はじまりの夏

 振り回される自分はなんて滑稽なんだろうと思うのと同時に、振り回してもらえるのは自分だけかもしれないと思う現実に縋りたかったのも、また事実。

「すごいね、菊丸くん。またレギュラー入りできたんだ?」

 その声が飛んでくるたびに、俺の背中は一瞬で棒を突っ込んだように綺麗に伸びる。
 どうして彼女の前では格好よくありたいと、無理に望んでしまうんだろう。そんな俺の態度を横で見ていた不二はすべてお見通しというように声を押し殺して笑い、俺は雰囲気をぶち壊すようなその笑いに軽く肘打ちを入れてから、そっと天を仰いだ。

 そう、テニスコート前からその教室を見上げるのは、けして手の届かない高い空を仰ぐのとまるで同じ。

 眩しい直射日光に思わずしかめ面をしながらあの教室を見上げると、そこには思い描いたとおりの人がわずかに身を乗り出してこちらを見ていた。
 涼しい風をうけてその髪がさらさらと泳ぐ様を見ながら、俺はいつもどおりに笑った。

「あったりまえだろー。俺を誰だと思ってるんだよ」
「その時のテンションに身を任せて行動する気分屋」
「あのなあ」

 右脇にラケットを抱えたまま、両手をポケットに突っ込んだまま。
 そんな自分の無愛想な態度に気づいた時には、既に3階上にいる彼女は笑い声をあげていて、横にいる不二も「さすが」と訳の分からぬことを言いながらまた笑っていた。
 そんな、もうなにもかもバレバレな雰囲気の中で、それでも俺は精一杯の虚勢を張ろうと頑張る。虚勢というかそれは男の「格好よくありたい」というみっともないエゴだったけれど。


「なに?」
「誤解があるようだから言っておくけどなー。俺は『やればできる男』じゃなくて、『いつもやれるけど加減ていうものを理解してる男』なんだよ」

 自信満々にそう言うと、今度は上からも横からも同時に爆笑が飛び出した。まるでそれは示し合わせたかのようなタイミングで、俺はどこかむっとしてしまうのを隠し切れない。
 でも今の俺は、そんなはしたない怒り声は極力出さないようにと必死だった。せいぜい横で腹を抱えて笑う(既に声すら殺そうとしなくなった)不二の足を蹴り、ラケットで攻撃しながらちらりと上を見上げるだけ。
 見上げれば、そこには。まだきちんと彼女はいた。

「じゃあそういうことにしておく」
「そういうことって……お前、絶対俺の言ったこと信じてないだろ」
「さあ?」
「その笑顔があやしい。不二と同じ笑い方するなっつーの!」

 いつもこうして、俺は無理やりにでも会話を引き伸ばそうとする。
 それはどんな手段でもよかった。むしろ手段なんて選んでいる暇はなかった。自分が笑いものになってもいいし、オチ役に使われたって構わなかった。
 ただこの空気が、時間が。雰囲気が。長く続けばそれでいい、それ以外なにも望まないから、頼むからもう少しだけと話すことのできるこの瞬間を長生きさせてくれと、誰にでもなくとにかく祈っていた。

「ごめんごめん。でもおめでとう、レギュラー入り。さすがだね」

 は窓の縁に両腕を預け、目にたまった涙をそっと拭き取りながらそう言った。その視線の先は、自惚れてもいいのなら確かに俺の着ている青と白のジャージに注がれていた。
 左内側に「菊丸」と白い糸で刺繍の施された俺専用のこのジャージは、過去数回クローゼットの中に封印されたことはあったものの、今日も無事俺の部活用ジャージとしてここにある。その意味が分かっているは、さっきまでのはじけたような笑いとは似ても似つかない穏やかな笑みを零してくれた。

 その笑顔を見るだけで、ついさっきまで俺の心の中にあった不条理な怒りは消える。
 どうしてこの子は、こんなにも俺の心に住み着くんだろう。俺は思う。
 どうしてこの子は、こんなにも俺を振り回して仕方ないんだろう。改めて、そんなことを。

さー、もしかしてずっとそこから見てたの?」
「え? あ、うん。ずっとじゃないけど」
「俺の試合も?」
「ほどよくね」
「ほどよくって……なんだよそれー、中途半端だなあ」
「あはは、だって勝つって分かってるんだもん」

 単純にふくれた俺に対して、気持ちいい笑い声を返す彼女。
 そして何気ないその一言に思わずラケットを落としそうになる俺の気持ちも知らないで、さらりとものすごいことを言ってしまった彼女。
 そんな俺の動揺は絶対に不二に見抜かれていると、そんなことは分かってはいたけれどそれでもうまく対処できない俺という人間は、やっぱり。やっぱりに振り回されることを喜んでいる、それはさながらねこじゃらしで遊ばれる猫のようなものなんだと思った。そうとしか思えなかった。

 は分かってない。自分の言葉の重さを。その視線の価値の高さを。
 たとえそれが俺の独断と偏見の色に染まりに染まった評価でしかないと言われても、そんなものは堂々と肯定したうえでそれでもそうやって主張することになんのためらいも感じさせない、それほどまでに俺の感覚を狂わせているものだというのに。
 そしてもし自身が気づいていたとしても、故意にやっていたとしても別に俺はなんのショックもない。むし手間が省ける、と思ってしまうだろう。

 だって俺は、いつまでもこの関係のままでいる気はさらさらないのだから。


「なに?」

 数分前に繰り返された受け答えを、もう一度。俺の耳をおかしくさせるその声を聞いて。
 そして俺は、届かないと思っていた空を見上げながら、教室を見上げながら言った。

「あのさー、俺もうすぐ大会なんだよね。地区大会」
「うん、知ってる。だって昨日も言ってたじゃない」
「それは意気込み! 意気込みなの。俺、今年の大会にはいろいろとかけてるんだよ」
「最後だから?」
「うーん、それもあるけど。いやそうなんだけど」

 それだけじゃないと言ったら、君はどんな顔をするだろう。
 試合には小さな願掛けをしてあるなんて、テニスの試合なのにテニスとは無関係で勝利大前提の願い事をしているなんて言ったら、君はたとえ少しだけでもなにかを感じ取ってくれるだろうか。

「まあいいや。メールをお楽しみに」
「メール? なに、なにか報告してくれるの?」
「うんそう。そんな感じ」

 遠くから手塚の呼び声がして、思わず視線をずらしてしまったことを後悔しながらもう一度教室を見上げる。そこには相変わらず、俺の話をきちんと聞いてくれるの姿があった。
 きっとこの光景だけを見れば、俺たちは単なる同級生。
 けれどこの時の俺の目は、多分それの域を超えていたと思う。なぜなら視界の中心にいるが一瞬だけ息を飲むような表情を浮かべたから。そんな反応をしていたから。

 俺は、彼女が好きかと問われればもちろん好きだと答える自信も理由もあって。
 けれどそれぐらいのレベルの話じゃないな、とも同時に思っていて。

 俺は女子の友達も多いし別段話すことにためらいは生まれない。姉ちゃんが2人もいるせいで変に女子慣れしてると思う。そういう意味では俺は女子との間にあまり特別な感情が生まれること自体が滅多になくて、不二から「どこで覚えたの」とからかわれるほどに付き合い方に難がなかった。けれど。いや、だからこそ。

 に対して抱く感情は、好きとか嫌いとか、そんな次元の話じゃない。

 勝手な思い込みで振り回されていると感じている、そして振り回されることにおかしな嬉しさを覚えている自分は、きっともう。そのうえ恋人同士になりたいなんてエゴも甚だしい願い事を抱いている自分は、もう。
 これからのとの付き合い方をあっさりと決めてしまう、受け入れられるか嫌われるかどちらかの道しか残されていないのに、そして願いの叶う可能性がけっして高いわけではないのにそれでも想いを告げたいと思ってしまう自分は、きっと末期だ。そんなことを思う。 

 けれど、そんな時。

「試合結果ならいいよ? 私、もうその日あけてあるから」

 手塚の声に気づいたのか、は軽く手を振って。

「勝ってね」

 ただ一言、それだけを残してあっさりとその姿は教室の中に消えた。
 そしてその場に取り残されたのは、呆然と立ち尽くす俺とその様子を静かに観察していた不二。もう少し遠くから手塚の怒鳴り声。
 俺はただ目を丸くしたまま、静かにの言葉を反芻させるしかなかった。

 どうしよう、という今の気持ちを、彼女は知っているのだろうか。
 それともそんな俺の動揺すらも見透かしてその言葉を口にしたのだろうか。

 振り回されるいつもの俺が、ここぞとばかりに頭の回転を狂わされる。勝敗を決しなければならない、言い換えれば勝つか負けるかどちらかの道しか選べない部活にいる以上、勝利を期待されるのは別段珍しいことでもないし何度も経験してきたことではあるけれど。

 けれど、それは連帯責任のある部員からとそうでない人からとでは、きっと。
 きっと意味が違うと。部の勝利ではなく俺個人の勝利を期待する言葉が意味していたものは、きっと違うと。そう思ってしまう心にまるで素直に従ってしまってもいいと言っているかのようなの言葉は、もはや俺を完全に麻痺させていた。
 
「……不二、俺さあ。自惚れてもいいと思う?」

 ぐっとラケットを握り締めながら、今でも視線を教室へと固定させられたまま呟けば。

「それ以外の道があったら逆に教えてほしいぐらいだけどね。なに、自慢?」

 他人の意見を聞かなければ自分の意志を決められないほど、俺は優柔不断じゃない。
 そして悠然と笑う不二の顔を見て、そんな親友の言葉を疑うほど俺はバカじゃない。

 徐々にその日差しが強くなり始める、この学校での3度目の夏がやってくる。
 俺はそんな日差しを仰ぎながら、あまりの眩しさに左手で日除けを作りながら眉根をしかめながら。そっと想う。

 振り回されて、捌け口もなくてただ抱えるだけだった、そして自分よがりだと感じずにはいられなかったそんな想いは、もしかしたらもうすぐひとつの結末を迎えるのかもしれない。

 もちろん、その先には絶望の二文字は削除されたカタチであることを確信して。



 五月晴れの空は手を伸ばしたら掴み取れそうなぐらいに、そして手に入れたいと思うぐらいに近くて、そして綺麗だった。



04/05/07