不二周助くんの3年6組日記 打倒乾貞治計画編

「俺はもう乾と縁を切る」

 事件は、ある日突然親友がそう叫んだことに端を発する。
 その時僕は、コート脇でいつも通り練習前のウォーミングアップをこなしていた。ペアの相手は大石。右足にぺたりと上半身をくっつけ、そして上から大石に乗ってもらったその姿勢のままで30秒が過ぎるのを大した疑問も抱かずに待っていた、まさにその瞬間だった。
 僕と大石が目を丸くして顔を上げると、その先には越前を背中に乗せた英二の姿がある。レギュラー陣の中で一番軽量な越前を相方に指名しているあたり、英二のずる賢さと手塚不在の影響を思い知らされるわけだけれど、今はそんなことは気にしていられない。そう、だって越前ですら英二の上に乗りながら目を丸くして僕たちを見つめていたのだから。

「それはまた……なんというか。とても壮大な計画だね」
「英二、どうした? なにか乾に嫌がらせでもされたのか?」
「ていうか、先輩が勝手に怒ってるだけなんじゃないんすか? それって」

 口々に返される「否定」の言葉に、英二はあからさまにむっとしてみせる。でもそんな表情をする暇がありながら、随分と余裕をもって自分の右足のつま先をつかんでいられるあたり、やはりこの男に柔軟性で勝つことができる仲間はいないとしみじみ思う。

「俺は決めたんだよ。もうあいつの言うことなんか絶対聞くもんか」

 部内トップクラスの柔軟性を見せつけて、英二は力強く呟く。越前はその英二の上に乗ったまま、わざとらしく肩をすくめてみせた。筋肉の動きが重量の変化に表れたのだろう、越前のその反応に英二は「おチビ、お前今日絶対いじめてやるからな!」と叫んで、越前の存在を無視するかのように思い切り上体を起こした。哀れ最軽量の越前はその動きに逆らう時間すら与えられず、お気に入りの帽子を簡単に宙へと舞わせてコートの上にずり落ちる。驚きの声とどさっという重みのある音が響く中、僕はゆっくりと上体を起こして大石に視線を向けた。

「知ってる? 大石。なにがあったのか」
「いや……期末テストはまだ先の話だし、最近これといって英二が乾に腹を立てる理由はどこにもなかったと思うが……」
「そうだよね。むしろ穏やかだったよね、最近は。乾が前にもまして部員全員の相手をしなくちゃならなくなったから」
「となると……構われなくて寂しかったのか?」
「ネタとしては面白いんだけど、実際は見たくないよね」

 ごもっとも、と僕と大石は自分たちの台詞に頷いて、けれどその代わり結局解決することのできない疑問符を残したまま英二に視線を向ける。突然背中から落とされた越前が、眉を吊り上げて英二を非難する声が響き渡る中、しかしその風景すらもいつもどおりすぎて、英二の突然の宣言の真意など見当のつけようがなかった。

「単に乾汁にむかついただけなら分かりやすいんだけど」
「そうだな、それだけだったら単純だ。いつものことだしな」
「実際はミスをする英二に問題があるんだけど、そこは目を瞑ってあげようか」
「……すまない、本当に」

 2学年も年下の後輩、しかも自分の非を責められることに対してさらにむきになっている英二をよそに、僕と大石は役割を交代して準備運動を続ける。
 英二ほどまではいかなくても、大きな身体のわりには綺麗な柔らかさを持っている大石の上に乗って、僕は空を見上げた。午後の部活をするには眩しいくらいの太陽がそこにはあって、今日のこの時間もいつも通りに、そして有意義に過ごすことができるのだろう。淀みもかすみも全く知らない、薄い涙色一色に染め上げられた空を見上げると、自然とそんなことを思ってしまう。
 数を数える大石の声が、そんな僕の思いを認めるかのように爽やかに響いていた、けれどその時。

「英二、ちょっと」

 いくら大石が爽やかな声をもっているとしても、所詮は男の声。そしてここは女子マネージャーなんて大そうな人は存在しない、むさくるしい男子テニスコート。耳に届くのは男たちの低音か、もしくは竜崎先生の……ご年配の女性の声だけなはずのこの空間に、突然オクターブの違う声が飛んできた。
 僕は大石の背中に乗ったまま、そして大石は先ほどの僕とまるで同じ、右足に手を伸ばしながら顔だけを上げた姿勢のままでコートの外を見つめる。視界左隅では、部活の始まる前から桃と海堂並みの口喧嘩をしていたはずの英二と越前が口を止め、顔を僕たちと同じ方向に向けていた。
 この時、僕の頭の中にはひとつの考えが浮かんでいた。

(……もしかして、英二……)

 フェンスの向こうに立つ女子の姿に、僕は見覚えがあった。目があったら手を振るだけの関係も築かれていた。
 というよりむしろ、僕は今日も自分のクラスで彼女が英二と話す姿を見た。もっと言ってしまえば、何の因果かこの前の席替えで偶然3人一緒の班になって同じ教室掃除になってしまい、そして今日の掃除時間にモップをもってだらだらと床を掃いていただけの英二に対して、問答無用で机3列を運ばせたのが彼女であることを知っていた。
 僕と大石、越前の中に、どのような思いが流れていただろう。一瞬で訪れた沈黙の中、英二はあっさりと越前を置き捨てにしてフェンスへと駆け寄る。そしてまるで僕たちの視界にはその姿を映させないとでも言うかのように、彼女の目の前に立ってなにかを話し始めた。
 それが英二の彼女であるさんであることは、少なくともこの場にいる僕たち3人にとっては言わずと知れた事実。

「……手塚がいなくてよかったなあ、本当に」
「というより、全部狙ってるんじゃないんすか、あのふたりは」
「どうだろうね。……まあ、とりあえず、さんは英二に部活をさぼらせたいわけじゃないことだけは弁解しておこうかな、クラスメイトとして」

 テニス部副部長として、彼の大親友として。ふたつの立場に挟まれて、複雑な表情で目の前の光景を見つめる大石。そして口げんかの元凶が目の前を去り、わざとらしい安堵のため息を零す越前。
 そんなふたりを前にして、僕は相応の笑顔を取り繕って答える。クラスメイトである僕の台詞にはそれなりの説得力があることは既に実証済みで、慌てることなく呟く僕に大石と越前は沈黙という納得の答えを返した。
 ただ、そうしてふたりを納得させながらも、僕は大石の背中の上に乗ったままひとつのことを考えていた。それはふたりに言えるような確固とした論拠を伴う考えではなく、この段階ではまだ僕の予想の範囲を出るものではけしてなかったのだけれど。
 でも僕は知っている。あのふたりのことに関して、僕の予想が大きく外れたことなど。そんなことは、いまだかつて一度もなかったということを。

(……乾と縁を切って、そしてさんねえ……)

 自由の身となった越前が、ため息とともにひとりでウォーミングアップを開始するのを横目で見つめながら、僕は空を見上げてぼんやりとそんなことを思った。





さんにいきなり乾汁の作り方を尋ねられたんだが、誰かその理由を知っているか」

 事件が徐々に進展していることに気づいたのは、乾のその一言からだった。
 場所はまたしても部活開始前のテニスコート。しかも、1年生の仕事であるネット張りを終えた越前がレギュラー陣の中に戻ってきた、まさにそのタイミングでの出来事だった。
 帽子の下で、越前の大きな目が何度となく瞬く。そして沈黙の中そっと大石に、そしてその越前の視線を受け取った大石が動揺の欠片を隠すこともなく僕に視線を向けてきたせいで、乾の視線は簡単に僕のもとにやってきた。

「不二。お前、なにか聞いていないか? 一緒のクラスだろう?」

 しかし乾のその視線には、別段取り立てて訝るような色はない。むしろそれは単純に理由だけを知りたいという目で、乾汁を求められたことに関してはなんの疑問も抱いていないという雰囲気に満ち溢れている。
 その視線を受けて、僕は乾がまだ英二の計画の欠片も気づいていないことを知る。

(……ここまで乾に疑いを持たせなかったのは、さすがさん、というところだけど)

 しかし彼女の力量を褒めるということは、つまり彼らが共謀しているということに気づかされるも同じことだ。
 僕は数日前、このコートで大石の上に乗りながら考えたひとつの推理をもう一度確かめてみるべく、沈黙の中で視線をずらす。

(英二が乾のなにに怒ったのかはさして問題ではない。どうせ大したことじゃないんだ)

 おそらく英語の単語テストの点数をチェックされたとか、平穏な昼休みの時間にまで栄養価の話をされて機嫌を損ねたという程度だろう。大石が英二の怒りの原因が分からないと言っている以上、事件はテニスコートではなく校舎内で起こったと考えた方が妥当だからだ。そして、校舎内でかつて英二が乾に対して(勝手に)目くじらを立てたのは、そんな些細な出来事しか例がないからだ。

(問題は英二の対策だ。もう乾の言うことは聞かないと言ったことと、さんが乾に接触したことは繋がっているに決まっている。そしてさんは乾に乾汁の作り方を聞いた……)

 これまでの経緯をまとめながら、僕はそっと顔を上げて校舎を見つめる。その先にはまだ窓が開いたままの3年6組の教室があり、日に焼けたカーテンが教室の中から尻尾を出していた。そして僕は考える。
 英二にとって大切な人であると同時に、テニス部の仲間と同じぐらいに信頼している人。それがさんであるということを。

(つまり、乾の役割をさんに任せることで反抗するということか?)

 単純な公式から導き出せた答えに、僕自身反論することはできなかった。むしろそれが答えに他ならないと思うことの方が、どれほど簡単なことだろう。
 だてにあのふたりと付き合ってはいない。そんな変な自信とともに、事の成り行きに興味津々な越前と大石の表情を一瞥したあと、僕は軽く肩をすくめた。

「そういうことは、関係者に聞いてしまった方が早いんじゃないのかな」
「関係者?」
「乾の後ろにいる人」

 僕の一言に、越前と大石、そして乾の視線が一斉にコート隅へと向く。
 そこは、コートと外の世界とを緑色のフェンスで仕切ったこの空間の入り口。そして部活開始ぎりぎりのこの時間、悠々とラケットを小脇に抱えてタイミングよくその場に現れたのは、もちろん。

「な……なんだよ、皆して」

 手塚が今日も生徒議会で部活に遅れてくるのをいいことに、遅刻寸前をまるで気に留めていない英二の姿だった。
 コートにやってきた早々僕たち4人の視線を受けて、英二はあからさまにたじろぐ。重役出勤寸前の登場をしておいてそこでひるまれても、と誰もがそう思っている瞳をしていたが、乾だけは冷静に英二に声をかけた。

「英二。お前、俺になにか隠していることはないか?」
「は?」

 随分と直球だな、と大石が呟く。越前はその言葉に少し吹きだしそうになりながら、そっと僕たちの隣に並んで英二と乾に視線を送っていた。
 その時、英二の目がちらりとこちらを向く。そして迷うことなく僕の視線を見つけ、やがて。
 僕の表情の意味を読み取ることに長けてしまった親友は、僕の微笑みに一瞬で自分の窮地を理解した。
 瞬時に眉根が寄り、そしてその顔をしかめ面に変える。言葉を一言も返さずに、ただ顔に今の感情を反映させるばかりの英二を見て、乾の右手が軽く眼鏡のテンプルに触れた。

「なるほど、その顔はやはり隠しているな?」
「な、なにも隠してなんか……!」
「無理は身体によくない。さあ、吐け。なにを企んでいるのかは知らないが、どうせお前の考えることだ。素直に従う方が身のためだぞ」
「……英二の負けだな、これは」
「そうっすね」

 一体、どの反応が一番早かっただろう。
 巨体にじりじりとすり寄られそうになってたじろぐ英二と、もはや楽しんでいるようにしか見えない乾と、助け舟を出そうと一歩を踏み出した大石と、退屈そうににあくびをする越前と。
 そろそろ先が見えてきそうだな、そんなことを思う僕の思考回路に、その時一番早く飛び込んできたのは。

「もう乾の計画には乗らないっていってるだろ! 俺はもうお前の指図は受けねえ!」

 逃げ場をなくした敗北者の、逆ギレの第一声だった。
 乾の計画ってなんだよ、と僕と大石が目を合わせる横で、越前はその言葉を疑問に思うよりも前に唖然として目を丸くしている。けれどそんな僕たちの態度に反応する余裕はもうないのだろう、英二は乾に向かって邪険な態度をとるかたわら、口元を生意気そうに歪めて鼻で笑った。

「乾の役目は俺だって知ってるさ。でもなあ、お前は時々やりすぎるんだよ! なんでいっつも不味いものばっか食べさせるんだ、普通に考えたらおかしいだろ!」
「心外だな。俺は部員のため、ひいては青学のためを思い、総合力の向上を願って誠心誠意部員の体調管理を行っているだけなんだが」
「またまともっぽく聞こえることばっかり言いやがって……! じゃあなんで部員のためにもっと味をよくしようとか思わないんだよ、お前には真心がない!」
「ああ、それはやりたくないんじゃない。単にやっていないだけだ」
「……乾先輩」
「……それは、どうかと思うぞ、俺も」
「とにかく! 俺は、そんなお前の指示に従うことに疑問を感じた!」
「疑問? なるほど、それで?」
「お前のつくるものはもう一切口にしない。俺は決めた、もう決めたからな!」
「英二、それは……あれ?」

 その時、乾を微妙な目で見つめていた大石の視線が僕の横を通り過ぎて止まる。つられるように越前や乾たちもそちらの方角を見つめる。
 大石の視線の向け方と言葉と表情、それらに違和感を覚えて僕も振り返れば、フェンスの入り口前に女子の制服。
 誰かがあ、と呟くよりも前に、僕の横を今度は英二が通り過ぎる。それだけで答えは簡単、そこに立っていたのは紛れもなくさんだった。

「取り込み中ごめんね。英二、これ頼まれてたもの」
「あ、まじで! ほらみろ、乾。俺はもうお前に頼らなくても全然平気だからな!」
「……」

 安直な、と大石が絶句する。越前も、そして名指しされた乾も。僕も納得の意味で沈黙を提供し、僕たちの周りには英二に声をかける人は誰一人としていなかった。
 英二が受け取ったもの、それは中身がまるで分からない、けれど乾ではなくさんが用意したペットボトル。
 その瞬間、僕は自分の考えがまるで外れていなかったことを知る。自信満々の顔つきでそれを受け取った英二は、興味津々に声をかける(今までの事情を知らないからそういうことができたのだと思うけれど)桃の声に誘われて、コートへと戻ってきた。お世辞にも小さいとは言えない身体の男ふたりがコートの中央にしゃがみこみ、そしてペットボトルを真剣に見つめる。
 自分も他人事ではないと感じたのだろう。目を輝かせながら事の成り行きを見つめる桃と、違う意味で成り行きを見つめる僕たちの視線を一斉に浴びた英二は、その時ついにペットボトルのキャップをひねり、そして。

「……あれっ? ちょ、エージ先輩? エージ先輩!」
「……」
「…………」

 絵に描いたように、頭を垂れて、口を押さえて。しゃがみこんだ姿勢のまま、ぴくりとも動かなくなった。
 大石たちが絶句している横で、僕はしばらくそんな親友の後ろ姿を見つめた後、そっとその集団を離れる。行き先はもちろん、フェンス傍。
 英二の反応を事も無げに見つめているさんの傍までやってきて、フェンスにもたれかかって僕は小さく尋ねた。

「……さん」
「なに?」
「あれはなにを重視してつくったの? 味? それとも、効能?」

 奇声を上げるでも水道台に駆け出すでも、ましてや暴れだすでもない。ただテニスコートの中にうずくまり、必死になにかと戦っている背中を僕たちに見せてくれている英二の姿を見つめながら、僕はそっと尋ねる。今日ばかりは思わず頬が引きつりそうになることを止められないままに。
 そんな僕の本音になんてとっくに気づいているだろう、それでもさんはいつもどおりに笑って見せた。

「効能のためにあるんじゃないのかなあ、乾くんの特性ドリンクは」
「……」
「そんなこと、不二くんの方がよく知ってるくせに」
「うん、知ってるよ。知ってはいるけど……」

 その乾から逃れるべく救いの手を求めた彼氏に対して、まさか素直に乾レシピを実践するとは思わないじゃないか、とはあえて言わないでおいた。
 それは誰のためだったのか。目の前で哀愁の色すら見つけられそうな背中を丸めてうずくまる英二のためか、それとも愚問を口にするなというさんの雰囲気の……いや、僕の保身のためだったのか。沈黙の中に身を置いてしまった今となっては、答えを出すことが少し憚られたけれど。

「乾への反抗の理由は?」
「単語テストの平均点がレギュラー陣で一番低いことを指摘されたこと」

 その単純明快な答えの前には、さすがに英二への同情を増すことよりも唖然とすることの方がよほど簡単だった。
 大石が慰めにかかる英二の背中を見つめながら、僕は呟く。

「……さん、僕はさ、英二と君の関係は十分に知ってきたつもりだけど」
「うん」
「今回は、英二のなにを優先したの?」

 僕の問いかけに、フェンスの向こうにいたさんは一瞬だけ目を丸くした。けれどすぐにその目はいつもの雰囲気を取り戻し、静かにコートの中の彼氏に向けられる。僕はただ黙ってその視線の理由を考えていた。
 今回の英二の行動には、同情の余地はない。なぜなら単に結果としての事実を指摘しただけの乾にはまるで非はないのであって、それに苛立ちを覚えるぐらいであれば自分からきちんと単語を覚える努力をすればいいのだ。そんなことは僕が呟くよりも前に、この隣の人が前から散々繰り返し呟いてきたこと。その事実を知っている以上、英二に肩入れする理由は今回のところは見当たらない。
 それなのに、どうして今更さんの本心を尋ねる言葉を用意してしまったのか。さんの行動の正当性を理解していながら、なぜその真意を推し量るような問いかけを口にしてしまったのか。
 そこまで思い、僕はようやく自分の心理を理解する。
 ああ、僕には免疫ができている。そしてその免疫は、あるものを求めているのだ。ようやくそのことが分かった、その時。

「テニスをしている時が一番格好いいと思うから、その考えに背くことはできません」

 揺らぐことのない瞳と口調で返されたその言葉は、免疫がなければ気恥ずかしくて聞いていられない。
 けれど、いつまでたっても褪せることのないその関係に、今の僕には苦笑すら生まれる。
 目の前では今日も乾の管理下を思い知らされる親友の、コートにうずくまる姿。その前にしゃがみこんで平然とからかいの言葉を口にする桃と越前に、結局英二のポジションはいつもこのようなものだと改めて思いながら、僕は爽やかな風が吹き抜けるテニスコートの中で呟いた。

「なるほどね、乾と共謀したというわけだ。さんの英二対策は日々進化するんだね」
「人聞きの悪い。というか乾くんはなにも知らないよ、私が教えてもらっただけ」
「どの瞬間で英二をはめたの?」
「それも人聞きの悪い。私はいつも英二のことを思って行動してるつもりなんだけど」

 返される言葉ひとつひとつは、いつもの彼女からの予想範囲内の内容。いや、いつもこのふたりの関係に巻き込まれては免疫力を培ってきた僕だからこそ楽しめる、ちょっとした秘密の言葉だ。

「それを本人に伝えてあげないあたりが、さんも意地悪だよね」
「なに、それ。というか本人に伝えたら意味がないんじゃない?」
「そうかな。褒めて伸びるタイプだとも思うけどね、英二の場合は。いやむしろ、おだてにのせないとやらないタイプ?」
「それは勉強の時だけ。英二のテニスにお世辞は必要ありません」

 その言葉に、僕は視線をそっと左横に向ける。斜め横にある彼女の表情がとても穏やかだと、そう思った瞬間。

「英二がプライドをかけているものに、素人ができることは口出しじゃなくて応援だよ」

 なるほど、と。苦笑とともに頷くことはさして難しいことではなかった。免疫のできた僕にとって、ふたりの関係に呆れることよりも心が温まることの方がよほど楽しかった。
 僕は、大石と自分以外で菊丸英二という人をここまで的確に評価できる人に、改めて心の中で感嘆の声をあげる。いや、もしかしたら所詮僕も大石も、既にこの人には敗北を喫しているのではないかと思うほど。
 その時、ちょうど話題の人の堪忍袋の緒が切れた。上級生に誠意をもって対応しない後輩ふたりに怒声をあげ、一目散に逃げ出す桃と越前を3年生らしからぬ雰囲気で追いかけた後、英二の視線はようやくこちらを向いた。

!」
「乾くん、ありがとうね。すごく参考になった」
「ああ、いや。部活中以外でもサポートをしてくれる人がいることはこちらとしても助かるよ」
「なに協定結んでるんだよ、おい! !」

 そして、部活は結局始まる時間を過ぎても英二の怒声を止めることはできなかった。フェンス越しに淡々と彼女にあしらわれる英二の姿は、正直な話見せ物状態だった。
 かわいそうに、と思いながらも、それでも苦笑を止められない僕の周りに大石と越前が避難してくる。気づけば長身の乾をバックに、僕たちはふたりの見せ物を見つめる観衆になってしまっていた。

「……羨ましいのか羨ましくないのか、難しいところっすね」

 英二の様子を見つめながら、越前が呟く。ラケットを小脇に抱えて少し首を傾げながら、僕たち3年の前でも両手をポケットの中に入れるという、いつもながらの悠然とした態度で。けれどその口から出た言葉のあまりに素直な本音具合に、僕は思わず苦笑してから彼の背中にそっと声をかけた。

「君からそんな言葉が出るとは思わなかったよ、越前」
「は?」
「そうか、君も彼女ができて思うところがあるんだね。彼女とは最近どうなんだい?」
「そ、そんなこと関係ないじゃないすか!」

 唐突に話題の主役に持ち上げられて、越前が怒りと動揺をない交ぜにしたような声をあげる。眉根は厳しく寄ってしまっていたけれど、その最年少という年齢が手伝って、いつでも僕たちを見上げる視線しか送れないその目は面白いほどに丸くなる。それが僕と乾の先輩魂に火をつけた。

「いや、大有りだ。君の彼女にもさんのようになってもらわないと。不二、なかなかいい質問だ」
「そう? 乾もいつか聞こうとしていたんだろう?」
「当然だ。ここで1年に腑抜けになられては、俺の管理能力が疑われてしまうからな」
「おいおい、お前たちは単純に越前をからかいたいだけだろう……」
「そうっすよ、大石先輩の言うとおり……」
「悪いな、越前。でも正直なところ、俺もすごく興味がある」
「!」

 哀れ、僕たちの希望の星である越前は、期待であると同時に遊びの対象でもある。いや、この部活の縦社会の中で下級生というものはえてしてそのような性質をもっているものなのだ。
 ただこの後輩が可哀相なのは、最後の味方であるはずの大石にすら裏切られてしまったことだけれども。しみじみとそんなことを思っていると、大石と乾の上級生の微笑みから越前は一目散に逃げ出した。
 とりあえず、未来有望な僕たちの後輩の彼女が、さんのようになる方がいいのかそうじゃない方がいいのか。

「……まあ、頼りになる彼女ではあるよな。テニス部の仲間としては」
「うん、そうだね」
「でも、少し英二が哀れな気もしないわけでもないな」
「違うよ大石、英二の自業自得なんだよ。さんをあんなふうにしちゃったのは」
「ああ、なるほど」

 じゃあ俺は気をつけよう、なんて。元から真面目で優秀な僕たちの副部長にしみじみとそんな台詞を呟かせた功績は、英二とさんどちらにあるのか。
 まあふたり一緒ということでいいか、なんて。簡単にそう割り切って、そして少しばかり平穏な気分になることができるのは、6組である僕だけの特権。そう思ってしまうのは、けして嘘ではない。
 とりあえず、親友が恋人から沢山の愛情をもらっている図というのは、見ていて嫌なものではない。そう思ってコートに視線を戻すと、夏の太陽が優しい白色で僕たちの頭上を照らしていた。



05/10/21