| 口づけと枷 |
歓声が響き渡る。その声にが顔を上げると、緑色のフェンスの向こうから黄色いボールが弧を描いてこちらへと舞い降りてきた。 秋の風に運ばれたのか、それとも単に打ち手が悪かったのか。砂煙を立てて地面の上を流れてきたボールがテニスシューズに当たったかと思えばフェンスの向こうから自分の名前とそのボールを求める声が響き、はラケットを片手にもったままそれを拾い上げる。 そして、顔を上げる。小さな四角いひし形を何百個と作ることによって空間を区切るフェンスを挟んで、視線を男子テニス部へと向ける。そこには見慣れた姿があった。 「悪い、」 生徒が着用する体操服でも、ましてやテニス部員がこのコートに立つために着替えるウェアでもない。それは黒の市販のブランドジャージで、白地のウェアを身にまとう男子部員の中ではとてもよく目立った。 は相手の姿を確認し、一度軽く頭を下げてから男子コートに入るように天高くボールを投げる。 放物線の行方を目で追っていけば、数秒後、そのボールは自分のものよりも大きな手のひらの中に難なく収まった。 「サンキュ。練習止めて悪かったな」 「あ、いいえ。大丈夫です」 「あ、そうだ」 「え?」 「お前、ラケットの振り方前より甘くなってるぞ? ダイエットとか言う前に筋力つけろよ」 「!」 突然向けられた笑顔と言葉には絶句する。それはまさにさきほどまで仲間と話していた内容そのものだった。 どこまで聞いていたのか、と唖然となるを置いて相手はその唖然ぶりに苦笑しながら手を軽く振って背中を向ける。しばらくすると集合を呼びかける声がその背中の向こうから聞こえた。 「男子の方が楽しそうだよね、菊丸先生が顧問で。羨ましいなあ。先生、女子の顧問もしてくれたらいいのに」 様子を見ていた仲間が呟いたその言葉に、は頷かなかった。 種類は違えど同じテニスラケットを持ちながら、しかし目の前には緑色のフェンスが高くそびえたっている。しかしそれ以上に自分の前に立ちはだかるものがあることをは知っていた。 (先生と生徒じゃなかったら、会えなかったって。それは分かってるんだけど) 女子のコートからも集合の声がかかる。 好きな人の背中をもう一度見つめた後、は背中を向けて集合場所に駆け寄った。 「菊丸先生ってさ、嫌いじゃないんだけどなんとなく素直に好きになるのが癪だよね」 「ああ。日本史の授業はちゃんとしてくれるから別に問題はないけど、扱いに慣れすぎてて逆に好きになれない感じ」 「そうそう、そんな感じ」 朱塗りの箸が卵焼きを綺麗にふたつに割る。その様子を見つめながら、は親友たちの会話に耳を傾ける。 ふりかけがかかりきらなかった弁当箱の中の白米が寂しく見える。いつもであれば小さな落胆を感じずにはいられないその状況が今日も目の前にあるというのに、しかしは他のことに必死だった。3つの机を向かい合わせて昼食を食べる、親友ふたりの会話を聞くことに。 そして、その会話に過剰反応しないように。 「でも、あそこまで上手いと逆に疑いたくなるよね、作りすぎに見えちゃって」 「作ってる? 菊丸先生が?」 その時、卵焼きを口に運びながら親友がぽつりと呟いた。無意識のうちに真っ白なご飯に箸を伸ばしかけていたはその言葉に思わず口を挟む。戒めはあっさりと潰えた。 突然話し出したの言葉に、しかし親友は慌てる様子もなく頷く。柔らかい黄色をした卵焼きは既に彼女の口の中だった。 「絶対そうだよ。まあ教師なんて私たちより皆年上なんだから、子どもの扱いに慣れてて当然なんだろうけど。でもあれは絶対に女の前でいい顔をすることができるタイプ」 「ああ、分かる。そんな感じがする。だって言い寄ってくる女子皆にいい顔できるんでしょ? あれはすごいよね、私たちは関係ないから面白がって見られるけど」 親友の台詞を、もうひとりの親友が相槌を打つように肯定する。は両者の淡々とした表情を交互に見つめるが、しかし言葉を返すことだけはできなかった。 ただ、そう見られてしまう人が好きになってしまった自分はどうすればいいのかと。その悩みを飲み込むことしかできなかった。 時折菊丸は屋上へ足を運ぶことがある。そんな噂が流れてきたのは随分と前だ。 親友ふたりに話を振ってみても「そんな噂あった?」と逆に質問返しをされるほど、それはとても些細な出来事でいつのまにか誰の口にも上らなくなっていた。菊丸に対する感情を教師に向ける好意だけでは抑えきれなくなった他の女子たちも知るには知っていたようだが、試しに屋上に上がっても結局はその姿を見つけることができなくて「噂は噂」と片付ける女子がひとりずつ増えていった。 ただ、根も葉もない噂などこの生徒の多い学校では起きるはずもない。噂が起きるそれ相応の理由がなくてはならない。 それは真実だからか、それとも似た行為が別の真実としてあるからなのか。 (屋上は寒いし暑い。でもそれを無視してまでひとりになることを選んだ時なら、いてもおかしくはない) はノートを書き写しながら、ぼんやりとそんなことを思う。日本史の授業中だった。 黒板には文字のほかに日本の簡易地図がある。菊丸が説明しているのは日本を東西に分けての大合戦、関ヶ原の戦いだった。 「先生、すみません。その横の字がなんて書いてあるのか分かりません」 「あ、悪い。これ俺の癖なんだよな、悪い」 絵に描いたような真面目な優等生の一言に、菊丸は軽く左手を上げて字を書き直した。 一度気になりだしたら、あとは転がり落ちるように簡単だった。好きになってしまうのは。 誰にも打ち明けることのできないこの一方通行が大前提の恋は、日数を重ねれば重ねるほど、そして視界に収める時間が増えれば増えるほど色々なものを発見する技術を身につけさせた。 スーツは黒が多く、無地が好みだということ。ネクタイはドット柄よりもストライプ柄、色は紺か赤が断然多い。その代わりカラーシャツは滅多に着ない。本人の口から一度も聞いたことがなくとも、週2回の日本史の授業でその姿を見るだけでもそれぐらいは分かった。 今日も例に漏れず黒のスーツかと、そんなことをぼんやりと思っている間にも黒板の文字は増え、それを慌てて書き写す間にも言葉が耳に飛び込んでくる。関ヶ原、と書いた瞬間にそれを音読する声が聞こえてきてが顔を上げると、菊丸が黒板に小さな人の絵を描きながら息抜き話を始めていた。 「関ヶ原に行ったことあるか? あそこは今でも本当にすごい山だぞ、見渡す限り山、山、山。その中に部分的にひらけた場所があるんだけど、そこにだなあ、こうやって……」 「……先生、なにそれ。なにその適当な人間」 「これ? これ徳川家康。こっちが石田光成。で、この小さいのが合戦に遅刻しちゃった徳川秀忠。あ、家康の息子な」 「先生に悪意を感じます。西軍ですか先生は」 俺は東京都民だ、投げかれられた質問にそんな合っているのか合っていないのかよく分からない答えを返しながらその手は関ヶ原の戦いを図にしていく。 「家康と光成の違いを視覚的にも分かりやすくしてるんだよ、その努力をけなすなって」 「先生、徳川家康と石田光成ぐらい分かります。中学校で習いました」 「あ、そう。じゃあお前ら、このふたりの陰険すぎる裏の戦いを知ってるか? 仕方ないよなあ、光成は秀吉のことが大好きすぎたから。秀吉のためであればなんでもします! 状態で、家康いじめを始めるわけだよ。例えば……」 「先生、いかがわしい」 「なんでだよ!」 他の授業中であればこんなことはまずありえない。いつもは寝ている男子、興味なさそうに携帯電話をいじる女子が、視線を黒板に向けて菊丸に言葉を投げかけている。熱心に授業を聞いているかと問われればお世辞にも肯定することはできないが、しかし勉強をするということとは等しくなくともその興味が黒板に向けられていることだけは確か。 それは菊丸が堅苦しくない日本史の授業をしているからだと、は気づいていた。授業の真っ最中に余談をもってくる教師は他にはいない。彼の性格がそうさせるのかそれとも計画なのか、親友の言葉を借りれば間違いなく後者であったが、笑いの起こる教室内では頬を緩めながら黒板の図を描いた。菊丸が描いたように、その軍勢の大きさすら真似て。 しかしそこまで描いた時、ふとはあることに気づいた。 (ひとりになりたい時……疲れた時?) 質問という名のちょっかいがひとりに飛び続ける教室内。は静かに菊丸を見つめる。 笑い声をあげながらも自分のペースを乱すことなく予定通りの歴史用語をつづり、おまけ話をし、そして生徒の声にも全部反応する。50分を休む暇もなく送り続ける教師の姿が、そこにあった。 「あれ、」 錆びた音を立てて屋上のドアを開けた瞬間、を襲ったのは強い秋風と菊丸の拍子抜けした声だった。 まさかドアを開けたすぐ横に菊丸がいようとは思ってもみなかったは、慌てて髪の毛とスカートを押さえる。その咄嗟の反応に菊丸は笑い、「見えなかったから安心しろ」と紙パックをもった手を振った。 突然の出来事に若干赤くなる頬に気づきながらも、は無言のままドアを閉じ、許可を求めてから菊丸の横に座る。教室から見るよりも運動場から見るよりも随分と近くに見える秋空の下、は菊丸の持つ紙パックを見つめた。 「タバコでも吸ってるのかと思ってたんだろ。残念でした」 の視線に気づいた菊丸は、もう一度パックを揺らす。それはも買ったことのある購買部のオレンジジュースだった。残り少ないのだろう、ストローが揺れる音がした。 「日本史は黒板に文字を書くだけじゃ駄目なんだよ。間を埋めるトークの技術が必要なの。だから喉が渇いて当然、タバコを吸うよりも理にかなってるだろ」 「私、先生は好きで脱線してると思ってました。……技術なんだ」 「技術、技術。日本史なんてただでさえ嫌われる科目なんだから、せめて面白おかしいものに聞かせてやりたいって思う俺の努力の結晶だよ。……まあ好きなのも事実だけど」 教室でも見覚えのある顔。テニスコートでも見覚えのある顔。それを今、独り占めをして見る。その初めての感覚には後ろのスカートを押さえながら、体操座りをした姿勢で意地悪い笑みを浮かべて菊丸の顔を覗き込んだ。 「じゃあ、今はジュースだけど本当はタバコは吸うかもしれないっていうこと?」 ふたりきりだという空間は、いつもの圧迫から逃れることを許す。誰にもなにも言えないという苦しみから解放されることを許してくれる。そして目の前にいるのはけしてひとりでは独占することができないと思っていた想い人。 図々しくなる心を止められず、まるでこの空間を特別のものと勘違いした心のままにはそう尋ねた。しかし。 「さあ、どうかな。まあでも、吸うにしろ吸わないにしろ、お前たちの前では絶対に吸わないよ。生徒の健康を害するだけだろ」 返ってきたのはいつものトーンの声に十分予想できる内容。表情もまるで崩れず、見覚えのありすぎる笑みに本音は完全に隠されていた。 当たり前のことながら、ふたりきりとてこの空間が特別なものになるわけではない。今更ながらそのことに気づき、は小さな切なさを胸に宿して言葉にした。 「先生、いつもそうやって当たり障りのないことばかり言うから。本当は違うことを思ってるのかな、って思っちゃう」 「なんだ、それ。俺が悪いやつみたいじゃん」 「だって先生、子どもの扱いに慣れすぎてるから」 一定ラインをけして崩すことのない教師。それは当然だった。とて、かつて教師という存在に対してこれほどの物理的・精神的距離を近づけることを意識したことなどない。遠ざけることこそあれど、教師に近づきたいという意識を持つことなどひとつの感情を除いては絶対にありえない。 では、そのひとつの感情に捕らわれた場合。けれど近づく限界を知らされてしまっている場合、それはどうすればよいのか。 言い終えた後、まるで日常そう思っていることを愚痴に変えてしまったような言葉だったことには気づき、はっと顔を菊丸に向けた。 けれど菊丸は怒るでも邪険にするでもなく、ただ笑って。 「は教師になにを望んでるんだよ?」 立ち上がりながらそう答え、そして小さく伸びをした後紙パックとともに屋上から姿を消した。声をかけるタイミングすら与えない、完璧な去り方だった。 見送る以外に方法のなかったは、屋上にひとり残されたまま薄い涙色の空を見上げてそっと思う。 (望んでるものはひとつだけなんだけど) それはあなたが教師ではなくなること。 けれどそれを口に出すことはできない。それを口にしたら最後、それは自分と菊丸との出会いそのものを否定する意味になりかねないからだ。 なんてこの感情は厄介なんだろう。改めて学校という場所は教師への恋愛感情に優しくないことに気づいてはため息をつく。これではまるで先が見えない。 けれどその時、行き止まりの道の前に立たされてようやく気づくものがあった。 (……ああ、でもあれだけは残されてる) 先が見えない中、むしろ開けることは許されない中でも残されていた行動、それは。 「先生のことが好きです」 その言葉を口にすることだけとしか考えられなかった。 そこは誰もいない夕方の廊下、社会科準備室前。テスト期間中で生徒のほとんどが帰ってしまっていること、そして部活がなければ菊丸は5時まではここにいるということを知っていたテニス部員の情報を利用した。 廊下で呼び止められた早々にぶつけられた言葉に、もちろん目の前の相手は目を丸くした。ただすぐにその目がわずかな鋭さを持つ。はその変化に気づき、一瞬言葉をなくした。 (笑って聞き流されるかと思ったのに) しかしが言葉を紡がない限り、自分たちの周りにあるのは沈黙だけだった。菊丸は聞き流すことも冗談に変えることも、ましてやけなすこともせずにただの言葉を待っているように見えた。 けれど、それ以上の言葉をは用意していなかった。いや、できなかった。その段階で答えは出ると思っていたのだ、否定の答えが突きつけられると思っていたのだ。 それでも構わない、その思いひとつのもとで繰り出した言葉に返されたのはこの沈黙。 まさか、と図々しい期待を抱きかけたその時。菊丸がため息をつき、そして口を開いた。 「……お前が好きな俺って、どういうやつ?」 「え?」 「俺、お前には教師としてしか接してこなかったはずだけど」 抑揚のないその声には一瞬ひるんだが、しかし頷いた。 それは否定しない。否定できない、むしろしたくない。それがなければ今この想いは抱くことすら許されなかった、その思いひとつで頷いた。 その反応に菊丸はわずかばかり目を丸くしたが、は彼の言葉を待つよりも先に言葉を繋げる。一度会話が動いてしまえば、後は考える暇もなく言葉が口をついて出た。 「私は教師としての先生しか知らないけど、それを確かに寂しいと思ったこともあったけど、でも今は感謝してます。先生が教師になってなかったら、私は先生に会えなかった。その意味は分かってるつもりです」 「……」 「でも、だからって先生としてしか見られないことに満足してるわけじゃない」 普段、コートで教室で。思ってはいてもけして伝えることなどできなかった感情がそのまま言葉となっていく。菊丸はただ黙ってそれを聞いていた。 「先生だから皆を平等に可愛がってくれるのが当然のことで、だから私ともきちんと話をしてくれるっていうことも。ちゃんと分かってるんだけど」 菊丸の顔が夕陽のオレンジに染められる。わずかに逆光の程を示す夕陽の差し込み方に、正確な表情は分からなくなってしまっていたけれど、それでも構わなかった。 教師と生徒という抗えない関係の中で残されているのはこの想いを告げることだけだと。それが認められるか認められないかとは関係なく、伝えることしか残されていないことに気づいてしまったに、その程度の不安要素ではもはや歯止めの役割など果たさなかった。 「でも、私はそれだけじゃない先生を見たい。話したい。だから、好きだっていうことを伝えたかった」 なにが好きでこれからどうしたい、そんな無駄なことは一切口にしなかった。 そんなの本音をどこまで理解しているのだろうか、分からないまま、そして尋ねることのできないまま。沈黙を泳がせた菊丸が、その時ようやく重い口を開いた。 「今の俺とお前は教師と生徒っていう関係で成り立っていることを前提にして」 静かに呟く。その現実を教える一言に一瞬は息を飲む。 のその反応を確かめてから、菊丸は目を逸らすことなく静かに続けた。 「俺がここでお前の告白を受けるような教師でも、は許せるの? それは教師としては最悪でしかないって、それは分かってる?」 「……それは」 「それはさ、教師として失格な俺になることをお前が認めるっていう意味だよ」 言葉につまるのは、紛れもなくの方だった。 動揺という言葉を知っているのだろうか、まるでそのような感情はこの世に存在しないとでも言うように菊丸は静かな表情を浮かべてを見つめていた。 いつのまにか握り締めていた手を、は強くもう一度握りなおす。 なにを正解として求められているのかはには分からない。いや、そもそもこのような高圧的な言葉を用いてに言葉を返させないことこそが彼の狙いであったのかもしれない。自分よりも長く生き、そして自他ともに認める「子どもの扱い方が上手い」菊丸の表情を見ても、すぐそこに答えなど示されているはずもなかった。 (……伝えるだけでいいって、思ってたはずなのに) は顔を上げる。自分でも分かるほどに頬が強張り、緊張の欠片が心に降り積もって言葉を選べなくさせていた。綺麗な言葉も正しい言葉もまるで思いつかない、けれど今ここで踵を返して菊丸が提示した質問の答えを知らないままで帰ることだけは絶対にしたくない。そしてなにより、頭の中にはその言葉に対してひとつの考えが生まれていた。 迫られた二者択一は、まるで自分の最後の度胸を試しているかのよう。 この段階に及んでもまだ生きていた自分に甘い心の囁きに、は一度息を飲んでから菊丸の顔を真っ直ぐに見て答えようとした。その時。 「許せる、なんて言ったら怒るよ」 それは小さな声だった。 「俺、お前のことをそんな生徒だと思いたくないから」 けれどそれは小ささよりも、圧力をもっての耳に届いた。 教師と生徒の関係で出会った。ならば最後までその関係でいなくてはならない、それがこの学校という場所のルール。 改めて菊丸の言葉でその事実を突きつけられ、は言葉をなくす。言葉を返すことも怒ることも涙を堪えることも、どれもすることはできなかった。ただ静かに響いた菊丸の言葉に、自分がいかに綺麗事を並べて学校での秩序を破ろうとしていたのかを知る。 「……ごめんなさい、先生」 それはあまりにあっけない幕切れ。は頭を下げ、踵を返す。 頭の中にめぐるのは最後の菊丸の言葉だった。それが正しい言葉であると本当は知っていたからこそ、今までこの想いを口にすることはできなかった。それが正しい選択であったことをこの時になって思い知らされる。 やはり、伝えること以前にそのような感情を抱くことこそが間違いだったのだ。間違いの中で必死に少しでも綺麗なものを見つけようとしても、なにも救われないのだ。 は涙が零れ落ちそうになるのを必死に堪えながら、廊下を歩く。その時ふと窓の向こうにテニスコートが目に入り、思わず足を止めてしまった。そこは教師である菊丸を見ることができる場所であるのと同時に、教師でなければと無礼ながらも思ってしまった場所。今は誰もいないそのコートを見つめ、は思い出す。 自分はあの人の前でなにでありたいと願ったのか。 自分は、あの人の前でいい生徒でありたいと願ったのか。 窓の隙間から入り込んでくる秋の風の寒さや、温もりを宿す太陽を見失ってただ冷え込むばかりの廊下の冷たさ。自分の周りを包むものはなにひとつ優しくなかったけれど、それでもは振り返った。 「……先生!」 誰もいない廊下にの声が響き渡ったその時、視線を戻せば菊丸はなぜかまだそこにいた。は顔を見た瞬間、いつもの衝動にかられるかのように菊丸の元へと駆け寄る。 「ごめんなさい、先生。でも聞いて。これが最後だから、明日からは絶対にこんなことで先生に迷惑はかけないから」 呼吸の仕方すら忘れたままに、菊丸の顔を見上げて口にすれば返ってきたのは驚きの顔と沈黙のみ。それがいまだかつて見たことないほど動揺の色を宿した表情だということに気づいても、はそれに止められることはなかった。 「本当は私が好きになること自体がもう迷惑だって分かってるんだけど、でも私は多分先生のことをこれからも好きなままだと思う」 抵抗なく出てきたその言葉に、今度は菊丸が息を飲んだ。 そしては、改めて自分の好きになった人を前にして。自分が制服を着ていることもここが学校であることも忘れて、呟いた。 「私は駄目な生徒でしかないのかもしれないけれど、でも駄目な女にはなりたくないから。……だから、だから好きなままでいるのは許して」 拒絶されてもそれを受け入れる予定ではなかったのか。見返りよりも告白をすることにこそ意義があったのではなかったのか。そのためのこの時間ではなかったのか。 疑問はいくらでも回れど、しかしは今となってはそれらを全て跳ね除けてしまう。図々しいまでの自分の恋愛感情には、もはや自分自身が勝てなかった。 そんな自分の言葉は、本当に我がままで身勝手で、相手のことを思いやることを知らない暴力的な感情なのかもしれない。しんと静まり返った廊下、その沈黙は改めて自分にそう教えているかのよう。は顔を伏せる。 けれど、その時。 「本当に俺のことを思うんだったら、そんなことは言ってほしくなかった」 頭上から響いてきたのは、予想外なその言葉とため息。 その言葉の意味が分からず、顔を上げて目を丸くした瞬間。訪れたのは、自分の右手首を掴む誰かの温もり。そしてその力に導かれるがままに動かされ、気づいた時に目の前にあったのは社会科準備室の風景。 そして、いつも教室の中でしか見ることの許されなかったあの紺のストライプのネクタイ。 先生、と。なにが起きているのか分からず顔を上げて呟こうとしたその時、最後に与えられたのは抱きしめられる感覚だった。 「俺の努力が台無しなんですけど」 耳元で菊丸の声が響く。今までにない至近距離で聞くその声はわずかにかすれている。 その響きにどうしようもなく胸の奥底からなにかを揺さぶれながら、けれど状況のまるで分からないが沈黙したままでいると、やがてため息が零れた。 「なんなの、一体。どうしてお前がそういう感情になるわけ? そして言っちゃうわけ?」 「……先生、なに……」 「だから。俺は本当はとうの昔に教師失格だったんだよ、誰かのせいで」 最後のブレーキになるかと思ったらアクセルかよ、と菊丸はひとりで呟く。 その意味は。ただ見上げる視線を持つことしか、そして与えられる温もりを享受することしかできないが抱きしめられたまま目で問うと、菊丸は頭をかくのをやめてを見つめ、静かに呟いた。 「生徒でいることより女でいることを選んだんなら、俺だって我慢する気はないから」 答えを返す時間は許されなかった。 いつも隣のコートでラケットを、教室でチョークを握っていた右手で顎を上げられ、わずかな猶予ののちに与えられたのは触れるばかりのキス。まるで今までの時間を取り戻さんとするかのようにそのキスは深度を求め、に触れることなど叶わないと思い続けたスーツを握り締めることしか許さなかった。いつもはノックをすることすら勇気を求めた社会科準備室のドアが、今となっては外界からの視線と邪魔とをはねのける味方となっていた。 ドアに支えられていたのか、それとも菊丸に支えられていたのか。分からなくなるほど長く呼吸を奪われた後、恥ずかしさでがうつむいた時にそっと頭の上に温もりが訪れる。 それが菊丸の手だと気づいた時、今この時間が現実であることを悟る。そして。 「」 「……?」 「これから1年、隠すことはできるよね? 我慢できるね?」 静かに問われた質問に返せるのは、頷くことのみ。肯定の意思のみ。 真っ直ぐにためらいなく頷けば、目の前で菊丸は柔らかく笑ってみせた。 「分かった。じゃあ卒業式が終わったら俺のところにおいで」 「え?」 「スーツのボタンしか用意してあげられないけどね。それで晴れて教師と生徒じゃなくなるんだから、記念にいいだろ」 「……先生、案外高校生と同じこと考えるんだね……」 「遅く生まれてきたが悪いんだよ」 そして、初めて「好きだよ」と言葉にして。菊丸は笑って、新たな枷をに提示した。 1年の我慢の先に確実に幸福が待っていると約束してくれる、2人だけの秘密の枷を再度の口付けとともに。 |
| 05/09/28 |