不二周助くんの3年6組日記 青学ユニフォーム伝説編

 自分が渦中の人となっているとはつゆ知らず、今日も英二はテニスをする。
 しかし人というものは噂に飛びつきやすく、そして飽きやすいもの。いつからか英二のジャージ脱ぎ講座(誰がどこで開いていたのかは僕も知らない)は部員たちの会話の中から姿を消し、6組にもテニスコートにもまたいつも通りの平穏な生活が戻ってきた。
 そう、これはそんな平穏にようやく僕が安堵のため息をついた、ある夏の午後の話。

「あ、うわ」

 紙パックのオレンジジュース飲んでいた英二から、唐突にそんな言葉が零れた。
 僕と英二の彼女、さんはそっと顔をあげる。直射日光が容赦なく照りつける、今の時期あまり爽やかとはいえない窓際の席で僕たちは英二の机を囲んでひとつのノートに視線を落としていた。僕は英二の前の席の椅子に、そしてさんは自分の椅子を引っ張ってきてその机の横に。お互い水分補給と称して英二におごらせた紙パック片手に、そして利き手にはシャープペンシルを握って。
 ……そう、握っていた僕らを気にもせず、英二は口を開けて少し間抜けな顔をしたまま教室の外を見つめていた。

「英二、集中してよ。誰のためにこんなことしてると思ってるの」

 さんが軽くたしなめる。こういう時にすぐぱしんと脚をたたくその手際のよさに、相変わらずこの人は英二のお守りをしているんだなと思いながら僕は黙って英二の視線の先を見つめる。辿った先にあったのは、見慣れた緑色のテニスコートだった。

(越前と……桃かな、あれは)

 残り少なくなってきた午後の紅茶のストレートティーパックを堪能しながら、僕は静かにコートの中で繰り広げられている光景を見つめる。
 お昼休みの今、コートでは制服のカッターシャツをレギュラーユニフォームに替えた越前と桃がラリーを行っていた。わざわざ着替えてやっているのは恐らくこの太陽のせいだろう、と安易に予想して視線を空へと移せば、今日も昨日とまったく変わらない真っ白な太陽が惜しむことなくその光を全て地上へと降り注いでいた。今日も部活は大変そうだ。

「ちょっと、英二」

 そんなことを思ったその時、さんが幾分か苛立ちの色を含めた声でその名前を呼ぶ。
 僕はつられるように視線を英二へと戻す。視界の左隅では暑さのせいか最近怒りっぽいさんが冷ややかな目で英二を見つめている。そして、呼ばれた当の本人は。

「あ、や、ごめん。ちょっと目にはいってきたから」
「なにが」
「え? あ、あれ。おチビたちが試合してるか……」
「今の英二は越前くんたちの試合と次の理科の宿題の完成とどっちが大事なの」
「すみません」

 素直に頭を下げる恋人に、さんは冷めた顔をしたままノートにペンを走らせる。そして英二の若干真っ白ぎみなノートに描かれたのはこの前の授業で習った圧力を計算する時に見た図で、ご丁寧にも右片隅には公式まで書いてあった。

 さんはこういうふうに英二に甘すぎるけど、でもやっぱり容赦ない時だってある。
 むしろ英二に宿題をこなすという癖がなかなかつかないことに、もはや苛立ちを隠せなかったりしている。いくら部活が忙しいとはいえ、たしかにこの学校一練習の厳しいテニス部のレギュラーだからとはいえ、けれど同じ部活で同じクラスの僕が宿題をやらないなんてことはないという実例があるだけに、英二もこの時ばかりは素直にさんに屈する。それは逆らうという行為はこの先自分を苦しめるだけでしかないということを十分に理解しているからだということを、僕はもちろん知っていた。

(まあ、こうして宿題の解き方を教えることも甘いといえば甘いんだけど)

 そこは男女の仲が成せる業なのだろう。このふたりを毎日見続けている僕でも分からないというか理解できないなにかがそうさせるのだろう。
 そうでなければ、正直なところ。さんが英二の彼女でいつづけることに疑問を感じかねないからだ。そう、だから僕はこの暑い中ふたりが仲良く勉強する様を見つづけるのだ。
 ……いや、見せつけられるのだ。

「だから、圧力っていうのは物体の質量がかかる面積によって変わってくるの」
「うん、それは分かった」
「それで、圧力の公式は『質量÷底面積』だから、500g重のものを20平方センチメートルの底面で支えるとすると……」
「あ。じゃあさ、これを月でやったら圧力も変わるんじゃないの? ほら、月の重力は地球の6分の1だからさー、この話は場所によって変わ」
「あなたが今住んでいるのは地球ですか、それとも月ですか。酸素のない月ですか、へえ、そうなんですか」
「すみません。本当にすみません」
「……英二、お願いだから。本当にお願いだから、話を聞いて」

 付け焼刃を披露して名誉挽回を図ろうとした英二の咄嗟の目論見は、もちろん玉砕。声質からさんが怒っていると判断した英二の「俺だってちょっとぐらい分かってるぞ作戦」(これ以上の言葉はきっと英二は用意できないと思う)は儚くも露と消えた。
 素直に彼女の言うことを聞けばいいのに、と思いながら僕は空になった紙パックを暇つぶし程度にたたむ。そもそもさんが教えれば事足りる話で、本当のことを言えば僕はここにいなければならない理由はない。むしろ席をはずした方がいいんじゃないかと思うほど。

 そんな僕の裏切りの心も知らずに、懲りずに英二は視線をコートへと送る。さんはまだそれに気づかず、英二の理科ノートに教科書の例題の答えを書きながら説明をしている。そして僕はそんなふたりのちぐはぐな行動を静かに観察している。

 今日は嵐にならなければいいけど。そんなことを思いながら席を立とうとした、その時。

「俺さ、思うんだけど」
「なにを」
「なにが」

 集中力が持続しない英二の、そんな気の抜けた声に返される僕とさんの声はまったくもって味気ない。けれど言われた当人である英二は、なにを気にするでもなくさらりと。

「うちのユニフォームって、めくれすぎだと思わない?」

 壁に体重を預けながらコートを、いや越前と桃を見て、そう呟いたのだった。
 ……僕は立ち上がるタイミングを見失った。
 さんは飲みかけていたカフェオレで咳き込んだ。見事だった。

「いや、前から分かってたんだけどさ。あれ。でもこうして他人が着てテニスしてるのを見ると……ものすごいんだな、あれ。やっぱり」

 男のチラリズムだね、と真っ昼間から呟いた英二に、最終的に僕とさんは硬直した。
 間髪入れずの二段攻撃にさんは咳き込みから回復する術をいまだ知らず、僕は適当に他の友人のところに逃げようとしていた気力を失う。むしろ英二の爆弾発言に僕はあるひとりの人物を頭の片隅に思い出す。


 乾。英二がまた変なことを言いました。


「腹とか背中とか見えまくりっていうか。俺、腹筋あんまりないからなー。見られて嬉しいものじゃないよな、絶対。なあ不二」

 そして変なところで僕に同意を求めてきました。

 ……僕は自分でも自信のあるまったく隙のない、当たり障りのない笑顔を浮かべてから首をふるふると横に振る。ここは同属になってはいけないと誰かが警報を鳴らしていた。
 男のチラリズムに同意するなんて、そんな恥ずかしいことだけは絶対に嫌だった。

「いや、気になったことはないよ」
「まじ? でも大石はスースーするってよく言うよ」
「……大石はきっと、冷え性なんじゃないかな……」
「いやあの頭で冷え性なんてことはない。絶対ない。だってあいつどんどん坊主に近くなっていってるし! むしろ1年の時の方がふさふさしてた!」

 そこに全力の突っ込みはいらない、と笑顔で全否定する力は、しかし僕にはなかった。
 むしろ咳き込むのを必死でこらえ、呼吸を整えようとしているさんの動きの方が気になって仕方ない。ああ、紅茶を既に飲み終えていて本当によかった。そう心に思いながら労わりの目を向ける僕の視線にさんは気づき、気管がやられたと訴えている涙目でそっと僕を見上げる。そしてこの時僕は思った。

 次の波を英二が見逃すはずがないと。

「なー、。あれどう思う?」
「!」

 そして僕の予感は見事に的中する。
 こともあろうか、そう、その質問を自分の彼女にぶつけたのだった。
 さんが目を丸くする。さっきまでの威厳はどこへやら、その口はもう圧力の公式を繰り返すことはなくなっていて、ただ英二の問答無用の追究にうろたえていた。
 ……これは無理もない話というもので。僕はさんを哀れに思いつつ、けれど。
 これをどう乾に報告しようかと、心は正直わくわくしていたとは。さすがに言えなかった。

「あれって単にプレイスタイルのせいなのかなあ。他の学校のユニフォームもめくれると言えばめくれるよな。氷帝の向日とかすごかったよな!」
「……」
「……あれは、飛んでるからね……(英二もなんだけどね、それは)」
「あー、でも水泳の授業の時に比べればましか。いや恥ずかしがるもんでもないんだけど」
「…………」
「……気になるなら、ユニフォームをインにすればいいんじゃないかな(僕は無理だけど)」
「無理、無理! できないって!」

 沈黙するさんの沈黙を隠すべく、機転を利かした僕の言葉に英二は素直に反応する。もはや圧力の公式なんて頭の片隅にも残っていないだろう、そう簡単に思えるほどに英二は「めくれるユニフォーム」に今更疑問を感じ始めていた。
 正直な話、そんなものはレギュラーになった当初から感じなければならない疑問でもあったはずなのだけれど。
 いや、と僕はここで自分の考えに校正を入れる。英二は単純だけど馬鹿ではない。末っ子だからかおいしいところをうまく自分のものにするスキルは身につけていて、ずる賢い面が結構強かったりする。

(……なるほど、こうきたか)

 そう、冷静にに考えれば分かる。つい数分前までと攻守逆転しているこの状況を見れば否が応でも分かる。
 それは、英二の唐突すぎるセクハラ質問だった。それはきっと、彼女が困ることを楽しむための質問だった。そうに違いなかった。
 こいつはどこまで悪戯好きなんだ、とか、それとも素で自分の彼女にそんなことを聞いているのか、とか、僕としては思うところがたくさんありすぎて、どれが正しい見解かなんてもう分からなかった。
 ただひとつだけ思ったこと。僕はさんを見つめる。ご愁傷様、という思いを込めて。

「あれって女子から見たらどんなものなの?」

 そして質された内容に、またしても僕は……僕は、笑いをこらえるのにこの夏の暑い午後、余計な体力を使わなければならなくなったのだった。
 それは公然セクハラですよ、と心の中で英二に突っ込みを入れる。
 大変ですね飼い猫が真っ昼間から破廉恥な暴走をして、とさんに救いの手は出しませんよという笑顔を向ける。

 今日も僕は確信する。このふたりには関わらない方がいいと。
 そして思う。けれどからかうには最適すぎるふたりだと。
 すみません、正直な話、今の僕はとてもとても11組に行きたい気持ちでいっぱいです。

「男が男の腹なんか見ても嬉しくもなんともないけどさー、なあ?」
「さあ?(頼むから僕を同類項にしないで、英二)」
「でもあれを女テニがやったら……やばいよなあ、絶対」
「よこしまだね、英二。すごくよこしまだよ(彼女の前で言える君がすごいよ)」
「いやいや、これ大石も言ってたし」
「へえ、そうなんだ(……『青学の母』の名も今日限りか……)」

 そんな見た目にはとても爽やかな会話(聴覚を活動させないことが絶対条件)を事無く送りながら、僕はちらりと隣のクラスメイトに視線を送る。
 彼女は気づくだろうか。そんなことを思いながら。
 これが英二の悪だくらみ、そう、最初に戻って考えればこれこそがさんの怒りの矛先を変える手段のひとつだということに、当の本人は気づくだろうか。それとも。
 そんなことを思ったその矢先、けれどさんは。
 
「英二と一緒にしないでよ、バカ!」

 ガタンと派手な音が鼓膜に響いたと思った瞬間、さんは自分のペンケースと椅子をもってさっさと自分の席へと戻る。その背中は尋ねなくても確信できるほどに怒りに満ち溢れていた。……怒るということは正直図星だったのだろうか、とも思ったがあえてそれには触れないでおいた。
 残されたのは男ふたり。今のさんの言葉を聞いて、僕は英二と同類項にはなっていないんだな、ということにさりげなく安堵しながら、なぜ怒られたのか分かっていないのか呆然とした表情を浮かべている親友を静かに見つめる。
 僕は思う。もしかしたら、これは素の質問だったのかもしれないと。それが嬉しいことなのか悲しいことなのかはおいておくとして。

「なんだよ……聞いただけなのに」
「……」
「な、なに」

 階下から飛んでくる桃が英二を呼ぶ声に、そして座ったまま少し後ずさる英二に。
 僕は満面の笑みを浮かべてから、ズボンのポケットに入っていた携帯電話を取り出す。そしてパチンと歯切れのいい音を立てて折りたたみ式携帯の画面を開いてから、メモリナンバ008に入っている11組の親友の登録内容を呼び出した。

 後から考えれば、笑顔を浮かべながらもこの時の僕はそこそこに限界だったのだろう。
 訝しげな表情をしてみせる英二にはなにも告げないまま、通話ボタンを押し。機械越しに響くあの聞きなれた呼び出し音だけに全神経を集中させて、そして。

『もしもし。どうした、不二』

 今日も淡々とした声で応答した乾に、僕は英二に笑顔を向けてからこう言った。

「レギュラーユニフォームはいやらしいらしいよ、英二が見ると。チラリズムなんだって」

 もちろん、その言葉に目の前の英二と電話の向こうの乾とが同時に吹きだしたことは想像の範囲内である。

「それをさんに確認したんだよ、この真っ昼間から。この人は。自分の彼女に」
『ほう』
「不二、お前誰に電話してんの!」
「これってセクハラ?」
『ああ、セクハラだな』
「ちょっ、待てー! 電話貸せ!」

 ああ、早朝練習をたっぷりとして午前中に体育の授業もして、そのうえお昼ご飯を食べてあとは眠気がくるのを待つばかりだというこの時間に、この親友はなんて軽快な身のこなしをしてみせるんだろう。そして今焦っているということは、やっぱり自分の行為がセクハラまがいだということを十分認識していてそのうえで彼女に質問したんだな、なんて……なんて、面白いことをしてくれるんだろう、この人は。

「違う、大石もだって。大石も言ってたんだよ!」
「仲間を道連れにしようとしてるけど、これってどう?」
『ゴールデンペアの名も形無しだな』
「人の話を聞けー!」

 そんな会話は、その後チャイムが鳴り響くまでつづけられた。
 このふたりだけは絶対に手本にしないでおこう、僕はそんなことを思いながら今日の部活に思いを馳せる。きっとまた乾がなにかを考えてくれるだろう、そう思うだけで少し楽しくなってしまう自分が、まだまだ子どもだと感じた。そんな夏の午後だった。

 追記。
 この後手塚が6組にやってきて、ことの一部始終を聞いてしまって英二を白い目で見たのは言うまでもありません。



04/08/02