いつまでもこの幸せを

 今年も残りわずか。だから、ただでさえこの時は特別なのに。
 そんな時になって、どうしてこの人はもっと特別な想いを抱かせてしまうのか。
 特別な日に、特別な時間をあなたと2人で。
 過ごさせてくれるあなたに、心よりの特別な感謝の気持ちを。



 まるで吸い込まれそうな群青色の空が広がる。ほんの少し大通りから離れれば、そこはまるで今まで誰も受け入れていなかったかのような新鮮な空気で満ち溢れていた。

「英二!」

 吐き出す白い息もすべて後ろへと流れ、逃げていく。そんな状況を10分ほど続けた中で、はその名前を呼んだけれど。

「あと少し我慢しろってー!」

 顔を見せてもくれない恋人の言葉は、しんしんと冷え込む夜中には大きく響く。
 肌が痛い。寒さ対策でそれなりの枚数を着込んでいたではあったけれど、それでも顔だけはその防寒の恩恵を受けることはできない。引きつるような痛みにわずかに顔をしかめながらも、は英二の言うがままに黙って時が流れていくのを待つ。

 見上げれば、かすかに光るカシオペア。

 そういえば、あの星は去年の理科の宿題で出された星座観察の時に、何時間も追い続けた星座だった。不二と3人でおしゃべりをしながら理科ノートに綴り続けたカシオペアの動きは、教科書に記す事実よりも微妙に遅くて、ずれていて、さすがに気を抜いて観察したというのがあっさりと教師に見破られてしまうような、そんなちょっとだけ因縁のある星座。
 英二よりも少しだけ高い位置に視線を向けられるは、少しずつしびれだした足裏の痛みを無視して遠いカシオペア座を見つめる。

 今年のカシオペアは、去年のカシオペアよりもとても綺麗だった。

「ねー、英二! 見て、星綺麗!」

 どことなく心を満たしていく嬉しさには素直に従い、わずかに力をこめてつかんでいた英二の肩をぼんぼんと叩く。厚めの手袋をした手ではその程度の音しか出すことはできなかったけれど、それでも震動は本人にきちんと伝わったみたいで。

「今星なんて見たら俺たち事故るっての!」

 笑いながらではあったけれど、すぐさまそんな反論が返ってきた。
 お互い、口から出る息は本当に白くて。白くて長くて大きくて、とにかくこの空気はとても冷え込んでいてそのせいで頬も耳も指の先も足先も全部じんじんと痛いんだと、そう思わないわけにはいかなかったけれど。

「英二なら大丈夫だよー」
「バカ言うな、年越し救急車なんて絶対ごめんだ!」
「なら自転車止めてよー。ね、星!」
「あーもうワガママ! 大人しく乗ってろって!」

 誰もいない舗道の上を、2人乗りの自転車が寒気を吹き飛ばす勢いで走り抜けていく。
 後輪にステップをつけてのおもいきり法律違反な乗り方のまま。
 自転車をこぐという労働に従事して長い英二は少しだけカリカリしていて、は仕方なく、夜風に直にさらされて寒くて痛そうな英二の両耳をそっと手袋で温める。
 言葉がなくなった空気はやはりますます寒さを増していく。は無言のままそっと英二の頭に頬を寄せた。





 はじまりは、新年を迎える5時間前。
 大掃除も終わって後はのんびりと年越しの時間を過ごすだけの予定だった、そんなの部屋に突然鳴り響いたのは、午前中まで会っていた人専用の着信音。
 一緒に出かけた映画のチケットもまだコートの中に入っているような状況の中でわんわんと鳴り響くその音楽に、は一瞬目を丸くしながらも何か忘れ物だろうと思って4コール目で応対した、その直後。

『11時に俺のとこの駅に来てくんない?』

 「はいもしもし」の言葉すら許さない勢いで飛び込んできたその言葉に、結局は再び目を丸くするしかなかった。
 むしろ、言葉に驚く暇すら与えてもらえなかったという方が正しいのか。

「は? 英二何言ってるの?」
『だからさー、11時に。うちの駅に来てって』
「初詣は家族と行くって言ってたじゃない」
『細かい事は気にしなくていいからさ。俺迎えにいくから、約束』
「約束って……ちょっと待ってよ、私お母さんに今日もう出かけないって言っちゃたのに」
『あ、そうなの? うーん、それは』

 電話越しの声は少しだけ声が低くなって、語尾がわずかに掠れたりする。
 そんなちょっとだけお得なその声を堪能できるのは、電話の時間だけだと分かっていたはずなのに。それでもはそんな余裕すらなくて、とにかくまた奇想天外なことを言い出した彼氏の言動のその先を読むのに必死になって、とりあえずの静止を請うたはよかったのだけれど。

『じゃー明日俺がおばさんに謝るから』

 沈黙をおいたあとに出てきた英二のその言葉には、はただただうなだれるしかなかった。






(せめておもいきり反対したくなるような無謀なことを言ってくれたらよかったのに……)

 太陽の光が届かなくなって久しくなった夜の舗道は、寒さを増すだけ。
 さすがに行く先を知らされないままに連行される今のこの状況では、英二と一緒にいられて嬉しいという気持ちを心もとないと思う感情が凌駕していく。

 もちろん、この空間が嬉しくないというのは嘘になるけれど。
 2人きりの時間をつくってくれたことにありがとうと言いたくなるのが、本当なのだけれど。
 温もりに抱きついても許されるこの瞬間に感謝をしたくなるのが本音なのだけれど。

(でも……こっちの方には、神社とかお寺なんてなかったはずなのに)

 車輪のまわる音だけに聴覚を侵されながら、英二に乗せられるがままには誰もいない夜道を連れ去られていく。

「ねえ、英二ー」
「んー?」
「初詣じゃないのー?」
「そんなん別に明日でもできるじゃん」
「そうだけど、じゃあ今から何するのー?」
「夜にしかできないことー」
「はっ?!」

 予想済みだったのか、絶句したを英二がカラカラと笑う。
 その笑いを見る限り、どうやら目的地に到着するまではこの夜中の逃避行の意味を教えてくれなそうだと改めては悟る。おとなしく英二に自転車をこがせていればいいのだと、頭のどこかが言っているような気がするのに任せることにした。

 思えば、英二と一緒に年を越すのはこれが2度目。
 けれど年を越す瞬間に一緒にいるのはこれが初めてだな、と記憶の糸を探る。
 ただ、一緒にいられるならいられで、かけがえのない時間を過ごすのであれば、場所はもっと年明けに相応しいところだとは思っていたのだけれど。

(……明らかに年明けとは関係なさそうな場所っぽい……)

 しかしのそんな落胆じみた気持ちも知らないままに、英二の自転車は夜道を駆けて行く。
 そして、ますます耳の痛さを増しながら、ようやくその自転車も稼動を止めた。

「ついた」

 見上げれば、そこは暗闇の中に浮かぶ大きな建物。
 英二の肩につかまったまま、は英二の言葉の意味が分からなくてその建物を見つめる。
 綺麗に四角いその建造物は、初めて見たもののはずなのにどこか見覚えがあって、どこか懐かしい。しばらく悩んでみたものの、英二が振り返り、にっと笑った時になってはようやく察しがつく。

「学校?」
「そう。俺が通ってた小学校」

 おりて、という言葉に促されるがままに痺れかけた両足でコンクリートを踏みしめ、しんと伝わってくる冷たさに思わずが身体を振るわせたその時、目の前に差し出されたのは。
 ひとつの、大きな手。

「めちゃくちゃ星が見えるんだよ、ここ」

 口元に柔らかい笑みを浮かべて英二が空を見上げる。
 その様子につられても雲ひとつない空を見上げれば、そこには先ほどよりもはっきりとした輝きを放つカシオペア座が何にも邪魔をされずに光り輝いていた。

 閉められた校門前に自転車を止め、鈍く引きずる音を立ててその門を開ける。
 英二の導くまま、ただ繋がれ、与えられる温もりだけを頼りに校内へ。
 誰もいない夜の校庭は、今年最後の寒さも、夜空も、そして英二の温もりさえも、すべてを独り占めできる場所だった。
 
「神社の神様は、大忙しに違いないので」

 それはまるで、白くたなびく制服のスカーフを思い起こさせるような。
 群青色の闇の中にゆらゆらと立ち上っては消える、そんな白い息を見つめながらは英二の横顔に視線をずらして、そして思わず笑みを零す。

 それは寒さのせいなのか、それともここまで全力で自転車をこいできたせいなのか、それとも今この誰もいない懐かしい空間で、手を繋いでいることに対してなのか。
 ほんのりと赤く染まった頬をほころばせて、英二が笑って呟く。

「俺たちは、一足先に『星に願いを』するわけです」

 目前に広がるは星を輝かせる夜空と、そしての知らない英二の過去を知る校舎と。
 な、と同意を求める英二に、はただ笑って頷いた。

「英二の成績があがりますように」
「そんな願い事はしなくてよろしいでーす」
「英二の寝坊癖が直りますように」
「余計なお世話です」
「……英二の金遣いがよくなりますように」
「……それは、切実だ。の財布の紐がもっと緩くなりますように」
「それこそ余計な願い事です」

 牽制しているかそそのかしているのかさっぱり分からないけれど、お互いに肘でつついて笑いあいながら両手を合わせる。

 願い事がどこまで受け入れてもらえるかなんて、そんな現実じみたことは関係なくて。
 この残り少ない12月31日という時間に神社でもお寺でもなく、いつも夜空に輝いている、そんなお星様に願掛けをすることに、どんな意味があるのかは。この場所が教えてくれる。

 冷たい空気もかじかむ寒さも、すべて吹き飛ばして。忘れ去ってしまって。
 ただ2人、言葉にできない願い事を、2人きりのこの場所で。

「……なにお願いしたの」

 そっと尋ねてくる英二の言葉に、は目をつむったままふるふると首を横に振った。

「願い事は内緒にしておくものだもん」
「いいじゃん、教えてくれたって」
「だめ」
「けち」
「だめったらだめ……だって言うのに、ちょっと英二!」
「え? なに?」
「願い事の邪魔しないでー……!」
「だめでーす、だって俺の願い事これだもん」

 突然後ろから自分を抱きしめる両手に怒っても、この場所では効果なんてまったくない。
 不思議な人だなあと、は抱きしめられたまま夜空を見上げて思う。
 手を繋ぐのも、こうやって抱きしめられるのも別にとりたてて珍しいことではないのに。
 無謀な呼び出しをかけられるのも、訳もわからず連れ去られるのも怒っていいはずなのに。

(……すごい人だなあ、本当に)

 ここまで理性の均衡を崩させる人物に、はむしろ自分事ながら感嘆せずにはいられない。
 そんな相手に好かれているという事実にも、想いを寄せられているというこの状況にも、冷静に考えれば考えるほど不思議さというか信じられないという気持ちが強くなるのだけれど。
 けれど、と。
 自分を抱きしめる両腕にそっと手を添え、は笑って呟く。

「あーもう、負け負け。私の負け」
「なにが?」
「英二には降参っていうこと。どうぞご自由に」

 遠く、お寺の鐘が鳴り響く。
 この1年ももうすぐ終わりを迎える。代わりのいない、かけがえのない時間というものをこれほど貴重に感じるのは、自分が今時分幸せを与えてもらっているからなのだろうとは心から思うことができる。むしろそう思える心をつくってくれる英二に感謝をする。

 来年に迎える時間も、大切なものであると感じることができますように。

 与えられた幸せを心の底から素直に嬉しいと感じ取ることができますように。
 そんな願い事は口には出してはいけないと思っていたけれど、けれど今自分を包んでいるのはその幸せをくれている張本人。は諦めにも似た気持ちで苦笑して、そっと空を見上げる。

 去年見たカシオペアも、今年見るカシオペアも、来年見られるカシオペアも。
 いつも、素敵に綺麗なものに見えますように。

「ねえ、英二」
「なに?」
「来年も、つれてきてくれる? ここ。星がすごく綺麗」

 見慣れたはずなのにそれでもいつも愛しく感じられる恋人に、そっと声をかければ。

が嫌がらない限り、無理矢理にでも」

 こちらの白旗を知りながら、それでもそんな言い方をする英二には笑うしかない。
 抱きしめてくれる両手には感謝を抱くしかない。笑って、ありがとうを言うしかない。

 願い事という不確かなものも、きっと人間の感情ひとつが加わることで結果が変わる。
 遠い星空。今夜ばかりはその輝きを人知れず独占せてくれる、この昔と今を繋ぐ場所で。



 来年からも、幸せを感じられる関係でありますように。



「あー、あったかい。幸せー」

 言葉にしなくても、直接そんな願い事を口にしなくても。
 そう呟いてくれる彼に、それだけで幸せをもらえる嬉しさをこの寒風にのせて。
 流れる残り少ない今年の時間と同様、この想いも大切なものであると感じられる、そんな自分でありますように。

 群青色の中に小さく、砂金のような星のひとつひとつのあいだを通り抜ける、小さな流れ星を2人で見つけられた、この瞬間が大切なものであるように。

 来年も、素敵な時を。



03/12/31