不二周助くんの3年6組日記 たまにはこんなこともある編

 ああ、これは喧嘩だと。僕はすぐに分かった。
 目が合っても笑顔を見せるどころかあっさりと視線を逸らす。毎週恒例になっていた火曜昼休みの食堂でのご飯の時も、距離感を漂わせる会話しか成立しない。メールの文章がわざとらしいまでに丁寧語になる。そんな有様だ。
 ああ、やはりこれは喧嘩だと。僕は窓際の席で頬杖をついて3年6組の教室の中をぼんやりと見つめながら、そんなことを思った。初夏の風が今日はどこか心地良かった。まるでそう気にするなと言われているようで、少しおかしい。
 でも、気にせずにはいられなかった。むしろ困って仕方なかった。
 僕の立場としては、この喧嘩は長引いてほしくない。その一番の理由は、テニス部の関東大会も目前に迫っているこの時期、できることなら余計なことに気をまわしたくないからだ。テニスのことだけに集中していたいからだ。
 そもそも、恋愛なんて。今の時期にすることがおかしいんだ。僕はその結論を見つけ、昼休みの騒がしさに満ちた教室の中でひとり腕を組む。
 時期もおかしければ、場所もおかしい。なにせ世界というものはこの場だけではない。そんなことは他校と接するだけでも簡単に理解できることで、成長すれば中学生という枠だって外すことができることは百も承知。言い換えれば、今という瞬間はけして最高のタイミングとは断言できないはずなんだ。それなのに。
 僕は昼食も取らず、じっと教室の中を見つめたまま考え続ける。
 僕の横にはいつものとおり、僕を今まで散々悩ませ、時には考えさせられ……やっぱり振り回されてきた、6組の中どころか学年でも結構知られた恋人関係の片割れがいる。僕の心の靄になど目もくれないで昼食を取りながら。僕は眉根を寄せる。なんて呑気な有様だ。それなのに、と。
 それなのに。こんな狭い世界で恋愛をするなんて、なんて愚かな行為なんだろう。狭い世界で恋愛をすれば、良くも悪くも周りを巻き込む。そんな情けない醜態をさらすことが分からないはずがないのに、どうして。

「不二ー」
「なに」
「早く仲直りしてこいよ。俺が怒られてるみたいなんですけど、その顔」

 僕は、あの子のことがこんなにも好きで仕方ないのだろう。





「不二が約束をすっぽかしたんだって」
「英二じゃあるまいし、不二くんはそんなことしません」
「あ、なんだよそれ。ひっでえ。本当だって、電話が繋がらなかったんだよ」
「それはすっぽかしたんじゃなくて、単に連絡ができなかっただけって言うの」

 こんな日にも、僕の目の前にはこのふたりがいる。
 クラスなんて簡単な話ではない。もはや学年という括りすらこのふたりにはわざとらしいし、むしろ鬱等しくもあるだろう。それほどまでに色々な意味で周囲に認知された恋人同士のふたりは、今僕の目の前で、ご丁寧に机と椅子を持参して(隣と前の席を強引に奪っただけとも言うけれど)昼食の時間を共に過ごしている。

「でもそれだけで怒るか? 普通。やっぱり不二がなにかしたんだろ」
「なにかってなに。英二じゃあるまいし」
さっきからそればっかりじゃん」
「事実だもの」

 褒めているのかけなしているのか分からない会話は、僕を勝手に主役に踊りたてているくせに僕に会話に踏み込む余地を与えない。いや、それは毎度のことでもあるのだけれど、今日という日ばかりは妙にそれが気に入らない。

「英二と違って不二くんは『真面目』で『大人』で『優しい』もの。ねえ?」

 まるでこの人ですら、今日ばかりは僕の敵であるかのようだ。
 その微笑みが胡散臭いのだと。言いたくとも言えないのは、別にその彼氏が視界片隅で僕の反応をまじまじと窺っているからではない。彼女の言葉を否定した途端一斉攻撃を浴びる、それを恐れているからではない。
 その胡散臭さを生み出しているのが僕自身である以上、僕はなにも言えないのだ。
 喧嘩の原因はまがうことなく僕の大遅刻であると。その事実がある以上、僕に反論の余地などありはしないのだ。

さんは、どこまで知っているのかなあ」

 開け放たれた窓から飛び込んでくる初夏の風を受けながら、僕は壁にもたれてさんに外向けの笑顔を用意する。その意味を彼女が履き違えるはずがないと分かっているからこそ。
 案の定、さんは箸を止めて一度にっこりと微笑み、

「不二くんの予想は超えない範囲で」

 僕が好みそうな返事をあっさりと返してきた。

「え、なにそれ。不二、お前にだけ話したのかよ。ずりー」
「英二、人の話聞いてた? 今の話のどこをどう聞いたらそうなるの」
「不二くん。英二だから、そこは」
「あ、そうか」
「なんだよそれ!」

 もはや英二の反応は気にするに値しない。今の僕の敵は、目の前のこの人だ。
 さんという人を、僕は改めて思い直す。
 英二の彼女、英二のお守り役、かと見せかけて時々英二の言いなり。というかほとんど英二の言いなり(臨時球技大会の時がいい例)。この人は自分が主導権を握っているように見せかけて、実は英二の手のひらになってしまっていることを僕たちに必死に隠しているけれど、残念ながら僕は男なので英二の本音を読み取ることはさほど難しい話ではない。だからその彼女になっているさんの気持ちもある程度その延長線として理解することができる。彼女は利口だけれど、従順だ。
 そんな彼女が、利口な面だけを僕に見せつける。その意味を僕は履き違えない。
 間違いない。この人は、僕と僕の彼女の喧嘩の理由を知っている。

さんは、どっちの味方なのかなあ」
「え?」
「僕と彼女と」

 視界の中からとうに英二の姿は消してある。普段家では絶対にしない食事中の頬杖を辞さないまま、僕は真っ直ぐにさんを見つめて尋ねる。口元を緩めることは忘れずに。

「それは……まあ、不二くん?」
「疑問符付いたよ、今絶対。絶対付いた」
「そんなことないよ?」
「わざとらしいぐらいに疑問符付きなことが目に見えるのでもういいです」

 さんも負けることなく僕に笑い返す。その意味も僕は履き違えない。
 間違いない、間違いなくこの人は。

さんの本音を当ててあげようか。『これは明らかに不二くんの失敗です、謝罪以外の誠意を見せなさい』。……違う?」

 軽率さすら感じるアップテンポな音楽が校内放送のスピーカーから流れている。コートに来いと促す心地よい風が前髪を揺らし、視界の中でさんの姿を一瞬だけ掠めさせる。
 けれど、僕が首をわずかに傾いで前髪をさらりと退けさせた、その時。

「彼女にとっては、不二くんの言葉は全部誠意に聞こえるはずだもん。仲直りは難しくないよね、っていうことで」

 意味が分からないと訴えるかのように顔をしかめる英二をよそに、僕はたださんの言葉を沈黙の中で受け止め、そっと苦笑した。





 さんという人を、僕は特別扱いをしているわけでも特別視しているわけでもない。
 特別という言葉はこういう時に使う言葉ではないことを僕は知っている。特別、というのとは少し違う人だ。ただ、親友の彼女というその立場に代わる言葉はない。それは特別という言葉とは似て非なる存在だと、その近しさが教えてくれているように思う。

(全部誠意、ねえ)

 随分と軽く、大胆な言葉を発してくれたものだと僕は思う。
 手塚が来るまでのテニスコートは、一種平穏という言葉が相応しい場所になる。ゆっくり、温かく流れる空気の居心地は悪くない。桃と海堂が口喧嘩を始めてもそれはそれで場を和ませることができるお決まりの展開であるし、越前が試合の時とは打って変わったぐうたら具合でコート整備をしているのも愛嬌の一言で片付けられる。今日も相変わらずテニスコートは平穏だ。
 僕はコート脇のベンチに腰掛け、ゆるく五指を組みながらそっと天を仰ぐ。
 僕のことを「誠意」だと。躊躇することもかばうこともせずにあっさりとその言葉で例えたさんを思い出すと、一体彼女は菊丸英二という人とどんな付き合い方をしているのかと。一体どうすればそんな考え方をすることができるのかと、改めて思わざるをえない。
 たとえば、それは。

「あー、手塚がこないと平和ー。俺もう少しランニングしてこよっかな」
「勝手をするな、英二。大石に言いつけるぞ」
「なんで大石がそこに出てくるんだよ、バカ乾め」
「俺をバカと例えるお前の思考回路がまだ上手く働いていないことはよく分かった。そうか、ならば……」
「あー、ストップストップ! ごめん! やるから、本気で!」

 自分勝手に飄々と生きる彼と付き合うことで見出した、「妥協」という名の「忍耐力」がなせる業なのか。それとも。

「桃、ちょっと」
「なんすか?」
「先輩命令。桃、今日乾の背中にわざとボールぶつけて」
「は? エージ先輩、俺の力みくびってません?」
「あいつそれぐらいじゃくたばらないから大丈夫だって。俺より10センチ以上高いから」
「身長は関係ないんじゃ……」

 自分勝手にまったくもって悪びれずにいたずらを計画する彼と一緒にいることで身につけた、「教育」という名の「包容力」がなせる業なのか。
 色々と考えはするけれど、考えてすぐにその意見を僕は頭の中で訂正する。どこかマイナスの雰囲気を漂わせるそれらのもとで生まれた「誠意」という言葉なんて、あまりどころか正直ごめんだ。そして僕はまた答えを見失う。

(付き合い方、じゃないのか。じゃあなんだろう、それとももうそんなものを通り越した『なにか』なのか)

 気づけば僕の眉間には、珍しく手塚の特権のものが浮かんでいたらしい。

「不二先輩、手塚部長みたいになってるっすよ」
「嬉しくないなあ、それは」

 ネット張りを終えた越前がぎょっとして足を止めてしまうほど、それは大仰なものだったらしく。その反応に改めて自分が色々なものに迷っている、色々なものを見失っていることを教えられれば、足は反射的に体重を支えるためにコートを踏みしめる。

「顔洗ってくる。手塚にそう伝えといて」
「……部長、生徒会議会なんすけど。どんだけ顔洗うつもりっすか」
「1年生は知らなくてもいいことがあるんだよ」

 どれほど実力はずば抜けていても、部活の縦社会の中では所詮彼は底辺。ヒエラルキーの頂点付近にいる僕の言葉を否定する思いは抱くことができてもそれを実行できる権限はまだない。
 呆然と僕を見送る越前の視線を背中に感じながら、僕はラケットももたずにコートから出る。フェンスの外に足を運べば、グラウンドや校舎の方からいつもどおりの学校の雰囲気の声が飛んでくる。雑念を無視するにはちょうどよかった。
 気づけば、僕の頭の中は彼女との仲直りよりも。

(分かっていたはずなのになあ。まだ分からないことがでてくるなんて)

 いつものごとく、あのふたりのことでいっぱいになっていた。
 綺麗ではないと思いながらもユニフォームのポケットに両手を突っ込んだまま、僕はひとりで中庭にある水飲み場を目指す。手塚は生徒会議会、大石は学級委員の仕事、それを知っている僕の足はとてもゆっくりだ。たまには初夏の心地よさに任せてそんな日もいいだろう、そんなことを思って校舎の角を曲がろうとした、その時。

「英二、練習は?」

 けして大きくはない。けれど、目的とする限られた範囲の中に確実に届くそれは柔らかな、女子の声。
 僕は足を止め、顔を上げる。青空の中に流れ行く白雲が生えてくるように見える真っ白な学園校舎の1階に、その声の持ち主はいた。

「するって、もうすぐ」
「もうすぐ? 手塚くんに言っちゃうよ、そんなことしてたら」
「なんでまでそんなこと言うんだよ、お前優しくない最近!」
「失礼な。心底優しいのに」

 聞きなれた言葉だった。それは別に、今僕が足を止めて聞き入らなくとも3年6組の教室で、コート前で、グラウンドで何度となく聞かされた言葉だった。それは僕でなくとも物珍しさの欠片もない、日常という言葉がよく似合うやり取り。
 けれど、僕は足を止めたまま動けなかった。

「じゃあねえ、英二が終わるまで待ってる。それで優しいって認めてくれる?」
「なんだよそれ。俺が頼んだら素直に待ってるくせに」
「優しくない?」
「優しいとは違うな、優しかったら帰りにアイスおごってくれる」
「お金と優しさを比べる英二の方が違うと思うなー」

 彼女の視界には僕はいない。彼の視界にも僕はいない。
 いつも、学校内で見せるやり取りに変わりはない。聞かされる言葉に一字一句変わりもない。けれど、その顔に浮かぶ表情を僕は知らない。
 それはきっと、ふたりだけの時にしか交わされない一瞬の、限られたものであるのだろうと。そう思うことはとても簡単で、だからこそ。

「じゃあ、待ってて。真面目にテニスしてくるから」
「いつも真面目にしてね」
「してるってば」
「はいはい、そうですね」

 本当の主導権を握っているのは英二だと、予想はできていた僕の目の前で、英二は柔らかく笑ってさんの頭を軽く一度撫でた。
 僕の知らない親友の横顔に、僕の予想というものはどこか軽かったことに気づく。
 僕の知らないさんのはにかみ様に、彼女の言葉はどこか重かったことに気づく。

(好きな人の言葉は『誠意』、ね)

 校舎の壁にもたれ、頭を軽く預けて腕組みをしながら改めて僕は考える。
 視界の中では英二は校舎傍を離れ、さんの姿は校舎の中に消え、あとは日常の景色だけが残される。その世界の中、僕はしばらくふたりの残影を探すかのようにじっとしたまま動けなかったけれど、風が吹いた瞬間にそっと壁を離れ、足の向きを変える。
 目指す先は、水飲み場ではなく。

(やっぱり、たまには英二に教えられることもあるか)

 足早になっていく僕の身体は、どこか逸っている。
 自分勝手で飄々としていて、我がままで悪戯好きで。彼女に忍耐や教育を強いる英二のくせに。それなのに。
 その言葉を誠意に変えてしまうのは、恥ずかしながらも彼女にとっての恋愛感情が並大抵のものではないからだと。
 当然のようで、触れられないその事実。けれどそれをさも当たり前かのように僕の前で公言したさん、公言させる付き合い方ができている英二。そんなふたりに、今日ばかりは僕は納得の意味で白旗だ。
 だから、僕は。

「あれ、不二。どこ行くの」
「部室。すぐ戻る」

 通り過ぎた英二に目もくれず、真っ直ぐに部室を目指して利き手の中に携帯電話を収めることだけを願う。
 そして僕は、自分の言葉が彼女にとって誠意以外のなにものでもないことだけを願って、その通話ボタンを押す。

「帰りに待っててほしいんだけど。話したいことがあるから、たくさん。本当に」

 薄暗い部室の中、少し息が切れてしまっていることは隠しながら呟いた、開口一番の言葉に携帯電話の向こうでしばらく沈黙が流れたけれども。でも、それはすぐに笑いにとって代わる。
 その笑い方ひとつが僕を認めてくれていること。それを履き違えるほどバカじゃなくても、僕はそれに自惚れるほど単純だ。
 誠意でありたいと。そう願う僕の心は、今日ばかりはあのふたりに白旗と。
 そして感謝を。そっと抱くのだけれど、それはしばらく秘密の話にしておこう。



HAPPY BIRTHDAY! 06/11/28