たったひとつの泣き場所

 あの日流れた涙は、どんなものよりも綺麗に見えた。
 彼が全能だと思ったことはない。ましてや願ったこともない。
 けれど、彼自身が自分のことをそう思わなくてはならない瞬間があるのは事実だった。たとえそれが彼の意に反してのものであったとしても、そう思うことによって生まれる力がいかに大切かを知っている以上、そうしなければならない時というものは確かに存在していた。それは私も知っていた。

 ひとつの敗北が大きな意味をもつ、団体戦のダブルス。
 それは英二にとって最高の名誉を与えられる場所であるのと同時に、最大のプレッシャーをも与える、私なんかが入ることのできないたったひとつの聖域。
 
 英二の肩にのしかかる期待もプレッシャーも、言葉でなんて表現できるものじゃない。英二自身はそれを楽しんでいる風を見せることもあったけれど、楽しいばかりじゃないことぐらい誰もが知っている。けれどより勝利へと近づくために、メンタル面で頑張らなければならないのが現実でもあった。

 関東大会決勝、立海大附属中戦。迎えたダブルス1。
 あの日、現状では克服できなかった壁に敗北を喫した。あの時。
 思わず流した涙に、あの時。英二が苦しんでいることを、私は知っていた。



「泣くのは女子の専売特許?」

 突然零れたその声は、揺れていた。震えていた。
 まるで空気が泣いているんじゃないかと思うぐらいに、そして細い糸が無理やり揺らされたみたいに。思わず皮膚が強張ってしまうほど、その声は悲しい色をしていた。

 誰もいない教室。
 私は机に腰掛けていた。英二はその前の席の椅子の背に体重を預けていた。そこは、たったふたりきりの空間だった。けれど私の身体は英二の大きな手に拘束されていた。

 そっと顔をあげた瞬間に視界に入ってきたのは、うつむきつつ少しだけ歪められた笑み。大きめの瞳の目尻に柔らかい弧を描き、わずかに眉をさげて。少しだけ赤みを失った唇の端を皮肉な角度に緩めて。

 そんな英二の顔に、私はただ返す言葉が無かった。
 抱きしめられるのは今に始まったことではない。息ができなくなるほどに唇を遮られるのも何も今日が初めてなことではない。正直な話、そういった類のものはすべて経験済みだ。そして中学3年生という中途半端に成長した年齢である以上、恋人同士であればそれが行き着く最後のものだと思うことはおかしいぐらいに簡単で、可能であるはずだったのに。キスをして、肌を重ね合わせれば自分たちの想いはとても満たされたものだと、勘違いすることも簡単だったのに。

 それなのに、と私は思う。
 それなのに、今、英二が浮かべている顔は。
 卑怯なほど、2人きりで素肌を見せ合っているあの時よりももっと、ずっと綺麗だ。

「……どうして?」

 頭の中によぎるのは、つい先日のあの瞬間。声こそ出さなかったものの、静かに一滴の涙をテニスコートに落としてしまったあの光景。

「……なんていうか、その」
「うん」
「……その、さ」

 私はそれ以上何も尋ねないまま、静かに英二の身体を抱きしめる。

 大柄な仲間が多いあのテニスコートの上では、英二は小柄なほう。
 けれど私なんかの手じゃ抱きしめきれないのは当たり前で、背中は見た目よりずっとずっと大きくて、身体つきも1年生の頃を思い出せばもちろんしっかりしていて。ああ大きくなったんだな、なんて今更ながら感じてみたりする。

 かすかに視線を上げれば、そこには長い間傍にいてくれた人の憂い顔。
 腕の中におさまる私を見つめる瞳は、睫の影によってわずかに輝きを失って見える。思わずそっと包み込むように親指から頬に触れれば、長いその睫が幾たびか震えた。

「男は泣くと格好悪いかな、と思って」
「誰が言ってたの? そんなこと」
「兄ちゃん。あと姉ちゃん」
「……他には?」
「……母さん?」

 それは大家族の中で暮らす英二の基本観念を象徴的に表しているようで、妥当だなあと思う反面、少しかわいそうでもあった。そして同時に、私は少しだけ、寂しくなった。
 家族を超える存在になりたいわけでも、なによりも優先されるべき存在になりたいわけでもなかったけれど。なりたいと思ってもそれは現実的に不可能だとちゃんと分かってるし、なにより大切なこの人を苦しめるだけのエゴにすぎないと理解していたからこそ、そう片づけることができるのだけれど。

 それでも、その言葉は。やはり辛いと思った。
 肌を重ね合わせている時以上に綺麗な顔をしていると感じてしまうからこそ、余計に悲痛なものに思えて仕方なかった。
 本音ぎりぎりのところで零される「弱音」。それを肯定してもらいたいわけでも受け入れてもらいたいわけでもない、ただ口に出さないと何かが壊れてしまいそうな、そんなぎりぎりのところにまで迫った言葉たち。私は静かに尋ねる。

「英二は、泣きたいことがあったの?」

 それは攻撃的な言葉だと分かっていた。私の腕を抱きしめる英二の腕がわずかに震えたことが、その考えが的を得ているものであると証明してくれていた。

 私は、知っている。英二がそんな言葉を口にした理由を。
 今私を抱きしめている理由を。どんな時よりも綺麗な顔をしているその理由を。

「……英二?」

 もう一度、小さく。けれど私は自分がなにをすべきかは分かっていた。用意しなければならないのは別のものだということも分かっていた。
 だからこそ私はそれ以上なにも言わなかった。はねつけることもしなかった。ただ、次に出てくる英二の言葉を待った。
 そしてしばらくして。私を抱きしめたままの英二が、小さく息を吐いて。

「……わかんない。泣きたい、っていうのとは、ちょっと違うと思う」
「うん」
「でも、泣いちゃえばすっきりするんだと思う」
「そうだね」

 自己矛盾を抱えたままでは、いずれ心が崩壊してしまうのだろう。難しいことはあまり考えたがらない英二だけれども、さすがに自分を見つめなおさなければならない時だってある。
 ただ今回は、それから逃げないようにしているだけ。ただそれだけのこと。

 泣くということは逃げであると、そう言う人もいるけれど。
 けれど、こんなにも綺麗な顔をしているのは、逃げ道を求めて泣き場所を探しているからなのではなくて。違う意味で泣き場所が必要になってしまっただけであって。
 そして私が今抱きしめられているのは、その泣き場所に選ばれているからであって。

 泣くことがストレスを吹き飛ばしてくれるという知恵。英二にそんなことを教えたのが、まさか大喧嘩の果てに私が大泣きしたという、そんな過去だなんて。今となっては笑えるようで笑えない話ではあるけれど。

 けれど前を向きたいと思っている人の背中は、今とても温かい。

 私は不謹慎ながらも。ちょっとした優越感と、そしてちょっとした幸福とをごちゃまぜに自分の心にしまいこみながら、かすかに笑った。

「私は英二をただ慰める気も、甘やかす気もないけれど」

 抱きしめられた身体をそっと起こし、両手で英二の胸元と距離を取る。
 夕陽に染まるその夏服はオレンジ色で、そんな目に痛いほどの色を見つめた後、私は顔をあげて綺麗な恋人の瞳を見つめる。
 そして、他の誰にも聞き取れないくらい小さな声で、けれどしっかりと呟いた。

「背中を押すことだけは、してあげたいって思ってる」

 だから、どうぞ? なんて。
 太陽が徐々に地球の裏側へと回っていく、そんな夕方の3年6組の教室。関東大会決勝が終わり、1日だけ与えられた休息も残り短くなっていることを教えてくれる、そんな赤い夕陽に見つめられたままで、私たちは。
 私が両手を小さく広げ、それを見て英二は困ったように笑って、そして私の腕の中に顔をうずめた。

 逃げ道は用意する気はない。英二も逃げ込む場所なんて求めていない。
 ただこの一瞬は、明日からまた頑張るための寄り道。わずかな休息。

「頑張れ、英二」

 背中を撫でながらそっと囁くと、いつもは大きな恋人が苦笑しながら頷いた。
 その声が震えていたことも、瞳が潤んでいたことも、今この瞬間だけに許される情景。抱きしめる腕の力がいつもより強かったことも、私の制服が透明な涙に濡れたことも、明日からは他言無用の記憶の欠片。

 沈黙の空間に流れ込んでくる夕陽の温もりが優しく感じた、そんな放課後。
 私はただずっと。夕陽を見つめながら、温もりを感じながら、いつものあの笑顔が戻るまでずっと英二を抱きしめていた。



04/02/18