬で今日英二に起きた出来事を理解してしまったは、さらに言葉をなくす。一歩、英二が近づいてきたとしてもその縮まった距離に対して身体が反応しない。呆然とその視線が自分を突き刺すのを、まるで他人事のように見つめた数秒。気づけば大きな手が自分の両頬を包んでいた。 「ああこいつ、俺に喧嘩売ってんだってすぐ分かった。俺のこと馬鹿にしてるんだってすぐに分かった。で、俺に勝つ気でいるってこともすぐに分かった」 学校では到底聞くことの叶わない、低い声。頬を包むその指先に髪を掴まれ、視線の自由を奪われる。 「……勝てるのかなあ? 本当に」 視線を逸らせず、じっと自分を見つめるしかなくなったを見て、英二はそっと笑う。抑揚のないその声が耳の存在を無視して頭の中に直接注ぎ込まれる、その感覚に自由がきかなくなる。 「こういうを、あいつは知らないくせにさ」 キスをせがまれるわけではない。 指先が制服の隙間から這うわけではない。肌を撫でられるわけではない。ただ視線と言葉を投げかけられるだけ。至近距離で、見つめられて呟かれて、ただそれだけ。 けれど抱かれる時よりももっと、深く強く重く身体の芯を震わす言葉の意味と視線の強さに身体の自由は、もはやもう存在そのものに気づけない。 そんなの状況など手に取るように分かるのだろう、英二はわずかに首を傾いでを覗き込むようにして口を開く。 「ねえ、そうだ。試してあげようか」 「え……?」 「だってがきちんと自分で理解していないと意味がないから」 そう呟くと、英二は口元だけ笑うように見せかけてそっとの額に口付けた後、ゆっくりとその身体に腰を下ろせと指先で誘導する。照明のない、ただ夕陽だけが暖かい色とともに訪れる無音の部屋の中で、はただ促されるがままに座って英二を見上げる。その様子にようやく英二はいつものような笑みを浮かべた。 「今日、みんなご飯食べに行ってて帰ってくるの遅いから。兄ちゃんはが来ること知ってるから、帰ってくる時には連絡くれるし」 「……それ、どういう……」 「それまでは、俺の独り占めっていうこと」 しゃがんでと視線を等しくし、英二は満足げにの頭を撫でる。呆然と見つめる視線にはただ笑って返し、言葉をなくして行く先に惑う唇には自分が好むだけのキスを送る。 抵抗の仕方や反抗のタイミングは、探せばあった。1年以上付き合っていればその隙を見つけることは案外造作もない。けれどはなされるがまま、触れられるまま。ようやく自分が深い混乱から抜け出せていないことに気づいた時には、目の前で英二がそっと笑っていた。 「帰りたければ帰ってもいいんだけどね」 いっそ、抱かれてしまった方が楽だと思えた。 「俺以外誰もいないし、俺はこの後ちょっとだけリビングに行くし、……玄関の鍵の開け方なんて、はもう知ってるし? 帰ろうと思えば帰れるよ」 直情的な愛情表現で抱かれてしまった方が、素直に自分も好きだという感情を口にできて、好きだからこそ傍にいたいという気持ちを伝えることができて、素直にそれに甘えることができる。 けれど、今。まるでこれが最後かのようにゆっくりと頬を撫でる英二の指先が離れた後、本当に英二が一度部屋を出てしまった後、は立ち上がることかできなかった。 ただ分かるのは、誰かは分からない男子に言われた言葉に本気で苛立っているということ。 その苛立ちが普段の生活で感じるものとは種類を異にし、感情を言葉に換えて吐き出してしまえば済むというような、そんなレベルではないということ。 無音の部屋の中で、はただ座り込んだままじっと扉を見つめる。今は閉められてしまった扉の向こう、耳を澄ませばその時かすかな物音が響く。それが階段を上る恋人のものだと気づいた時、身体が震えた。 一歩、足音が響くたびに心臓が強く強く叩かれる。この部屋を出ることも、荷物を手にすることも、ましてや玄関の見知った鍵を開けることもしなかった。その結果が露顕する瞬間が、その足音の数が増える分近づいてくる。 それがどのような意味か、知らないわけにはいかなかった。 「……こういうことなんだけどね」 の荷物を片手に扉を開けた英二が、心底満足げに笑う。 試合に勝利した時のような清々しさからくる笑みではない。勝利から得られる満足とは別の種類、それは自分の性根を認めてくれるものが目の前にあった時に見せる、安堵にも近い笑み。どろりと粘り気のある、触れてしまえば逃げ出すことができなくなるような、深い深い笑み。 「は皆の前では俺を管理してるように見せてるけどさ、それって本当のことじゃないし。ねえ、俺が管理されてる側だったら、今ここにがいるはずがないよね。あいつも思い知ればいいんだよ、このことをさ」 「……英二」 「俺がを好き勝手にしてるって。俺がを振り回してる、だって。ああそうですかって答えてやりたかったけど、それは我慢した」 部屋の隅に荷物を置き、英二はの前に腰を下ろす。つい数十分前まで自分の日常を見守ってくれていた数学の教科書が視界の片隅に映るも、はそれを縋る目で見つめることはなかった。 再び頬に訪れた、恋人の指。愛おしそうに自分を見つめ、撫でるその表情に、余所見をする余裕などどこにもなかった。 「逆に、たったそれだけを見て喧嘩を売ろうとする相手が可哀相になって」 「……可哀相?」 「そう。だってあいつは、がどれだけ俺に惚れてるかっていうことを無視してる」 それって可哀相だろう、と。ふたりきりの時のがどんなふうか想像もできないなんて、可哀相だろうと。自分の手の届く範囲にの身体を置き、視界の許す限りその姿を見つめながら呟く英二に、反抗する余裕−−理由など、どこにも見つけられなかった。 「ねえ? 俺なしじゃ困るよね、は。……だから帰らないんだよね」 一般的に見れば、それは。傍から見れば、これは。きっと恐らく、随分と自分勝手な感情で。強圧的な一方通行で、受け手側の感情を考えていない点では無視に等しいものであると判断されても仕方ない類だと、は思う。 けれど。 「俺は困るよ。嫌だよ、がいないなんて。他の男を見るなんて。俺だけを好きでいて」 まるで全てを見透かしたかのようなタイミング。目に見えない距離を置くことを考える、そんな瞬間を読んだかのようなタイミングで英二がそのような言葉を口にするものだから、結局次の行動など探す理由もなかった。 は迷うことなく英二の胸の中に身体を預ける。そうくることをとっくに予見していたのだろう、英二は揺るぐことも驚きの言葉を出すこともないままにただ抱きしめる。 「のことが好きなら、これぐらい。が色んな意味で動けなくなるぐらい好きになってみせろってね。それぐらい好きにさせてみろってね」 恐ろしい人だ、とは抱きしめられたまま思う。 「ねえ?」 同意を求めるその声は優しい。向けられる笑顔は優しい。甘え、ねだることを許してほしいと思うほどに、自分にだけ優しい。 いや、とは口にしかけたそれらの思いをそっとしまう。言葉に出さずとも、相手は全てを読んでいる。顔を上げただけで、瞳の色を見ただけでそっと笑み、が一番安心するように髪を撫で、触れるだけの口付けを贈る。 「……帰ろうとしたら、どうしてた?」 「帰るはずないから、そんなこと考えても意味ない。俺が傍に置いておきたいって思うのと同じぐらい、俺の傍にいたいって思う子がそんなことするはずがない」 甘い響きの中に確かに存在する拘束の色に、しかし嫌悪感はない。 「独り占めしたい俺の傍にいたいなら、そんなこと理解してないなんて言わせない」 揺らぐことのない自信に浸した言葉を、たったひとりだけが聞き届けられるような小ささで、距離で英二は呟く。その言葉にどれほどの威力があるかを見越している男の策略に、は反抗することなくとらわれる道を選ぶ。それを自分以外にしてくれるなと願いながら。自分にだけ束縛の心を見せつけてほしいと願いながら。 そうさせたのが自分であるとするならば、この場のなんと幸福なことか。 自由がなくなるのならば、それに代わる幸福を。自由が疎ましいと思えるほどの束縛を。 そう願うまでに恋をさせた目の前の恋人に、は抱きしめられるためにそっと目を閉じ、制服に頬を寄せた。 |
| 07/10/04 |