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彼には恋人がいた。
校内でも知らない人間を探す方が難しいほどに周囲に認められた、彼女がいた。
遠くから見つめることは、苦ではない。昼休みを迎えて久しい教室内。騒音に支配された空間の中で、は頬杖をつきながら教室の外に視線を送る。意識はそちらに向かえど、箸を持った手はきちんと動かしながら、親友の他愛ない会話に丁寧に相槌を打ちながら。
ただ静かに、笑い声を上げながら廊下を通り過ぎる彼の姿を見つめていた。
(そっか。次の時間、6組は美術だ。でも早いなあ、こんな時間から移動なんて)
壁掛け時計とその姿を交互に見遣りながら、心の中だけで呟く。彼の話題は心の中でするものだと相場が決まっていた。の世界においてだけ。
そう思ったのは、心に秘めた想いを抱くようになってから。
長いものだ。そう思う。は相手の注意をひかないように、極めて自然に、さも見つめてなどいないように視線を向ける。
いつでも目を逸らす用意はできていた。長年の経験というものは、その時々の対応の中で最も害のなかったものを「癖」として身体に植えつける習性があるらしく、気づけばは誰よりも自然に彼を視界に収めることができるようになっていた。
いや、誰よりもというのは語弊がある。一体どれほどの人間が自分と同じ想いを抱いているのかは分かったことではない。その中で自分を頂点と捉えるのは驕りも甚だしい。
しかしこの現状の中で、これほどまでに盲目に想い続ける人間は自分だけだろうと。が歎息も込めながらそう思うことは、さほど難しいことではなかった。
「あ、英二! ちょっと待った!」
それでも、反応してしまう瞬間というものはある。
教室の中から声が飛ぶ。その声に視界の中央にいた相手は振り向き、そして。
「大石? なに、どうしたの?」
ためらうこともなく、出し惜しみすることもなくその声を発す。
クラスメイトの大石が彼を引き止めたのだ。大石の大親友である彼は、何の意図などなくともその顔を教室内へと向けてくれた。
その瞬間においても冷静であれというのは、あまりにも酷。あまりにも無情。
「これ、英二のだろ? ちょうどよかった、今渡しに行こうと思ってたんだ」
「あ、俺の教科書! うっわ、俺てっきり家に忘れてきたんだと思ってた。どこにあった?」
「朝練の後、部室で不二の宿題を写していたじゃないか」
「あー、そっか。あの時か。ノートだけしか見てなかったからさあ……。教科書も出してたこと、すっかり忘れてた。サンキュー、大石!」
それは取り立てて珍しい会話ではない。日常生活において特筆すべき光景ではない。けれど、は頬が緩む。
自分がなにをしているわけでもない、なにか目に見える恩恵にあずかっているわけでもない。ただ目が、耳が、その情景を受け止めることができるだけで自然と頬が緩むのだ。
その理由を、今更説明する必要はない。自分の身体の中にある心のことなど、目のことなど耳のことなど。他の誰よりも自分が一番よく知っている。なぜそのような反応をするのか、そんなことは誰かに聞くまでもない。
ひとつの想いに支配された心は呆れるほどに単純で、けれど単純だからこそすべての出来事を100パーセント幸せとしか感じられなくなるのだ。
(ああやって、全部笑顔で片付けちゃうんだろうなあ。嫌なことも、嬉しいことも全部)
それが完璧に素晴らしいこととは思ってはいなかった。あの笑顔を見て嫌悪感を覚える人間もいるだろう。すべての人間に好かれることなど願うことは易く実現させるのは難い。
ただ、にとってはすべてが許容範囲だった。ただそれだけのこと。
価値判断の基準そのものが彼に合わせられていた、ただそれだけのこと。
「、聞いてる?」
「え? あ、うん」
その時突然かけられた声に、は慌てて顔を前に戻した。どうやら視線だけではなく顔そのものを廊下側に向けてしまっていたらしい。
しかし意識をこの場に戻した時には既に遅く、親友の顔には呆れた表情しか浮かんでいなかった。
「嘘。絶対嘘」
ため息が零れる。幾分かの揶揄の色を含んで。
「嘘じゃないって、聞いてたよ。昨日のドラマの……」
「それはもう終わった」
「……あ、そう」
「ほら、聞いてない」
「いや、聞いてた。聞いてたよ、本当」
「じゃあなんで廊下の方を向いて笑ってたの。なに、大石? 大石が目当て?」
「ち、ちが……! どうして大石くんが」
「違うよねえ、の狙いは菊丸だもんねえ」
その時になってようやく、は自分がはめられたことに気づいた。
親友の顔にはにんまりと笑みが浮かぶ。そんな親友に返す言葉もなく、心の中でそっと「大石くんごめん」と謝りながら、サンドウィッチを小さくかじった。
そんなの様子を見て、親友は笑みを止めてもう一度ため息をついた。教室の騒がしい雰囲気にはどこか似合わない、今度は少し重めのそのため息に、はサンドウィッチを口に運びながら視線だけをあげる。
「私はの友達だからさ、が好きだっていうなら応援したいんだけど」
わずかな苦悶の表情。眉根をかすかに寄せて、親友は視線を廊下へとずらした。大石が自分の席に戻り、ただの同級生たちが通り過ぎていく廊下には、もはや彼がその場にいたという雰囲気すら消えてしまっている
しかし親友の言いたいことは、その視線だけで十分に分かった。
この3年2組の教室からは簡単には見ることの叶わないその姿を思い浮かべながら。は静かにサンドウィッチを口に運び、少し効きすぎたマスタードの味に目を伏せる。
「でも、その相手が菊丸だっていうことは、ね。応援しようにも、できないのが本音」
そう呟いた後、親友は手にしていたドーナツをちぎる。そしてそっと空になったサンドウィッチの袋の上に置いた。まるで慰めるかのようなその行為と言葉と音色とに、は曖昧に笑うしか術がなかった。
小さくちぎられたドーナツの味は、甘さを素直に享受できるほどストレートには伝わってくれなかった。
なぜ自分は彼を好きになったのか、はうまく説明できない。
なぜ今でも彼を好きなのか、それも説明できない。
むしろ説明してほしいのは自分の方だった。誰かに納得のいく、合理的でまったく隙のない「理由」を説明してほしかった。
なぜ自分が出会った時には、彼は自分の一番大切な人を見つけてしまっていたのかを。
なぜ自分は、そのような恋にここまで入れ込んでしまったのかを。
(格好いい人には可愛い彼女ができるって、誰が決めたんだろうなあ)
考え込むことの多くなった最近では、誰もいない放課後の教室が一番落ち着く。
太陽がもうすぐ西の山裾に届こうとしている。街の中でも高台に位置している青春学園は朝夕の冷え込みが激しい。季節は既に初夏の様相を示しているというのに、それでもこの時間の学校にいると肌寒さと無縁ではいられなかった。
気晴らしに、と進めていた宿題を手放して、は藍色と水色と茜色と。三色に支配されはじめた空を見つめながら、ぱたりとノートの上に頭を預けた。
(しかも可愛くて性格もよくて。頭もよくて? そんな子にどうやったら敵うんだろう)
何度目と知れぬ自問に答えを用意する者などいない。それは、いまだ口に出せない恐れにも似た疑問だった。
はそっと目を閉じる。階下から心地よく飛んでくるテニスコートの歓声に浸りながら。
(ああ、うん……違うなあ。私、あの子に勝てないって分かってる。菊丸くんにも彼女一筋でいてもらいたいしなあ。好きになった人が浮気をする人だなんて、絶対嫌だし)
自分の吐息すら鼓膜に響く。頼りなく、それでもどこか自己主張をしたがっているようなため息が。
原因は分かっていた。堂々巡りの答えは今日初めて出会ったものではなく、むしろ自身ですら聞き飽きた 言い飽きた言葉だったからだ。
(だから、これでいいんだ。今のままで。彼女を大切にする人のままでいてほしいから)
目を開ける。夕陽から生まれるオレンジ色は今日も相変わらず優しい色をしている。誰かが勝負を決めたのか、テニスコートからどっと今までで一番大きな歓声があがった。
あの人であればいいのに、なんて。そんなことを思いながら、そして暖色系は本当に心が休まる色だと痛感しながら、はそっと顔をあげた。その時。
「すいませーん」
教室の中の空気が、揺れた。自分ではないテノールの声によって。
シャープペンシルを手にしたまま、回していたはずのそれを不細工な格好で止めてしまったまま。そして、瞬きの方法を忘れたまま。
振り返った先にあったのは、青と白のコントラストがとても綺麗なあのジャージ。
は息を飲む。間違いなく、それはつい数秒前までテニスコートにいると信じてやまなかった、菊丸英二その人の姿だった。
「あのさ、俺大石のお使いで来たんだけど。大石の机ってどこかな」
しかし相手はの動揺など気づくはずもない。夕陽に侵蝕されつつある空間の中、そう、彼がの態度に気をかける必然性などここにもない。
なぜなら、菊丸英二という人間の基本的な生活の中に、は存在を許されていないのだから。
「え、えっと……そこ」
「ここ?」
「うん、それ」
見つめられる視線に圧迫感すら受けながら、は慌てて廊下側の大石の席を指差す。ただでさえ大きめの菊丸の双眸は真正面から見つめられると異様なほどに切迫させられるものがあり、まるで追い詰められるような感覚だった。
しかしは必死にその動揺を隠しながら、つとめて冷静に言葉を繋げる。菊丸はその言葉を素直に受け止め、しかいない3年2組の教室に軽い足取りで入り、そして大石の机をあさった。
(どうして……?!)
背中を見つめながら繰り返す疑問に、答えはでない。いや、理由は先ほど本人が口にしたし、大石と彼の仲を考えればその行動を訝る必要性もない。
それでも、ひとつの場所をふたりきりで共有するというタイミングの一致を。
単なる偶然という言葉で片付けるには、あまりにも あまりにも、菊丸の存在はの中では大きすぎた。
ジャージを肘までまくり、ついさきほどまでテニスコートにいたと知らしめるかのように首筋にうっすらとした汗を光らせるその姿に、は言葉など出てくるはずもない。夕陽に彩られた女子顔負けの線の整った綺麗な横顔や、3年間腕力勝負の運動部に所属していたことを誇るようなひきしまった右腕、それらをこの距離で見せ付けられるのは、卑怯以外のなにものでもなかった。
「あ、あった」
その時小さな声があがる。それまで空気に同化したかのようにただじっとその姿を見つめていたは、その手に数学の教科書があることに気づいてようやく現実に引き戻された。
「助かった、ありがとう」
菊丸はあっさりといつもの当たり障りのない笑みを浮かべ、に数学の教科書を振ってみせた。は慌てて首を横に振る。頬に当たる髪が痛かった。
「ううん、全然。大石くんによろしく」
「うん。どーも」
終わってみれば、気づいてみればそれはとても呆気なく。そして嫌になるほどに当然の出来事だった。
今日2組は数学の授業で明日までの宿題を出された。だが大石は教科書を教室に忘れ、おそらく副部長の用事か何かがあったのだろう大石と最も仲のよい菊丸が、代わりにそれを取りに戻ってきた。描いてしまえばただそれだけの構図である。
(……そうだよ。なにを考えてたの、私。私は菊丸くんの世界の外の人間なのに)
その事実を思い知らされるには、それで十分だった。
愛想笑いのような笑みを浮かべ、は菊丸を見送る。その背中はいつものようにと接触をすることはなく、ただ目の前を過ぎ去っていく。そしてはいつものようにそれを見つめる。視界に収めることができるとはいっても、その心理的な距離はなにものにも例えようがない。
それが現実だ。自分はやはり外の人間だ。
恋しい人を目の前にしながら、結局そればかり思い知らされるこの現実に、吐き気すら覚えたその時。
「あ」
ドアに手をかけ、一歩を廊下へと踏み出していた菊丸が小さく声をあげる。
沈黙の空間の中、異様なまでに大きく響いたその一言にが顔をあげるのと、菊丸が振り返るのとが同時だった。
「あのさあ……もしかして」
「え?」
「この前の試合、見にきてなかった?」
その後の会話がどのような速さで進んだのか。は覚えていない。
自分を真っ直ぐに見つめる視線は恐ろしいほどに澄んでいて、そしてその言葉の真意をまったく理解できない自分は今なにが求められているのかも、自分の任務は何なのかも分からない。
ただ、息を飲む。その事実をどのように捉えてよいのか分からない恐怖に。
「う、うん。友達と一緒に」
否定はできない。なぜならそれは事実だからだ。そして事実を認めてもなんら支障はないからだ、そこまでの事実であれば。
(だって、私が見てたって別におかしくは……菊丸くんに悪いわけじゃないし……!)
必死に頭の中で組み立てた理由はけして口には出せるものではなかったが、しかしそうすることで自分を落ち着かせようと必死だった。
そんなの内心などもちろん知らず、菊丸はその言葉に「ああ」と合点がいった表情をしてみせる。
「やっぱり? なんか、見覚えあるなーって思ったから。大石の応援?」
「え……あ、うん、そう」
話の主導権をもたないは咄嗟に頷く。
だが、話を振った菊丸自身は少し困ったように眉尻を下げて笑った。
「あー、ごめんね。あの日、俺たち負けたでしょ」
「あ……」
「大石に迷惑かけっぱなしの試合だったからなあ……あんまり見せられるものじゃないな、あれは」
一言一言、噛み締めるように呟く菊丸は顔こそ苦笑してみせたものの、はなにも言えなかった。
それは都大会準決勝の、あの日。人を笑顔にさせることが誰よりも上手い菊丸英二が、誰よりも苦しげな表情を浮かべた日。その日からしばらくの間は、彼の日常に無理があったことをは知っていた。
けれどそれを口にすることはルールに反する。他人でいなければならない自分のルール、落ち込みを見せられない菊丸のルールに。はただ黙って英二の言葉を聞いているしかなかった。
「あ、でも大石はちゃんと自分の実力を出せたらいいのか。むしろ活躍?」
「……」
「あれ? ということは、大石のことを応援しにきてる人からすれば、俺がやばくなった方がいいってことか?」
「う……ううん!」
けれど、その瞬間。
いつも聞いていたいと望んだ声。いつも見ていたいと願った姿。それが今目の前にありながら、はその声を否定の言葉で遮る。
それは、初めての瞬間だった。
見つめるだけで構わない、秘めた想いを抱くだけでかまわない。そう心に決めていたからこそ許されていたこの2年近くの時の中において、それは初めての。
初めての、制御機能を無視した行動だった。
「菊丸くん、格好よかったよ! あの日、ちゃんと最後まで試合諦めないで……!」
けれど言葉は上手く生まれてこない。何度も何回も、呆れられるほどにこの目に焼き付けてきた彼の勇姿は、思い出しこそすれそれを菊丸本人に伝える術を、は知らなかった。
それでも、そんな自分を恥じるよりも彼に伝えたい衝動の方が何倍も強かった。
「……確かに、あの試合は負けちゃったけど。でも足は止まっちゃっても、絶対に最後までラケットを離さなかったのを私、見てた」
「……あー……」
「それに、あれから練習方法が変わったのは絶対に次の試合からは同じミスで失敗しないようにって……そういう意味をきちんと込めて練習してるんだって、私知ってるから……!」
「……」
「知ってる……から」
「……?」
「……だから、菊丸くんにとってテニスがどれだけ大事かって、知ってるから。知ってるつもりだから。だから、次の試合も頑張って……ほしい」
もどかしさが余計に喉をつまらせる。はいつのまにか両拳を握り、場を取り繕うことはおろか咄嗟の行動の弁明をすることすら忘れていた。
そんなを、菊丸は目を丸くして見つめる。その視線に気づいた時、ようやくは自分がレールから外れた行動をとっていることに気づき、本当の意味で言葉をなくした。
(……しまった、こんなことを言うつもりじゃなかったのに……!)
衝動にあっさりと乗っ取られた思考回路は、勿論そのあとの対処法など用意してくれるはずもない。菊丸の唖然とした表情に対応することもできなければ、自分自身の動揺を鎮めるための行動に出ることもままならない。
小さな叫び声をあげた後の、反動でしんと静まり返ったその空間の中。
しかし先に言葉を口にしたのは、菊丸だった。
「ありがと」
夕暮れが近い。赤みの強いオレンジ色に占拠された部屋の中で、菊丸は小さく笑んだ。
は息を飲む。それは、いまだかつて見たことのない笑みだった。身体の自由は完全に奪われる。
寂しそうで、けれどその実どこか嬉しそうで。
他の同級生の前ではけして見せない、言い換えればただ遠くから見ているだけでは絶対に見られることのないその笑みの意味は分からない。がますます言葉をなくしていると、菊丸は頭をかいて小さくひとつ、息を吐いた。
「驚いた。そういうふうに言ってもらえたの、初めてだよ」
その意味が分かったのは、その言葉とともに手を振られた瞬間。
もう一度「ありがとうね」と呟いて、いつもの顔に戻って手を振って教室から姿を消したその瞬間。
ひとり残された教室の中で、は呆然と誰もいない入り口を見つめる。瞬きをしては残像すら消えてしまいそうで、他のなににも目を向けず、ただ黙ったままで数秒前まで菊丸がいた場所を見つめ続ける。
瞳から涙が零れていたのにも、気づかないままに。
(……彼女なら、知ってるはずなのに。そんなこと、あの子が気づかないはずがないのに)
そっとうつむく。紺地の制服にぽたりと涙の雫が零れ落ち、黒い斑点を作る。
(私は、なにも関係ない私は明るい菊丸くんだけを見ていないと駄目なのに)
手の甲でそっと目元を拭う。けれど涙は止まらない。
(『初めて』なんて言わないで。自惚れさせないでよ……)
涙を止めるために目を瞑れば、けれどその真っ暗な視界の中にはすぐにあの笑みが浮かんでくる。
それは、嬉しそうでもあり寂しそうでもあり。けれど嫌悪の感情を含んでいるものでないことは分かる。むしろ、今まで知ることの叶わなかった彼のもう一面と称するに相応しいものだと、2年の時の中でひとつの想いを抱き続けた自分の身体が、頭が心がそう言っている。
まわりを明るくさせることが得意な人の、ごく一部の人しか知らないもうひとつの顔だと。
(ルール破りだよ。そんな顔、見せないでよ……!)
は夕陽の残り火の中、零れ落ちる涙もそのままに下唇をかみ締めた。
けれど、本当は。本当は違うことを思っていたなどということは、認めてはならない。
認めてしまったら最後、この2年の片想いは終わりを告げる。見ているだけ、聞いているだけ。それ以上を望まないからこそ許された恋のままではいられなくなる。
そうしなければ、この心はもう。
(これ以上好きになったら駄目なのに)
彼女を大切にする人だからこそ好きなのだと、くどいほどに言い聞かせてきた心はもう、そのままではいられなくなる。
こっちを向いてほしいと望んでしまう、綺麗な片想いのままではいられなくなる。
初夏の夕方。開け放たれた窓の向こうからは野球部の、そしてテニス部の声が飛んでくる。こんな時にもその声の中に菊丸を探してしまう自分の愚かさを自覚させられながらは、顔を覆って泣いた。
なぜ一番になれない恋は苦しいのか、それを本人に教えられてしまった切なさに。
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