じっとしてて

 口実を見つけなければ、接触は不可能だった。
 いや、本当はそんなことはない。無理に意識なんてしなければ、別に口実なんて必要ない。そんなことは親友の多い英二自身が一番よく分かっている。不二や大石たちと親友になるのに、理由などというものは必要ではなかった。
 そんな人間として基本的なことは、むしろ自分の得意分野のはずだったのにと。
 それでも口実を探してしまう自分を、否定できないまま。流れた時間は数知れず。
 ただ、それが急な展開を迎える日がくることなんて、予想だにしていなかった。

「お」
「なに」
「明日、俺日直じゃん!」
「なにをそんなに喜んで……ああ、はいはい。ごちそうさま」

 最近機嫌が悪いらしい親友の返事には、愛想の欠片もない。けれど英二はそれに消沈するでも反論するでもなく、ただ誰もいない教室で嬉しそうに黒板を見つめる。今日の日直がこなした最後の仕事、それは明日の日直欄の記入。

「ねえいつからそんなに純愛路線に走ったの? 無理しなくていいのに、今更」
「お前、なんでそんなに無意味に攻撃的なの? 自分がふられたからって」
「意味不明なことを言ったのはこの口? ねえ、この口?」
「すんません……!」

 そんな不二の八つ当たりにも、しかし英二はそれ以上の反抗はしない。
 怒りや苛立ちという感情は、ひとつのことに夢中になっていればこんなにも簡単に押し殺すことができるのだと一度分かってしまえば、もはやなにに左右されることもなかった。
 そう、明日になれば日直になれるのだから。



 そういう時に限って仕事が増えるのは、もはや神が味方しているとしか思えない。

「菊丸、
「はい?」
「なんですか?」
「お前ら、今日日直だろう。次の時間に世界地図を使うから、社会科準備室から持ってきておいてくれ」

 それは5時間目の始まる15分前。昼食を食べ終え、緩む身体の機能もそのままに他愛もない会話をそれぞれがそれぞれの親友と送っていた、そんな時だった。
 突然現れ、そして予告なく去っていった社会科教師の背中を見送った後、英二はちらりと視線を右にずらす。自分よりも背の低い相手を見るには見下ろす視線を、そして相手から自分へと向けられる視線をもらうには、見上げる視線を受け止めなければならない。
 それはやましい心を持った人間にはかなりの攻撃になるんだけどな、と。心の中でだけそっと零し、英二は呟く。

「聞いた?」
「聞かされた」
「……行こうか」
「ついてないね、日直なんて」

 苦笑とため息が零れる。何度見ても柔らかい線だと英二は思った。
 そして、日直の相方となるが呟いた台詞とは真逆のことを思った。

「私、最近ついてないんだ。昨日の体育の時もそうだった」
「体育? なにかあった?」
「跳び箱の一段目を運ばされた。あの一番重いやつ」
「……」
「そこ、顔をそらして笑わないの」

 昼休みの喧騒に包まれて久しい廊下を歩く。歩き慣れた廊下も、見慣れたその景色も、なにひとつ真新しいものはない。けれどと言葉を交わして生み出す会話ひとつがあるだけで、英二はこの空間はいくらでも新鮮さを取り戻すことができるような気がした。
 たとえそれが非生産的で、周りから他愛ないと一笑されるようなものであったとしても。
 現に今の英二は、日直という一般的にはあまり歓迎されない役割に幸福すら覚えている。もはや一般論は都合のいい味方ではなく敵にすら感じられた。

「菊丸君は、跳び箱得意そう」
「俺? まあ苦手ではないけど……なんで?」
「ぴょんぴょん飛び跳ねても全然おかしくない……」
「そこ、自分で言って笑うな」

 3年の教室の前を通り過ぎる。見慣れた顔がいくつも通り過ぎていく。そんな中を、たとえ日直といういわば公的な任務のためとはいえそれでも2人きりで歩いていく。人は下世話な話が好きだというのはどこに行っても同じことで、過ぎ去るいくつもの瞳がなにかを感じている様を英二は見落とさなかった。
 見落とさないうえ、あえて言及せず。むしろほんの数ミリの世界でとの距離を近づけて、遠いようで近い社会科準備室までの道のりを歩いた。
 周りから見て恋人同士に見えればいい、なんて。それこそ下世話な願いを抱きながら。
 しかし時というものは、人の感情に関係なくいつも同じように流れ去るもの。終始跳び箱に占領された会話のまま、気づけば2人の足は3階の最も西側に位置する社会科準備室前にたどり着いていた。

「どっちが持つ?」

 ふいにの視線が向けられる。もちろんいつものように、上目遣いのかたちで。
 それを受け取る時いつも、自分の心に冷静さを訴えかけなければならない自分に英二は心の中で苦笑し、そして実際にもの目の前で苦笑してみせた。

「その目が俺が持つべきだと言っている気がするんですが、日直さん」
「世界地図は大きいから、身長のある人に持ってもらった方がいいなって思っただけですよ、日直さん」
「……」
「ね」
「……購買部でアクエリアス、1本」
「え。ちょっと、そんな話私してない!」
「いーや、目が言ってました」

 英二は笑ってそう言うと、前触れもなく社会科準備室のドアを開ける。思わぬ攻撃を受けたは慌てて英二を止めようとしたが、しかしそれにひるむことなく英二はそのまま埃舞う室内へと足を踏み入れた。
 社会科準備室は小さな部屋だった。教室の中にいる時とはまるで違う圧迫感が、妙なほどに心をかきたてる。
 数歩入ったところで英二は振り返り、の姿を確認する。そうそう入ることのないこの部屋の中で、もどこになにがあるのか分からないという顔をして辺りを見渡していた。

 英二はその様子を黙って見つめる。
 肩にかかる髪が、その都度揺れる。重たさよりも綺麗さばかりを伝える黒髪は痛みというものを知らない。見上げる視線、少しだけ開けられる唇、瞬くまつげ、どれをとっても小さい。小ささが可愛らしさを表現するという事実を、英二は痛いほどに見せつけられる。
 それがどんな意味をもつのか、もちろん深く考える必要はなかった。

(……重症だろ、俺。絶対)

 世界地図、世界地図……と何度も呟きながら、の視線は室内をめぐる。英二はその様子を見て、自分の任務がなにであるのかを覚えていられる自信はなかった。
 けれどそれでも、自分はになにかを伝えたわけではない。自分の想いをが知っているわけではない。つまり、自分がなにか行動を起こしていいはずがない。
 無防備という言葉でしか表現できないの今の様子を、けれどそんな主観が入りすぎた言葉で表現したくなくて、英二は視線をずらす。しかし。

「菊丸君、あった」

 教室の中にいても、いつのまにか探していたその声に自分の名前を呼ばれては、意思というものなど何の役にも立たなかった。
 促されるままに振り返れば、の細い指は英二の右隣を指差している。今度はその指先が促すままに英二が視線を向ければ、そこには棒状になった高さ1.5メートルほどの世界地図がたてかけられていた。

「こんなに大きかったっけ、地図」
「世界地図だから。日本地図ならもっと小さいんじゃない?」
「つーかなんで今更地理なんだろ……わかんねえなあ、先生」
「まあまあ」

 英二が冷めた顔をして地図を見遣れば、は宥めるように苦笑する。それだけなら他の女子となんら変わったところはないのだが、の場合はいつもそれになにかが付け加えられた。

「私もとりあえずそう思いますが、菊丸君が言ってくれたので私は言わないでおきます」
「あ、ひでえ。俺にだけ罪をかぶせやがった」
「先に言い出したのは菊丸君だから。ほら、早くとって」
「……」
「アクエリアスでしょ?」

 会話が心地よい。返答が嬉しい。なにより、言い負かされることが苦痛にならない。
 言いくるめられて、けれどその言葉の最後に負けを認めることに対する応酬のような笑顔を向けられて。英二ははにかみを隠しながら苦笑し、頷いて世界地図へと手を伸ばす。
 今日は日直でよかった。社会があってよかった。そう思いながら、黒板への掛け紐に触れた、その瞬間。

「うわっ!」
「きゃあ!」

 派手な音と、悲鳴と、どちらが強くてどちらが先だったのかは分からない。
 ただ英二が目を開けた瞬間には、何本も本棚にたてかけられていた地図たち、そしてその本棚の前に無造作に積まれていたかつての教科書、資料集。それらが秩序とは無縁であるかのように突然英二との方に崩れ落ちてきた後だった。
 自分の身体を支えるのは、床に下ろした(下ろされた)腰。視界は低くなり、天井が突然高くなったようにすら見える。
 それを認識した瞬間、徐々に鈍い痛みが臀部から広がってくる。思わずしかめ面をしたものの、けれど英二にはその痛みに構っていられるほど余裕はない。
 なぜなら、その余裕はすべて。

「……いたた」
「大丈夫?」
「うん、平気……」

 こんな時まで、にすべて奪われていたからだ。
 何本か倒れ落ちてきた世界地図が狙った落下地点は、英二の方ではなかった。倒れる瞬間にそれを見抜いた英二は、咄嗟にその手でを腕の中に隠し、あとは地図たちの勢いに飲まれるがまま。を抱きしめたかたちのまま床に座り込んだ、その結果が今まさにその姿だった。

「! あ、ご、ごめん……!」

 いくらかの言葉を交わした後、しばらくの沈黙をおいてが慌てて顔をあげる。温もりに気づいたのだろう、これが常時の体勢ではないことに硬直していたが、しかし以上に英二はひとつのものに囚われていた。

 腕の中にある人は、口実がなければ言葉を交わすこともできないと。そんな自然という言葉とは無縁だと思っていた人の、微かな匂いと温もりと。男よりも細くて小さくて、なによりこちらの肌と触れ合うその肌が言いようのない柔らかさを伴っている、その不思議さと。

 英二は黙ったまま、ただ埃が舞う社会科準備室で。の身体を受けとめ、いや抱きしめ。鼻をくすぐる微かなシャンプーの匂いに眩暈すら覚えながら、頬を撫でる黒髪に内緒で口付ける。そして自分のものではない温もりに心臓をこれ以上ないほどに過剰反応させられながら、わずかに乱れた髪の毛を撫でて呟いた。

「じっとしてて。汚れてる」

 思わず呟いた言葉に、そして伸ばした指先に。欲求が表れていないなんて、そんな嘘は言えるはずもなかった。口が裂けてもには言えなかった。
 けれど目が合った瞬間、自分の思っていることを全部見透かされたような気がしてすぐに逸らしたものの、心臓ばかりは嘘をついたり演技をすることはできなかった。にはばれないところで自分にばかり突きつけられるこの抑制のきかない感情に、支配されないように。それだけを念頭におきながら、英二は立ち上がり無言で地図を片付け、本を元に戻す。その間もの視線が外れることはなかった。

 最後、手のひらを差し出すまでは。

「……ありがとう」

 その声がかすれそうになった理由はあるのかと。その時になってようやく視線がずらされた意図はあるのかと。聞こうと思えば聞けたのかもしれない。
 しかし英二はその言葉を発することなく、無言での右手を引っ張って立たせ、その頭にかかった埃をはらう。初めて触れた黒髪の柔らかさに動揺したその時、自分の腕に外部からの温もりが再び訪れた。
 それはもちろん、この部屋にある自分以外の人の温もり。

「埃、ついてたから」

 小さな呟きは、呟いたとその目の前にいる英二にしか聞くことはできない。それが正しい声量だということは、今この瞬間を誰にも邪魔されたくないという英二の本音が認めている。
 カッターシャツの袖から、上膊部へ。そっと撫でるように通り過ぎ去っていたその温もりは、言葉を殺すにはこれ以上ないほどの威力を持っていた。
 英二は髪の埃を払い終えて下ろしかけていた手を、そのまま硬直させる。その腕を下ろせば自然は英二の腕の中、という今の状況下、それでもは逃げるような素振りは見せなかった。

「……あのさあ」
「……なに」

 口実を作っては喜んでいた、一方通行の片想いのはず。
 それこそが今の自分を動かす原動力のひとつであると認識し、それを肯定し、そしてそのままに生きてきた英二にとって、この瞬間はその常識をくつがえすものに他ならない。
 けれど、それが否定したくないものである場合、自分はどうすればいいのか。
 そっと視線を下ろし、を見下ろす。言葉にしなくてもそれだけでの視線が上げられる。それを受けて英二は、なにかに誘われたかのように突然呟く。

「……優しくされると、俺、誤解するよ?」

 頭の中に日直の仕事などもはやない。ただ自分の思考回路を支配するのは、その言葉にうつむき、けれど逃げようとしないの姿ただひとつだけ。
 参った、やばい。そんなことを思いながら、英二はため息をつく。ため息にが思わず顔を上げるも、しかし英二にはそれを受け止める以外の道しるべなどはじめから持ち合わせていない。

 見つめ合うことが苦しくなり、どちらともなく笑って。そして。
 願うことはただひとつ。
 チャイムよ、あと1秒でもいいから鳴ってくれるな。たとえこの時が反則であると言われようとも。先走った行動だとたしなめられようとも。
 せめてこの瞬間、初めて交わしたキスに1秒でも長く囚われるために。



05/05/21