| Hello, My Sunshine! |
何かに柔らかく頬を撫でられ、私はゆっくりと瞳を開けた。 頬を、瞼を摩っていたのは朝の光。珍しくこんなにも太陽が高いうちからカーテンがあいている。私は思わずしかめ面をしながら白い光を受け入れ、小さく息をついた。 その時目に入ってきたもの。 それは、隣に寝ていたはずの恋人の哀れなしかめ面だった。 寄せられた眉。ほのかに漂う煙草の匂い。 紙の上を辿る鉛筆の、柔らかいようでその実少しだけ力が込められているその音。けれどしばらくしないうちに、それらはあえなく消去の道を選ばされる。鉛筆をもったままの右手に固定されながら、製図版が音を立てて消しゴムの侵入を受け入れている。その都度口に加えられた煙草の煙が揺らめき、そして眉根もますます険しくなっていく。 見慣れている光景ではあるけれど、それでも。 こんなにも朝早くからその顔をするのは、かなり久しぶりじゃない? しかめ面の持ち主は百面相で、時折隙をつくかのように上機嫌の表情を浮かべる。それはお調子者だった昔を彷彿とさせるものではあるけれど、しかし如何せん集中材料として愛用している煙草に依存していることからも分かるように、今視線を注いでいるその先にあるものは、なかなか一筋縄ではいかない相手のようだった。 私はうつ伏せの状態だった寝起きの姿勢そのままで、申し訳程度にかけられていたブランケットの微かな温もりに甘えながらその様子を観察する。朝の空気は素肌には少しきついとか、そんなことを寝起きの頭で思いながら。 珍しいものがたくさんあった。 まず、今の時間がかなり早朝だということ。太陽の高さから大体それぐらいは推察できる。そんな時間から製図作業に取り組んでいるのは珍しい。 次に、ちゃっかり自分だけ服を着込んでいること。普段ならTシャツにジャージというのが当たり前のラフ好き男が、今日に限ってきちんと服を着込んでいる。とてつもなく珍しい。 課題提出真っ最中の学期末であれば、この光景は全然珍しくはないのだけれど。 けれど。けれど。 (……今日は、土曜日なんだけど。英二くん) 土曜日だからこそ今ここに自分がいるわけで。土曜日だからこそ今の自分はこうしてのんびりと彼氏観察ができているわけで。……土曜日だからこそ、彼の今の現状がすべて奇妙としか感じられないわけで。 そんな不思議色に満ちた私の視線に気づくこともなく、英二は製図版を睨んでいた。 高校を卒業後、英二は建築工学を勉強する専門学校に進んだ。 お兄さんやお姉さんたちは末っ子の英二をとても可愛がっていたから、そしてなにより英二が中学、高校とテニスを基本軸として学校を選んでいたことを知っていたから、青学の大学部に進学してテニス部に入ればいいとよく言っていた。青学の大学部にも工学部建築学科があったから、こだわりさえなければ別に青学の大学部でもあまり問題はなかった。 けれど英二はそれを断わった。断わって専門学校を受験して、そして、家を出た。 もちろん家族が嫌いになったわけじゃなかった(あの家族の中でそれは絶対にありえない)。家が嫌いになったわけでもなかった。昔の英二なら個人感情で揺り動かされることなんて多々あったけれど、今回ばかりは頑として確固たる自分の意志を貫き通した。 それは、随分と先を見通した計画で。けして単純な欲求からくる意志などではなくて。専門学校を受験する、一人暮らしをする、と初めて聞いた時にはさすがの私もびっくりしたけれど、それが英二の考えたことであればと何も言わなかった。もちろん私に止める権利自体ないことは百も承知だったけれど。 でも、現に自活できている今の生活がある以上、英二の道はけして無謀なものではなかったことが証明されている。確かに感情だけに揺さぶられる年ではなくなっていた。 (……にしても、今度は何の製図をしてるんだろう) 私にとって設計とか建築とかいうものは専門外だ。本当に何度教えられてもそれはよく分からない。昔は英二に教えてあげられるものはたくさんあったはずなのに(たとえば英単語とか)(数学の公式とか)(……テスト前には色々な思い出があるなあ……)、高校を卒業してそれぞれの道に進んでしまえば、本当に何をしているのか分からなくなることなんていっぱいある。共通の場所もなくなって、共有できた時間も激減して。ある意味高校生の頃までと比べれば、分からないことだらけだった。 だから、英二が製図なりなんなりで課題に追われている時はもちろんちょっかいを出すなんてことはしなかった。むしろ集中してしまえば押し黙るというのが自分の性格だと英二自身分かっているからなのか、私の前では滅多に課題をするなんてことはなかった。お互い忙しければ会わない、それだけのことだったから。 だから、だからこそこの光景はおかしすぎて仕方ないわけで。 (……煙草は吸うなって言ってるのになあ) 集中している時に口出しはしてはいけない、という暗黙のルールを思い出して、私はただその光景を眺めるだけにする。ベッドに横になったまま頬杖をつき、ただ壁掛け時計の秒針の動く音と、英二の右手によって走らされている鉛筆音にだけ耳を傾けながら。 英二は今でもテニスは続けている。といっても学校のサークルやスクールよりも元レギュラーメンバーたちと打ち合う方がよほど楽しいらしく、同窓会なんて不要なんじゃないかと思えるほどの頻度で不二くんたちと会っていたりするのだけれど。 だから、本来ならば煙草はあまり好ましいものではない。というかもともと好ましいものではない。だからこそ私もさりげなく嫌味を言ってみたのだけれど。 「製図をする時だけだって」 というあっさりとした、それでも頑として変えないといった口調で言い返されては、もはや何も言うことができなかった。実際に私の目の前では吸ったことはなかったし、たまにキスをする時に文句を言うぐらいだった(これは不二くんには『可哀想に』と苦笑された。とはいってもあれは私が可哀想なのではなくて、むしろ英二に同情している風ではあったけれど)。 とにかく、煙草を口にしているこの段階で、私はますます何も言えない立場になる。 土曜の早朝に本気モードで製図をする彼氏。珍しさが先行しつつも、結局この図の前では、私はもはや何もできなかった。 (課題ならこの前たくさんやってたはずなんだけどな。徹夜の連続だったみたいだし) (再提出とか? いやでも、それが分かってるなら私をここに呼んだりはしないよね) (というか再提出をくらう英二なんて私が嫌だ) 勝手な言葉ばかりを頭の中で並べていた、その瞬間。 製図版と睨めっこをしていた英二の視線がふとこちらに向いて、私が英二を見ていたことに気づいてわずかに目を丸くした。 「起きた?」 心地よい低音の声に、私はベッドに横たわったまま頷く。頬杖をついていたままだったから、うまく言葉で返せなかった。あえて何を言いたいわけでもなかったのだれれど。 ただ、こうして黙ってあの姿を見つめていると、色々なことを思う。何かを話して楽しい時間や幸せな時間を共有しあうことよりも、こうしてじっと見つめている時の方が私は最近幸せなような気がする。 なにせ、中学の頃の面影はそのままで。我が彼氏はその面影とは対立的ともいえる魅力を有してしまったものだから。なぜ共存できているのか、むしろ問いただしたい気持ちでいっぱいだったから。 「……なに、その顔」 「なに?」 「めちゃくちゃ何か言いたそうな顔」 くゆり、踊る煙草の煙。ゆらゆらと天井に上っていくその様を見つめながら、私は煙草をくわえたまま、そして右手に鉛筆をもったままの英二にむかって浅く頷いた。 「英二が先に起きるなんて珍しくて。目覚ましセットしてたの?」 「あー、携帯のアラームはつけてた。それだけ」 「今日はジャージじゃないの?」 「あ、これ? いや、夜に不二たちと会う約束してるから。面倒だからもう着替えた。どうせ買い物にも行かなきゃ駄目だったし」 「不二くん? 今日もテニス?」 「いーや。手塚の壮行会の打ち合わせ。あいつまた来週にはロンドンに戻るから」 「それで、その製図は? 何?」 「卒業製作の下書き。俺優等生だから」 何言ってるの、と突っ込む前に「おちこぼれになる寸前だけどなー」とかわされて、私は苦笑した。真剣な顔をして取り組む作品に対して、単につりあうような言葉が見つけられなかっただけかもしれないけれど。いやむしろ、だからこそ。 英二はけして朝には弱くない。なぜなら6年間の部活動での経験が存在しているから。その事実が生きているこの現実にだけ、微笑むことができればそれでいい。そして自分の道を見つけながらも、過去をないがしろにすることも依存対象とすることもせず、大切な繋がりを生み出すものとして認識できているこの現状があれば、それでいい。その事実に幸せになるこの現実こそ好ましいものなのだから。 私はけだるさを訴える身体の要求をすんなり受け入れ、相変わらずベッドから離れようとはしなかった。英二も何も言わなかった。ただブランケットを1枚かぶっただけの私が頬杖をついたまま英二を見つめ、英二は煙草片手に製図を続ける。 ただゆっくりと流れていく静かな時間に、私はベッドの上で両腕を組み、そこに頭を預けて窓の向こうの青空を見つめた。聴覚を侵してくる鉛筆の走る音に、そっと耳を傾けながら。 英二の邪魔をしたいわけでも、寂しいから構ってなどという言葉を並べる予定もなかった。この時間が1ヶ月ぶりの共に見る朝陽だということが分かっていても、何に焦る気持ちもなかった。疑問さえ解決してしまえば、あとはただ英二の作業が終わるのを待つのみ。 「朝ご飯は?」 「あー、いいや。何か食べたい?」 「ううん、私もいい。英二が何か食べるなら用意してあげようと思っただけだから」 「昼飯はその予定だけど」 「うん、分かってる。でも昨日冷蔵庫見たけど、ほとんど何もはいってなかったよ」 「いいよ、俺車出すから。あそこのスーパーでいいだろ?」 「うん」 お互い目線を合わせることなく、たださらさらと。淀みのない清流のように。 何に急ぐことも、何かに負い目を感じることもなく。淡々と、けれど何の違和感もなく会話は始まりそして終わる。不意をつくかのようにどちらかが言葉を零せば相手が丁寧にそれを拾って、それがたとえ相槌だけだとしても、そこには確かに無意識のうちの何かがある。そんな関係になれたのは、付き合いだしてから随分とたった後だったけれど。 何の目的もなく膝から折った足をふらふらと揺らしながら、私はこの後の予定を立てる。 まずは、……私も服を着よう。でもとりあえずは英二の洗濯物を片づけちゃいたいから、一緒に洗わせてもらって、まあその間は英二のシャツか何かを借りていればいい。 それから、部屋の掃除。……はいいか、英二の気が散るし。また今度来た時にしよう。 洗濯物を干し終わったら、英二のキリのいいところで外に買い物に行く。だってあのスーパーまでは車がないとちょっときつい。それに今の冷蔵庫の惨状は見るに耐えない。今日は思いきって補強しよう。 そして、帰ってきてお昼ご飯をつくって、食べて……。ああ、もうそれからは何でもいいや。英二が製図を続けたいなら私は私でレポートを片付ければいいだけだし。昨日大学からそのままやって来たのは正解だったかな。 そんなことを適当に考えていた時、私の背中で笑い声が漏れた。 また重たくなってきた瞼がもう少し頑張ろうとする、心地よい低音のその笑い声。私は顔だけを部屋の中に向けて、その声の持ち主を見つめる。 「なに?」 そんな私の声に英二はただ「違う違う」みたいな意味で手を振り、そして。 「いや、何かしてほしいのかと思って」 灰皿に煙草を押し付けながら、苦笑したままそう答えた。 私は揺らしていた足を止め、少しだけ沈黙してそっと全身をブランケットの中に隠す。そんな防衛体制をとると、ついに英二は声をあげて笑った。 その笑顔は、少しだけ。 少しだけ、昔を思い起こさせるもの。 別に過去が恋しいわけでも、名残を求めているわけでもない。そんなことをしなくても、必要以上に過去を美化しなくても今の私は十分幸せだ。ただ、今のこの幸せはそれらの積み重ねでできているものだから、逆に言えばその過去をないがしろにする気持ちもさらさらないのだけれど。 「高校生の頃じゃあるまいし。俺そんなに若くないって」 「嘘。絶対嘘。この前だって」 「あー、それはそれ。これはこれ」 「……全然言い訳になってないんだけど、その言葉」 「だって煙草の味が嫌だって言ってたじゃん」 それでも時折顔を見せる、この懐かしい笑い方。それらの上に成り立っている、成長した今の姿。考え方。付き合い方。優しさの見せ方、与え方。 どうしよう、と私は考える。ブランケットにくるまり、じっと英二を見つめながらただ考える。 成長することが上手いこの人は、どうしようもなく私の思考を狂わせる。 それは過去から続いている、いわば私たちの間の基本習慣みたいなものではあったけれど。けれど過去のものを崩すでも壊すでもなく、それらを改善させて素直に成長してみせる英二には、相変わらず私は白旗をあげるしかないようだった。 結論さえ出てしまえば、もう話は簡単だった。敗者には敗者なりの楽しみ方がある。 高い高い朝陽を感じながら、ひとつため息をついて。そして。 「煙草分をプラスしてね」 「なに?」 柔らかくて、抱きしめたくなるような笑い方をする英二に、私はにっと口端をあげて笑った。 「高くつくよ、英二。それでもいい?」 相変わらずブランケット1枚にだけ守られた身体をそっと持ち上げ、ベッドの上で小さく手招きする。これではどちらが望んだのか分からなかったけれど。 けれど、それだけを受けて英二はまた笑って、そして手にしかけていた新しい煙草を灰皿の上におき、鉛筆も製図版にたてかけて。 「そういうところ、相変わらずだよね」 そう言って、英二は苦笑まじりに額にキスをくれた。前髪を除けるその手の温もりに、私は煙草の匂いにしばらく目をつむることにする。 頭の中では今日の予定の変更を余儀なくされていたけれど、全て午後に持ち込めば変更可能なものばかりだ。ああ、せめて洗濯物だけは早めにしておこう。どうせならシーツも洗ってしまってもいいかもしれない。だって今はまだ、早朝だ。 相変わらず、という言葉を受けながら私は大きくなった身体を抱きしめた。 相変わらずのものが、昔と変わらないものがたくさん残っているこの幸せな日常の中で。 |
| 04/03/09 |