| 君の召すまま |
前髪が揺れる。確かな冷たさを伴い、いつもは陽にあたる額を隠して。 それは大会前のテニス部の練習が終わり、ようやく一息つくことができた日曜の夕方のことだった。頬をなぞる指が舌に取って代わった時、ああ自分は負けたとは思った。 少しだけ、今だけ、キスひとつだけ。制限を設けるはずの言葉をいったいいくつ耳にしただろう。そしてそれをいったいいくつ自分は許してしまったのだろう。ぼんやりとそんなことを思った時には、既にがさついた指先がキャミソールの下にもぐりこんでいた。 「……っ!」 けれど、息を飲むのは自分ばかり。空間の中に生まれるのは、自分がその手に支配されていることを実感させる自分の声ばかり。 胸元をくすぐるかのように触れる赤茶色の髪は、まだしっとりと水分を含んでいる。風に遊ばれることを喜ぶいつもの雰囲気は息を潜め、肌をつくような冷たさをもって触れたがる。その冷たさにはっと息を飲み、瞳を閉じ、相手のTシャツ越しにぎゅっと肩を掴めば、胸元から苦笑が零れた。 「我慢するとでも思ってた? 残念、俺そんなにいい子じゃないんだ」 そして英二は、まるでその言葉だけが真実であると主張するかのようにの頬に口づける。の背は、その言葉こそが真実であると認めるかのように小さく震える。反論の言葉は生成されるよりも早く相手の口付けに負けた。 薄く伸びる雲を泳がせる空の茜色が藍色に、夕焼けが家々とビルの群れの向こうに。視界の片隅に映る窓越しの景色は徐々に夕方から夜へと移り変わる。部屋の中に与えられるのは、太陽を見失ったこの時間にのみ許される特権の雰囲気ばかり。 「お兄さんが……帰ってくる、英二」 その空気に飲み込まれてはだめだ。飲み込まれたら最後、この場にとどまることばかりを願う自分しかいなくなってしまう。自分はいつしかそのように考えるようにされてしまっていることをは知っている。 しかし今の時間を考えれば、それだけは避けなければならない、そう思ってはようやく解放された唇で切れ切れに小さく呟く。 しかし返ってきたのは、耳元での苦笑ばかり。 「うちの家族の癖はよりも俺の方がよく知ってる」 「……え?」 「足音を聞き分けることができるっていうこと」 笑い声はやがて沈黙の中に消える。 結局、その雰囲気の中、英二の手は留まるということを知らなかった。 最後の夏を迎えれば、休日といえども当然時間はテニスの練習に費やされる。そして練習を終え、汗だくになったユニフォームを脱ぎ捨ててもそこは学校。学校の敷地内で脱いでしまった以上、その空間から抜け出すためには学校規定の服装に身を包まなければならない。いつもであればそれは至極当然の出来事で、この3年間それは夏独特の不快感を伴うものではあっても最上級の不機嫌を招き寄せるようなものではなかったはずだった。 『今日は真夏日のピークとなりそうです。各地で32度を越え、蒸し暑い1日となるでしょう』 しかし、今日の天気予報はそんな彼の日常に対してとても冷たかった。 午後5時、英二はお世辞にも見目良いとは言えない着方の制服姿での目の前、待ち合わせ場所のカフェに現れた。テニスバッグを左肩に預け、不機嫌極まりない表情をして。 その瞬間の記憶はまだの頭の中に残っている。度を越えた不快感にむすっとしたままアイスラテを飲む英二に対し、その不快感を連れ立ったまま動けとはとても言えるような雰囲気ではなかった。約束していた今日までしか公開していない映画の予定を取りやめ、シャワーを浴びることを思わず勧めてしまうほどに。 しかしそれが間違いであった。迷うことなく岐路につく道を選び、制服を脱ぎ捨て、シャワーを浴び。数分前までの不機嫌はどこへやら、恐ろしいほどの上機嫌で部屋に戻ってきた英二は、ベッドの下段にもたれて雑誌を読んでいたの横に鼻歌混じりに腰掛ける。 「英二、髪。まだ濡れてるよ」 「ん? そのうち乾くからいいよ」 髪の先から滴る水滴は、そんな上機嫌な彼にとってさしたる問題とはならなかった。だが雑にタオルで一度ふいた程度の髪からは、ひとつ、またひとつ水滴が零れ、真っ白なTシャツへと落ちていく。 「英二がよくても私が嫌なの」 はそう呟くと、英二の返事を待つよりも早く彼の首にかけられていたフェイスタオルを取って髪の毛に触れる。いつも教室で持ち主同様軽やかに跳ねている髪の元気さはそこにはない。しっとりとした水分を含んだ独特の重さをもっての手に触れ、額を隠す前髪からまた小さな雫が零れ落ちていった。 こんなことで風邪をひかれては本末転倒だ。素直にこちらに頭を差し出す恋人の融通のよさに従い、は包み込む優しさをもって髪をふく。 その時。 「……ねえ、さあ」 「なに?」 タオルの下から、そっと大きな丸い目がこちらを見上げる。胡坐をかいて両手を足首に預ける、その姿勢のまま。 その視線の意図が分からず、が覗き込むようにしてそっと小首を傾げれば。 「どこまでが作戦? 俺、どこまでのっていいの?」 「え? ……きゃあ!」 「いいや、のることにする」 足首を掴んでいた手が左手を。タオルに包まれていた髪が頬を。 息を飲んだその瞬間、タオルの中に隠れていたあの丸い瞳が真っ直ぐに自分の目を。 「だって誘ってくれてたんでしょ?」 捕らえたことに気づいた時、唇は発言の自由すらも奪われた。 けれど、それが至福の片鱗を形成している事実をは否めない。 英二の指は躊躇という言葉の意味も書き方も、もしかするとその存在自体知らないとでも言うかのような雰囲気で伸び、動く。今自分が触れているものは我が物であることこそ是であるとでも伝えるかのように。 しかしはその指を振り払うことはなかった。 「……ねえ、英二」 「髪なんてそのうち乾くよ」 「違う、そうじゃなくて。……一番気になるのは髪の毛が濡れてることじゃないって、そう言ったら怒る?」 ベッドを背に腰を下ろしたに逃げ場を与えない。まるでそう伝えるかのように片手をラグに突きつけて抱きこむような姿勢のまま、英二はそっとの鎖骨から唇を離して顔を上げ、しばし逡巡する。 「内容次第」 大きな瞳が、わずかに細められて真っ直ぐにを見つめる。陽光も照明も必要とせずに小さな輝きをもって自分を見つめるその瞳に、はいつも喉元を押さえつけられるような窒息感と圧迫感を覚える。今日も例に漏れず眩暈すら与えられてしまいそうな気分になりながら、小さく口を開いた。 「前髪を下ろした英二を独占していいのは、私だけなんだもん。……だから、乾かして。下ろしたままでいてほしいの、今だけは」 小さく呟いたあと、はそっと英二の前髪に手を伸ばす。 紫外線にあてられて幾分か痛んでしまっている赤茶色の髪は、普段であれば整髪料によって綺麗に左右に分けられている。しかし今だけは、さらりとの指に柔らかく触れる。絶妙のバランスを形成する秀でた額を隠すそれに触れることができるのは、今この瞬間だけだ。 そして、それがどのような意味を成すのかを知っているのは、自分の特権だった。はわずかに首を傾ぎ、英二の目を覗き込む。 「知ってる? 英二。前髪下ろすとね、ちょっと大人っぽくなるんだよ」 思わず口元に笑みを零しながら、前髪を指で揺らして唱えれば目の前の持ち主は眉根を寄せた。 「ええ? 違うよ、兄ちゃんにはガキだってからかわれるって」 「違うよ、格好いいよ。私は知ってる。だから今、ちょっと……」 「……ちょっと?」 「……嬉しい」 傲慢と言われても否定できない本音を、はわずかに視線を落としながら呟いた。 しかし返されたのは、拒絶を伴わない沈黙。それを享受の意ととらえることはさしも簡単なことで、英二の表情を確かめるよりも早くは前髪越しにそっと額に唇を寄せた。傲慢の中にある恭順の心を示したかった。 くすぐるように頬に触れる髪の毛には、整髪料に支配されたいつもの硬さなどどこにもない。今目の前にあるのは、まさに彼女である自分だけに許された光景なのだ。その光景を独占する、それを許すこの空間を否定する理由は、どこにもないのだ。 生まれ出ることを止められない小さな陶酔が頬を緩ませる。髪の中に唇を隠してそっと笑った時、英二の利き手がの頬に触れた。 「……英二?」 「俺を独占したいのか、それとも」 「っ!」 「俺に独占されたいのか。どっちなのか分かんないよ、それ」 口調はさほど変わっていない。鎖骨よりやや下、キャミソールに隠れるか隠れないかぎりぎりのところにかすかな痛みを植えつけられる今のこの角度から、その表情も窺えない。 しかし自分を逃すまいとするその手は、さきほどよりも強い力をもってを拘束する。は息を飲む。 「いいよ、じゃあ。も俺のお願い聞いてよ」 「……え?」 「の前でだけ下ろすから。その代わり下ろしたら、は俺の言いなりになってよ」 交換条件の雰囲気をかもし出すのは、その言葉の表面だけだった。が是非を言葉にする時間を持つよりも早く、再び唇は塞がれる。 敗北は決定だ。しかしその手を独占できるのであれば喜んで受け入れようと、与えられるキスに応え、触れる指に従い、「言いなり」になるべくきつく瞳を閉じた、その時。 宵闇の中に、バタンと。空間に蓋をする音が響き渡ったのだった。 英二は一瞬で動きを止め、は目を丸くする。互いに不自然な姿勢のまま硬直し、は上目遣いでそっと英二を見上げた。動きを止めることによって全神経を集中させた耳に頼れば遠く、階下でスリッパが床の上を擦る音が響く。そして。 「英二ー? 帰ってるの?」 家族の足音を聞き分けられると豪語した恋人の口よりも早く、その声は家中に響き渡ったのだった。 「やばっ、母さんだ!」 「え……え?!」 「が来るなんてこと言ってない……やばい、怒られる! !」 「う、うん」 「ごめん、帰ろう」 「ええ?!」 両肩を掴まれ、揺らぎのまったくない真剣な眼差しで断言されたこの言葉に反論できるはずもなかった。 いるよ、と繰り返し呼ばれる自分の名前に対してその存在を主張する声をあげながら、英二は素早くの荷物をまとめ服を整え、偽装工作に乗り出す。呆然とその様を見つめているしかないなど、視界に映っているのかすら疑わしいほどの手際のよさだ。 「英二、ちょっと……」 「兄ちゃんか姉ちゃんならまだしも、母さんなんて見つかったらなに言われるか分かんないんだよ。ああもう、なんでこんな時に限って早く帰ってくるかなあ!」 慌てふためく英二の様は、この家での実態そのものを映し出す。末っ子の権限のなさを間近に見つめてはも黙るしかない。 その時、運よく電話の音が鳴り響く。階下で人が動く気配は止まり、その瞬間英二はぱっと顔を明るくしての手とバッグを取り、そっと部屋のドアを開いて1階へと促す。英二の足音に重ねてが階段を下りれば、ドアの閉じられたリビングから英二の母親の楽しそうな笑い声が響いた。 こっちは笑い事じゃないよ、と悪態をつく三男の導くままに、はようやく玄関前にたどり着く。いつのまにか靴箱の中にしまわれていたサンダルを慌てて履けば、振り返りざまに手を握る恋人の顔は安堵と緊張の二色に負けていた。 「ごめん、あとで電話するから」 「う、うん」 「じゃ!」 「英二? こんなところに……って、あんたどうしたのそれ、お風呂入ったの?」 「え! あ、いや……部活で、汗かいたから!」 「ああ、そう」 肌に残る感覚は嘘ではないと伝えるかのように、閉じそこなった玄関の向こうから声ばかりが漏れる。は唖然としたまま赤褐色の玄関を見つめたが、肌に中途半端な温もりを宿した人物はアリバイを訴えるばかりで姿を見せることはなかった。 やがて訪れる沈黙の中、は情けなく自分の手で髪と服を整える。胸の中は、昼に相手が見せ付けたあの不機嫌と同調しそうな思いで満ち溢れそうだった。 (……なにひとりで片付けちゃってるのよ、バカ) 言葉にすることはできない愚痴を心の中で呟いて、もう一度髪を整えて。 (……言いなりになってもいいから、もう少し一緒にいたかったのに) けれど、そんな愚痴も結局は幸せの空間から追い出された寂しさに負ける。 そんな自分の情けなさに泣きたくなりながら見上げた夕闇の空には、明日の天気の晴れやかさを伝える大きな月が輝いていた。 「昨日の英二は不機嫌だったよね。さん大丈夫だった?」 「!」 その声が飛んできたのは、昨日の月の明るさが予告していたとおりの晴天の下、初夏の空気に満たされた月曜の廊下でのこと。 は肩を震わせて慌てて振り返ると、そこには隙のない笑みを浮かべたクラスメイトの姿。相変わらず勝てる気がしない不二のその笑みと言葉を前に、はぐっと言葉をつまらせる。 「……なにが?」 「いや?」 しかし返されるのは、反抗を試みることは愚かだと教えられるような笑みひとつ。 月に一度の恒例行事、体育館での朝礼へと向かう3年6組の列の中で悠然と笑む不二に結局は小さくため息をついて、自分の歩調に合わせて流れ行く窓の向こうの景色を見つめた。 「知ってたなら教えてくれたってよかったのに」 「え、なんのこと?」 「……こっちの話だけど」 教室を出る前までは整っていたはずの6組の列も、5組、4組と自分たちの前のクラスの列が乱れれば迷うことなくその不調に追従する道を選ぶ。本来であれば自分より少し後方を歩くはずの不二と肩を並べながら、は体育館へと続く廊下を歩く。 いつもであれば不二の隣に並ぶはずの親友がいないために自分は捕まったのだと、そんなことを思いながら。 「さすがに昨日は暑すぎたからね。僕も夕方から用事があったんだけど、さすがに一度家に帰ったよ。ああ、もちろん相手にはきちんと謝ってからね」 真意を口にすることはなかったが、不二はあからさまに話をその「親友」にずらす。 間違いなく、彼は不機嫌だった。 「でも英二はそのままさんのところに行ったんでしょ? 密かに乾が感動してたよ」 「……そういうことは英二本人に言ってあげた方が喜ぶと思うんだけどなあ」 「乾の言葉を素直に受け止められるのはさんだと思うから言ってるんだけどなあ」 「不二くん、私をからかって遊んでるでしょ」 「さすがさん。よくご存知で」 相変わらず笑みは絶えることはなかったが、その笑みこそ彼の言う「不機嫌」と同義であることをは知っている。 そう、今横に並ぶこのクラスメイトは不機嫌だ。なぜなら本来であれば自分の役割ではないはずの日直の使命を、今朝突然言い渡されてしまったために。 本来、この程度のことで不機嫌になるようなクラスメイトではないことをは知っていたが、しかしそれ以上に彼が「不機嫌を操ることができる男」であることを知っている。 そして今彼にそうさせている、その人がすべての元凶である。英二はまだ学校に来ていなかった。 「でも、寝坊するまで不機嫌になるとは思わなかったな」 「……すみません」 「英二に伝えておいてもらえる? 明日の昼ご飯で手を打つよって」 「不二くんだって会うくせに」 「今の僕を英二とふたりきりにさせていいの? 彼女さんとして」 「……不二くん、いい性格してるよね」 「知らなかったの?」 「知ってました」 そう、と不二は満面の笑みを浮かべる。 しかし彼がそのように振舞わざるをえない元凶が、自分と深く関わりのある英二である以上。は文句のひとつを口にするだけで精一杯だ。 「それにしても。自主練習とはいえ、早朝練習にもこなかったなんて。寝坊でいいのかなあ、ねえさん」 「……風邪でもひいたんじゃないの?」 「風邪? まさか。あの英二が」 どこからその自信がでてくるのか、と尋ねるよりも早く、その即答に納得してしまいそうになる自分がいる。は同級生の流れに従いながら、廊下の窓の向こうに見える校庭に視線を向ける。 誰もいない校庭には、人の姿ひとつもない。そこに遅刻者が慌てて走りこんでくるような、タイミングのよい光景は用意されてはいなかった。 まさか、との頭の中に一抹の不安がよぎる。まさか本当に風邪をひいたのではないか、と。 (……そうだ、私最後まで髪乾かしてあげなかった) 忘れてしまっていたその事実に思わず声をあげそうになった時、しかし風景はがらりと広々とした空間に取って代わる。気づけば体育館に到着していた。は慌てて上履きを脱ぎながら流れに従って3年6組の列を目指すが、思わず振り返ってあの姿を探してしまう自分を止めることはできない。 (英二、絶対あのままにしたんだ。クーラーも絶対つけすぎにして……絶対そうだ!) しかし、それを確かめる術も、心配をする許可もこの場所には与えられない。校長の話など聞いている場合ではないといまだかつてないほど思いながら、は五指をきつく組んでぎゅっと下唇を噛み締める。自分のせいだ、という言葉があまりにも簡単に生まれては心の中に蓄積された。 教室に戻ったらすぐにメールで確認しよう、そう思い顔を上げた時、は後方でわずかに人の動く気配がすることに気づいた。 遅刻者か、と。体育館脇に控える6組の担任の顔があからさまにしかめ面をしているのを見届けて、は指を組んだままそっと振り返る。すると、そこには。 「遅いよ」 「あ、ごめん」 のやや後方に並んでいた不二が、その表情ではなく伽羅色の髪ばかりをに見せつける。彼の視線が向けられるのは壇上の校長ではなく、その反対の体育館の後方。小声で謝りの言葉を口にしながら、そっと6組男子の列にまぎれこもうとする―― 「髪の毛ぐらい整えれば、英二」 「うるせー」 寝癖だけを整えるのに精一杯だと伝える前髪を下ろしたままの、英二に対してだった。 夏に向けての文武両道について幸せそうに説く校長の話など、もはや理解するための時間と方法を見つけ出す余裕などない。は絶句し、ただただ目を丸くする。 「雰囲気違うね、菊丸くん」 「うん、少し格好いいね」 「……」 そしてその絶句をさらに強固なものへと促す、他クラスの女子の声。なぜ聞こえてくるのだ、なぜそれを許すほど青学の朝礼は気が抜けているんだ、と誰かに訴えたくて仕方なかったが、しかしは自分が壇上を見つめていない事実こそ忘れてしまっている。 そしておそらく、英二も昨日の出来事を忘れている。 膝を突き合わせて話をしたくともしかしあくまでここは朝礼、は自分の持ち場を離れることは許されない。不二と小声でたわいない話を続ける恋人をよそ目に、ただただはこの時間が終わることを待つばかり。 しかしようやく校長の話が終わり、部活動の地区大会の表彰も終わり、足を動かしてもよいと許しをもらう教頭の「退場」の声が体育館に響いた時には。 「菊丸先輩!」 「先輩、おはようございます! 寝坊なんて駄目ですよー」 の絶句をさらに続行させる女子の声が待っていた。 「先輩、今日髪の毛分けてないんですね! 格好いいですよー、似合います」 「あ、そ、そう?」 「うん、絶対! ねえ?」 「うん、なんだかいつもと違っていいですよー、先輩。もうこの後いつもどおりにしちゃうんですか?」 「あー、いや、今日はワックスもってきてないからこのまま……だと思う」 「やったあ、そのままでいてくださいね!」 「部活もそれでやってくださいよー?」 親友が苦笑しながら肩を叩いて去っていくのに返事をすることもできない。大石が心配げにこちらを見つめているのに平静を装う笑顔を向けることもできない。 「ご感想は?」 「英二の嘘つき」 「あはは、なにそれ」 心底楽しそうに笑う不二の相手も、英二を気遣った言葉を用いてはできない。 体育館2階部分の窓から差し込む夏の日差しは明るく、床の上に混じりけのないはっきりとした影を生み出す。影の中にある自分たちの制服は当然夏服で、冷やかしのように入り口から紛れ込んできた風がのスカーフを揺らす。清爽なものはそこかしこに溢れているというのに。 (私の前でだけって言ってたのに) 心の中に浮かぶ傲慢な願いは、消えてくれそうにはなかった。 昨日の出来事を彼女である自分にだけ許される出来事だと思い、その嬉しさを噛み締めれば噛み締めるほど、その言葉と無縁になることはできなくなる。はため息をつき、他になす術なく不二の言葉に耳を傾ける。 「あの子たちが誰かは知ってるの?」 「女子テニス部」 「よくご存知で」 「不二くんがそれを言いにきたこともね」 「よくご存知で。で、彼女の本音はどっち? 今日の髪型か、いつもの髪型か」 真横で平然と尋ねるその内容と、その口調の涼やかさと。 あまりのアンバランスさと言うべきか、それともあまりの鮮やかさと称えるべきか。相変わらず自分は全てこのクラスメイトに見透かされているという事実を前に、はまたため息をつかざるをえない。そして不二をちらりと見上げる。 「言わせたいんだ」 「言いたそうな顔をしていたものだから」 「誰が言ったの?」 「さんという人の顔に書いてあるよ」 「……」 相変わらず、不二の顔からは全てを読み取ることはできない。いつもこの男は自分の道を誰かに定義されることを暗に拒む雰囲気を作っている。はしばし沈黙して考える。 これは罠か、それとも。 不二の人となりは考えなくとも思い出せばよかった。隣に並び、今まさに自分を冷やかしているこの親友に助けられたことは一体いくつあっただろうか。それを考えれば少しばかり恥ずかしくもなるほどに、自分は不二の存在に救われた経験がある。 は静かに横にいてくれる不二の存在に、心の中で小さく感謝の言葉を紡ぐ。そして。 「どっちでも別に構わないんだけど、でも」 「うん」 「あれを私以外の前でしちゃ駄目だよ。だって格好いいもの」 愚痴を言う環境をくれたのだと、自分に都合のよい解釈のもとで呟いた。 非難でも冷笑でもない、ただ沈黙だけが返される。周囲は教室へと戻る生徒の波で当然喧騒に包まれていたが、自分たちの周りにだけ生まれたその静寂の中で、はそっと英二を見つめる。 昨日のあの出来事は、もしかしたら。もしかしたら英二の中ではさして大きな出来事ではなかったのかもしれないと、そう思うことはとても簡単なことで。けれどその簡単さと反比例して、大切なことだと思いたい自分の心はとても頑なで。 しかし今自分以外の人の前にいる恋人の心など、分かるようで分かるはずもない。 (……また私の我がまま、か。そうだよね、でも……あれは反則。格好いいんだもん) 言葉にできない感情はそっと心の中でだけ呟く。まるでそれは昨日の夜と同じだ。目の前に本人がいない限り、傲慢な本心など言葉にすることはきっと許されないのだ。 はそっと視線を落とし、小さな息をひとつだけ零す。しかしその時。 「朝から聞くものじゃないよね、のろけっていうものは」 優しいのか優しくないのか分からない親友は、その一言を笑みとともにに向ける。が恨めしくその笑みを見つめれば、小さく肩をすくめてみせた。 しかしその笑みが前に向けられ、後輩に捕まっている英二をその場から引き離して担任のもとへと連れて行ったのはすぐ後のこと。担任に叱られたあとの英二をの目の前にまで引き戻してきたのも、その後のこと。 「のろけを聞くにも限界があるんで。英二、さっさと前髪直してもらいなよ」 「は? なに言ってんだよ、不二」 「……不二くん?」 「ふたりをからかって遊ぶのは僕の特権なんで。じゃ」 英二のその姿を、ただひとりが独占できる場所に連れ戻してくれた親友はそう言って教室へと戻っていった。 は呆然とその背中を見送ったあと、その真意(と書いて優しさと読むべきことは、重々承知の上で)に気づいて数度瞬きをする。しかし英二は意味が分からず眉根を寄せて頭をかく。口から零れる不満の言葉を聞く限り、不二の行動の意味を理解していない確率は非常に高かった。 ならば、と。はため息をつき、無言のままこちらを向かせて指を伸ばす。 「あ、うわ! なにすんだよ!」 「英二が悪いの」 整髪料もなにもつけていない。なによりも、自分は普段その髪を扱いなれてはいない。自由奔放な彼の髪の毛が、自分の言うことを聞いてくれる可能性は極めて低い。 「……学校ではそれでいて。約束」 けれど前髪は、素直にの導くままに左右に流れてみせた。 見上げた先には、いつもどおりの英二の髪型がある。本人は人の手によって整えられたことに幾分か不思議そうな表情を浮かべながら前髪に触れていたが、やがてを見つめて得意げに笑った。 「惚れちゃうから?」 「周りの子が? すごい自信……」 「違うよー、がだよ」 「バカ」 ため息をついて教室へと戻ろうとすれば、当たり前のように英二はその横に並んで今日の寝坊の経緯を語り始める。 が作った前髪は、いつもと同じように夏風に吹かれてさらりと揺れてみせた。 |
| 06/07/21 |