| 01.夕立の下駄箱前 |
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それは逆らうことも馬鹿らしいと一目で分かるような突然の雨で、学校が指定した下校時刻など自然の前ではなんの意味も役割もないことを教えてくれていた。 突然赤紫色になって「変だな」と思っていた空は、そんな疑問すら置いてきぼりにするかのようにさっさと重苦しい灰色に変わった。あれ、とその変化に気づいた頃には遠くで雷鳴が響き、顔をあげた時には一粒の雨。頬に当たったその冷たい感触に嵐を予感したまさにその瞬間、人の感情など気にも留めない雨脚が来訪者となった。 「あーあ……」 部活が終わった生徒でごった返す下駄箱前、英二は困り果てた顔で空を見上げる。部活終了後、一度校舎内に戻ったのが失敗だった。思えば机の中に忘れた英語の教科書を取りに戻ろうと思い立った時、空は既に嵐の到来の準備を始めていたのだ。 突然の夕立に誰もが帰る手段を見失い、下駄箱前で騒ぎ立てる。別に驚いているわけでも怖がっているわけでもない、むしろ物珍しさに雷が光るのを見つめている人間がほとんどだったけれど。 (夕立だよな、これ。通り雨……だよな? だってさっきまであんなに晴れてたんだし) テニスバッグを左肩に掛けなおし、下駄箱前のガラスにもたれて英二も空を見上げる。 足止めされるのは幾分か気分が悪い。けれど初夏、部活終了後の今となっては夕立の風の心地よさがせめてもの救いだった。赤茶色の髪を風に揺らしながら英二は小さくため息をついた。 さっさと帰ればよかった、そんなことを思って視線を右へとずらした、その時。 (……あれ) 人ごみの中にあった見慣れた人物の姿に、英二は一瞬我が目を疑う。 何度か瞬きを繰り返したり、果ては一度視線を他の場所にずらしてからもう一度その場所に戻したり。しかし、その視界に映る光景はなんら変わらなかった。 下駄箱前の右端、遠く雨に濡れるグラウンドが見える。その夕立の光景をバックにしながらそこにいたのは、紛れもなく自分の彼女、の姿だった。 (なんで? 今日は部活ないはずなのに) 見慣れているとはいえ予想外であることには変わりない。けれど予想外とはいえ、妙な嬉しさがあることにも変わりはない。 英二はしばしその横顔を見つめた後、反動をつけてガラスドアから離れてのもとへと歩を進めた。 野球部、陸上部、バスケットボール部バレーボール部剣道部。 大会前の初夏のこの時期、たいていの運動部は終了時間いっぱいまで部活動をする。この人ごみはその熱意の裏返しだった。 そんな運動部員の波をかきわけ、やっとの思いで英二はのもとへとたどり着く。 自分を目指している人物がいるとは露とも思わないのだろう、は英二に気づかない。その視線はただ鳴り止まない雷とその光と、そして雨脚とを見つめてばかりいる。それがなんとなく気に入らなくて、英二は無言のままの左手首をつかんだ。 「!」 「なにしてんの?」 突然拘束された感触に言葉もなく視線を向けるに、してやったりと声をかける。その目は英二の姿を確認してすぐに丸くなり、言葉にならない声を発する口が慌てていて妙に可愛かった。 「え、英二……部活は」 「なに言ってんの、もうとっくに終わったよ。ていうかの方こそなにしてんの?」 人ごみはかえってよかったかもしれない。の温もりを手にした時、英二は咄嗟にそう思えた。 そこは長身の運動部員たちのおかげで埋もれることができる、下駄箱前右端という誰にも邪魔されない場所。さらに自分の身体をもその役に立て、英二は掴んだ手首を自分の背後へと誘導しての手首からその五指へと指を伸ばす。 一本一本を使って組み込ませたその指の鎖に、は困惑した表情を浮かべた。ただ、それでもその手を振り払おうとはしなかったけれど。 「生徒議会。あと、手塚くんのお手伝い」 「手塚? なにそれ」 予想していなかった言葉に思わずその名を繰り返す。思えば確かに手塚は今日の部活にはいなかった。だがだからといって自分の彼女と直結する理由があったとは思えない。 そんな英二のストレートな質問に、は肩をすくめて空を見上げる。 「議会のあと、生徒会と3年の学級委員で話し合ってたの。今度の体育祭のことで」 「……それが手塚とどう関係あるの?」 「手塚くんは体育祭実行委員長。3年学級委員は体育祭実行委員。質問は?」 「ありません」 素直に自分の負けを認めると、は苦笑した。そしてそっと左手を握りなおす。 誰からも見られない、誰にも邪魔をさせない場所。手にする温もりはいつもと変わらなくとも、しかし享受できる場所がいつもと違えば少なからず動揺せざるをえないもの。 動揺よりもむしろ、妙な嬉しさを噛み締めてしまうもの。 英二は頬が緩んでしまうのを必死に堪えながら、雷鳴とどろく空を見上げた。 「、傘は?」 「持ってたらとっくに帰ってるよ」 「それもそうか。……いや、違うよ。雷鳴ってるんだから危ないよ」 「残念でした。先生に引き止められたのは雷が鳴る前。もし先生が止めなかったなら走ってバス停に向かってる」 「バス? バスで帰るつもりだったの?」 「この雨の中歩いて駅まで下りるの? それこそ無理!」 高台にある青春学園の天気は、相変わらず気まぐれで。英二とが今となっては詮無いことで会話を続ける間も、雷をとどろかせながらしかし東の空ではわずかな光を戻し始める。それに視線を向けたのもつかの間、強い風が遠くの灰色の雲を容赦なく東の空に登場させ、今見た光はまるで幻だったかのようにあっさりとその姿を消した。 「……やむのかな、これ」 の呟きに、英二は小さく欠伸をする。 「やむよ。普通に夕立だろ? これ。さっきまであんなに晴れてたんだし」 「そっか」 「うん」 そんなことを返しながら、本当は心の中では別のことを思っていただなんて。下手をすればクラスメイトの姿すら見つけられそうな混雑の中、英二はそれだけは口に出せなかった。 初夏の晴天のもとラケットを握り続け、妙な痺れを訴える右手。コートの上を走り続けて鉛のように重くなった足。 毎日のこととはいえ、それでも疲れを感じないという方がおかしい。だからその疲れを少しでも減らすために、明日へと持ち越さないために、部活が終わった後はいつも寄り道などせずにまっすぐに家に帰るのだ。 けれど今は違う。少なくともすぐ帰りたいとは思っていないことに、英二は気づいている。 (俺、いつから依存症になったんだろう) 壁にもたれ、それでも変わらず右手でその温もりを感じながら。少しだけ自分の右肩に寄りかかるようになっていたの身体を受け止めながら、雨空に問う。 夕立のおかげで幾分か湿気が増えて気分が悪い。帰るタイミングを見失って生徒が喧騒とともに下駄箱前に集結していて落ち着かない。部活で疲れた身体には、そのどれもが酷なものであり一刻も早くこの場を去りたいと願ってもなんらおかしくはないというのに。 それでも、右手はこの場を離れることをまるで考えてもいなかった。 「部活、どうだった? 今日もきつかった?」 「手塚がいない分楽だった」 「あはは、手塚くんに言っておくよそれ」 「彼氏を簡単に売るなっつーの」 たわいない会話に、身と心が癒されることを望んでいた。 そのように思える今となっては、夕立すらも味方に思えてくるからおかしなものだ。 一向に鳴り止まない雷の光を綺麗だとすら思いながら空を見上げ、雨の風に頬を撫でられ。その小さな爽快感に目を細める時、自分の右手も自然とひとつの温もりを追い求めて指を組み直す。自分のものよりも小さく細いその指に縋るのはどこか滑稽、けれど滑稽と分かっていながらもなおその手を離さないからこそ、本当に大切なものなのだと感じられたりもする。 立派な依存症だと改めて思ったその時、が右横で小さく声をあげる。 自分よりも低いところからの視線、そしてその声。けれどそれらがもつ力にあっさりと引きずり込まれ、英二ももう一度空を見上げる。 「やんだね」 ただ一言、それだけがまるで雲を動かしているかのように、その時空は雨雲をさらに西へ西へと追いやっていた。 東の空の隙間から、いつもの夕空がゆっくりと姿を見せる。そしてかすかに差し込む白い光、それと同時に遠ざかっていく雷の音。周囲が雨が止んだことに妙な歓声をあげ、残っていた教師たちが帰宅を促した。 その喧騒の中、英二は小さくため息をひとつつく。夕立が去ってしまうことに寂しさを覚えるという、そんなおかしな感覚がそのため息をつかせてしまった。 けれどそのため息の意図がには分からない。かすかに困惑の表情を浮かべ、英二を見上げる。 まわりは早々に校門へと向かっていく。徐々に自分の味方だったものがひとつずつなくなっていく様を見つめ、英二はの頭を撫でた。 「休憩おしまい。帰ろうか」 離れる右手。消え行く温もり。 けれどそれらに一抹の寂しさを覚える前に、自分の心が落ち着けるものがあることをを英二は知っていた。 「久しぶりだね、一緒に帰るの」 が笑って頷く。その頷きすらなにか力を持っているかのように、英二もつられて笑う。 手を繋いで帰ることはない。下駄箱前から離れた時、互いの間には50センチばかりの距離があった。英二は右手をポケットの中に、は左手で風に遊ばれる髪をおさえる。 その手は温もりをもう一度求めるような、そんな素振りはなかったけれど。 「あのさー、俺今度の体育祭で出たい種目があるんだよね」 「なに?」 「ブロック対抗リレー。だっておチビが出るっていうからさ、俺も出ないと!」 「……なに、どうして越前くんに対抗意識を燃やしてるの?」 「レギュラーメンバーの中で俺より50mの記録がいいから。いやだってほら、瞬発力が自慢の俺としては短距離で負けるわけにはいかないんだよね」 「手塚くんも英二より速かったよね」 「……いや、いいよ。あいつはいいよ。勝っても負けても怖いもん、あいつ……」 その会話だけで十分心が温かくなって、手も足も部活の疲れを一瞬だけでも忘れることができることを知っている。 そのことに気づけるだけでも、そしてそれを欲張らずとも手に入れることができるだけでも、自分は恵まれているということが分かる、だからこそ。 「だから、学級委員権力でそこをなんとか」 「却下。自分で頑張って勝ち取ってください」 「なんだよ、ケチ」 「ケチもなにもないし」 いきなりやってきた夕立すら味方に思えてしまうのだと。 交わした言葉に安らぎをもらいながら、雨に濡れた艶を残すアスファルトを下って青春台駅を目指す。 赤い夕方の空を見上げれば、南の空に小さく光る一番星が柔らかく輝いていた。 |
| 05/05/08 |