不二周助くんの3年6組日記 続・英二の魅力編

 その後、腕がいやらしい菊丸英二伝説はとてつもない勢いで広まっていった。
 青春学園中等部男子硬式テニス部の中でのみ。おまけとして3年6組のごく一部の中で。
 もちろんテニス部内に広めたのは乾だ。いや、正確にはそれには語弊がある。正しく言えば、乾によって実験させられた越前の反応があまりに大きすぎて、まわりにいた部内一の噂大好き男にキャッチされてしまったからだ。
 ……まあ、大きな反応といってもあの越前だから、最初は思わずラケットを振り損ねてまるごと隣のコートに飛ばしてしまった程度だった。しかしその結果越前はタカさんのテニスボールを腹にくらい、怒りと痛みでうずくまっているところにテニスラケットをぶつけられた海堂がやってきて「あー、やっちゃった」と僕が静観している間に例の噂好き男が参加して、そして事実は彼の口を通して部内にあっという間に広がった、という、またその程度の落ちではあるのだけれど。

「乾もひどいよね、なにも練習中にそんなことを言わなくてもいいのに」
「ひどいと思いながら俺を止めなかった不二の方がひどいと思うよ」
「どこまで計算してあのタイミングを選んだわけ?」
「桃城が参加するまでは」

 それって事の顛末全てじゃないか、と突っ込むことも愚かだと思ったので、あえて僕は何も言わなかった。実際その突発劇を楽しんでしまったことは否定しない、なぜなら予想以上に越前、海堂、そして桃が乾の手駒として活躍してくれたからだ。

 しかし、あれ以来。誰も彼もが英二を笑うのではなく。
 ……健全な男の子とでも言ったらいいのであろうか、皆が皆自分の腕を気にしている様は、ちょっとばかり、いやとてつもなく、変だ。

「英二は先駆けだったんだな。いや、すごいことだ」
「すごいと思うなら乾も脱ぎ方研究してみれば?」
「いや、固定ファンのいる不二こそすべきだろう」
「遠慮しておくよ」

 手塚が生徒会で遅れてくるのをいいことに、僕たちはフェンスにもたれかかったまま最上級生の特権を駆使して適度に身体を休めていた。いや、けしてさぼっているのではなく、僕は部室でし損ねたラケットのグリップの張り替え作業をし、そんな僕の隣で乾は相変わらずノート片手になにかを書いていた。コートの中にはちょうどこの前犠牲となった越前がいたことから、その視線の先が彼に向いていたことは安易に想像できたけれど。

 しかし、と僕はちらりと視線をずらす。
 越前の隣のBコート。そこには僕のクラスメイトがレギュラーユニフォーム姿で大石とラリーを続けている。例のジャージは今日はお役御免らしく、せっかくの「いやらしいタイミング」には今日はお目にかかれないようだった。
 いや、違う。重要なのはそんなことではなくて。僕は親友を見つめながら、また乾に声をかける。

「ねえ、乾」
「なんだ?」
「僕、ずっと気になって仕方ないことがあるんだけど……」
「なにが?」

 さらさらとシャーペンを動かす音を聞きながら、僕はぽつりと呟いた。

「どうして英二は気づかないんだろう」

 パコーンと、聞き慣れた音が飛んでいく。いやむしろ飛んできた。
 空高く跳ね上げられた黄色いテニスボールは、綺麗な弧を描いてそしてポテリと僕たちの前に落ちる。僕と乾はお互い押し黙ったまま、その球の動きを見届けた後ちらりと駆け寄ってくる人影に目をやる。そしてやってきたのは。

「わーりぃ! 大石がはずした」

 もちろんその声の持ち主は腕のいやらしい菊丸英二で(案外しつこいな、僕も)、愛想笑いの大得意な僕と乾はあえて何事もなかったかのように「ううん、いいよ」とか「珍しいな、大石が」とか、そんな当たり障りのない言葉を並べていたけれど。
 僕は確信する。隣の乾が僕の言葉への返事をしないことに。
 
 考えてみればおかしな話だった。これだけ周りが「菊丸先輩って腕がいやらしいとか言われてるらしいぜ!」「えっ菊丸先輩が?!」「まじで?!」なんて品の無い会話を飛ばしまくっているというのに、当の本人はまったく知らぬ顔。
 しかし、英二の性格を考えなくても、普通であればこれだけ囁かれれば自慢話に転換するなりもしくは3年生の特権を活かして戒口令を布くなりすることができるのに、英二はそのどちらも取らない。
 つまり、ということは。

(……全然気づいてないんだよね、英二本人が)

 あはは、と不自然極まりない笑みを浮かべる乾を他所に、僕はついうずうずとしている僕の中のお節介焼きな心意気(前向きにとらえようと思ったのでこの言葉を使っている)を、少しばかり稼動させようと企んだ。

「ねえ、英二」
「なに?」

 英二がきょとんとした顔で僕の方を見る。
 そんな英二を見ながら、僕は半ばさんに喧嘩を売る意気込みでその言葉を口にした。

「英二の一番の魅力は、さんが言うには腕がいやらしいことなんだってね」

 あの時と同じように、乾の頬がひきつったことを。僕はけして忘れない。
 地獄耳の越前が目の前のコートで思わず吹き出す。いやむしろ彼にまで聞こえるほどに、僕がわりと大きめな声を選択してその言葉を口にしたという事実が前提にあるのだけれど。
 乾が興味津々に英二を見つめる。越前がそれ以上吹き出すのを堪えながら振り返る。そして僕はにこにこといつも通りの笑みを絵かベて、英二を見つめる。

 そうしたら英二は。

「は?」

 と、ものすごく、とてつもなくものすごい拍子抜けの顔をした。
 乾の眼鏡が光る。越前が目を見張る。その様子に気づいて桃が隣のコートからいそいそと駆け寄ってくる。しかしそれらにすらまったく気づかない英二は、そのまま。

「バカ言うなって」
「いや本当」
「嘘だね。そんなところだけしか見られてないなんて、そんな屈辱あるか。つーかはそんなことは言わないって、絶対」

 失笑まじりにそれだけの言葉を残して、あのいやらしい腕でひらひらと手を振って、そしてコートに帰っていった。
 残されたのは僕と乾と、そして越前と桃。
 僕たちはしばらく沈黙しあった後、そっと言葉を交わした。

「……報われないね、英二。いつまでたっても」
「言うな不二。知らない方が英二のためだ」

 じわじわとおかしさが伝わっていった越前と桃は、手塚がいたらグラウンド100周を言い渡されかねない勢いで大爆笑し、そして乾は僕の横で「可哀想に」と白々しく言った。しかしその手はしっかりと英二語録をメモしていたけれど。

 夏の青天のもと、僕は大親友を見つめながら、そしてクラスメイトでもある英二の彼女の姿を思い出しながら、そっと両手を合わせる。

「なにしてるんだ、不二」
「合掌」

 せめて僕の親友にももう少し報いがありますようにと仏に祈った。
 けれど、いつまでたっても英二はあの彼女には敵わないだろうなあと安易に予測がたてられてしまう、この現実だけは誰にも動かせないだろうなあと。他人事のようにそう思った、そんな部活の時間だった。

 ちなみに。
 その後、3年6組で別の事件が発生したのだけど、それはまた後日。



04/03/16