| 03.放課後の食堂 |
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夏ばてと一言で言ってしまうのはとても簡単なことで、そしてそれに納得できるだけの出来事は確かにあった。 「姿勢悪いなあ」 「今日は駄目。無理。見逃して」 閑散としている放課後の食堂で、テーブルに突っ伏した英二は臆することなく降参の言葉を羅列する。それを素直に聞き届けてあげた方がよいと、そう思うだけの日差しが天井まで伸びたサッシの向こうから注ぎ込んでいた。 鮮やかに塗られた薄水色の空の中に光る太陽に目を細め、は困ったように笑ってテーブルの上に広げられていた教科書をこちらに向ける。1枚、2枚とめくってその教科書の綺麗さに肩を竦めるが、相手はそんな反応などなにひとつ気にしていなかった(見ていなかった、というのが正しいが)。 ただ時間は無限にあるわけではなく、無限という理想を追求してよいほど現状は彼に優しいわけでもない。夏ばてという理由に幾分か同情しながらも、は再び口を開く。 「100点じゃなくてもいいんだよね? 合格できればいいんだよね?」 「がそれで許してくれるなら」 「今回だけはね」 「じゃあ、それで」 上半身は相変わらずテーブルに預けたまま、英二はひらひらと右手を振る。筆記用具よりもラケットを持つことの方がよほど似合うその手のひらは、明らかにしおれていた。 確かに夏ばてと一言で言ってしまうのはとても簡単なことで、そしてそれに納得できるだけの最近の部活の練習量ではあった。だが、現状しおれなければならない理由を作ったのはまがうことなく英二本人だった。 夏の放課後。本来であれば、青と白のユニフォームを着てコートの上で風を受けている時間。けれど彼の右手にラケットはない。その原因は、彼の学生としての本分に対する姿勢。 英二は勉強が苦手ではない。ただやらないだけだ。宿題を放棄しているわけではない。ただ、自分でやらないだけだ。 (よかれと思って、私もそうさせちゃってる部分があるからなあ。でも仕方ないな、テニス中心なのは) 隠れてもうひとつだけ、小さくため息をついてからは英二のペンケースから筆記用具を取り出す。適当に持ってきたと言わんばかりのむき出しのルーズリーフに数学の問題を何問か書き写し、別の1枚で計算する。答えを確認してから、そっと英二の前に問題を書いた紙を置いた。 「……今から生きていく上でこの計算を使う必要がどこにあるのかまったく分からない」 のそりと動いて開口一番、どこかで聞いたことのあるようなお決まりの台詞。つまらなさそうにルーブリーフをもてあそぶ英二に、はやや大げさにため息をついて頬杖をつく。 「それ、負け惜しみって言うんだよ」 「負けてもいい。勝っても楽しくない」 「部活に行く前に毎日補習を受けてもいいならね」 その一言にぐっと英二は言葉につまる。明らかに見当違いな恨めしい視線を一度こちらに向けたあと、じっとルーズリーフを見つめた。そのまま取り組んでくれるかとも黙って様子を見守ると、やがて。 「……、なんで勉強のことになるといつもそんなに強気なわけ」 「私までぐだっとしたら、誰も英二の勉強を見届けないと思うから」 予想した反抗の態度を見せたものだから、はあっさりと真実を口にした。 英二はようやくその口をつぐむ。渋々ながらもの手から使い慣れたシャープペンシルを受け取り、並べられた数字を一瞥した後ゆっくりとした手つきで計算式を書き始めた。 期末テストも終わった1学期末の7月、突然数学の授業中に宣言されたのは確認テストだった。一瞬教室内は嫌味を込めた悲鳴に襲われたものの、それが期末テストとほぼ同じ内容であることを聞かされたクラスメイトたちは現金なもので、あっさりとそれを承諾する。 としても、つい1週間前まで勉強していたことをもう一度繰り返すということであればさほど問題はなかった。外は暑い、今日も夏という天気に素直に従う日差しがそこにある。そのような状況下で無駄に怒りという形でエネルギーを消費する必要もないはずだった。まあ無難にこなせるレベルの問題だろう、そう思う。 ただひとつ、英二の複雑極まりない表情を見つけてしまうまでは。 「英二、賭けようか。負けたら今日のお昼ご飯の飲み物奢りね」 「今の俺にそういうことを平気で言うお前が嫌だ」 前から回ってくるプリントを受け取りながら小さく交わされる英二と不二の声に、は嫌な予感が的中してしまったことに気づく。自分もプリントをもらい、見慣れた問題ばかりのその紙の上に名前を書きながらため息交じりにそっと視線を英二に向けた。 (期末テスト、都大会直後で勉強してる暇なんかほとんどなかったし) の右手はまるですべてを覚えているかのように淀みなく計算式を書き続ける。そのおかげで、ちらちら。集中力散漫だと自己主張したいのかと問いかけたいほどに器用にシャープペンシルを回す英二の後ろ姿が気になって仕方ない。 諦観というよりは、むしろ同情。されても嬉しくはないと分かりながらも、彼の現状を知る人間のひとりとしては「そのこと」に思いを馳せないわけにはいかなかった。 (今はもう関東大会に向けての練習しかしてないし) 6月中旬の都大会を経て、7月の関東大会へ。そのまさに間に挟まる日程となってしまった期末テストに、英二の意欲が向いたはずもない。今年ばかりは、と不二と協定を組んで最低限の点数を取らせる作戦は期末テストでは一応の成功を見せたが、だがしかし。 (……記憶力までは責任もてないからなあ。酷だなあ) 不二も同じことを思っているのだろう、平然と右手で問題を解きながら、時折ちらりと英二の背中に視線を向ける。そしての視線に感じて教師に見つからないように苦笑を寄越した。 結果、案の定。クラスのほとんどが赤い丸以外になにをもらうのかと余裕を見せ付けることができた確認テストで、英二の答案だけは追加の言葉をプレゼントされてしまっていた。 「『明日追試』だとか、もう本当嫌がらせとしか思えない。たかだか1問足りなかっただけで」 苛立ちに半分任せながらも手を進める。時折止まったと思ってもが数字のヒントをひとつ零すだけで手は再び動き出す。解法を知らない、という根本的な敵と戦っているわけではないので、もそれ以上は手助けをしなかった。 授業を終え、部活動が休みかもしくは参加しない生徒たちの寛ぎの場所としての食堂。周囲に見知った人の姿はなく、あの昼の混雑ぶりとはまるで別世界だった。英二とも無遠慮に教科書やノートを広げ、テーブルを占領する。 「明日でよかったと思うんだけどなあ、終業式間際まで引き伸ばされるよりは」 「どうせ通知表に関係ないのに? 意味分かんねえよ」 「でもそれができないと2学期からの数学が大変なんだって」 「誰が言ったの」 「手塚くん」 ここで不二や乾の名前を出しては逆効果だということを、はよく知っている。大石の名前を出しても残念ながら彼の優しさが邪魔をして役不足になってしまうことも身をもって知っている。 こういう時、効果があるのは英二が絶対に勝てない相手の名前だ。 案の定英二は手塚の名前に一度ぐっと息を飲み、苛立ちをその表情で伝える。綺麗に寄った眉間の皺に、は効果的面だとは思っても申し訳ないとはさらさら思わない。 やがて、その口は手塚に対する理不尽極まりない愚痴を零し始めるだろう。時間の経過の中で累積することができた経験から生まれる予想が、の手に財布を持たせる。 「ていうかなんだ、手塚はなんだ。休むんだったらとことん休めっての」 左足を曲げて右足に預ける。頬杖をしてやや右方に偏った身体を、それでも綺麗に見せる方法を知っている相手の言葉に苦笑してからはそっと席を立つ。 「数学の話ができるなら関東大会に出ろっていう話だよな、本当」 愚痴なのか切望なのか分からない言葉がぽつりと空気の中に流れ行くのを聞き届けて、食堂の入り口へと向かう。食堂そのものの営業時間はとうの昔に終了していたが、紙コップのジュースであれば自動販売機でいつでも購入が可能だった。英二の好きな清涼飲料水と自分のものを購入し、再び席へと戻る。 ここをテラスかと思わせる、南側に向けて設けられた開口の大きなサッシから流れ込む日差しが、ちらちらと英二の髪の毛を照らす。開け放たれた窓の向こうで木々が揺れればその名残で英二の髪の毛もさらりと揺れる。 その様はとても繊細で、綺麗で。その髪の毛の柔らかさと対をなすように長く、きめ細やかさをもって生まれた睫毛が伏せられて、横顔に落ち着きを与えていた。 色々なことを思う。一歩足を進めた時に、今日は素直に部活に出させてあげるべきだったという後悔が生まれたかと思えば、次の一歩の時には図々しいことにそんな勉強をする姿に胸がうずくのを抑えられなくなる。要は都合のいい思考回路なのだ。 ただ、それでも。 「じゃあ、手塚くんが全国大会で戻ってこれるように。勝たないとね、関東大会」 若干うなだれ気味になってきた英二の前に、そっと紙コップを置く。珍しがることなく英二は無言のまま左手を上げ、そのまま手のひらにそれを収める。中身を聞くこともなくそれを飲み、理由を聞くこともなくそれを自分の左横に据える。 都合のいい思考回路だとしても、それでも。その様子を見届けて、頬が緩むことだけは、他の誰でもない英二自身が認めてくれているように思える以上どうしようもなかった。 「簡単に言うよなあ、関東大会だっていうのに」 「勝ちたいくせに」 「なに、なんで今日そんなに上から目線なの。俺何かした?」 「知らなかったら知らなかったで怒るのに?」 やや首を傾いで呟けば、困ったように笑って英二はルーズリーフをに差し出した。 例えば、それを。自分で解答を確認することもできたのだけれど、それでも英二はそれを問いかけることもなくに預ける。 (不二くんが見たら、甘やかしすぎだって言うんだろうなあ) 聞きなれたクラスメイトの声が、まるで今隣に座っているかのようなリアルな響きをもって鼓膜の内側で響く。記憶ひとつで不二の考えることや声を想像できるし、そしてその不二の言葉にいまだかつて間違いなどなにひとつなかったことを知っているのに、それでもは素直に解答の確認に取りかかる。英二の赤ボールペンは書きやすくて好きだった。 「……なんで英二、最後の2問だけ空欄なの」 「それ以外は合ってるだろ?」 「合ってるけど、丸投げしていいとは言ってない」 「公式使うの嫌なんだよ、絶対ルートが出てくるから」 「……何の我がまま……」 「計算ミスすることが分かってるならそこに無駄な労力は使わない方がいいって言ってた」 「誰が」 「俺が」 100点取るつもりないって言ったじゃん、とにっと笑う英二に返す言葉はない。ため息ひとつとともに空欄以外の箇所全てに赤い丸をつけたルーズリーフを返せば、不正解を確認するよりも早く「クリア」と呟いて紙コップの中の飲み物を飲み干した。 「どうしてそういう集中力をテストの時に使ってくれないかなあ、心底思うんだけど」 時計を気にする相手に、そっと呟く。頬杖をついてやや上目遣い。無意識のうちにその姿勢をとってしまうことを、ああそういえばとは英二に止められていたことを思い出す。 止める理由は至極勝手。それはの都合のよい思考回路と同じ世界の意味。 「テストで満点取ろうなんて、全然思ってないんで。だからそんなところに無駄な力は使わないって、そんなのが一番よく知ってるじゃん」 語調は教室で聞くものと全く変わらないのに、その利き手は遠慮なくの頬杖の手に触れた。じわり、と体温を余すことなく伝えるようなゆっくりとした動きで。 長袖の制服など見なくなってとうに1ヶ月以上、素肌に直に触れられたその感触に慌てては腕を引っ込める。頬杖が行儀悪いという、そんな型どおりの意味ではないことはが知っている。頭というよりは、心が覚えている。 そう、そもそも問題は頬杖などというありふれた動作ではなくて。その頬杖に支えられた、視線の動く、その先にあるものであって。 「……平然としながらそういうことするの、どうかと思うよ、私」 「その癖が直ってない方がどうかと思うよー、俺は」 「反応するの英二だけだって」 「まだそういうこと言う? 男ってもっと単純な生き物なんだってば」 だからお願いだと。俺の前以外でそれをするなと。 あっさりと独占の言葉を零し、英二は教科書や筆記用具を片付け始める。触れたとはいっても息をするためのどこかが掴まれたようなその感覚に、やがての頬は赤くなって反論の気持ちを萎えさせる。まるで萎れることを待ちかねていたかのような速さで。 都合のよい思考回路は、とてもお互い様で。それに浸かってしまえば簡単には逃げられない。 けれど浸かることを互いが認めてしまっていれば、逃げ道など用意することが馬鹿らしい。逃げ方など考えることが馬鹿らしい。 「今日どうすんの?」 食堂を後にして昇降口までたどり着いたところで、ぽつりと英二が呟いた。出会った頃よりも随分と見上げる角度がついてしまったその人の横顔を見つめると、思わず縋る言葉が口をついて出そうになるのは悪い癖だ。 一緒に帰りたい、という言葉を飲み込んで、は平然を装って答える。 「今から部活には行くけど」 「ふーん。じゃ、帰れるか。ちょっと待ってもらうけどいい?」 けれど、無理して生み出した平然さなど、あっという間に流される。 「さっきのお礼したいし。いつものところで待ってて」 それは独占という名の約束。確認も躊躇もいらない、そこに肯定しか存在しないことを見透かした上での言葉。都合のよい思考回路だけが生み出してくれる、それはご褒美。 ああ、とは頭の中で膨張し始める熱に負けて言葉を見失う。身体が機能するためのねじ、芯、核、そのようななにかが一瞬で自分の意思を無視する感覚を今日も味わう。 「なに、嫌?」 それを見透かしているはずなのに、英二は沈黙するの顔を覗き込んで追い打ちをかける。慌てて首を横に振れば、 「知ってるって」 笑って英二はあっさりとその姿を昇降口の向こうへと消した。そっと頭を撫でた後で。 甘い、と。今の様子を見ていればきっと不二はそう呟くだろう。目指す先はと一緒でもその過程にある優しさのベクトルが違う不二からすれば、英二が主導権を握ることができるような展開は好ましいものではない。だから今の一瞬のやりとりは、不二からすれば落第点しかもらえない。 けれど、それでも。 (こうなることを英二が許してくれるんだから、勝てるはずがないじゃない) 負けた言い訳を呟いて、そっと髪の毛を整える。触れたそこには、まだ温もりが優しく宿ってくれているようだった。 |
| 07/07/19 |