02.梅雨の3年6組

「ん」

 その何気ないかけ声(とは呼ぶに呼べない、本当に小さな一声だったけれど)と共に目の前に現れたのは、自分のものよりも少しばかり大きくて長い指が持つ、ひとつの消しゴム。
 それを見つめ、なにを思うでもなく右手を差し出す。自分が消しゴムを落としてそれを彼が拾った、ただそれだけの話。差し出された理由が分かっている以上、この状況に不思議さを感じる必要はなかったのだ。本当は。
 ただ。

「……あ」
「え?」
「なにか、今。今の瞬間、前にもあった」

 気になってしまったものがひとつでもあったのならば、そんなたわいのない瞬間ですら突然意味を持って目の前に広がる。
 そう呟いたのは、週も終わりな金曜日、3年6組3時間目の休み時間。
 席について、3時間目の数学の教科書とノートを開いたままの机の上で。手のひらに戻ってきた消しゴムを見つめ、その感覚にとらわれ、は思わず呟いてしまったのだった。





 まるで小学校に来たようだ、と苦笑しながら呟いた教育実習生の言葉は記憶に新しい。
 けれど、まるで小学生と変わらないと歎息する担任のぼやきは聞き飽きた。

(……だって、うるさいんだもん。あの人)

 暗記テストのために必死ににらめっこをしていた英語の教科書の奥から、そっと。は気づかれないように教壇の方へと視線を向ける。
 外は梅雨の様相を示し始めて久しい。常に雨雲に見守られている環境の中では、いくら蛍光灯を点したとしても薄暗さとは無縁ではいられない。
 そんな中、いつもと同じ数だと分かってはいるものの、しかし行き場所を見失っているかのようなクラスメイトの集合地点と化した教室は、どこか窮屈な気がしてならなかった。
 その窮屈の理由を、は的確に見抜いている自信があった。

「え、違うよ。足はこう、こうだって。この角度」
「そうか? お前のは少し大袈裟じゃないか?」
「うん、大袈裟だよ。それは物まね大会の物まねだよ」
「な」
「違うって! よく見てみろよ、高端は絶対こう打つから!」

 どのクラスメイトの会話よりも大きく響くその声。教壇から少し離れた前から3番目の席に座っているですら、一字一句間違えることなく聞き取れてしまうその騒がしさ。
 は、困惑というよりもむしろある種の感服を抱きながら小さなため息をついた。

(どうして男子ってスポーツの話になるとあんなに熱くなるんだろう)

 しかしそんな疑問も、実際に目の前で熱く活動されては口に出せるものでもない。悲しいかな、心の中で繰り返せば繰り返すほど担任の嘆きが耳鳴りのように響いた。
 先生も大変だな、なんて。けれど他人事のように思いながら、はその姿を見つめる。
 どれも今年に入って出会った顔だ、取り立ててなにか特別な感情を抱くほどの時間が流れているわけでもない。
 ただし、その中でひとり。出逢って3ヶ月の顔ぶれの中でもひとりだけ、他の2人よりも印象に残る男子がいた。

「バッターボックスに入ってー、バット握りなおしてー。それで、こう!」
「……いや、それ別に高端に限ったことじゃないし」
「うん、別に誰でもやるよそれ。副留でも古多でも金元でも緒形でも田村でもやるよ」
「別にどこの球団でもいいんじゃねえか? なあ、今誰の真似をしてるんだ? 菊丸」
「高端! 高端だって!」

 3人の輪の中心に立って、人に聞かれることをなんら意識しない大きさの声で言葉を紡ぐ。人に見られることになんら恥ずかしさを覚えないで、野球選手の真似をする。そんなひとりの、少しばかり小柄な男子の存在を、は目に焼き付けないわけにはいかなかった。
 その、あまりの騒がしさと   敵を作らない、人懐こい表情ゆえに。

(いたなあ、ああいう男子。私立でも公立でも一緒なんだな、結局)

 入学して早3ヶ月。なにもかもが真新しかった生活も、そろそろ新鮮味よりも飽きが目立つようになってきた。頬杖をつきながら「あ、山井くんだ。山井くんにそっくりなんだ」と小学校時代の同級生を冷静に思い出してしまうようでは、新鮮味などというものは既に過去のものでしかないような気もしたが。

(私立はもう少し大人なのかと思ってたら、なんだ。全然変わらないんだなあ)

 だからといって自分が大人になっているわけでもなく、それ自体については不満はさほどなかった。しかし英単語を頭に叩き込んでいる最中のからすれば、その騒がしさは敵でしかない。いくら敵を作らない得な性格をしているからとはいえ、今この現状の中では少なからずと同じ思いを抱いている人間がいるはずだ。
 良くも悪くも、このクラスで目立つ存在。
 そんなクラスメイト、菊丸英二がこのクラスのムードメーカー、もとい騒がしさの元凶であることを。はこの3ヶ月で学んでいた。

(山井くんと一緒なら、私は絶対友達にはならないな。だって山井くん……)

 そこまで思い、伊織は首を振る。苦い思い出をこれ以上進んで思い出す気にはなれない。思い出すだけで怖くなる、あの伝説の同級生のことは。
 しかし、そんな「あまり思い出したくない同級生」山井を思い起こさせる菊丸英二は、自分にとっては下手をしたら敵なのかもしれないと。は英単語を諦め、そんな仮の敵(敵を作ることに意義はなく、かつ本来の意味を履き違えて使用しているのにも気づかないまま)菊丸を頬杖をついて見つめ続けた。
 そんなの視線に気づかないほどに話に熱中している3人の会話は、そのまま進む。

「というかさ、菊丸。お前のそれ、松居じゃん」
「え」
「あー、うん。松居だよそれ。というかちょっと志水入ってるよ、それ」
「いや、仁岡じゃねえ? この握り方」
「高端で松居で志水で仁岡? え、今誰の真似してたんだっけ」
「高端のはず」
「……高端、ねえ」
「な、なんだよお前ら! 俺の動体視力は絶対間違ってなんかいないって!」
「いや、お前の動体視力はすごいけどさ。でもお前、テニス部だし」
「俺たち野球部だし。俺たちの方が知ってるし」
「なんだよ、じゃあテニスネタで勝負するか?」
「それ、高端もう関係ないし。というか俺たち野球部だって、だから」

 そんな一連の会話を聞いている中で、は菊丸英二についての情報をひとつ手に入れる。望んで仕入れたものではなく、この狭い教室でその音量ではもはや不可抗力にも近しいものではあったが。

(テニス部……うちの? うちのテニス部?)

 ただ、その情報のあまりの意外性に気づいてしまえば、それまでの経緯は関係なくなる。
 は左手のひらから顎を離し、目を丸くして菊丸を見つめる。視界中央では相変わらずカッターシャツ姿の男子3人が目に見えないバットをもって遊んでいたが、の視線はひとりに釘付けになっていた。
 お世辞にも恵まれているとはいえない小さな身体。運動能力はあるとしても、それはまだ先天的才能の一部でこの先どうなるか分からないという、きもをつぶされてしまうような衝撃的なものではない。それは5月に行われたスポーツテストの様子を見ていれば誰にでも分かるもの、むしろ目立っていたのは他のクラスの手塚という男子だった。
 は目を見張る。そんな男子が、あのテニス部員だということに。

「くっそー、俺がレギュラーを取ってもお前たちには絶対ジャージ見せてやんねえからな!」
「見せてとは言ってないし」
「というかテニスコートに行けば見られるし。誰でも」
「バッカだなあ、俺が着るからこそ意味があるんだろ?」
「……」
「……」
「無視すんな、こら!」

 目の前の男子と同様、言葉をなくしている人間がこのクラスの中に他にもいることを。きっと彼は知らない。
 青春学園中等部、男子硬式テニス部のその名の偉大さを知らないはずがない他のクラスメイトが、彼の虚飾のような一言に目を丸くするしかできないでいることを。小柄な身体で必死にテニスについて熱く語っている最中の彼は、きっと気づいていない。

(テニス部のレギュラー? 本当に取る気?)

 は素直に怪訝な感情を抱く。男子硬式テニス部といえばこの学校内で最も厳しい部活動で、練習量もずば抜けていれば周囲の期待も並ではない。それはこの学校を受験する者であれば勿論のこと、テニス部そのもののために入学を決意する人間がいるほどの、都内はおろか全国的にも名の知れたもの。
 菊丸とテニス部というキーワードがまったくもって結びつかなかったは絶句するのと同時に、どこか無謀にも似たその大宣言を聞いて思わず苦笑する。
 ただ、それは侮蔑の色を含んでいたわけではないことを。苦笑してしまった後に初めて気づいて、その意味が分からず少しばかり困惑してしまうのだけれど。

(でも、あのテニス部に入るのは……入部して3ヶ月でまだ辞めてないっていうことは)

 それは本当に些細な出来事。チャイムが鳴り響き、世界はあまりにもあっさりと休み時間から4時間目へと移行する。壁掛け時計を見上げて次が英語だと気づいた3人は、「うわっ単語テスト!」「やってねえ!」と叫んで慌てて自分の席へと戻っていく。それすらもいつもとなんら変わらない光景で、取り立てて意味を求める理由も必要も、本当はなかったはずなのに。
 けれどは、緩む頬もそのままに。英語の教科書に視線を落としてそっと思う。

(並大抵の努力じゃ、ついていけない部活だもん。あの人、もしかしたらすごい人なのかも)

 ただ、そう思うことはできても、当分は「騒がしいクラスメイト」のままなのだろう。
 それでも別に構わない、彼についての意識を変える必要は今のところまったくない。ましてや彼はあの伝説の同級生に近い匂いを感じさせる存在でもある、あえて自分から近づくこともないのだろう。
 はそんな勝手なことを思いながら、教科書を見つめていた。その時。

「……あ!」

 教科書に視線を落としたままシャープペンシルを取ろうとした右手が、間違ったところに余計な力を与えた。
 3時間目の授業が終わった後も出しっぱなしにしていた消しゴムが、その拍子で簡単に机から転がり落ちる。床は休み時間の終わったクラスメイトの足で混雑している。は思わず声を上げてから、慌てて机の下を覗き込んだ。
 しかし、その瞬間。目に映ったのは、見慣れた消しゴムでもクラスメイトの足でもない。

「ん」

 小さな一言。既に言葉という部類にも入れられないような、そんな短い一声。
 その声に顔を上げた瞬間。目の前には、あの菊丸がとさほど変わらない大きさの指で消しゴムを差し出している姿があった。
 驚くのと、その顔を見るのと。どちらが早かったのかは、には分からない。
 ただ、気づいた時には自分の中途半端に小さくなった消しゴムをあの菊丸が拾い上げ、そして自分の目の前に差し出していた。

「……あ」

 チャイムが鳴り終わる。4時間目は英語だ、今日はLesson3の単語のテストがある。自信がないわけではないけれど、確実に10点満点を取りたい。
 そんな思いは、突然のこの出来事の前ではなんの力も持っていなかった。

「あれ、のじゃないの? これ」

 見上げるだけのの視線を受けて、菊丸は軽く小首を傾げる。
 少し癖の強い赤茶色の髪が揺れる。けして長いわけではないのに、さらりと梅雨の風に吹かれてそっと、柔らかく。
 それは突然の、そして初めての接触だった。

「う、ううん。私の。……ありがとう」
「うん」

 少しだけぎこちない感謝の言葉に、菊丸は口の端を綺麗にあげて笑みを返す。そして、その指からの消しゴムをそっと離した。
 その瞬間、の手のひらに訪れたのは、その消しゴムの感触と。

「おい菊丸、これお前の!」
「あ、悪い!」

 かするように触れた指先に宿った温もりは、電光石火の速さで右腕を駆け抜ける。自分よりも少しだけ高い体温、その感覚に一瞬で捕らわれそうになったその瞬間に目の前で彼は男子の声に振り返り、それ以上の言葉を残すことなくの前から去っていった。
 手のひらに戻ってきた消しゴムを見つめ、はそっと顔を上げる。
 騒がしいクラスメイト。TPOという言葉があまりきかないクラスメイト。

(……名前呼ばれたの、初めてかもしれない)

 でも、人懐こさは誰にも負けないクラスメイト。
 そんな彼は、もしかしたら。話さなくては分からない、感じ取ることのできない魅力をたくさん秘めているものなのかもしれない、なんて。
 自分の名前を呼ぶその声の柔らかさを思い出しながら、は消しゴムをそっと机の上に置いて頬を緩める。

「……あれ。Lesson2じゃないの? 範囲」
「3だよ、Lesson3」
「うわ、本当に?! やばい、俺2だと思ってた!」
「お前はいつも勉強してこないだろ」

 それは梅雨の重苦しい空に見守られた、いつもとなんら変わらない教室。
 けれどどこか心が温かくなる、それはこのクラスが始まってから初めてのことだった。





「な、なに」

 見つめられるだけの視線を受けて、英二が一瞬たじろぐ。その目は相変わらず丸みを帯びていたが、やはり2年前と比べれば少しだけすっきりとした印象を受ける。

「……」
「別になにも仕掛けてないって」

 その声は声変わりを迎えて低くなった。身に着ける制服は変わらずとも(さすがにサイズは変わったが)、袖から見える腕は部活の賜物で随分と鍛えられていた。髪は伸びて、毎朝整えるのに時間を要するようになった。
 そして、その人懐こさは。


「え?」
「それ以上笑ったら髪をぐしゃぐしゃにしてやる」
「ちょ、ちょっと! ストップ!」
「……いい加減どいてくれないかな、英二。ものすごく邪魔なんだけど」

 名前の呼び方を変えて、自分専用の特別な姿をもってくれるようになった。
 外は梅雨。黒くて果てが見えない雲に覆われた天気なのは相変わらずで、それは2年前とまるで同じ。
 けれど確実に時間が流れていることだけは、の頭に温もりを宿してくれる、大きくなった優しい手のひらが教えてくれていた。



05/06/10